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せんきちの「日々是口実」


24時間、現実逃避!

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目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2003-08-06 樂蒂と幻の合作映画(4)
2003-08-05 樂蒂と幻の合作映画(3)
2003-08-04 樂蒂と幻の合作映画(2)
2003-08-03 樂蒂と幻の合作映画(1)
2003-08-02 尤敏を買いに
2003-08-01 怖いもの食べたさ
2003-07-31 けもののかほり
2003-07-30 明報を読んで思ったこと
2003-07-30 元祖ユーミン(25)
2003-07-29 めでたい!


2003-08-06 樂蒂と幻の合作映画(4)


(前回の続き)

当初、『香港旅情』の公開時期は1962年7月(尤敏の『香港の星』と同時期)の予定でしたが、製作開始が延期になったせいで、急遽別の映画に差し替えられることになりました。
『近代映画』1962年7月号掲載の「早くも出そろったお盆映画の企画」によると、7月の東映は「大川橋蔵作品と、高倉、佐久間(良子・せんきち注)の青春もの」で、このうちの「高倉、佐久間の青春もの」が、『香港旅情』の代わりに企画された作品と考えられます。

一方、『明星』1962年7月号の千葉真一と三田佳子への取材記事(「新婚旅行なら海外へ・・・」)には、

・・・・二人の次回作は映画『香港旅情』。したがって香港ロケが予定されています。
「千葉ちゃんは海外旅行は初めてでしょ。私(三田佳子・せんきち注)はハワイからブラジルまで行ってきたけど・・・・いいものよ。(略)知らない土地や風俗を見るだけでも勉強になるし・・・・」(後略)

との記述があり、千葉真一も『香港旅情』に出演予定だったことがわかります。

これが、高倉健と三田佳子の他に千葉真一も出演するという意味なのか、あるいは、製作延期になったために高倉健のスケジュールの都合がつかなくなり、高倉の役を千葉が演じることになったという意味なのか、定かではありませんが、この雑誌が出た段階(5月下旬〜6月上旬頃)ではまだ、いずれは製作するつもりだったようです。

しかし、結局、『香港旅情』は製作されないままお蔵入りとなりました。
製作中止に関して正式な発表があったのか否か、そのあたりの報道はまだ確認していませんが、もしもきちんと製作されて公開されていたならと思うと、非常に残念でなりません。
しかも、日本と香港の合作映画史研究においても、この『香港旅情』に関しては、全く陽の目を見ていない、つまり埋もれた作品のままになっているのです。


(つづく)


写真は、製作発表記者会見での陳厚と樂蒂。

先頭 表紙

ぷるぷる様:これに出ていれば、『風雲』に出るはるか前に「国際派スター・千葉ちゃん」が、誕生していたかもしれません。 / せんきち ( 2003-08-10 21:14 )
ええっ、千葉ちゃんが!! / ぷるぷる ( 2003-08-09 14:11 )

2003-08-05 樂蒂と幻の合作映画(3)


(前回の続き)

『香港旅情』の内容に関しては、当時の報道から類推するよりほか方法がないのですが、『朝日新聞』(1962年3月14日付け夕刊)と『近代映画』(1962年5月号)に少し詳しい情報がありますので、それを引用してみます。

・・・・東宝がキャセイと組めば、東映はやはり香港の製作会社、ショー・ブラザーズとの合作で「香港旅情」を計画している。渡辺邦男監督、主演者には、日本のパイロット(高倉健)と親友の香港の富豪のムスコ(陳厚−チェンホー)、彼のイイナヅケの楽蒂(ローティ)、それにデザイナーになる三田佳子。ローティは尤敏同様、香港で人気のある女優で、彼女を使う合作映画は大川社長らが二年前から考えていたそうだ。たまたま四月(原文ママ)にチェンホー、ローティ夫妻が新婚旅行で来日するので、話がバタバタ本決まりになり、四月の花のころ日本ロケで撮影開始と決った。
香港には五月すぎ、スタッフ十四、五人が渡り、約二週間ロケする。渡辺監督やプロデューサーは三月末、下見に行くそうだが、渡辺氏は戦前、長谷川一夫らと現地ロケしたこともあり、いわば合作映画の元祖。一方、ローティらもショー・ブラザーズ制作の「紅楼夢」で日本に来たことがあり、話が合うだろうと一行は張切っている。(後略)
(「香港ロケ大ばやり」より)

