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せんきちの「日々是口実」


24時間、現実逃避!

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目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2003-07-14 かぜ
2003-07-13 元祖ユーミン(10)
2003-07-12 元祖ユーミン(9)
2003-07-11 元祖ユーミン(8)
2003-07-10 元祖ユーミン(7)
2003-07-09 元祖ユーミン(6)
2003-07-08 元祖ユーミン(5)
2003-07-07 元祖ユーミン(4)
2003-07-06 元祖ユーミン(3)
2003-07-05 元祖ユーミン(2)


2003-07-14 かぜ







かぜ、引きました。
更新はお休みです。
皆さま、おだいじに。

先頭 表紙

シャルウィダンス??様:だいぶよくなりました。んー、薬下さい。 / せんきち ( 2003-07-19 19:31 )
で。風邪の具合はどう??ハイテンションの止まらない私に出来ることある??? / しゃるうぃだんす?? ( 2003-07-19 03:22 )
皆さま:抗生物質を飲んだおかげで、だいぶよくなりました。ご心配をおかけして申し訳ございません。 / せんきち ( 2003-07-15 21:09 )
あら、たいへん。長引かないようにお大事にね。どうぞごゆっくり〜。 / ぷるぷる ( 2003-07-15 20:49 )
ご無理なさいませんよう、どうかお大事に・・・ / めらこ ( 2003-07-15 02:03 )
気温差が激しくて体調崩しがちですよね。ゆっくり休んで治して下さいね。どうぞお大事に。 / aika ( 2003-07-15 01:50 )
お大事に。お忙しいでしょうけど、ゆっくり休んでください。 / tomohiko ( 2003-07-14 21:57 )

2003-07-13 元祖ユーミン(10)


(前回の続き)

(あらすじ続き)夜も更ける頃、本田が突然身体の不調を覚えて医者に診てもらいますが、鍋料理の店で食べた蛇のせいで奇病にかかったことがわかり、帰国を余儀なくされます。
翌日、本田が帰国するため空港に来た3人は、ライバルの「ツバキパスタ」の社長が香港にやってくるのを目撃します。
本田は、「アイシャルリターン」と勇ましい言葉を残し、日本へ帰っていきますが、残された南と東海林は2人だけで頑張ることを決意、空港を後にします。

と、ここまでが正編のあらすじ。
「これから何かが起こるぞ!」とさんざん期待させておいて、あっさり「続編をお楽しみに」と終わってしまうあたり、なかなか計算高い作りの映画です。

ところで、わたくし、実は続編をまだ観ていません。あちこちのレンタルビデオ店で探したのですが、どこにも置いていないのです。
「キネマ倶楽部」という大手映画会社が出資して作った会社がビデオ化したのですが、キネマ倶楽部自体が昨年解散してしまったそうです(ガーン!)。
というわけで、続編のあらすじは、当時の『キネマ旬報』(1962年7月下旬号)に載った紹介記事を元にまとめていきます。あしからず、ご了承下さい。


本田(森繁久彌)が帰国した後、香港に残った南(小林桂樹)と東海林(加藤大介)は売り込みに励みますが、仕事は一向に進みません。業を煮やした本田は、再び香港へ行く決意を固めます。

香港へ着いた本田は、マダム(新珠三千代)のいる東京亭へ行きますが、そこで2人と鉢合わせします。
東海林は、坂田(フランキー堺)が紹介したある商事会社との商談をまとめようと、てんてこ舞いの最中。
南は南で、柳(洪洋)の誕生祝いのため、秀敏(尤敏)とここへ来ていたのでした。

思わぬところで仕事に巻き込まれたせいで、マダムは怒って帰ってしまい、おまけに坂田がいんちきなタカリ屋とわかって、浮気も仕事も暗礁に乗り上げます。
しかし、秀敏が自分の勤める会社(美麗公司)に話をしてくれたおかげで、商談のチャンスがめぐってきます。
美麗公司の宗社長は、東京で桜堂製薬の経営状況を調査の上、正式に代理店契約を結ぶことを約束してくれました。


ぶじ仕事を終えた3人が帰国すると、彼らが香港芸者と浮気をしていたというデマが流れていました。
香港へ行けなかった営業部長の中山(三木のり平)が流したデマでしたが、そのために、本田は妻(久慈あさみ)から、東海林はママ(草笛光子)から、南は職場のガールフレンド・敬子(藤山陽子)からさんざんにやっつけられます。

香港から桜堂製薬のこれまでの実績と経営状況を調査するため、まず秀敏が来日、続いて宗社長も来日します。
調査の結果、両社の提携が決まり、記念パーティーが開かれました。
その席上、南は秀敏にプロポーズをしようと思いますが、秀敏は婚約者(三船敏郎)を連れて登場、南の恋は失恋に終わるのでした。

