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「つれズレ綴り帖」

深い意味も無く、ただ書き綴って行こうかな。
足跡を残していただければうれしいかな。

○●「自己紹介」●○

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2007-06-17 多分明日も雨やろうね
2007-06-16 来週も。。。。
2007-06-14 腕が落ちました
2007-06-13 さてさて
2007-06-12 とどこおってます
2007-06-04 レポート作成中(6)
2007-05-29 レポート作成中(5)
2007-05-28 レポート作成中(4)
2007-05-27 レポート作成中(3)
2007-05-26 レポート作成中(2)


2007-06-17 多分明日も雨やろうね

明日は観音寺市に行くのだが。。。
多分雨だな、バイクで高速で雨だな。。。
きついなぁ。。。
下の道でまったりと走るかな?

研修会もほぼ座談会めいたのになるとパタッと参加者が減る。
伝授とか自分の実益になるものは食いつきがいいのも現実だろう。
私とて喋りにいくのに交通費をかけてまで行く程の経済的な余裕はない。
だから食事なんかは断るんだけど、目的が曖昧だと帰りがつらい。

でも「色んな考えを聞く」事の有益性と大切さがあると思うので参加している。
お寺さんが自分自身がやっている事に自信がない事を垣間見る事もできる。
伝えて行くべきものが何かとすり替わっている事に気づかないままな事もある。
自分自身が見落としている目の前にあるものが多くある。

とりあえずは本屋の位置を調べておいて寄り道ルートを作ろう。。

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2007-06-16 来週も。。。。

一路平安を願いつつ。。。
来週に研修会に一路観音寺市へバイクでコトコト行ってきます。
そう研修会での私の発表なぞがあるんです(-_-;)
でも順番が二番目なので最初の人で時間切れになってしまうかも知れません。
そうすればまた猶予が与えられるから、もう一回夏の子供になれますね。
(お〜い、なんか間違っているぞ〜)

会合もあるとの事で案外遊んでいる時間がないのがつらい。。
本屋に行ったり、古本屋行ったりと遊べる時間が少なすぎる。
(何しにいくつもりだ?)

多分今回もその後の食事は断るだろうから、帰りに本屋に寄ろうかな。。
もう勉強よりも本屋が主体(笑)
高尚な本を求めているのではないんだけどね(^^ゞ

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2007-06-14 腕が落ちました

バイクでツーリングを楽しんだ。
まぁ用事のついでの道中ツーリングだ。
荷物も色々あるので雨のことを考えてクーラーBOXを買って来て、
それに詰め込んで荷台にくくっていました。

学生時代、中型二輪免許を取りに教習所に通っていた時の事。。。。
実技の9割が雨か大雨(台風もきました)だったので、
雨の日に走るのはそれほど苦手ではなかったのだ。

しかし時は過ぎて乗らない時期を重ねた結果、
雨の日の道に恐怖を抱くようになってしまっていた。

だから今日の松山までの久万高原往復はずっとびびりっ放しでした。

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小回りの利かない車体なので無茶はでけんです(笑)まったり走行が分相応です / のんすけ ( 2007-06-17 10:03 )
ビビるから事故らないとも言えるでしょう(^^)その気持ちは案外大切かも。おらー!どけどけー!じゃ、ほんと危ないもんね♪ / スナフキン ( 2007-06-17 00:14 )

2007-06-13 さてさて

久し振りにリアルな日付で。。。

明日は講習会の為に松山・道後温泉行きです。
真言宗では「阿字観」という瞑想法があるんですけど、それについての講習です。
私と宗教との初めての出会いは宗派としては禅宗でした。
まだ小学生の頃、ハラミツだの言われても理解も出来ない時でしたが、
宗教の世界に対して居心地の良さを感じていた自分がいたのも事実でした。

義務教育が義務でなかったら、禅寺に入って生涯を過ごしていたかもしれません。
幼少の頃の出来事を未だに感じ続けている私ですが、多分それはこの世界でのみ答えが分かるのでは?と思っていたのでしょう。
色々とあってそこから離れ、また時の流れが縁を紡いだのでしょう。
気がつけば今の師僧に出会い自分は僧侶となってここにある。
話がそれそうですが、禅は結構好きなのである。
でも落ち着きがない私なのでずっと座れません。
しかもすぐに寝てしまいます。