「香港旅情」クランク・イン−東映−
東映と香港のショウ・ブラザーズの合作作品「香港旅情」は、先に東映本社で記者会見を行ったが、ショウ・ブラザーズの都合で、撮影は延期されていたが、いよいよクランク・インのはこびとなった。ヒーローに高倉健のパイロット、ヒロインには東宝の「香港の星」に出演の尤敏と共に、彼の地で人気最高の楽蒂(ろうてい)が薄幸な斜陽族の娘として登場する。彼女は香港の自宅に、日本の庭園をつくった程の日本びいきになり、いっしょうけんめいやりたいと抱負をのべている。なおメガホンは渡辺邦男監督の予定。

これらの記事にあるキャスティングから見て、高倉健が親友のフィアンセである樂蒂と恋に落ちてしまい、三角関係に・・・・というパターンではないかと考えられます。
東宝の作品が、一人の男性(宝田明)に二人の女性(尤敏と日本人女優)というパターンなのに対して、東映は一人の女性(樂蒂)を二人の男性(高倉健、陳厚)が愛するという、全く逆のパターン(裏返しなだけか)で対抗する図式が、そこには見られます。
ただ、東映の場合、もう1人三田佳子が絡みますから、一気に四角関係(?)になる可能性も捨て切れません。

詳しい内容の検討はここまでにするとして、「四月の花のころ」、すなわち桜の咲く頃にクランクインするはずだった『香港旅情』は、なかなか製作開始にはなりませんでした。
その理由を、筆者(せんきち)は『元祖ユーミン』で「樂蒂のおめでたが発覚したため」と推測し、実際そうだったと思うのですが、これまでのところ、樂蒂の妊娠に関して触れている報道は未確認です。
今と違って、芸能人の私生活に関わる事項(特に結婚や妊娠に関して)が外部に漏れることに対して、皆驚くほど神経質でしたから、敢えて公表せずに済ませようとしたのかも知れません。


(つづく)

付記:先述した通り、樂蒂は日本軍の爆撃で父を失ったのですが、その点を考慮した上で「彼女(樂蒂)は香港の自宅に、日本の庭園をつくった程の日本びいきになり・・・・」という件を読むと、なにやら複雑な思いに駆られます。
写真は、『香港旅情』の宣伝用スチール(高倉健と樂蒂)。

先頭 表紙

2003-08-04 樂蒂と幻の合作映画(2)


(前回の続き)

では、いよいよ本題に入りましょう。

邵氏との提携を決めた東映は、1961年8月29日、東映会館に邵氏の社長である邵逸夫(ランラン・ショウ)を招き、合作映画に関する会議を行いました。
その模様を報じた『日刊スポーツ』の記事(1961年8月30日付け)によると、「1、年間2本以上の映画を合作。2、粗製濫造は避ける。3、時代劇は準備期間を長く必要とするので、初めは現代劇を製作。4、製作費は、日本で撮影の場合は東映、香港の場合は邵氏が負担。5、配給権は、日本国内は東映、東南アジア各地は邵氏が有するが、その他は両社で二分」との基本事項がまず定められ、その後に具体的な作品の検討に入ったようです。