(あらすじ終わり)

続編を観ていないため、3人がそれぞれに出会った香港女性が、同一人物(秀敏)であったことにいつ気づくのかがよくわかりません。
正編のビデオの最後に入っていた続編の予告編には、本田と東海林が正式に秀敏を紹介される場面で、秀敏が「本田(ほんだ)」を「混蛋(ふんたん。馬鹿の意)」と聞き間違えて笑い出すという件がありました。
早いとこ、観てみたいものです。

(つづく)


写真は、『社長洋行記』の一場面。

先頭 表紙

2003-07-12 元祖ユーミン(9)


(前回の続き)
前回も述べた通り、『社長洋行記』と『続社長洋行記』は、1962年4月29日と6月1日にそれぞれ公開されました。
どちらも監督は杉江敏男、脚本は『香港の星』と同じ笠原良三が担当しています。

では、ストーリーを見ていきましょう。

桜堂製薬の貼り薬「サクランパス」は、国内では圧倒的なシェアを誇っていますが、東南アジア方面ではなぜか売り上げが振るいません。
そこで、社長の本田(森繁久彌)は、東南アジアへの販売を担当する商社の加藤(東野英治郎)を招いて接待ゴルフを行い、テコ入れを図ろうとしますが、当日、娘のめぐみが恋人の三条河原と朝帰りをしたので家の中はてんやわんや。
おまけに、めぐみの妊娠が発覚したため、狼狽した本田は接待ゴルフをキャンセルしてしまいます。

後日、改めて加藤を招き、中華レストラン・香港亭で接待を行ないますが、ゴルフがキャンセルになったことを根に持つ加藤は本田をさんざんに罵倒、頭にきた本田は自ら香港へ乗り込んで売り込みを図ることを宣言します。
香港へは、本田の他に秘書課長の南(小林桂樹)、営業課長の中山(三木のり平)が同行することになりますが、営業部長の東海林(加藤大介)の馴染みの店のママ(草笛光子)の弟が香港にいることがわかり、急遽中山に代わって東海林が同行することに決まりました。

出発前日、めぐみの結婚式をあわただしく済ませ、3人は香港へと向かいますが、機内でぐうぜん香港亭のマダム(新珠三千代)と乗り合わせます。マダムは、香港で東京亭という日本料理店を経営していたのでした。
マダムとすっかり打ち解けた本田は、香港に着いたら改めて連絡することを約束します。

香港到着後、あやしい日本人・本田(フランキー堺)の出迎えを受けた3人でしたが、どうにかホテルに落ち着いて、その日は終日自由行動ということになりました。

英語が少しできる南は、ガイドブック片手に市内観光に出かけますが、そこで大学時代の後輩・柳宗之(洪洋)と再会します。
柳は、日本に留学後、故郷の香港に帰って日本語教師をしていました。
柳に香港を案内して貰うことにした南は、柳から妹・秀敏(尤敏)を紹介されます。
英語が堪能で車の運転が上手、しかもとびきりの美人である秀敏に、南はたちまちのぼせ上がってしまいます。

一方、本田はさっそくマダムに電話を入れ、デートの約束を取り付けます。
しかし、東京亭の場所がよくわからないので、偶然通りかかった香港女性に覚えたての中国語で道を尋ねると、女性は親切に東京亭のあるビルまで本田を送ってくれました。
女性の美しさに鼻の下を長くする本田でしたが、その女性は、南がのぼせ上がった秀敏その人でした。
マダムとの浮気を夢見る本田は、それとなくマダムに迫るものの、うまくかわされてしまいます。

夕食時、鍋料理の店で南と柳、本田とマダムがばったり出会い、4人でテーブルを囲みますが、その頃、東海林は頼まれたお土産を買うために奔走していました。
時計店で言葉が通じずに困っていると、通りがかりの香港女性が日本語で助け舟を出してくれ、代わりに買い物をしてくれました。
やさしくて美しいその女性に、東海林はほれ込みますが、実はその女性も秀敏なのでした。

ホテルへ戻った3人は、それぞれがそれぞれに、この日出会った美しい香港女性のことを自慢しあいます。もちろん、その女性が同一人物であることなど、彼らは知る由もありません。

(あらすじ続く)
(つづく)

