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せんきちの「日々是口実」


24時間、現実逃避!

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目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2003-07-27 元祖ユーミン(23)
2003-07-26 元祖ユーミン(22)
2003-07-25 ぞくぞく
2003-07-25 元祖ユーミン(21)
2003-07-24 元祖ユーミン(20)
2003-07-23 元祖ユーミン(19)
2003-07-22 元祖ユーミン(18)
2003-07-21 元祖ユーミン(17)
2003-07-20 今日もおまけ
2003-07-20 元祖ユーミン(16)


2003-07-27 元祖ユーミン(23)


(前回の続き)

1964年4月、『深宮怨』(旧題『董小宛』)の撮影を終えた尤敏は、ロンドンで高福球氏と結婚、半年間の予定で新婚旅行に出発します。
しかし、旅行中に、電懋の社長である陸運濤の飛行機事故死や、よき友であった女優・林黛の自死というアクシデントが発生、結局4ヶ月ほどで香港に帰ることとなります。

そして帰国後、尤敏は正式に引退を表明しました。

尤敏が出演するはずだった東宝の『再会』はお蔵入りとなり、電懋の『最長的一夜』は、ヒロインを樂蒂に代えて1965年に製作、宝田明が日本人従軍記者役で共演しています。

ところで、尤敏の結婚・引退に関して、最近、宝田明がこんなエピソードを明かしています。
少し長くなりますが、引用してみましょう。

宝田 尤敏とは同じ年代でしたし、男と女というより僕は妹みたいな気持ちでいたし、彼女も僕を何でも言える相手と思っていてくれたのでしょう。それで『ホノルル・東京・香港』の撮影でハワイに行ったとき、次の映画、来年もあるなという話をしていました。その後撮影の休みで香港に帰った彼女がまた日本に来て、ちょっと話があるから帝国ホテルに来てくれと・・・・これは私的なことですが、もう彼女も亡くなられたからいいと思うのですが、「自分と結婚する意志があるか」(英語で「Do you have any idea to marry me?」と言ったのだそうです・せんきち注。でも、ideaを意志と訳すのって、どうなんでしょ)と言われたのです。

−尤敏さんから?

宝田 はい。で、「いや、俺はまだちょっと仕事をしなきゃいけない」と(笑)。何でそんなことを急に言い出すのかと聞いたら、香港に帰ったときにパーティである方に会って、プロポーズされたと。それはいいじゃないかと・・・・内心は面白くなかったですが(笑)。相手はというと、長く英国に留学して建築の勉強をして、香港映画界のことはよくわからない方で、パーティで会ってプロポーズしてきた。家柄はと聞いたら、マカオの公営賭博場総元締めの御曹司、ミスター高だと言うのです。それで僕は「結婚しろ!」(笑)と。
その人と結婚して、あなたがもしやる気があるなら”一年一部、両年一部(1年か2年に1本)”でいいから映画に出なさい、と言いました。彼女も、あなたがそういうのならと了解して、『ホノルル・東京・香港』が終った後、もう次の作品は止める、と東宝に言ったそうです。東宝の重役からは、「宝田、お前が何か悪いことをしたから、彼女は傷心の思いで帰国したんだろう」と言われました(笑)。僕は彼女の結婚のことは、東宝には絶対内緒にしたのです。そんないきさつで、幻の第4部になりました。
(引用もう少し続く)

(つづく)

付記:「Do you have any idea to marry me?」と尤敏が言ったというのは、藤井省三の「宝田明が見た60年代の香港映画界」(『NHKラジオ中国語講座テキスト』2002年8月号所収、のち『中国見聞一五〇年』〔2003年、日本放送出版協会〕に収む)によります。ところが、なぜか引用のインタビュー(「宝田明、香港三部作を語る」)の英訳では、「Do you have any intention to marry me?」になっているのです。ひょえ〜!

先頭 表紙

『香港の星』なんかを見ると、亭子脚(雪国の雁木やこみせと似たようなもの)という、福建や広東、台湾(マカオやシンガポールもね)に見られる建築様式の建物がまだ残っていたりして、懐かしい気分になります。 / せんきち ( 2003-07-29 20:40 )
このころのネーザンロードってまんまロンドンっぽいですね。今は「香港」以外のなにものでもないですけど。 / ぷるぷる ( 2003-07-29 10:50 )
おにぎり様:ははは、マカオとオカマ、全然気が付きませんでした。でも、「オカマの公営賭博場」ってありそうですね。仲通りあたりかな、やっぱり。 / せんきち ( 2003-07-28 22:43 )
マカオの公営賭博場ね^^;うっかり一瞬見間違えて【オカマの公営賭博場】かと思って.......... / おにぎり ( 2003-07-28 21:55 )
写真は、着物でネーザンロードを往く尤敏。 / せんきち ( 2003-07-27 22:19 )