作品の内容としては、

邵氏からの提案:
『桜都長恨』(太平洋戦争中の東京を舞台にした、香港人青年と日本人女性の悲恋物)。
『紅鬚子』(満州を舞台にしたアクション物)。
『シンガポール、香港、東京』(パイロットとスチュワーデスが、日本や東南アジア各地で繰り広げる騒動を描いた喜劇。←でもこれ、まんま電懋の『空中小姐』〔1959〕のパクリだと思うんですが:せんきち注)。
東映からの提案:
喜劇(東京で開催されたアジア大会で知り合った香港選手〔女性〕と日本選手〔男性〕。その後日本選手は香港に移住して、彼女と再会する)。
喜劇(香港のカメラマン〔女性〕と日本のカメラマン〔男性〕が、国際コンテスト入選を競い合う。そこへプレイボーイのカメラマンが現れて一悶着。2人の作品は落選、プレイボーイの作品が入選するが、入選写真は2人の写真だった)。
その他、恋愛物と社会派ドラマ。

が、挙がりましたが、邵氏の提案が具体的なのに比べて、東映のそれはなんだか漠然としているのが気になります。今見ても、「本当にやる気があるのかなあ」と思ってしまいます。

結局、これらの作品案は採用されず、第1回作品として選ばれたのは、樂蒂と高倉健が共演する『香港旅情』になりましたが、そのあたりの経緯は詳らかではありません。
ともあれ、1962年2月6日、新婚旅行で日本を訪れていた樂蒂と陳厚も出席して、東映本社で『香港旅情』の製作発表記者会見が行われました。


(つづく)


写真は、記者会見の模様。向かって左から陳厚、樂蒂、三田佳子、高倉健の各出演者。

先頭 表紙

ぷるぷる様:なるほど、樂蒂の方ですね。明明ちゃんだ。 / せんきち ( 2003-08-05 20:32 )
おにぎり様:健さんと三田佳子ですか、それとも樂蒂と陳厚の方ですか? / せんきち ( 2003-08-05 20:32 )
そっか〜、このときには既にお腹の中におにぎりさんが…(^_^)3 / ぷるぷる ( 2003-08-04 23:32 )
あらっ!!私の両親の結婚記者会見じゃないですか!!! / おにぎり ( 2003-08-04 22:21 )

2003-08-03 樂蒂と幻の合作映画(1)


尤敏に関する連載(「元祖ユーミン」)でちらりと触れましたが、東宝が香港から尤敏を連れてきて大当りをとったことに触発されて、東映は尤敏が所属する電懋(MP&GI。キャセイ・オーガニゼーション)のライバル会社・邵氏兄弟(香港)電影有限公司(ショウブラザーズ。以下、邵氏と表記)と提携、邵氏の人気女優である樂蒂(ろう・でぃ)を招いて『香港旅情』という映画を撮ろうとしました。
が、製作発表記者会見まで行いながら、残念なことにこの映画は未製作のまま終わり、邵氏との提携自体も解消されてしまいました。
そこで今回から、幻に終った合作映画『香港旅情』について、少し詳しく考察してみたいと思います。

その前に、樂蒂のプロフィールをご紹介しましょう。

樂蒂(本名・奚重儀。英文名:Betty)は、1937年8月29日、上海で生まれました。6人兄弟の末っ子でした(兄3人・姉2人)。今も男優として活躍する雷震(1933〜)は、彼女の3番目の兄にあたります。
生まれる前に日本軍の爆撃によって父が亡くなり、1948年には母も死去、兄弟は母方の祖父母に引き取られました。
1949年、祖父母、兄、姉たちとともに香港に移住、1953年、長城電影製片公司に所属して女優としてのスタートを切ります。
1958年、邵氏に移籍、彼女の美貌は「古典美人」と称えられるまでになりました。
ちなみにこの当時、邵氏には電懋に移籍する以前の尤敏もいて、2人は大変仲のよい友人だったようです。
1960年、主演映画『倩女幽魂』がカンヌ映画祭に出品され、残念ながら受賞は逃しますが、彼女は「中国で最も美しい女優」と賞賛されました。
1962年1月、男優の陳厚(1931〜70)と結婚、9月には女児(明明)を出産、この頃が彼女にとって幸せの絶頂でした。
1963年、『梁山伯與祝英台』で第2回台湾金馬奨主演女優賞を受賞したものの、観衆の人気は共演者の凌波(1939〜)に集中、大きな挫折を味わいます。
1964年、邵氏から電懋に移籍しますが、その頃から電懋は邵氏に押されて凋落の一途を辿り始め、樂蒂のキャリアにも暗い影が差し始めます。
1967年、兄の雷震らとともに金鷹電影有限公司を設立、新天地での巻き返しを図ります。
しかし、同じ年に陳厚と離婚(子供は樂蒂が引き取りました)、翌1968年12月27日、仕事と私生活、二重の試練に耐え切れなくなった彼女は、睡眠薬自殺を遂げました。
31歳の若さでした。


