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「つれズレ綴り帖」

深い意味も無く、ただ書き綴って行こうかな。
足跡を残していただければうれしいかな。

○●「自己紹介」●○

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2008-10-15 挑戦状かい(2)
2008-10-15 挑戦状かい(1)
2008-10-13 わらわな
2008-10-10 まぁやらんとね
2008-10-01 十住心論か
2008-06-07 グリーフケア(7)
2008-06-06 グリーフケア(6)
2008-06-05 グリーフケア(5)
2008-06-04 グリーフケア(4)
2008-06-03 グリーフケア(3)


2008-10-15 挑戦状かい(2)

ここ最近でもう一つ、葬儀屋に全然やさしくない私。
打ち合わせの時点でかなり攻撃的に接している。
喪主の代理で来る担当者には罪はないが、以前の葬儀の担当者に罪がある。
これまでに何度か苦言を呈した事があったがきちんと伝えてなかった事が分かった。
いちいち坊主の言葉を聞いててもしゃーないわって土壌があるのだろう。
基本的にアドバイスも「関係ない」状態でスルーだった。

数ヶ月前に私も堪忍袋の緒が切れて社長が謝罪にやってきた。
今までお宅の部下に言って来た事、あんたに伝わってるか?
そこからはじまり儀式についての進行についてなど細かく不備を指摘した。
経験不足を言い訳にするのならベテランをきちんと配備して不測の事態に備えれと強く伝える。
担当者も菩提寺は下請け業者でも連れでもないんや、儀式を執行する導師なんやから最低限それはわきまえておくべきだ。

お互いに批判があればどんどん対話するべきや。
対話がないから葬儀屋は儀式をおろそかにしてしまい、坊主は自分の手抜きを葬儀屋のせいにするんや。
接待や社交辞令なんかはいらん、対話のない関係に未来があると思う?
信頼関係がなかったらこっちは安心してみんなに背中を向けて引導を渡せられないんやで?

「私が遺族になって葬儀社に葬儀を依頼する時、正直おたくは嫌や」
社長に向かってはっきり言った。
いままで信頼していた葬儀社だっただけに失望が大きかった。

葬儀社だって方針があるからそれを変えろとは言わない。
今まで出来ていた事が出来なくなってしまっていた現実がある。
慣れがダレに変わる時が一番怖い。
私に従うべきやない、私に対する批判もあれば出すべきだ。
葬儀式を行う式場ってどういうものか、よく考えて欲しいと伝える。

社長に言われれば堪えるのだろう、知人の葬儀に参列した時にかなり改善されていた。

そこの葬儀社に限らず、式場に行けば祭壇の荘厳から細かく指図をしている。
それぞれの宗派や寺院で方針があるから自分でできる事は担当者と打ち合わせしながら段取りをする。
位牌を中央に置くと遺影の邪魔になるとか言われた日には、関西弁もろだしで淡々と問い詰める事になる。。。

行うのが葬儀である以上は導師として妥協せずに性根を入れて臨みたい。
そう思うからこそ打ち合わせの時点で妙に力がこもるのだ。
それにもう二度と儀式を進行する立場によってわやくそにされたくない。
その思いが語気を強めていく。
こちらとて葬儀でも祈祷でもそうだけど祈る事にはそれだけのエネルギーを使うのだ。

エエ加減にやられた事に気付かずに支払いをしている施主が悲劇だ。

葬儀ディレクターとか資格もあるようだけどそれを取得した所で、
「時間通りに流れる」やり方が身につくだけだ。
結局そんな資格名札をぶらさげても研鑽がなければ言わずもがなだ。

「社長を棺おけに入れて模擬葬儀を会館を使わない日に研修でやってみーな」
そうしたらよくわかると思うのだがと言ってみた。

揚げ足取りをしたい訳ではない。
お互いに仕事として関わる時は緊張感を持ってしかるべきなのだ。
坊主も葬儀屋任せにするべきではない。
任せておいて「葬儀屋に主導権を握られているけしからん」はないだろう。
坊主もきちんとしなければ足元をすくわれるべきなのだ。

きちんとするべき時にするべき場所においてはどうあるべきか、メリハリは重要だ。

無茶を通すつもりはないが頑固で譲れない所はこうるさくいきたい。

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2008-10-15 挑戦状かい(1)