先頭 表紙

おにぎり様:今度ぜひ、もてる女の秘訣をお聞かせ下さい。 / せんきち ( 2003-07-13 21:59 )
めらこ様:わくわくさせておいて、けっこう肩透かしな映画でした。。。。 / せんきち ( 2003-07-13 21:58 )
ナル様:ぜひご覧下さいまし。アホみたいな映画ですが、尤敏はとってもきれいです。 / せんきち ( 2003-07-13 21:57 )
私の事をめぐって、男達は大変なことになる!? / おにぎり ( 2003-07-13 19:12 )
ぉぉ!どうなるのだろう・・ワクワクしてきたぞぅ〜! / めらこ ( 2003-07-13 17:08 )
あらすじを見た限り、、、『マーサ・ミーツ・ボーイ』の香港&日本版ってトコロでしょうか。面白そうですね!早速、探してみます!!!(*^∇^*) / ナルでしぃ〜。 ( 2003-07-13 02:46 )

2003-07-11 元祖ユーミン(8)


(前回の続き)

1962年2月22日、尤敏は新作『香港の星』製作のために来日、雪の北海道ロケに参加します。
生まれて初めて間近に見る雪に、「(雪が)こんなにやわらかくてきれいなものだとは思わなかった。香港へ持って帰りたい」(3月7日付『朝日新聞』夕刊)と大喜びしたそうですが、実はこの時期、彼女は香港である訴訟に巻き込まれていました。
それは、金銭にまつわるトラブルで、尤敏と母親が訴えられたというものでした。
最終的に、「尤敏は無罪」という判決が4月に出るのですが、そんな精神的にも過酷な時期に見た北海道の美しい雪景色は、彼女の心を大いに慰めたに違いありません。


3月末、『香港の星』は香港ロケに入り、同時進行で、森繁久彌主演の人気シリーズ『社長洋行記』『続社長洋行記』、電懋の映画『珍珠涙』にも出演と、大忙しの状態が続きます。
『香港の星』はシンガポール、マレーシアでの撮影も行い、4月下旬、日本での撮影に入りました(このときも、『続社長洋行記』の撮影〔箱根ロケ等〕が、同時進行で行なわれたようです)。
日本に滞在中、尤敏はマスコミの取材などに対応する他、5月には日本語の歌『香港の花』(岩谷時子作詞、松井八郎作曲)のレコーディングを行なっています。
この曲、宝田明が歌う『香港のひとつ星』をB面に、堂々のA面としてコロムビア・レコードから発売、テレビにも出演してその歌声を披露した模様です(聴いてみたい・・・・)。

6月10日、撮影を終えた尤敏は香港へ帰っていきましたが、この間、4月29日には『社長洋行記』、6月1日には『続社長洋行記』が封切られています。

(つづく)


付記:写真は、秋山庄太郎撮影による尤敏。
尤敏は、邵氏にいた頃はかなり歌っているのですが、電懋に移ってからはほとんど歌っていないようです。
そういった意味でも、このレコード(『香港の花』)はかなりのお宝と言えそうです。
ちなみに、『香港の夜』『香港の星』の劇中でも歌っていますが、どちらも北京語の歌詞で、日本語ではありません。
わたくしの手元には、『捉迷蔵(かくれんぼ)』という、スウェーデン民謡をアレンジした曲を歌っているCDがありますが、かなりビミョーな歌です。
『香港映画スター '40〜'60』(1998年、平凡社)には、はっきりと「歌は得意ではないものの美人で演技力もある尤敏や樂蒂」と書かれてしまっています。
でも、劇中歌はなかなかいいですよ、伸びやかな歌声で。

先頭 表紙

ぷるぷる様:ぜひご覧になってみてください。でも、わたくし、まだ続編は未見です。どこのレンタルビデオ屋に行ってもないのです。でも、何とかして観ます!!! / せんきち ( 2003-07-12 19:35 )
えっ、社長シリーズに出ているの?けっこう観てるんですよ、好きで。でもこれは未見やわ。。 / ぷる@なにやらアンハッピーの予感? ( 2003-07-12 16:36 )

2003-07-10 元祖ユーミン(7)


(前回の続き)

尤敏の人気沸騰ぶりを見て、他の映画会社が黙っているはずはありません。
大映は、尤敏引き抜き工作を開始、自社作品に出演しているフィリピン女優チェリト・ソリスと共演させようとしました。
そうはならじと焦った東宝は急遽次回作を決定、その名も『香港の星』の製作を発表し、結局、大映は引き抜きを断念します。
一方、東映は電懋のライバル会社であるショウ・ブラザーズ(邵氏兄弟)との合作を計画、邵氏の人気女優だった樂蒂(1937〜68。31歳の若さで自死した美人女優)をヒロインに起用して、『香港旅情』の製作を発表します(共演は高倉健、三田佳子、陳厚〔1929〜70〕)。
この『香港旅情』、1962年2月に東映本社で樂蒂、陳厚(二人は当時新婚で、箱根に新婚旅行に来ていました。しかし、後に離婚してしまいます)、高倉、三田出席のもとで製作発表記者会見が行なわれましたが、その後に樂蒂のオメデタが発覚、ついに製作されないまま終わってしまいました(この件に関しては、いずれまた稿を改めて執筆します)。
また、『香港の夜』がハワイやロサンゼルスでもヒットしたことを受けて、アメリカのユニバーサルは、東京支社を通じて尤敏に契約を申し出ますが、彼女はこれを断っています。