(つづく)

先頭 表紙

tomohiko様:樂蒂は、もともと憂鬱体質の人だったようで、亡くなる前にも5回自殺未遂を繰り返しています。 / せんきち ( 2003-08-05 20:29 )
華の命は短かいですなぁ…。タメイキが出ちゃいます。 / tomohiko ( 2003-08-04 22:44 )
樂蒂のプロフィール、「樂蒂紀念網頁」(http://come.to/ledi)を参考にしました。尤敏網頁の姉妹サイトです。 / せんきち ( 2003-08-03 22:07 )

2003-08-02 尤敏を買いに


と言っても、「川を渡って女買いに行く」(BY:山頭火。うろ覚えなので、間違っているかも)の世界ではございません。
新宿・京王百貨店で開催中の「大古書市」に、行ってきたのでございます。

来週、伊勢丹で開催の「大古本市」は、目録が家に届いたので既に注文済みなのですが(抽選があるけど)、京王の方は目録が来なかったので、現場でいちいち確認せにゃなりません。

まずは、同時開催の「切手・コイン展」会場(お隣)に立ち寄り(というか、引っかかり)、奉天(瀋陽)の絵はがきセット(瀋陽の故宮。記念スタンプ付)と、インド人が書いた香港仔の水上レストラン(シーパレス)絵はがき(香港からボンベイ〔ムンバイ〕宛。何語の文字なんでしょう、不思議な文字が)を購入。
それから、一軒一軒丹念(てきとーかも)にブツを見て廻りました。

本業の方で「買っておいたほうがいいかな」という本(昔の山田流筝曲の唄本)もありましたが、今日は敢えて止めにして、尤敏モノに的を絞ります。

結果、『明星』1963年9月号(記事が1頁)、『映画情報』1962年5月号(グラビア1頁、写真入記事少々)、『アサヒグラフ』1962年6月8日号(表紙。特集記事2頁。写真)をゲット。
これに高橋英樹の映画ポスター(母親へのお土産)をプラスして、〆て4830円でした。
思ったよりも安かったです。

この中では、明星が一番高かった(2500円)ですね。状態はあまり良くなかったですが。これで状態が良ければ、5000円位にはなるのでしょう。

さて、来週は伊勢丹です。金欠だわ。。。。

先頭 表紙

おにぎり様:なんでもとって置く方がいいですよ。邪魔になりますが。。。。 / せんきち ( 2003-08-03 21:21 )
数年前まで、中山美穂が「モデル時代」の明星ヘアカタログが実家にありました。 / おにぎり ( 2003-08-03 12:56 )
『社長洋行記』と『続社長洋行記』、「東宝通販倶楽部」で扱っていました。『香港の星』は、廃盤でした。 / せんきち ( 2003-08-02 21:40 )

2003-08-01 怖いもの食べたさ


おかげさまで無事でした。元気でピンピンしております。

以前、カビの生えた大福を食ったときもなんともありませんでしたし、物理的な圧力に対しては強いようです、私の胃腸は。
ところが、心理的な圧力になると、からっきしダメなのですねえ。
すぐにシクシク痛み始めます。

さて、今日も行ってきました、W大学。
学内のE博物館でちょっくら調べ物をしておりまして、7日から夏季休館になってしまうため、今のうちにまとめて調べておかなければならないのです。