最近は何かと「こうるさい」状態が続く
私自身がただ「こうるさい」奴になっているだけだが。
誰に対しても「こうるさい」と言うわけではないのだが。。。。

ここ数日は匿名にて相談事の電話がよく入る。
訳あって名前を名乗るのを差し控えているのだろう私も野暮ではない。
よくあるケースなのだが、菩提寺に頼むと高額なお布施を要求されるとか、菩提寺の住職には頼みたくないし、問いたくないので教えて欲しいとかそういう類で電話帳であたるのだろうか人づてに聞くのだろうかしてウチに辿り着く場合がある。
相談者の気持ちや菩提寺の立場を考えながら話は聞く。
そこで金品は受け取らないけれど依頼になればお布施の話になる。

名前を名乗らぬ電話主は墓地の事で掛けてきた。そして前回も
「お布施はいかほどでしょうか」
と問うので回向事に関しては檀家・非檀家でお布施の基準を定めているのでそれを伝える。
「お布施と言うものは本来はお気持ちというものであって・・」
とか言い出す始末。
「他所のお寺さんにも問い合わせて条件が見合う所で頼んでください、うちはこれでしかできません」
とはっきり伝えた。まだ納得がいかなさそうなので
「事情があっても1人を特別扱いして便宜を図ったらどうなります?」
できれば菩提寺さんに相談して菩提寺の住職にやってもらいたいけれど、色々と事情もあるのだろう。

「お金がない」とそれを前面に出してモノを言って来る人がいる。
安く仕上げたいのは人情だろうが、今それを必ずしなければならないのであれば別だが、そうでなければ「お金がない」のを理由に控えればよいのだ。
絶対に今やらなきゃいけないのでなければ時期を見て蓄えてからでも遅くはないのではないだろうか、配慮は求めるものではないと思うのだがそういう旨を伝えたものの伝わっているだろうか。。。。

まずどこの誰かぐらい名前ぐらい名乗ってよ。。。。
電話だからお互いに顔が見えないけれど、最低限の礼儀はあろうに。。。

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2008-10-13 わらわな

昨日の毎日新聞の「ダブルクリック(安野光雅氏)」で面白い事が書かれていた。
「溺れる者は藁をもつかむ」という言葉からはじまるのだが、賢者は溺れそうな買い手を作ってから藁を売る。そこから話は始まる。

そのまま書き写したい程に「なるほど!」と思った。
短い文章で世の中を上手く突いている。

世の中にはそれぐらい何かのきっかけでポンッと背中を押して溺れさせよう。
これで岸におあがりと藁をつかませようとする事があると言う事だ。

あっ、宗教も一つ違えればタタリだ障りだと相手を水辺に追いやる事もありはしないか?

きっかけは色々だ。
でも溺れてしまうのも自分の責任、藁をつかんでしまうのも自分の責任。

藁で救われる事もあれば藁で掬われる事もある。

だから人間って面白いのだろうけど。

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2008-10-10 まぁやらんとね

人生そういい事なんてある訳ない。
ヒーローだってヒーローであり続ける為には
ヒーローでいられる瞬間の為に多くの努力を費やす。
野球選手だって3割打てたらすごいけれど、7割は打てないのだ。
でも3割打者である為に多くの鍛錬を要する。

人生でいい事なんて3割あればかなりええんやないかな?
7割悪い事があるって思えばげんなりするかもしれないけれど、
3割のいい事の為にがんばれる事もあるんやなかろうか。

でもその3割を得る為にやるべき事はあまりにも多い。

寝ている時にふとある夢を観る事がある。
気分が下降気味を過ぎた時に夢に出てくる。
現実では起こらなくてイイ、夢の瞬間で十分な事だ。
過去を懐かしむような後ろ向きな夢だが、
それを観るとまた前を向こうと思う。

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2008-10-01 十住心論か

ネットでこんなの見つけた。。。。

Lv1 仏教?はあ何それ?食えるのか?食えない?はあ?糞して寝てろや、、
Lv2 やっぱ儒教でしょ、これからは、儒教最高!お前ら猿かよ、もっと善業を積めよ
Lv3 おまえまだ儒教とかやってる訳?少しは後世の事も考えろや、アホが
Lv4 もう何もいらん、自分もなくなった、、、法有を解して、我人みな遮す。やっぱ仏教だわ。
Lv5 お前等ゴメン、オレ覚ったわ、、っていうかお前等まだそんな所にいるの?ぷっ。
Lv6 というかお前等、オレについてこいや。オレに任せれば万事おk。間違いない。
Lv7 やった、阿字ktkr。これでもう思いのままだわ。自由自在融通無碍、、
Lv8 法華経最高、法華経と水さえあれば生きていける。
Lv9 仏になった!!オレは今、大日如来になったぞーー!!
Lv10 っていうかお前等もみんな大日如来じゃん。なんだ〜wみんな一緒じゃんよ。