2003-07-26 元祖ユーミン(22)


(前回の続き)

尤敏の東宝での次回作『再会』は、ヨーロッパを取材旅行中の写真家(宝田明)と、演奏旅行中の音楽家(尤敏。『日刊スポーツ』の報道ではピアニスト。ただし、『週刊平凡』の報道ではバイオリンを学ぶ音楽留学生)がスイスで出会い、そのときはお互い名乗らずに別れますが、日本でぐうぜん再会、愛をとるか芸術をとるか悩んだ末に、パリで別れるというもので、監督は丸山誠治、脚本は菊島隆三が担当しています。

キャストは、4度目のコンビとなる宝田明の他、白川由美(雑誌編集者)、山村聰(カメラ会社社長)、淡島千景(バーのマダム)等の出演が予定されていました。

2人の出会いと別れの土地となるスイス(インターラーケン、ルツェルン)、パリの他、ハンブルグ、ウィーンで撮影を行なうという、従来の日本映画にはない本格的なロケーションによる大作で、1963年2月にはすでに丸山と菊島がロケハンを済ませていました。

また、宝田の香港での人気に目をつけた電懋側も、尤敏の電懋での次回作『最長的一夜』(日本の報道では『長き夜』)に宝田を起用することを決定、宝田も前向きに出演を検討しています。

8月に入り、ベネチア映画祭に向かう途中、香港へ立ち寄った藤本真澄に対して、尤敏は「『再会』にぜひ出たい」と表明、8月24日には丸山と菊島が香港を訪れ、『再会』に出演することがいったんは決定しました。

しかしその後、『週刊平凡』の単独取材に応じた尤敏は、

「・・・・ぜひ出たいと、藤本さんにお伝えしましたが・・・・やっぱり、お断わりするつもりです・・・・」
とうつむき、
「ゴメンナサイ。でも日本へ・・・・ハネムーンで行きたいと思っています」(後略)
(「ユー・ミンの婚約者を追って」 『週刊平凡』1963年9月12日号)

と語り、28日に電懋を通して出演辞退の意向を東宝に伝えます。

8月31日付けのスポーツ紙紙面には、

 ユー・ミン出演を辞退 「再会」の製作、来春に延期
東宝では九月中旬のヨーロッパ・ロケからクランク・インする予定だった「再会」(脚本菊島隆三、監督丸山誠治)の製作を来春に延期することになった。
これは中国人ピアニストの役で宝田明の相手をつとめることになっていたユー・ミンの出演が、彼女自身のスケジュールのつごうで不可能となったためで、二十八日夜キャセイの王・製作担当重役から突然そのむねの電話連絡を受けた田中プロデューサーはじめ東宝の関係者は、二十九日急きょ善後策を協議したもの。(略)
なお、ユー・ミンの個人的スケジュールとは、キャセイでの出演のほかに挙式のことも含めているもようで、結婚後は引退するといっていたところから、今後は日本の作品に出ないことも考えられる。
(『日刊スポーツ』)

とあり、尤敏の結婚・引退が、いよいよ現実味を帯びてきたのでした。


(つづく)

先頭 表紙

2003-07-25 ぞくぞく






昨日、長年憧れ続けた映画『梁山伯與祝英台』のVCDが、香港から届きました。
で、今日、国会図書館から帰ってきたら、さらに『四千金』『香車美人』『啼笑姻縁』(上・下)『愛奴』のVCDが届いていました。
週末は、また映画漬けです。

先頭 表紙

追伸:ただ、以前上海で、深センの会社が作った初期台湾ニューシネマのVCD系列を買いました。なんで台湾の会社じゃなくて大陸の会社が作っているのか、いまだに謎なんですが。。。。 / せんきち ( 2003-07-26 20:07 )
しんちゃん様:これら邵氏や電懋の作品は、大陸では上映されていないはずですので(時代が時代でしたからね)、香港・台湾・東南アジアのオールドファン向け仕様ですね。 / せんきち ( 2003-07-26 20:05 )
香港・・・。来月末に行くのでそん時はDVDとCDを漁ってくる予定です。うわさによると品揃えが大陸とは全然違うそうですよネ。 / しんちゃん ( 2003-07-26 00:06 )

2003-07-25 元祖ユーミン(21)


(前回の続き)