人気女優となった尤敏は、日本のマスコミによるゴシップ報道の洗礼も受けました。

まず、『香港の夜』撮影時から流されたのが、共演の宝田明とのロマンス(死語)。この報道はいったん収束した後、62年の『香港の星』撮影時に再燃します。

次に出たのが、彼女を日本に連れてきた藤本真澄とのロマンス。
これは、尤敏が記者会見の席上、「私を香港の真珠と言うけれども、ミキモト・パールではなく、フジモト・パールです」と言った、そのウィットに富んだ発言が、妙な憶測を生むことになったようです。
その後、尤敏自身が「藤本さんは私のパパ(変な意味のパパではありません・せんきち注)です。私の恋人は若い人がいい」と弁明、一件落着しました。

さらに、尤敏は独身ではなく、香港の男優・雷震(1933〜。最近では『花様年華』に出演しています)と結婚しているという怪情報が流れたこともありました。
もちろん、これは根も葉もないデマなのですが、お相手とされた雷震が樂蒂の兄であったことから、(樂蒂を合作映画に起用する)東映側が故意に噂を流したのではないかという、思わぬ波紋が広がりました。


『香港の夜』が製作されたのと同じ1961年、尤敏は彼女の生涯の代表作である『星星・月亮・太陽』に出演、翌62年、第1回台湾金馬奨(台湾のアカデミー賞)主演女優賞を受賞しました。
彼女は、女優として、その最盛期を迎えていました。


付記:写真は、『星星・月亮・太陽』の尤敏。
大映の引き抜き工作に関しては、田宮二郎と共演させようとした、あるいは大映と電懋が合作映画を製作、そこに尤敏を出演させようとしたという報道もあります。
ついでに言うと、『香港の夜』の大ヒットを受けて、東宝は菊田一夫作・演出の東宝ミュージカル『香港』に尤敏と同じ電懋所属の女優・李〔氵眉〕(1929〜1994)を起用、市川団子(現在の猿之助)、浜木綿子等と共演させています(1961年9月)。
映画だけでなく、舞台での合作も存在しました。

先頭 表紙

jing様:その通りでございます。儚く短いからこそ、美しいのであります。 / せんきち ( 2003-07-12 19:28 )
そうですね。そして儚いからこそ美しいのかもしれませんね。 / jing ( 2003-07-12 01:37 )
jing様:花の命ははかないものです。。。。 / せんきち ( 2003-07-11 01:07 )
これが最盛期・・・ということはこの後どうなってしまうのでしょうか? / jing@思う壺にはまってる読者その1 ( 2003-07-11 00:35 )

2003-07-09 元祖ユーミン(6)


(前回の続き)

(あらすじの続き)帰国した田中は、麗紅の母探しを始めますが、なかなか見つかりません。しかし、兄の旅館の泊り客が忘れていった写真が、田中に託された写真と同じであったことから、麗紅の母・好子(小暮実千代)が柳川にいることが判明します。
柳川を訪ねた田中は、好子に麗紅と会ってくれるよう頼み、好子の再婚相手(加東大介)もぜひ会った方がよいと快諾、母子は東京で再会します。
その後、麗紅は好子に引き取られて柳川へ行くものの、周囲の人々が寄せる好奇と差別のまなざしに耐え切れず、香港へ帰ってしまいます。

その頃、田中はラオスで起こった動乱を取材するため、現地への派遣を命ぜられていました。
ラオスへ行く前に香港へ立ち寄った田中は、麗紅に再びプロポーズをします。田中の愛を受け入れる決心をした麗紅はこれを承諾、田中はラオスに向かいますが、結婚を目前に控えたある日、麗紅の許にある知らせが届きます。それは、田中がラオスで殉職したという知らせでした。
やはり悲しみを抱きながら香港へやって来た恵子と二人、麗紅は愛する田中の面影をいつまでもいつまでも偲ぶのでした・・・・(あらすじおわり)

通信社の特派員とハーフの女性の悲恋という設定や、サンパンでのクルーズ、丘の上で愛を確かめ合う場面、恵子と父が宿泊しているホテルがレパルスベイホテルである点等々、『慕情』そのままなのですが、そんなことを少しも感じさせない上質の作品に仕上がっています。
尤敏のどこかはかなげな風情が、複雑な生い立ちを持つ麗紅の役にぴったりとマッチして、母子が再会するシーンでは思わずほろりとさせられてしまいました。
当時、東宝の若手看板女優だった司葉子も、この映画では脇に回って尤敏を引き立てています。