本業の方と趣味の方、目下2本立てで調べておりますが、昭和40年代に香港の邵氏兄弟(ショウ・ブラザーズ)が、日本の映画監督を招いて撮影した映画のシナリオ(日本語版)なんかを見つけてしまい、ついつい本業の方を忘れがちになっております。
今日は、『恋泥棒』なんていうシナリオがあったので、そいつを読んでみたところ、井上梅次監督の『鑽石艶盗』(1970)のシナリオでした。
ちなみにこの映画、井上監督が大映で撮った『宝石泥棒』(山本富士子主演)のリメイクです。

でなわけで、用事が片付いたのが午後3時45分過ぎ。
またしても昼飯抜きでしたので、昨日の確認(本当に山羊肉だったのか。あるいは羊か)をするため、再度くだんのお蕎麦屋さんへ行きました。
で、ハンバーグ定食を注文して食べてみたところ、

おいしいのですよ、これが。

お肉がジューシーでね。

月曜日も行こう。。。。



写真は、イメージです。

先頭 表紙

ビバビ様:お帰りなさい。ボリュームありましたよ、ハンバーグ定食。今日も食べました。 / せんきち ( 2003-08-04 20:33 )
やっぱり学生街の食堂って、ボリューム命だったりしますよね。で、おいしいとこが多かったりもしますよね。 / ビバビ ( 2003-08-03 22:31 )
↓あらら。。。。支店の方から切り替えするのを忘れてました。とほほ。。。。 / せんきち ( 2003-08-03 21:21 )
aika様:学生街のお蕎麦屋さんなので、定食メニューが豊富です。体育会系の店かも。。。。 / せんきち ( 2003-08-03 21:19 )
お蕎麦やさんにハンバーグ定食があるのが不思議な感じです。でも、おいしければいいですね♪ / aika ( 2003-08-03 07:01 )
しんちゃん様:私、中華圏にいるときはストレス無しなんですよ。なぜでしょう? / せんきち ( 2003-08-02 20:46 )
ぷるぷる様:鰐淵晴子様も美しかったですわ。お直ししすぎで大変なことになっていますが。。。。あ、そういえば、この間逮捕された土屋前埼玉県知事の娘(ピーチ桃子)、すごい美少女でしたわ。フライデーに載ってたけど、写真が。 / せんきち ( 2003-08-02 20:45 )
tomohiko様:どっちが先に胃を壊すかのチキンレース。。。。ちなみに、胆嚢は取ってしまってありません。 / せんきち ( 2003-08-02 20:41 )
めらこ様:私の友人にも、つねにビオフェルミンを持ち歩いているやつがおります。実は私も、下しやすいんですがね。。。。 / せんきち ( 2003-08-02 20:40 )
日本にいた頃は心理的にヨワヨワだったとおもうのですが、こっちにきてからは何と言うか気にしなくなりました、あんまり深く。(だめじゃん) / しんちゃん ( 2003-08-02 01:01 )
頑丈な胃袋に乾杯 ( ^_^)/▼☆▼\(^_^ ) チン♪ イチ時期大映の時代映画に凝っていて見まくりましたが、山本富士子と富士真奈美のべっぴんさにはビビリました。今は怖いくらいの美人女優って居ないような気が。 / ぷるぷる ( 2003-08-02 00:37 )
私も心理的な圧力には弱い方ですが、さらに強い圧力ではね返します。だからお客様(伝票の上位会社)のウケが悪いの(笑) / tomohiko ( 2003-08-01 23:37 )
ご無事でなによりです^^☆ それにしても羨ましいなぁ。。私なんかビフィズス菌の粒が手放せません。腸だけはデリケートなんです・・ / めらこ ( 2003-08-01 21:30 )