(あらすじ続き)その後、鄭は雄一の許を訪れ、自分は愛玲ではなく、愛蘭と結婚するつもりだと告げます。
思わぬ朗報に雄一が喜んでいると、そこへ愛玲から電話がかかってきました。
雄一は、愛玲を散歩に誘い出します。
鄭との婚約が破談になったことを素直に言うことが出来ずにいる愛玲に、雄一は全てを知っていると告げるのでした。

日本へ戻った雄一は愛玲と婚約しますが、2人で出かけたナイトクラブで偶然美代子と再会します。
美代子は2人に、雄一から貰ったチケットで日本へ帰ってきたが、もう一度ハワイへ戻って別れた夫とやり直してみようと思っていると話します。

雄一と愛玲が婚約したという知らせは、ハワイの次郎の許へも届きました。
手紙を読んでがっかりする次郎でしたが、自分をやさしく慰めるテル子を見て、次郎は彼女への愛に気づきます。

やがて、愛玲がハワイへ帰る日が来ました。
しばしの別れとなる愛玲に、雄一はキスをせがみますが、愛玲は雄一に平手打ちをお見舞いし、「これが日本人の愛情表現なんでしょ」と茶目っ気たっぷりに言って、機上の人となるのでした。(あらすじおしまい)

本作は、前作までの2作品とは異なり、軽妙な喜劇に仕上がっています。
尤敏も、わがままでお転婆な華僑の娘を、嬉々として演じています。

ただ、設定が設定(ハワイ華僑なので、英語か中国語しかわからない)なので、全編中約80%は英語のセリフなのが、少々疲れます。
尤敏の英語は、どことなくオードリー・ヘプバーンの英語にアクセントが似ていて(声も)、とてもチャーミングです。
加山雄三の英語が一番ひどいかも。。。。

作品に対する評価は、「内容がないぜいたくさ」(1963年7月5日付け 『読売新聞』夕刊)などという酷評(?)もありますが、「明るく楽しくバカンス気分」(1963年7月2日付け 『毎日新聞』夕刊)という好評価も見られます。
『週刊平凡』の「試写室」欄には、

・・・・観光用映画ともいえるが、風景とストーリーがうまく結びついて絵はがき的でないのがいい。(後略)

とあり、品田雄吉が80点、小森和子(おばちゃま)が85点を付けています。

わたくし個人の見解としては、1回目に観たときはとても面白かったのですが、繰り返し観ていくうちに「やっぱり尤敏には悲劇が似合う」としみじみ思った次第。
といっても、彼女のコメディ・センスはなかなかのものです。
さすがに、亜洲影后(アジア映画祭主演女優賞)と金馬影后(台湾金馬奨主演女優賞)に、計3回なっただけのことはあります(林黛は亜洲影后に4回なったので、俗に「4度影后」と呼ばれています。尤敏の記録は、それに次ぐものです)。
終盤、わさび寿司を食べさせられたお返しに、激辛麺(「青椒肉絲麺」と言っていました)を宝田明に食べさせるシーンがあるのですが、すました顔で「こちらの紳士は辛いのがお好きだから、辣醤と胡椒をたっぷり入れて差し上げてね。辛ければ辛いほどいいわ」(中国語)と言うところなど、思わずにやりとしてしまいました。

本作の上映も終わり、果たして次回作『再会』に尤敏が出るのかどうか、その去就が注目されていましたが、香港へ帰った尤敏からは正式な態度表明が示されぬまま、製作開始予定の夏を迎えました。


(つづく)

先頭 表紙

↓の続き。で、お千代さんと色紙交換をしてましたが、色紙にはきれいな字で「島倉さん、あなたにあえてわたしはうれしい」と日本語が書いてありました。お千代さん、今でも持っているかなあ。 / せんきち ( 2003-07-25 22:11 )
尤敏、『明星』1962年8月号で、島倉千代子と対談していたよ。しかも、テレビの『島倉千代子ショー』にも出たらしい。まさに『人生いろいろ』ですな。 / せんきち ( 2003-07-25 22:09 )

2003-07-24 元祖ユーミン(20)


(前回の続き)

(あらすじ続き)昼食をとりに愛玲を連れて寿司屋へ入った雄一は、わがままな愛玲への仕返しとばかりに、わさびたっぷりの寿司を彼女にご馳走、あまりの辛さに閉口する愛玲を見て溜飲を下げます。
と、そこへ、怪しげな観光ガイドが2人やってきて、言葉巧みに愛玲を連れ出そうとします。
2人を蹴散らした雄一は、「変な人間に引っかかってはいけない」と愛玲を叱り飛ばしますが、叱られてびっくりした愛玲はその場に転んでしまい、その拍子にハイヒールのかかとが折れてしまいます。