動と静・言葉と沈黙 各々が「金」なのであります。
そしてそれを金にするのか無駄にするのかは「自分自身」でしかないのです。
自分自身というひとつのユニットを生かしきれなければ金にも土にもならないのです。
自身をその世界と一体になる境地を得る事は両方を兼ね備えてこそと思うのですよね。
宗教の世界におりながら、宗教の話が上手く出来ない不思議な私ですが。。

そんな訳で雨降ってるっつうねん!ですが、
久し振りにバイクでツーリングを楽しみながら一路松山です。
無理してバイクに乗る事もないのだが、バイクだと余計な動作が削られるので、
その状態を自分自身が欲しているのだと思います。
いい勉強になればなによりです。

本当は泊りがけの研修なんですが、懇親会が大嫌いなのと翌日の予定の為に日帰りで堪忍していただきました。
親睦も必要だけど、食べる時は静かに食べたいんです。
宴会のご馳走は嬉しいけど、歓談に隠れてしまうのでもったいないという気持ちで心があせる。
二次会三次会と繰出す事もあるみたいだけど、横におねぇちゃんがいる店は苦手だ。
外で呑む事がない私だからかもしれないが、ああいう非日常な歓楽の場にいると楽しむ事なんかできないし心があせってすごくつらくなる。
奇麗なおねぇさんやかわいい女の子だって嫌いじゃないけど、元々人付き合いが苦手で全然社交的じゃない私だ、無理に人と接触するとすごく疲れる。
「なんかみんな楽しそう・・・」と思っていられる状態で十分なのです。

その会費の金額で嫁や子供に何か土産を持って帰りたいと思う方が先に立つ。

それに今月は8日にも愛媛に行ったし、18日には観音寺市で研修会があります。
月に3度も出歩くのは少々出歩きすぎだ、収入がないのに((-_-;)

久し振りのレインツーリングとなりそうだ。
とりあえず装備はそれなりに施した。
あとは安全になれない道をまったり走れるようにもう寝よう。。

プチ遠足前の子供です(笑)

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2007-06-12 とどこおってます

あしかやあざらしはどうかわかりませんが、
マナティーあたりはなんとかなっているようです。。。。

なんのこっちゃ?
麦茶番茶玄米茶〜♪

おふざけはこの辺で置いておいてっと。。

部屋の片付けやら色々とある程度落ち着きを見せて、
工事の請求書が来るのを弥生式にドキドキしている現状です。
足りなかったらどうしようかなぁ〜出世払いを頼みにGO!(笑)

レポートをしこしこまとめていた件はただ今お休み中です。
デスクワークがどかっとのしかかってきてまずはそれを消化せねばなりません。

後はお盆に向けての色々やら段取り番長にならなければいけません。
でも気がつけば発表は来週の話やん!まずい・・・

やはり夏の子供ターボでもう加速で駆け抜けよう。。。

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あ〜っ!ガソリンが入っていませんでした(-_-;) / のんすけ ( 2007-06-13 12:48 )
w(;◔ิ з◔ิ)〜ぉは♪のんさん・ワールド☆朝から水族館に行かしてもらいましたわぁ〜(*´I`)アー 夏の子供、ターボエンジン☆全開エンジン、焼き切れないようにねぇ(´・ω・)ノ☆ / ウラン ( 2007-06-13 09:31 )

2007-06-04 レポート作成中(6)

死別は誰にでも起こりうる事である、そして様々なケースがある。
配偶者・両親・子供・友人など様々であり、死別も病死・自死・事故死・突然死など様々である。
悲嘆の方法や悲嘆の時期も人によって様々である。

特に悲嘆は周囲から見て早期の立ち直りを期待するが、悲嘆のしすぎという事は決してない。
(矛盾するが「病的悲嘆」という社会的・人間的成長を阻害するケースもある)
(↑中期のまま留まってしまうケース)

多くは事実の拒絶・怒り・罪責感や自己非難・恥ずかしさ・虚脱感などに対する周囲の目を気に
して早い時期の立ち直りを考えがちであり、周囲も望みがちである。
悲嘆のプロセスが短すぎると病的な悲嘆に陥りやすい。
宗教者とて早く立ち直らせる事がつとめであると考えがちであるが、悲嘆を理解する事によって
互いのグリーフケア・グリーフワークが残された者たちへの悲嘆の緩和へと誘導する事ができる
のではないだろうか?