2003-07-31 けもののかほり


今日、ヤボ用があって、W大学へ行ってきました。
さいきん、美人局やスーパーフリーで話題になった、あそこです。

いろいろあって、用事がすんだのが午後3時半過ぎ。
昼食をとっていなかったので、近くのお蕎麦屋さんに入りました。

大学は夏休みですし、こんな中途半端な時間帯なので、他に客のいるはずもなく、店内にはわたくしがただ一人。
「カツ丼を下さい」と注文を告げて、席に着きます。

10分ほどして、できたてほやほやのカツ丼が出てきました。
味噌汁、香の物の他に、小皿も一品ついています。

まずは味噌汁を一口。ちょっと味は濃い目ですが、なかなかいけます。
「よしよし」と思いつつカツを口に含むと、なにやらいやーな風味が口の中いっぱいに広がりました。

それはまるで、豚肉のものではない、何か別の獣の肉のようなかほり。。。。
(もちろん、鳥や牛ではなくてね)

「やぎかな?なんかちょっとくさいな。肉の色も変だし」と、一瞬躊躇しましたが、空腹には勝てず、全てきれいに平らげました。

明日が楽しみだ。。。。



写真は、イメージです。

先頭 表紙

aika様:思わぬところで「びっくり人間大集合」になってしまいました。 / せんきち ( 2003-08-01 19:13 )
tomohiko様:「出されたものはすべて食い尽くす」という、貧乏人の悲しい性もありますです。。。。 / せんきち ( 2003-08-01 19:12 )
チャレンジャーですね。ご無事をお祈りしておりますです。。。 / aika ( 2003-08-01 00:56 )
「空腹には勝てず」って… ご無事をお祈りします。 / tomohiko ( 2003-07-31 22:45 )
しんちゃん様:あ、そうか。羊かもしれません。くさかったんですよ、とにかく。あんなカツは初めて食べました。 / せんきち ( 2003-07-31 22:07 )
羊肉だったりして。新疆直送羊肉。 / しんちゃん ( 2003-07-31 22:03 )

2003-07-30 明報を読んで思ったこと


今日、国会図書館(東京本館)で、関西館から取り寄せてもらった『明報』を読みました。
取り寄せに5日、コピーに8日(今日頼んで8月7日に出来上がり)と、果てしない手間と時間がかかりますが、香港の図書館へわざわざ行くことを思えば、まあ許せる範囲でしょう。
今回は、一応、尤敏の死亡記事関連のみの調査を行うため、1996年12月から1997年1月にかけての分を取り寄せました。

で、それらもろもろの記事を読みつつ思ったこと。

尤敏が亡くなったのは12月29日でしたが、実はわたくし、その前日まで香港で遊び呆けておりまして(勿論、その頃には尤敏のことなど知りませなんだ)、映画欄に居並ぶ『食神』の2文字を見て、クリスマスの日に佐敦の新寶戯院で『食神』を鑑賞した懐かしい思い出が、ありありと甦ってきました。

そして当時、紅館(香港コロシアム)では張國榮(レスリー・チャン)が「跨超97演唱會」を開催しておりまして、その記事が紙面を賑わせていました。
あれから6年ほどの歳月が流れ、誰がこんな悲しい結末を予想できたでしょうか。
彼は、遠い世界へ旅立ってしまいました。

旅立ったと言えば、羅文(ローマン・タム)の記事もありました。
彼も昨年、天に召されました。

さらにさらに、尤敏が亡くなる少し前には、これも50年代から60年代の香港を代表する映画監督・李翰祥(リー・ハンシャン)が逝去、尤敏の死から約半月後には、李の弟分でやはり偉大な映画監督・胡金銓(キン・フー・写真の人物)が逝去と、香港映画界の大立者の死が相次いでいます。

と、ここまでは、儚い人の世の無常を感じつつしんみりとしていたわたくしでしたが、1月下旬に入って、突如わたくしの中国茶の師匠が紙面を飾っているのを発見、思わず爆笑してしまいました。
もちろん、コピーも頼みました。