ハイヒールを直してもらう間、2人は近くの喫茶店でお茶を飲みながら時間をつぶすことにしました。
ようやくハイヒールが直ったので、雄一はそれを受け取って店に戻りますが、2人はそこで大喧嘩をしてしまい、怒った雄一はハイヒールを持ったまま出て行ってしまいます。
ハイヒールを持ったままであることに気づいた雄一は、あわてて店に引き返しますが、愛玲の姿はすでにそこにはありませんでした。

雄一は愛玲を探してあちこち歩き回りますが、彼女は見つかりません。
旅館にも電話を入れますが、まだ戻って来ていませんでした。
あきらめた雄一が自宅へ戻ると、そこには祖母とすっかり仲良しになった愛玲がいました。
「親切な人がここまで送ってくれたのよ」と、けろりとしている愛玲を見て、思わずかっとなった雄一は愛玲の頬を平手打ちし、「お前みたいなわがままな女は、俺の女房にして性根を叩きなおさなきゃダメなんだ!」と、逆説的な愛の告白をします。

雄一の愛の告白に対して、愛玲は「でも私には、香港にフィアンセがいるのよ」と言い、雄一を煙に巻きます。
しかし、雄一に告白されて満更でもない愛玲は、その晩さっそく次郎に電話、これまでの経過報告をします。
実は愛玲のことが好きだった次郎は、話を聞いてびっくり仰天、「君のことを本当に愛しているのは俺だ!」と宣言、愛玲の両親の許へ押しかけて、「あなたの大事な娘さんが、私の野蛮な兄に狙われている」と直訴します。
しかし、愛玲の父は怒るどころか「愛玲には、香港にフィアンセがいるのですよ」と笑いながら言い、腹の虫が収まらない次郎はすぐさま飛行機に乗って、日本へ向かうのでした。

次郎が日本へ戻ると、雄一は愛玲と一緒に香港へ行ってしまった後でした。
やけになって「死んでやる!」と叫ぶ次郎に、祖母は箪笥から短刀を取り出して、「そんなに言うなら、おばあちゃんの見ている前で、今すぐ死んでおしまい!」と一喝、次郎はすごすごとハワイへ引き返します。

香港へ着いた愛玲と雄一は、愛玲の妹・愛蘭とその養父母の出迎えを受けますが、そこには許婚の鄭浩(林沖)の姿がありませんでした。
鄭の消息を尋ねる愛玲に、愛蘭は「風邪を引いていて、今日は来られない」と説明します。

翌日、愛蘭の家にやって来た鄭と、愛玲、愛蘭の3人は、姉妹の実の親の墓参りに出かけますが、そこで愛蘭は鄭と愛し合っていることを愛玲に告白します。
愛玲は妹の告白に衝撃を受けながらも、2人を祝福してその場を立ち去ります。(あらすじ続く)

(つづく)

先頭 表紙

KEI様:ありがとうございます。泡食って調べたら、『道中記』じゃなくて『洋行記』だったことに気づきました。とほほ。。。。 / せんきち ( 2003-07-25 20:53 )
tomohiko様:でも、みんな深く悩まない人たちなので。。。。しょせんは映画ですし。。。。 / せんきち ( 2003-07-25 20:52 )
ぷるぷる様:おばあちゃん役の飯田蝶子は、紫綬褒章を貰った戦前からの名優です。 / せんきち ( 2003-07-25 20:51 )
スカパーの日本映画専門チャンネルで今月のはじめに「社長道中記」の正・続をやったみたい。また再放送があるかもhttp://www.cs110.nihon-eiga.com/medama0307/touhou.html / KEI ( 2003-07-25 02:02 )
コメディとは言え、関係こじれすぎて難しくなってきましたね。 / tomohiko ( 2003-07-25 01:46 )
おばあちゃん、かっこいいかも。 ↓ところでせんきちさんはいったい幾つカラダがあるのですか〜( ̄▽ ̄; / ぷるぷる ( 2003-07-24 23:30 )
リンク、増えました。せんきちも参加している若手邦楽器グループのサイトです。ぜひごらん下さい。 / せんきち ( 2003-07-24 22:34 )

2003-07-23 元祖ユーミン(19)


(前回の続き)