映画評も、

・・・・記者と混血娘との悲恋模様を型通りの通俗さで描いたものだが、話を香港と日本に結んで、その風景を美しく描いており、中国語や英語もたくみにとり入れるなど、メロドラマのスケールを大きくした点で、なかなか新鮮な感じを与える。麗紅に扮する尤敏もメロドラマ女優のふんいきをもっており、混血娘らしいさびしさを演じて悪くない。(以下略)(『朝日新聞』)

・・・・メロドラマとしても合作映画としてもなかなかうまくできている。(略)香港女優ユーミンは、清潔な感じで美しく、彼女の起用はたしかにこの作品の成功のかなめとなっている。(以下略)(『読売新聞』)

と、尤敏の演技を高く評価しています。


ちなみに、麗紅の親代わりである張千里を演じた王引(1911〜88)は、かつて上海で活躍していた俳優兼映画監督で、1943年の『萬世流芳』では李香蘭(山口淑子)と共演、監督(卜萬蒼)の上海訛りのひどい中国語が聞き取れずに苦労している彼女を、王引が助けてくれたというエピソードが残されています。
後に、山口淑子はこのときのことを、「王引は私を日本人と知っていたのだ。とっさの機転で救ってくれたのだ」(『李香蘭 私の半生』)と述懐しています。

『香港の夜』が大ヒットし、自身の演技に関しても高い評価を得た尤敏は、日本でも人気女優の座を射止めたのでした。

(つづく)

付記:写真は、『香港の夜』の一場面。
この映画、長らくフィルムが不在だったそうで、昨年、国際交流基金の企画「香港映画の黄金時代」で上映するために東宝の倉庫を捜索して、ようやく発見したとのことです。わたくしも、そのおりに初めて観ましたが、かなり劣化が進んでいました。
ぜひデジタル処理をして、DVDで発売して欲しいものです。

先頭 表紙

ぷるぷる様:実は、4月にCSの日本映画専門チャンネルで放映されました。そのために加入しようかと思っていたら、知人がビデオに録ってくれたので、それで再び見ることが出来ました。 / せんきち ( 2003-07-10 20:28 )
tomohiko様:当時はまだ日本が軍政を敷いていた頃の記憶が生々しく残っていましたから、すんなりハッピーエンドとはいかなかったようです。 / せんきち ( 2003-07-10 20:26 )
おお〜w(゜o゜)w あらすじおつかれサマでした。ハッピーエンドではないだろう、と予測はしていましたが切ないですねぇ。。。 フィルムがあるのに観れないとは、ほんとにもったいない話です。 / ぷるぷる ( 2003-07-10 01:59 )
ハラハラしながら読みましたがラストシーンはちょっと切ないですね。それにしても朝日新聞が「混血」なんて書く時代があったとわ…。 / tomohiko ( 2003-07-10 00:20 )

2003-07-08 元祖ユーミン(5)


(前回の続き)

ここで、『香港の夜』の内容について、詳しく見ていきたいと思います。

通信社の海外特派員である田中(宝田明)は、日本への帰途、香港に立ち寄ります。
飛行機のチケットの関係で48時間のみの滞在しか許されない身、限られた時間を最大限に利用して香港を楽しもうと、支局の同僚(藤木悠)の案内で、あちこち見て回りますが、夜間立ち寄ったナイトクラブで長旅の疲れが出て倒れてしまいます。

ナイトクラブのホステスで日本語が堪能な謝玉蘭(草笛光子)は、自分が住むアパートの部屋の隣人が医者だから診てもらったらいいと言って、田中を半ば強引に自分の部屋に連れて行きます。
実は、玉蘭の隣人は医者などではなく、漢方薬店に勤める呉麗紅(尤敏)という女性だったのですが、なぜか日本語が出来る麗紅は田中のために薬を調合して、一晩中彼を看病します。

翌朝、すっかり具合のよくなった田中は、同僚、玉蘭、そして麗紅も誘って4人で市内観光に出かけますが、そこで玉蘭がかつて日本人と結婚していたことや、麗紅の母が日本人で、戦乱が激しくなったため一人日本へ帰ってしまい、父も戦後間もなく亡くなって苦労して育ったことなどを知ります。
その夜、田中は麗紅へのお礼のしるしに、彼女を食事に誘います。田中は美しく聡明な麗紅に心惹かれますが、なにぶん限られた滞在時間のこと、後ろ髪を引かれつつ日本へ帰国します。