十住心論の現代風か?
以前に十七条の憲法とか般若心経の現代風?を見つけたけど、よく勉強してるよなぁ。。。
賛否は別にして知識なけりゃこういうの思いつかないもん。

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2008-06-07 グリーフケア(7)

3回復期

人生が継続している事を認識し始める時期である。死者に対して感情を交えずに考えられるようになる時期である。
死者に対して捉われてきた思いが「悲しみやつらさ」ではなく、懐かしさややさしさなどの「心地のよい」感情で思い出すことができるようになる。
死者抜きの新しい社会環境、生活環境や人間関係に目が向くようになる。

ただ死者からの自立期ではあるのだが、内面的な傷つきやすさは依然として残る。
立ち直ったと言うよりは、喪失に慣れ、悲嘆も緩和され情緒的感情がやわらいだと考えるべきだ。

客観的時間で社会や世の中は動くが、グリーフワークは自分自身で自分の時間の中で行うしか方法はないのである。

死別は誰にでも起こりうる事である、そして様々なケースがある。
配偶者・両親・子供・友人など様々であり、死別も病死・自死・事故・突然死など様々である。
悲嘆の方法や悲嘆の時期も人によって様々である。

特に悲嘆は周囲から見て早期の立ち直りを期待するが、悲嘆のしすぎという事は決してない。
(矛盾するが「病的悲嘆」という社会的・人間的成長を阻害するケースもある)
(↑中期のまま留まってしまうケース)

多くは事実の拒絶・怒り・罪責感や自己非難・恥ずかしさ・虚脱感などに対する周囲の目を気にして早い時期の立ち直りを考えがちであり、周囲も望みがちである。
悲嘆のプロセスが短すぎると病的な悲嘆に陥りやすい。
宗教者とて早く立ち直らせる事がつとめであると考えがちであるが、悲嘆を理解する事によって互いのグリーフケア・グリーフワークが残された者たちへの悲嘆の緩和へと誘導する事ができるのではないだろうか?

本来、宗教が取り組んでいた分野であると考えるのだが、いつしか宗教の手を離れ医学や学門の分野での発展が著しい。
死者への儀式も重要なグリーフワークの一端であると考えるが、残された者に対して宗教者が今後行うべき事柄を考えたい。

坊さん、どうするよ?

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2008-06-06 グリーフケア(6)

2中期:死者に心がとらわれる段階

遺族は死者に心をとらわれて気が沈んだり、うつ状態になりやすい時期である。
死別に悲嘆が伴うと遺族も周囲も理解する事が必要である。
時期的にも周囲はしばしば立ち直って欲しいと「元気になれ」など通常に戻る事を促す言葉を
かけがちになる。また安易な同情もかえって遺族を孤立させてしまいがちである。

気分転換を促す周囲とそれに否定的な言葉を発する周囲との間で遺族は苦しめられる。
(気分転換に遊びに出かける⇔死者の事をどうでもいいと思ってるのだろうか?)という感じ。

情緒的にも過度に自責感を持つ時期でもある。
怒りや悲しみで不眠や食欲不振、力が出ない、夢を見る、自分に存在感を感じない・・・・
                  ⇓
もっと早く○○していれば・・・自分があの時○○しなかったから・・・・
                  ⇓
自分自身を責める気持ちが非常に強いがそれは根拠の無い自責感だったりする。
恨みや怒り、不当感を持つのもこの時期であり、これらは正常な感情でもある。
                  ⇓
神仏を信仰していたのに祈りが届かなかった・・・・
医者にきちんと診てもらっていたのに・・・あの人は助かって元気なのに・・・
酒やタバコをのんでいなければ・・・やめさせておけば・・・ 
健康な人が時として恨めしく感じてしまう。

なんで自分だけがこのような目に遭わなければならないのだろうか?
自分だけがひどい運命の許にさらされているなどの不当感が沸き起こってくる。

遺族は自分自身の感情を整理することにより適切なグリーフワークへと歩む事が可能になる。
これらの感情は抑えるのではなく、ケアとしては如何にして発散させる方向に向けていくかと
いう事が肝要である。