本来、宗教が取り組んでいた分野であると考えるのだが、いつしか宗教の手を離れ医学や学門の
分野での発展が著しい。
死者への儀式も重要なグリーフワークの一端であると考えるが、残された者に対して宗教者が
今後行うべき事柄を考えたい。


こんな所でシメとしておきたい。
一応座談会だから色んな意見を交える要素を残した。
まぁ自分自身が把握しきれていないからってのもあるんだけどね(^^ゞ

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ボクシングを始めろと続きかしないかとドキドキしました(笑)自分を受入れないといけない自分と受入れたくない自分の間に自分がいます。あるがままでいくとしたいがそれが難しくもある私です。 / のん ( 2007-06-09 08:35 )
完☆あなたが、本当にむいていること。好きなことみつけ、それに向かって一歩を踏み出してください。それがあなたのありのままを受け入れることに繋がるはずです。でも、焦らないで下さい。自分らしさを生かしきるには時間がかかるものですから。一生のテーマです。一生をかけて、あなた自身のありのままを生かしきればいいのでは。。はじめの一歩☆ / いまこ ( 2007-06-08 08:31 )

2007-05-29 レポート作成中(5)

ブラウン&スタウデマイヤーとロバートバックマン:三段階説

1急性期:ショックと精神空白の段階

頭の中が真っ白になり体の感覚をなくしたり、喉が詰まったり、お腹が張ったり、すいたりする。
自分自身に現実感を持てなくなり感覚は麻痺気味になる。
死に対する否認の感情が沸き起こったり号泣するが、これらは突然の苦痛から精神を守る為に
起こる防御機能によって生じる。

深い悲しみによって受けた心の痛みは泣くことによって緩和される。
(泣く事によって立ち直りがはやくなる場合がある)
自分自身の方法で悲しみを表現する事が必要である。
泣く事によって心が整理され気をしっかりと保てるようであればよい。
死者に対して共感性が生じる→死因になった部位に痛みを感じたりする。
(胸の病気で亡くなった方の遺族はしばしば胸に痛みを覚える)
1〜2週間続くショック状態であり、周囲は悲しみに対して否定的な言葉や接し方は避けるべき。


2中期:死者に心がとらわれる段階

遺族は死者に心をとらわれて気が沈んだり、うつ状態になりやすい時期である。
死別に悲嘆が伴うと遺族も周囲も理解する事が必要である。
時期的にも周囲はしばしば立ち直って欲しいと「元気になれ」など通常に戻る事を促す言葉を
かけがちになる。また安易な同情もかえって遺族を孤立させてしまいがちである。

気分転換を促す周囲とそれに否定的な言葉を発する周囲との間で遺族は苦しめられる。
(気分転換に遊びに出かける⇔死者の事をどうでもいいと思ってるのだろうか?)という感じ。

情緒的にも過度に自責感を持つ時期でもある。
怒りや悲しみで不眠や食欲不振、力が出ない、夢を見る、自分に存在感を感じない・・・・
                  ⇓
もっと早く○○していれば・・・自分があの時○○しなかったから・・・・
                  ⇓
自分自身を責める気持ちが非常に強いがそれは根拠の無い自責感だったりする。
恨みや怒り、不当感を持つのもこの時期であり、これらは正常な感情でもある。
                  ⇓
神仏を信仰していたのに祈りが届かなかった・・・・
医者にきちんと診てもらっていたのに・・・あの人は助かって元気なのに・・・
酒やタバコをのんでいなければ・・・やめさせておけば・・・ 
健康な人が時として恨めしく感じてしまう。

なんで自分だけがこのような目に遭わなければならないのだろうか?
自分だけがひどい運命の許にさらされているなどの不当感が沸き起こってくる。

遺族は自分自身の感情を整理することにより適切なグリーフワークへと歩む事が可能になる。
これらの感情は抑えるのではなく、ケアとしては如何にして発散させる方向に向けていくかと
いう事が肝要である。


3回復期

人生が継続している事を認識し始める時期である。死者に対して感情を交えずに考えられるよう
になる時期である。
死者に対して捉われてきた思いが「悲しみやつらさ」ではなく、懐かしさややさしさなどの
「心地のよい」感情で思い出すことができるようになる。
死者抜きの新しい社会環境、生活環境や人間関係に目が向くようになる。

ただ死者からの自立期ではあるのだが、内面的な傷つきやすさは依然として残る。
立ち直ったと言うよりは、喪失に慣れ、悲嘆も緩和され情緒的感情がやわらいだと考えるべきだ。