日本では、田中を慕う木村恵子(司葉子)が空港に出迎えに来ていました。恵子の車(オープンカー。なぜかいつもオープンカー。雨が降ったらどうするんだ?)で通信社まで送ってもらう田中でしたが、彼の心の中からは麗紅の面影が消えることはありませんでした。

帰国報告のための帰省休暇を貰った田中は、雲仙温泉で旅館を営む兄に会うために故郷へ帰ります。
が、そこへ通信社から緊急の呼び出し電報が届き、田中は急ぎ東京へ戻ります。
東京へ戻った田中を待っていたのは、香港支局の同僚(藤木)が自動車事故で入院したため香港へ行ってほしい、との知らせでした。

香港へ渡った田中は、同僚の事故の相手が麗紅の勤務先である漢方薬店の車だったことを知り、見舞いに来た麗紅と再会します。
今回の事故のお詫びにと漢方薬店の主人が田中と支局長を食事に招いてくれますが、その席上で、主人が若主人の妻に麗紅を迎えたいと表明、悩み苦しんだ麗紅は、店を辞めてそのまま姿を消してしまいます。

田中は玉蘭から麗紅がマカオにいることを聞き、マカオの麗紅を尋ねます。彼女は、父の親友で親代わりの張千里(王引)の許に身を寄せていました。
田中は麗紅に愛を告白しますが、彼女は心ならずもそれを拒みます。

傷心のまま香港へ戻った田中の許へ、恵子とその父(上原謙)が訪ねてきます。田中は恵子に「香港に好きな女性がいる」と告白、観光のため立ち寄ったマカオで偶然麗紅に逢った恵子は、麗紅が田中の意中の女性であることを知ります。

同僚の怪我も癒えて日本へ帰ることになった田中は、再び麗紅の許を訪れ、帰国する旨を伝えます。すると張は、ひそかに麗紅の母の写真を田中に託し、母親を探してくれるよう依頼します。(あらすじつづく)

(つづく)


写真は、『香港の夜』の一場面。

先頭 表紙

ぷるぷる様:『香港の夜』も次の『香港の星』も偶然に会いまくり映画です。しかも、宝田仕事放り出して尤敏追い回してるし。 / せんきち ( 2003-07-09 22:19 )
jing様:ありがとうございます。『香港の夜』、残念ながらビデオにもDVDにもなっておりません。版権を東宝が持っているので、香港でDVD化される可能性も低いと思います。ちなみに、これ、長らくフィルムが行方不明になっていました。去年の暮れ、東宝の倉庫で見つかったそうです。  / せんきち ( 2003-07-09 22:18 )
昔の映画って偶然であったヒトが実は…というのが多いですね。逆に偶然すれ違いまくるっていうのもアリ。  / ぷる@死神博士の若いときってどんなだろ? ( 2003-07-09 11:06 )
連載楽しみにしております。ちなみにこの作品って何か(DVD・VCDなど)で見ることできますか? / jing ( 2003-07-09 02:15 )
この映画、司葉子の妹が浜美枝だったり、宝田明の兄嫁が塩沢ときだったりと、いろいろ見所満載です。天本英世の名前も出てくるんだけど、どの役なんだかわからないのよ。よく捜してみよう。 / せんきち ( 2003-07-09 00:20 )

2003-07-07 元祖ユーミン(4)


(前回の続き)

5月12日、日本での撮影も終了して、いったん香港へ帰国した尤敏は、6月28日、7月1日から3日までの特別ロードショー(於:日比谷スカラ座)で舞台挨拶をするために再来日しました。

1日当日には、スカラ座入口に東宝の社長以下全重役、そして千葉監督もタキシード姿で居並び、夜に入ると撮影所から派遣された照明技師がライティングを担当するという徹底ぶりでしたが、スカラ座には、尤敏を一目見ようというファンが2万人も押し寄せる大盛況となりました。
当初、特別ロードショーが終了次第帰国する予定だった尤敏も、8日の一般封切の様子を見るために、急遽帰国を10日まで引き延ばすことにしました。

一般封切を前に、宣伝にもより一層の力が入り、日劇には『香港の夜』の大看板が掲げられ、尤敏が主題歌を歌ったソノシート付きの暑中見舞絵葉書や尤敏ネグリジェ(映画の中で着ていたものと同じデザインのネグリジェのことでしょうか・せんきち注)、中国風うちわ、尤敏の写真入便箋、お盆提灯(関係あるのか?・せんきち注)等の関連グッズが、大量に出回りました。

封切までの間、尤敏も積極的に宣伝に協力、大阪の阪急百貨店でサイン会をした際には、「群集に取りかこまれ、地下室から脱出するほどであった」そうです。
また、大阪球場で行なわれていた映画人野球大会にも、東宝マークが入った野球帽をかぶって登場、マウンド上から挨拶を行ないました。