それにしても、「十年一昔」と言いますが、たった6年ほどの間でも、いろいろなことがあるものですねえ。
先のことは、わからない。つくづく思い知らされました。

先頭 表紙

そのとき、香港で泊まっていたのが「新雅圖酒店(ニューアスターホテル)」。『社長洋行記』を見ていたら、ここの中に「東京亭」(新珠三千代の店)があるという設定になっていて、尤敏がホテルの前に!!!うれしかったです。。。。 / せんきち ( 2003-07-31 22:04 )
jing様:台北で友人に会った後、香港でクリスマスを過ごそうというナイスな企画の旅でした。しかし、同行予定の友人は仕事が立て込んだせいで行けなくなり、けっきょく一人旅に。その友人も今は天国の住人です。 / せんきち ( 2003-07-31 22:01 )
ぷるぷる様:『百分之百感覚』なんかが流行っていた頃で、なつかしいなあと思いました。サミーの記事が沢山ありました。あと、キャス・パン。この頃好きでした。 / せんきち ( 2003-07-31 21:59 )
おにぎり様:当方、同時多発テロのときは、『ウソコイ』というフジテレビのドラマを見ておりました(王非主演)。しかも最終回。途中でいきなりビルに飛行機が突っ込む映像に切り替わり、「『ダイ・ハード』に番組変更か?」と思ったら、テロでした。最終回はぶっつぶれました。 / せんきち ( 2003-07-31 21:57 )
うん、沁みますわ。>ぷるぷるさま 私の初香港はそれからほぼ1年後です。 / jing ( 2003-07-31 01:25 )
染みますわ、今日の日記。(゜-Å) ホロリ。 / ぷるぷる ( 2003-07-31 00:42 )
アメリカがテロ攻撃を受けているとき、私は友人と呑んでました。帰宅してTVの前でNews番組を見ながら体育座りしている愛夫から話を聞かされビックリ!!! / おにぎり ( 2003-07-30 23:09 )

2003-07-30 元祖ユーミン(25)


(前回の続き)
尤敏の死から2日後の12月31日、香港の新聞に彼女の死亡記事が掲載されました。
それによると、尤敏は亡くなる2ヶ月前にも健康を害して入院、この時、海外に住んでいた子供たちも香港へ呼ばれたそうですが、幸い事なきを得たので、子供たちもそれぞれの家へ帰っていたのだそうです。
しかし、退院後も健康状態は優れなかったようです。
亡くなる前夜、尤敏は心臓に異常を覚えた(不整脈の持病があったそうです)もののそのまま就寝、ところが、翌朝になっても症状が治まらないため、救急車で病院に搬送されましたが、間に合わなかったそうです。

引退から既に30年以上の歳月が経過していたため、新聞に掲載された彼女の経歴には、ところどころに誤りが見られます(『無語問蒼天』〔1961年〕でアジア映画祭主演女優賞を得た、等)。
テレビ番組(『城市追撃』・TVB)でも、実際には出演していない映画(『四千金』)を出演作品として紹介していたようです。

年が明けた1997年元旦、日本の新聞(毎日・朝日)にも、共同通信が配信した尤敏の訃報がひっそりと載りました。

尤敏さん(ゆう・びん〔『朝日』ではヨウ・ミン〕=香港の女優)
31日付香港各紙によると、29日、心臓病のため香港の病院で死去、61歳(原文ママ)。
59年の「玉女私情」と「家有喜事」で、アジア映画祭(日本で開催)の最優秀主演女優賞を受賞。「香港の夜」で宝田明と共演、三船敏郎との共演作品も上映され、日本でも人気を集めた。
64年にマカオの富豪と結婚し引退した。(共同)
(1月1日付け 『毎日新聞』及び『朝日新聞』。『朝日』には最後の1行なし)