客観的時間で社会や世の中は動くが、グリーフワークは自分自身で自分の時間の中で行うしか
方法はないのである。

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2007-05-28 レポート作成中(4)

死別者が体験する作業

デーケン・野口正彰氏などによると衝撃→否認→パニックや怒り→抑うつと精神的混乱→死別
の受容という作業を経験するとされている。(この限りではない)

死の現実を受入れる事によって苦しみを覚える。苦しむ事は当然であり、固有のものである。
悲嘆は苦しみを伴い、はやく解放されたいと思うが、この事がこの先の成長や自立、グリーフ
ワークを促進する経験となると考える。
                ⇓
死者と関連のない環境の変化に適応していく。
死者に向けられていたエネルギーを新たな関係に方向転換する。

しかし精神的に死者への同一化が強ければ死別体験者は愛する人の切り離しが難しい。
否定的自己イメージを抱きやすい人→死別に際してのイメージが際立つ事が多い
自分に自信の無い人・自分の存在を肯定できない人→死別で非常に辛い思いをする。

回避・ショック・否定・不信→直面→再確立の繰り返しに陥りやすい。

悲嘆は死者との絆の深さに比例する。

心理的要因により残された者が行う悲嘆に対する対処行動
故人についての話を避ける・仕事や学業に専念する・現実を忘れる手段としての飲食や飲酒
や薬物・亡くなった場面や死の細部にこだわる・財産の処分や転居・宗教にのめりこむ・
他人との接触を求める
これらは過度でなければ適応的なものとして捉える
死生観や人間的成熟度・過去の経験・人種や文化・宗教的背景など、個々の違いで受ける心理的
要因は様々である。

キリスト教では、死後に天国に行き懐かしい家族や友人と再会できると考えられている。
仏教(日本)では死後に仏弟子として修行して仏になる。
または先祖の守り神と言った祖霊化・精霊化して現世での過去から離れた存在になる。
                   ⇓
いずれの場合も「根本的な死後についての確証」はないのである。
死については死者・残された者、死に行く者にとっても切実で不安な問題である。
人の死を通して死に畏怖したり、悲嘆したりするのである。
                   ⇓
残された者になる立場としてのグリーフワークに心をむける基礎的知識は事前に必要である。
宗教者として残された者の心を満たす、悲嘆を緩和する為の心構えは重要である。
我々は人々の心を扱う存在である事を常に忘れてはいけないと考える。

繰り返しになるが、宗教者は上から目線の取組みに陥りがちである。
教義でそうなんだからそうであると定まったパターンで押し付けがちになりやすい。
これで次の段階に進むべきであると、感情を他所に進む事を強いている形で押し進めやすい。

悲嘆のプロセスは心理的・社会的・経済的自立へのステップでもある。
残された者が個々のペースで悲嘆から回復すべく歩んでいくのが最良なのであると考える。
失った家族が配偶者で1〜2年、子供で2〜5年が目安であるとされている。

悲嘆は悲嘆によって癒される
悲嘆を表に出して悲嘆の作業を行う事によって癒される
これは精神的作業でもあり行動的作業でもある。

宗教者とてかけがえのない家族や友人を失ったと言う経験を全てが持っている訳ではない。
だが仏教で言う四苦から感じ取れるものがあるのではないだろうか。
愛別離苦=愛するものと別れる苦しみ
怨憎会苦=うらみ憎む相手に会う苦しみ
求不得苦=求めているものが得られない苦しみ
五陰盛苦=五陰から生じる心身の苦悩

悲嘆を共感する姿勢は必要だが、同調する必要まではないだろう。
宗教者に求められている事はさほど難しい事ではない。

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2007-05-27 レポート作成中(3)

グリーフ(grief・悲嘆)
悲嘆とは死による喪失から生じる深い悲しみであり、死別に関わる悲嘆は深く心を痛める。
人生のパートナー・家族を失った時、残された者は精神的苦痛を体験する事になる。
また人生の中で大きな時間を失うかのような情緒的苦痛でもある。
親を亡くせば過去を、配偶者であれば現在を、子供だと未来をそれぞれ失うかのようである。
これまでそこにいた人のいない生活に順応するには長い時間を要する作業であると言っていい。
                    ⇓
喪失の悲嘆による精神状態や行動は病気ではないが、適切な処置が必要である。
悲嘆には身体的にも精神的にも大量のエネルギーを必要とする。
(悲しむのにも体力が必要なのである)