(あらすじ続き)次郎と愛玲は、雄一をホテルへ送っていき、3人はお茶を飲みながら話をしますが、自分の言うことを信じない雄一に対して、愛玲は美代子の別れた夫が、かつて自分の父が経営するレストランで働いていたこと、そのとき夫を迎えに来た美代子に対して、酒に酔った夫が包丁を振り回して暴れたこと等を話して聞かせます。
しかし、雄一は、それでも愛玲の言うことを信じないばかりか、怒って席を立ってしまいました。
愛玲は、雄一のことを失礼な人間だと思うのでした。

翌日、次郎と愛玲は、雄一を連れてハワイ島観光へ出かけました。
ハワイ島内を巡りながら、愛玲は美代子がなぜ雄一に嘘を言ったのか、その理由に気づきます。曰く「美代子はまだ、雄一のことを愛しているのだ」と。
これを聞いて、雄一はまたまた不機嫌になり、観光を切り上げてホノルルへ戻ってしまいます。

ホノルルへ戻った後、愛玲の言葉が気になった雄一は、次郎とパイナップル農園まで車を走らせました。
パイナップル農園に着いた雄一が見たものは、確かに、愛玲の言うとおり、農園で働く美代子の姿でした。
夫と離婚した美代子は、日本へ帰る旅費を稼ぐため、昼はパイナップル農園、夜はバーで働いていたのです。
雄一は、美代子に声をかけずに、そのまま農園を後にします。
雄一は熟慮の末、美代子に日本行きのチケットを送ることを決意、次郎を通じて美代子にそれを渡すのでした。

さて、愛玲は賞品のチケットで東京〜香港の周遊旅行へ出かけることになり、ちょうど東京へ帰る雄一が、彼女のお目付け役を務めることになりました。
空港で沢山の人たちに見送られながら、愛玲と雄一は東京へと旅立ちますが、その2人に、遠くから1人そっと別れを告げる美代子の姿がありました。

東京では、雄一の両親と祖母(飯田蝶子)が空港まで迎えに来ていましたが、見慣れない若い女性を同伴している雄一に対して、祖母は疑惑の目を向けます。
愛玲の紹介もそこそこに、雄一は愛玲を馴染みの日本旅館へ連れて行き、女将(藤間紫)に面倒を見てくれるよう頼みます。

ようやく帰宅した雄一は、愛玲のことを根掘り葉掘り聞いてくる祖母に手を焼きながら夕食をとりますが、そこへ旅館の女将から電話がかかってきます。
女将は、愛玲が言葉は通じないわ、海老の躍りを食べたら口の中で海老が動いたので大騒ぎするわ、湯豆腐を食べて口の中をやけどするわで、とんでもない人を連れてきてくれたと、かんかんになって怒っています。
なんとか女将をなだめて愛玲に電話を替ってもらうと、日本語がわからない彼女は、「眠くてしようがないけれど、ここにはベッドもないし(和室ですからね・せんきち注)、どうすれば寝ることが出来るのか」と聞いてきました。
あきれた雄一は、「『眠い』と言え」と言って、電話を切ります。

翌日、家業の真珠店へ出勤した雄一の元へ、数寄屋橋の派出所から電話がかかってきます。
愛玲が一人で外出して、迷子になっていたのでした。
雄一は、あわてて愛玲を迎えに行き、自ら観光案内をしますが、愛玲はありきたりな観光名所を回るのはイヤだと駄々をこね、雄一を困らせます。
その頃、雄一と愛玲の仲を心配した祖母は、知り合いの興信所へ行き、探偵(三木のり平)に二人の尾行を依頼していました。(あらすじ続く)

(つづく)

先頭 表紙

ぷるぷる様:「ごはん」を「めし」と言い、「ともだち」を「こいびと」と言う、宝田式いんちき日本語講座が笑えますよん。 / せんきち ( 2003-07-24 20:46 )
tomhiko様:今回は、コメディーなんですよ。尤敏やりたい放題。 / せんきち ( 2003-07-24 20:44 )
旅館で大騒ぎする愛玲たん、カワイイでしょね。「『眠い』と言え」にわろたわ〜 / ぷるぷる@なるほど ( 2003-07-24 09:09 )
イマイチ謎な関係の二人に興信所が尾行。ハラハラしっぱなしっすよ、ユーミンたら。 / tomohiko ( 2003-07-24 00:54 )

2003-07-22 元祖ユーミン(18)


(前回の続き)