ここでも、彼女の経歴が間違って伝えられています(くわしくは、付記参照)。

1月8日午前10時から香港殯儀館大礼堂で葬儀が営まれ、午前11時に出棺、尤敏の遺体は荼毘に付されました。


近年、1950年代から60年代にかけての香港映画を見直す機運がようやく高まり、尤敏の映画も上映される機会が多くなってきているようです。
幸いなことに、電懋時代の名作の数々も、これから続々とDVD(VCD)化される予定です。
すっかり色褪せてしまった『香港の夜』のフィルムの中で、いきいきと息づく尤敏を初めて観てから約7ヶ月、フィルムはどんなに色褪せても、彼女の魅力は永遠に色褪せることはない、そんなことを思いつつ、わたくしの拙い文章もこれでひとまずおしまいとさせて頂きたく存じます。
長らくのご愛読、ありがとうございました。(おしまい)

付記:『玉女私情』で、1959年、クアラルンプールで開催されたアジア映画祭で主演女優賞を受賞、翌年、今度は『家有喜事』で、再度主演女優賞を受賞しています。
1960年、東京での授賞式は、赤坂のホテルニュージャパンで行われたそうです。現在、ニュージャパンのあった場所には、プルーデンシャルタワーという外資系金融機関の高層ビルが建っていますが、国会図書館からそのビルがよーく見えます。そしてそのビルを見るたび、40数年前の尤敏を想うわたくしなのでありました。

本稿執筆にあたり下記のサイトを参考にしました(リンクはってません)。

・尤敏紀念網頁(中文BIG5・英語)http://come.to/youmin
香港の方が1999年に開設したサイト。非常に優れたサイトです。姉妹サイトとして、葛蘭、林黛、樂蒂のサイトもあります。あ、ちなみに、葛蘭と尤敏は夫同士(高福全氏と高福球氏)が兄弟で、義理の姉妹(こういう場合にも、そう言うのだろうか)なんですよん。

先頭 表紙

現在のところ、電懋時代の尤敏出演作品でDVD(VCD)化されているのは、『玉女私情』と『星星 月亮 太陽』のみです。それらに関しても、いずれ詳しくご紹介いたします。 / せんきち ( 2003-07-30 22:11 )
ぷるぷる様:ご愛読、ありがとうございました。わたくしのおっかけは、まだまだ続きます。。。。 / せんきち ( 2003-07-30 22:10 )
ほ〜。おつかれさまでした。こちらもユーミンの伝記映画を観ているような気分に浸れました。ありがとうね。今度香港行ったらDVD探してみます。 / ぷるぷる ( 2003-07-30 22:09 )

2003-07-29 めでたい!




どうしたわけか、都立雪谷高校野球部が、甲子園に出場することになりました。
都立高校が甲子園に出場するのは、これで3校目だとか。

品川区民のわたくしにとっては、雪谷高校は同じ学区(第1学区第2グループだったかな、私の中学時代には。旧学校群で言うと、13群になりますね)の高校なので、とりわけ馴染み深い高校であります。

だから、とても嬉しいです。

実はわたくし、中学時代、「私立高校はお金がかかるから、都立に行くよ」と殊勝なことを言っておりましたが、結局は前言撤回、杉並の私立高校に進学してしまいました。

親不孝者。。。。

甲子園でも、善戦健闘することを祈ります。

先頭 表紙

おにぎり様:去年、母校が西東京大会の決勝で無残にも負けてしまったのですが、今年はとてもハッピーでした。めでたしめでたし。 / せんきち ( 2003-07-30 20:43 )
fuku様:いやあ、ほんとうによかったです。うちの近所の娘っ子が、今、雪高に通っています。ピッチャーの彼、素敵ですね。 / せんきち ( 2003-07-30 20:41 )
プロ野球って見てても「ふぅん」としか思わないけど、高校野球って、モロ青春してて試合終了時には涙が出るぅ。 / おにぎり ( 2003-07-29 23:45 )
大田区民の者です!そうなんですよ!今日はかぶりつきでテレビを見ていました。すごい試合でした。このチームはほんとすごいですよ。神宮に行かなかったこと激しく後悔したのでした・・。 / fuku ( 2003-07-29 23:02 )
写真は、草津温泉のおしゃれ地蔵。 / せんきち ( 2003-07-29 21:56 )

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