そして7月8日、いよいよ一般封切日を迎えますが、『週刊漫画サンデー』1961年8月12日号(「お盆映画を一人でさらったユー・ミン この香港女優の魅力のすべて」)に掲載された浅草(時代を感じます)の映画館の初日観客動員数データによれば、

東宝『香港の夜』『大学の若大将』2本立:2250人(浅草宝塚)
ニュー東映『続次郎長社長と石松社員』『金も命もいらないぜ』2本立:1010人(浅草千代田館)
大映『女の勲章』『怪談蚊喰鳥』2本立:780人(電気館)
日活『海の勝負師』『いのちの朝』2本立:670人(浅草日活)
東映『東海の若親分』『怪談お岩の亡霊』2本立:630人(浅草東映)
松竹『あの波の果てまで・続編』『秀才はんと鈍才どん』2本立:470人(浅草松竹)

と、ダントツの1位を記録しています。

『香港の夜』は、最終的に国内で興行収入約5億円を記録する大ヒット映画になり、合作相手の電懋も、香港・台湾・東南アジアでの上映で30万米ドル以上の配給収入を得ました。


(つづく)

先頭 表紙

写真、当時のポスターに差し替えました。 / せんきち ( 2003-07-12 22:53 )
fuku様:あやしい町金融かも。取り立て厳しそう。。。。 / せんきち ( 2003-07-08 00:34 )
『続次郎長社長と石松社員』もなかなかのものですね・・。いやだそんな社長と社員・・・。 / fuku ( 2003-07-08 00:22 )
それにしても、『金も命もいらないぜ』なんて、やけくそですね。『怪談蚊喰鳥』も気味悪いな。。。。 / せんきち ( 2003-07-08 00:04 )
写真は、当時の新聞広告(朝日新聞)。文中の引用(「」部分)は、『プロデューサー人生 藤本真澄映画に賭ける』(1981年、東宝株式会社出版事業局)からの文章です。 / せんきち ( 2003-07-07 23:58 )

2003-07-06 元祖ユーミン(3)


(昨日の続き)

さて、ここで当時の尤敏に関する新聞報道から、面白そうなものを少し取り上げてみましょう。

「香港の夜」の主演女優 尤敏を売り出す(東宝) 近く日本で撮影続行(1961年3月27日付『朝日新聞』夕刊)

来日前の報道。現地での撮影の模様や、尤敏のプロフィールが紹介されていますが、「彼女は広東生まれで22歳」なんて、生まれた場所も違うし、年齢も思いっきりサバを読んでいます(本当は、当時24歳)。どうやら、東宝が勝手に変えたもののようです。
記事の最後には、藤本真澄の「彼女は日本人に親しまれやすい顔をしているから絶対人気が出る」という、強気のコメントが掲載されています。

400字ドラマ「マカオの憂愁」(1961年4月18日付『朝日新聞』夕刊)

朝日新聞の連載企画「400字ドラマ」に登場。
400字の文章と写真によるドラマで、作・演出が千葉泰樹、配役は彼・宝田明、K子・尤敏。
ストーリーは、香港に転勤後、現地の上司と衝突してマカオに飛ばされた彼が、物憂い気分を抱きながらセント・ポール寺院跡(大三巴)を眺めていると、東京で別れたはずの恋人・K子が通りかかります。彼は思わず「K子!」と呼びかけますが、彼女はK子そっくりの中国女性で、怪訝そうに彼を見つめるだけでした、というものです。
本文の他に「製作メモ」とも言うべき文章があり、そこには、

「香港の夜」のロケーションに出かけて行った千葉監督に頼んで、現地を舞台にして作ってもらった。(略)尤敏は、いま来日中。「香港の夜」の撮影を続けている。

とあって、まんま映画の宣伝になっています。

日曜日に会いましょう 尤敏さん 見たいのは京都(1961年5月7日付『朝日新聞』夕刊)

やはり朝日の連載企画である、「日曜日に会いましょう」にも登場。

「オマタセ、イタシマシタ・・・・」帝国ホテル新館ロビーに姿をあらわした彼女の口から、いちばんはじめに出てきた言葉がこれ。

という書き出しに始まり、香港にいるときから日本語の勉強をしたおかげで、平仮名50音は全て読み書きできるし、今でも毎日2時間近くは日本語の勉強に費やしているということや、千葉監督からの「カンがいい」というコメント、父のこと、撮影所で人気者になっていること、京都に行ってみたいこと等々、短い中にも盛り沢山の情報が詰め込まれています。
締め括りには、