尤敏の帰国から1ヵ月後の6月30日、『ホノルル・東京・香港』が封切られました。
興行成績は、『東宝50年史』によると「大当り」とのことですが、藤本真澄の回想(『プロデューサー人生 藤本真澄 映画に賭ける』)では「併映作品(『若い仲間たち うちら祇園の舞妓はん』。ザ・ピーナッツ他出演・せんきち注)の関係もあってか、興行的には前二作ほど成功しなかった」とあり、どちらが本当のところなのか、判然としません(いずれ、具体的な興行収入を調べてみる予定です)。


では、いつものように、ストーリーを見ていきましょう。

舞台はハワイ・ホノルル。
ミス・ハワイの祝賀パーティーが、華々しく行なわれています。
しかし、肝心のミス・ハワイが会場にいません。

その頃、ミス・ハワイに選ばれた呉愛玲(尤敏)は、パーティー会場を抜け出して、一人ヨット・ハーバーに来ていました。
そこへやって来た大学のクラスメート・テル子(星由里子)に、愛玲は「自分は応募した覚えなどないのに、ミス・ハワイに選ばれた上に、水着姿でステージにまで立たされて恥をかいた」と訴えます。
テル子と話し合った結果、どうやら留学生でやはりクラスメートの岡本次郎(加山雄三)が勝手に応募したことが判明、愛玲は次郎への仕返しを計画します。

一方、次郎はホノルル空港へ、兄の岡本雄一(宝田明)を迎えに行っていました。
やって来た雄一に、次郎は、雄一の初恋の女性である桜井美代子(草笛光子)が、米軍兵士と結婚してホノルルに住んでいることを告げます。
雄一をホテルへ送る途中、クラスメートに会った次郎は、愛玲がミス・ハワイに選ばれたと知り、愛玲が仕返しを企んでいることなど何も知らずに、大喜びします。

仕返しを実行に移すべく、愛玲は、次郎やテル子たちを誘って、ヨットでセーリングに出かけますが、ヨットが沖へ出たところで、愛玲は次郎を海に突き落としてしまいます。
次郎は、岸辺まで自力で泳いでいくしかありませんでした。

愛玲が自宅へ戻ると、父(王引)と母(王莱)が、ミス・ハワイの賞品である「ハワイ−東京−香港」の周遊チケットを手に、愛玲の帰りを待っていました。
チケットを愛玲に渡した父母は、愛玲が自分たちの実の娘ではないこと、愛玲には実の妹の愛蘭がいて、香港で別の人に引き取られて幸せに暮らしていること、さらに、愛玲には実の親が生きている頃に決めた許婚がいて、今は香港に住んでいること、等を話します。
そして、このチケットで香港へ行き、実の親の墓参りをして、妹と許婚に再会するようにと告げるのでした。

日も沈みかけた頃、ようやく岸まで辿り着いた次郎は、雄一の泊まるホテルへ行き、服を着替えて、雄一と共に美代子が働いているバーへ行きます。
二人がバーで飲んでいると、美代子が現れて、雄一と再会します。

翌日、雄一は美代子の案内で、美代子の夫の墓を訪れます。
美代子の夫は、ベトナムで殉職していたのでした。

墓参りを済ませた二人が街を歩いていると、次郎と愛玲が車で通りかかります。
次郎は雄一と美代子に愛玲を、雄一は愛玲に美代子を紹介しますが、愛玲の姿を見た美代子は、逃げるようにその場を立ち去ってしまいます。
いぶかしがる雄一に、愛玲は、美代子はパイナップル農園で働いている人で、夫とは離婚したこと、元の夫は博打好きで酒びたりであることなどを告げますが、美代子が嘘をついているとは思えない雄一は、その話を頑として受け付けません。(あらすじ続く)

(つづく)

写真は、『ホノルル・東京・香港』の一場面。

先頭 表紙

どうでもいいけど、『うちら祇園の舞妓はん』(ザ・ピーナッツ)って、けっこうおもろい曲ですよ。アルバム『バカンスだよ ピーナッツ』に入っています。 / せんきち ( 2003-07-22 22:41 )

2003-07-21 元祖ユーミン(17)


(前回の続き)

思わぬ長逗留となったハワイロケもどうにか無事に終わり、暫しのインターバルの後、今度は東京での撮影が始まりました。

ところで、前回ちょいと書き忘れましたが、このハワイロケで尤敏は初めての水着姿を披露、さっそく芸能マスコミに大きく取り上げられています。

・・・・日本映画に登場して以来、一度も水着姿にならなかったが、『ホノルル・東京・香港』で、はじめて水着になった。地元の香港のスクリーンでも、まだ一度も水着姿を撮らせなかったのだが、「ハワイのムードに負けちゃった」のだそうだ。
 これまで、水着にならなかったのは、「近ごろはグラマーな人たちが多いでしょう。小柄なわたしはコンプレックスを感じちゃって・・・・」ということだそうである。
 そういう彼女、水泳は非常にうまく、水着の好みもなかなかうるさくて、アメリカ製の黄色い水玉模様を選び出し、やっと撮影をOKしたしだい。(以下略)
(『週刊平凡』 1963年5月9日号)