大雑把ではあるが、大切な人を失った喪失の悲嘆を如何にして緩和していくかという事がグリ
ーフケア(grief care)であり、大切な人を失った者が立ち直るまでに努力して行う作業がグリー
フワーク(grief work)である。

ここでは、
第三者(宗教者・葬祭関係者・医療関係者)の遺族以外の者が行う事をグリーフケア
当事者(遺族・死者と関係のある者)が自分自身で行う事をグリーフワーク
として考える。

宗教者が遺体に対して儀式を行うのも「グリーフケア」の一つとして考える。
遺族が宗教者に儀式を依頼する、写真や遺品を整理するなどの行為は「グリーフワーク」のひと
つとして考える。

これから、死別者が体験する作業・過程を幾つか例示していきながら考えていきたい。

この作業は心から配慮して携わる必要がある。悲嘆に無い者が悲嘆の最中にある者に対して携わ
るのである。場合によっては無神経さに激怒されたり悲嘆を増す結果にと傷口を広げる結果にな
りかねない。行為は時として高みから「してあげている」態度に陥りやすくもある。
悲嘆に対する深い共感があってこそなのである。
グリーフケアで必要なのは立ち直る為の指導や助言ではなく、如何にして適切な悲嘆へと心を
開き、悲しむことが出来るような環境を用意する事ができるか、そうできるように周囲が心が
けるか。(自分がして欲しくないなぐさめはしない事が一番ではある)

人の死は他人事ではなく自分自身にも降りかかる事である、宗教者にとっては一つの葬儀であ
っても、遺族にとっては宗教儀式がグリーフワークの始まりとなる場合が殆どなのである。
導師として携わる我々としては、遺族に対してのグリーフケア、そして自立に向けたグリーフ
ワークへの一助としての方向性や取り組みについて見出す事ができればと考える。

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2007-05-26 レポート作成中(2)

葬儀は死者には仏道に歩む始まりの儀式であり、遺族には決別を告げるも安心を与える儀式であ
り、周囲に対しては何故葬儀を行うのか納得のいく儀式であるべきだろう。


現在は葬儀も多様化してはいるが、社会的義務としての死体処理(火葬・埋葬)のみで済ますと
いうケースはまた少数派である。死に対するなんらかの儀式行為を求めている場合が多い。
                   ⇓
葬儀は死の事実を残された者に突きつけて死の事実を認識する重要な意味がある。
          
身近な者の死は看病期間が長ければ一時の開放感を与えるが、主には虚脱感や今までに無い感覚
と時間、精神の極限状態をもたらすものである。
                   ⇓
死の否定・死を打ち消したいという衝動にかられるも「死の事実」は目前に突きつけられる。
                   ⇓
喪失の大きさによって自分の精神状態を保とうとする防御本能が起き上がる。
(無感情な状態になる・号泣するなど精神状態を保つ為の感情が働く)

残された者の感情や精神状態をよそに、遺体処理・葬儀・埋葬という客観的事実や社会的義務で
もある作業の為に要する時間が待ち受けている。
                   ⇓
残された者はこれによって遺族である事を演じるように強いられるのである。
そして社会的・地域的に遺族としての振る舞いを余儀なくされていく作業に移るのである。

我々「導師」として儀式に関わる者として、これらの場面で如何にして遺族の「悲嘆の緩和」
の一助として関わるべきかを探りたい。

死の喪失により心の拠り所を求めている者に対して、宗教者としてどのように関わるべきだろう。
儀式の式次第の流れに乗ったまま、対話不足になりがちである感は否めない。

「死者」を送る儀式ではあるが、「残された者」に焦点を向けたい。

先に述べた葬儀の意味を述べた所で、それは「葬儀の成立と意味づけ」であって葬儀を行う理由
とはならないのではないだろうか?
悲嘆にくれる遺族の心を緩和する面では、「それでしかるべき世界に送っていただける」という
安心は与えるだろうが、それが伝わらなければ理解されるだろうか?
普段から葬儀とは何かという発信と周知がなければ、急な場面で述べた所で理解は難しい・・・

考えるべき事柄が多いが、「グリーフケア」「グリーフワーク」という面から我々が出来る事を
見出していく事ができればと考える。



続く・・・・

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