別れぎわ「ドウモ、オツカレサマ」といって、手をさしのべてきた。

とありますが、彼女のそういった礼儀正しさも、日本のマスコミには非常に評判がよかったようです。

以上、ほんの一部分のみご紹介いたしましたが、尤敏を日本に売り出すために、東宝では藤本自らが陣頭指揮を取り、

・・・・かくてこの作品(『香港の夜』・せんきち注)が三月に撮影開始して以来、その成果は、十五種の週刊誌にグラビアが延べ四十七ページ、十一の月刊雑誌に同じく十二ページ、表紙写真が両方あわせて六回、これに記事、ゴシップ、新聞関係を加えたら数え切れぬほどだ。テレビにも二度の来日(撮影と上映初日の舞台挨拶のために2回来日・せんきち注)で前後七回も来日している。あちらの表現をかりれば”かれん的影星・尤敏”の微笑は、こうして短期間に日本全国にばらまかれた。一人のスターを、これだけ売り込んだのは、東宝では”お姫さまスター”といわれた上原美佐以来のこと。そしてそれをはるかに上まわる規模だそうだ。(1961年7月7日付『朝日新聞』夕刊)

というほどの、大々的な宣伝戦略が繰り広げられたのでした。

先頭 表紙

↑もちろん、次回につづく。 / せんきち ( 2003-07-07 01:07 )

2003-07-05 元祖ユーミン(2)


(昨日の続き)

電懋と東宝、双方の話し合いの結果、中国人俳優とスタッフの人件費、香港ロケの際の機材費用の負担は電懋が受け持ち、その他一切の費用は東宝が受け持つ、という条件で話がまとまりました。
また、完成した作品の東南アジア(含・香港、台湾)での配給権は電懋が、それ以外の地域(もちろん日本も含む)での配給権は東宝が握ることになりました。

合作の企画を電懋から一任された東宝は、日本版の『慕情』(主題歌、好きです=せんきち)を作ることに決定、タイトルを『香港の夜』とし、尤敏の相手役には宝田明、監督には千葉泰樹の起用を決めます。

台本の内容を巡るすったもんだ(日本男性が香港女性を好きになってもいいが、香港女性が日本男性を好きになるなどもってのほかだと、電懋側が難色を示したりしました)はありましたが、最終的には千葉監督に全てを任せるということでどうにか落ち着き、1961年3月、香港で撮影が始まりました。

ところが、今度は、尤敏と宝田明のキス・シーンを撮ることはまかりならぬ、とのクレームがつき、激怒した監督は、撮影を中止してホテルへ引き揚げてしまいます。
結局、ロングショットでシルエットにして撮影する折衷案が採用されて作業再開、香港での撮影も無事終了して、日本での撮影に入ることになりました。

4月7日、尤敏を連れた一行が羽田に到着すると、そこには沢山のマスコミが待ち構えていました。
なんと日本では、キス・シーンを巡る騒動も「キスお断りの女優」として却って話題になり、尤敏の知名度を上げるために有効(?)利用されていたのです。
翌8日、尤敏は東京會舘で行なわれたレセプションに出席、その美しさと優雅さでたちまちのうちに人々を魅了しました(3日の予告編写真をご覧下さい)。

このとき、彼女に付けられたキャッチ・フレーズが「香港の真珠」
東宝は、彼女を売り出すために、当時の金額で2500万円という巨額の費用を投じていました。

日本での撮影中、彼女は帝国ホテルに宿泊、移動のために運転手付きの車が常備され、オフのときは東宝宣伝部が全ての手配を行なったそうです。

(つづく)


写真は、「キスをしない香港女優 尤敏をめぐる伝説」と題した当時の記事(『週刊平凡』)。

先頭 表紙

おにぎり様:松任谷由実のユーミンは、彼女がおっかけをしていたGSのメンバーの香港人が付けたんだそうです。だから、多分尤敏のことが念頭にあったと思います。ジュリーは。。。。。んー? / せんきち ( 2003-07-06 23:42 )
↓暴力描写に厳しい、と言っても、描かないわけではなくて、バイオレンス満載なんですが、あんまり満載だと「子供に見せちゃ駄目」になります。台湾もそうかな。日本は結構野放しですよね、そういうところ。 / せんきち ( 2003-07-06 23:40 )
めらこ様:なかなか素敵なシーンですよ。香港映画は今でもそうですが、性描写と暴力描写には結構厳しいです。今はキスぐらいしますが、ベッドシーンはめったにないですし(アダルトは除く)。 / せんきち ( 2003-07-06 23:38 )
「ゆみ」だから『ユーミン』なのは理解できるけど「沢田研二」は、どーして『ジュリー』なのだろうか??? / おにぎり ( 2003-07-06 20:24 )
シルエットのキスシーンかぁ・・・なかなかロマンチックかも♪と、私は思ってしまう。。 / めらこ ( 2003-07-06 03:45 )

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