今回の東京滞在中、尤敏は日本のマスコミに対し、後に夫となる高福球氏(日本の報道ではエリック・コー氏。建築家。香港・マカオの富豪である高家の御曹司)との交際を認め、仕事と結婚の狭間で揺れる女心を告白しています。

 婚約してます!−尤敏−
「私 とても悩んでいます 結婚すれば映画界から引退しなきゃならないし まだまだお仕事をたくさんやりたいし・・・・」
どちらを選ぶか迷っていると胸のうちを語る尤敏−しかしこれこそ嬉しい悩みというべきで 彼女の表情には喜こび(ママ)が満ちあふれていた
「ボーイフレンドは数人 だが彼とはここ二年 結婚を前提にした交際をしています」
その名は建築家のエリック・コー氏−家族同士の付きあいで幼なじみだそうだ
尤敏は いま『ホノルル・東京・香港』の撮影で東京に滞在中だが 月末(5月末・せんきち注)に帰国してから正式に婚約するものとみられている
(『週刊平凡』 1963年5月23日号)

これをうけて、日本のマスコミの間では、尤敏の結婚・引退説がにわかに現実味を帯び始めました。

5月30日、東京での撮影を終え、尤敏は香港に帰りますが、その際の報道には、

 引退?サヨナラ尤敏
三十日の午後 羽田発のPAA機で香港女優尤敏が帰国した−東宝『ホノルル・東京・香港』の出演を終え約二か月ぶりでフィアンセのエリック・コー氏のもとへ帰れるというので彼女は喜色満面 いそいそとタラップを馳け(ママ)のぼって行った 帰国後 正式に婚約発表 引退するものとみられている尤敏について 羽田へ彼女を送った東宝・藤本専務は「この夏『再会』を撮ることになっているが すべては彼女次第−十八日に私も香港に飛び キャセイ関係者や尤敏自身と話し合うつもり」と語っていた
(『週刊平凡』 1963年6月13日号)

とあり、次回作『再会』(後述)に尤敏がはたして出演するか否かに、注目が集まっています。


(つづく)

先頭 表紙

ぷるぷる様:続きをお楽しみに〜! / せんきち ( 2003-07-22 20:54 )
このまま引退するの〜?もったいない!どうなるん〜?? / ぷるぷる@水着おされ! ( 2003-07-22 12:49 )

2003-07-20 今日もおまけ


昨日、2本の香港オールド・ムービー(北京語映画。中国語では、「国語片」といいます)のご紹介をしましたが、そんなことが出来るようになったのも、今年に入ってから、邵氏(ショウ・ブラザーズ)と電懋(後に国泰。キャセイ・オーガニゼーション)の名作群が、次々とDVD(ないしはVCD。DVDだと、リージョンコードの関係で日本では再生できないバージョンがあったりするのよ)化されているからで、全く便利な時代になったものだと思います。

そもそも、わたくしが香港オールド・ムービーに興味を持つことになったきっかけは、「国語時代曲」という、香港(古くは上海)の懐メロのCDを聴きはじめたことにありました。
中でも、葛蘭(グレース・チャン)の明るく朗らかな歌声に、わたくしは強く惹かれたのですが、そのほとんどが映画の中で歌われた曲であったことを解説を読んで知り、なんとかしてその映画を観られないものか、と思い始めるようになりました。
しかし、当時は映画そのものを観ることはおろか、映画に関する詳しい情報も日本語ではほとんど読めない(つまり、日本語の詳しい情報がほとんどない)状態でした。

そうこうするうち、香港国際映画祭でこういったオールド・ムービーを上映することが多い、という知識を得ましたが、一般の映画ファンにとって、いちいち映画祭の時期に香港へ行くということは、時間と予算の都合を考えると実現困難なことでした。
そんなわけで、CDを繰り返し聴いたり、本に載っている数葉のスチール写真を眺めては、憧れを募らせるという時期がしばらくは続きました。

幸い、昨年11月に東京国際映画祭で邵氏の、国際交流基金のイベント(香港映画の黄金時代)で電懋の作品がそれぞれ取り上げられて、ようやく幾つかの作品を観ることができましたが、その作品の選定には大いに不満が残りました。
なぜかと言えば、ファンならば誰もが知っている伝説の名作が、ちっとも取り上げられていなかったからです。
邵氏の特集なのに黄梅調(『梁山伯與祝英台』や『江山美人』)や林黛(1934〜64)の作品を上映しない、電懋の特集なのに『曼波女郎』や『野玫瑰之戀』、『星星 月亮 太陽』を上映しないといった按配で、直球勝負をすべき時にナックルやパームボール、シンカーを投げているような、そんな物足りなさが残るものでした。

年が明けて、冒頭で述べたように、邵氏、電懋双方の作品がDVD(VCD)化されて、自宅で気軽に作品鑑賞ができるようになりましたが、やはり、ファンとしては大きなスクリーンでこれらの名作を鑑賞したいものです。

企画に関わる皆さま、今度やる時はぜひ名作を上映してくださいね。

先頭 表紙

ぷるぷる様:国際交流基金の企画なんか、奇を衒いすぎですよ。しかも、『情場如戦場』なんて、広東語吹替だったし。国語だと思ってみていたら、いきなり「家姐(がーじぇ)」とか言いだすから、びっくらこきました。 / せんきち ( 2003-07-21 21:06 )
わかる、わかるわ〜! / ぷるぷる@思わずBタグ。 ( 2003-07-20 23:12 )
写真は、『玉女私情』の尤敏。 / せんきち ( 2003-07-20 22:54 )

2003-07-20 元祖ユーミン(16)


(前回の続き)

1963年、尤敏と宝田明共演による3作目の映画『ホノルル・東京・香港』の製作が始まりました。監督は前2作と同じく千葉泰樹、脚本は松山善三。
本作品の企画自体は、前作『香港の星』の製作中に既に決定していたもので、『週刊平凡』1962年5月17日号には、

 尤敏の次回作はやくも決定
『社長洋行記』『香港の星』に、女優になって初めての”かけ持ち”出演し、日本でもすっかり人気女優になった尤敏の次回作が早くも決定した。
東宝藤本(真澄)常務が、”尤敏映画の決定版はこれだ”といっている『香港・東京・ハワイ』(原文ママ)がそれ。
青い海をバックにワイキキの浜辺で、ハワイアンメロディーにのった尤敏のフラ・ダンスをいっぱいにとらえ、尤敏の新しい魅力をだそうとねらっている。

との、報道が見えます。

撮影は、2月の香港ロケに始まり、3月のハワイロケ、その後に東京でスタジオ撮影とロケを行なうというスケジュールでしたが、ハワイロケの経費を節約するためパン・アメリカン航空とタイアップ、『社長外遊記』(3月4日〜10日)『ハワイの若大将』(3月11日〜17日)『ホノルル・東京・香港』(3月18日〜27、28日頃)のロケを連続して行い、『ハワイの若大将』のスタッフ(監督、助監督以外)が、そのまま『ホノルル・東京・香港』のスタッフとして居残るという方法がとられました。
さらに、スタッフばかりか『ハワイの若大将』の主役2人(加山雄三、星由里子)も、それぞれ宝田明の弟役と尤敏のクラスメート役に駆り出されています。

東宝は、この連続ロケにより約1万ドル(当時のレート〔固定相場制。1ドル=360円〕で計算してください・せんきち注)の経費が節約されると見積もっていましたが、そううまい具合にはいかないのが現実というもの、その年の1月から3月、ハワイには例年の1年分の雨量を記録するほどの雨が降り、ロケ隊は長逗留を余儀なくされます。

『読売新聞』の現地取材記事(「東宝 ハワイの長期ロケ隊」 1963年4月8日付け夕刊)には、

『ホノルル・東京・香港』(千葉泰樹監督)の一行も長とうりゅうのため、ハワイアン・ビレージ・ホテルで観光客と友だちになり、つめかけるファンと日米交流だ。(略)ハワイ大学にロケしたとき、休憩時間に学生たちが俳優にサインをしてもらっていたが、ほとんどすべてが教科書の表紙のうらにサインをしろというので、日本の俳優たちはふしぎそうな顔。中国人系留学生は尤敏に、日系人は加山、宝田明、草笛光子に、白人系は両方にサインを頼み、フィリピン人などの東南アジア系は、サインを頼まないという光景がいかにもハワイ的だ。(以下略)

と、ロケ中の様子が紹介されています。

(つづく)


付記:ちなみに、藤本真澄はこれら3本のロケを立て続けに行なったことで、ハワイの観光宣伝に貢献したと認められ、ハワイ州議会に表彰されたそうです。

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