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2008-06-05 グリーフケア(5)

                   ⇓
残された者になる立場としてのグリーフワークに心をむける基礎的知識は事前に必要である。
宗教者として残された者の心を満たす、悲嘆を緩和する為の心構えは重要である。
我々は人々の心を扱う存在である事を常に忘れてはいけないと考える。

繰り返しになるが、宗教者は上から目線の取組みに陥りがちである。
教義でそうなんだからそうであると定まったパターンで押し付けがちになりやすい。
これで次の段階に進むべきであると、感情を他所に進む事を強いている形で押し進めやすい。

悲嘆のプロセスは心理的・社会的・経済的自立へのステップでもある。
残された者が個々のペースで悲嘆から回復すべく歩んでいくのが最良なのであると考える。
失った家族が配偶者で1〜2年、子供で2〜5年が目安であるとされている。

悲嘆は悲嘆によって癒される
悲嘆を表に出して悲嘆の作業を行う事によって癒される
これは精神的作業でもあり行動的作業でもある。

宗教者とてかけがえのない家族や友人を失ったと言う経験を全てが持っている訳ではない。
だが仏教で言う四苦から感じ取れるものがあるのではないだろうか。
愛別離苦=愛するものと別れる苦しみ
怨憎会苦=うらみ憎む相手に会う苦しみ
求不得苦=求めているものが得られない苦しみ
五陰盛苦=五陰から生じる心身の苦悩

悲嘆を共感する姿勢は必要だが、同調する必要まではないだろう。
宗教者に求められている事はさほど難しい事ではない。

ブラウン&スタウデマイヤーとロバートバックマン:三段階説

1急性期:ショックと精神空白の段階

頭の中が真っ白になり体の感覚をなくしたり、喉が詰まったり、お腹が張ったり、すいたりする。
自分自身に現実感を持てなくなり感覚は麻痺気味になる。
死に対する否認の感情が沸き起こったり号泣するが、これらは突然の苦痛から精神を守る為に起こる防御機能によって生じる。

深い悲しみによって受けた心の痛みは泣くことによって緩和される。
(泣く事によって立ち直りがはやくなる場合がある)
自分自身の方法で悲しみを表現する事が必要である。
泣く事によって心が整理され気をしっかりと保てるようであればよい。
死者に対して共感性が生じる→死因になった部位に痛みを感じたりする。
(胸の病気で亡くなった方の遺族はしばしば胸に痛みを覚える)
1〜2週間続くショック状態であり、周囲は悲しみに対して否定的な言葉や接し方は避けるべき。

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2008-06-04 グリーフケア(4)

人の死は他人事ではなく自分自身にも降りかかる事である、宗教者にとっては一つの葬儀であっても、遺族にとっては宗教儀式がグリーフワークの始まりとなる場合が殆どなのである。
導師として携わる我々としては、遺族に対してのグリーフケア、そして自立に向けたグリーフワークへの一助としての方向性や取り組みについて見出す事ができればと考える。

死別者が体験する作業

デーケン・野口正彰氏などによると衝撃→否認→パニックや怒り→抑うつと精神的混乱→死別の受容という作業を経験するとされている。(この限りではない)

死の現実を受入れる事によって苦しみを覚える。苦しむ事は当然であり、固有のものである。
悲嘆は苦しみを伴い、はやく解放されたいと思うが、この事がこの先の成長や自立、グリーフワークを促進する経験となると考える。
                ⇓
死者と関連のない環境の変化に適応していく。
死者に向けられていたエネルギーを新たな関係に方向転換する。

しかし精神的に死者への同一化が強ければ死別体験者は愛する人の切り離しが難しい。
否定的自己イメージを抱きやすい人→死別に際してのイメージが際立つ事が多い
自分に自信の無い人・自分の存在を肯定できない人→死別で非常に辛い思いをする。

回避・ショック・否定・不信→直面→再確立の繰り返しに陥りやすい。

悲嘆は死者との絆の深さに比例する。

心理的要因により残された者が行う悲嘆に対する対処行動
故人についての話を避ける・仕事や学業に専念する・現実を忘れる手段としての飲食や飲酒や薬物・亡くなった場面や死の細部にこだわる・財産の処分や転居・宗教にのめりこむ・他人との接触を求める
これらは過度でなければ適応的なものとして捉える
死生観や人間的成熟度・過去の経験・人種や文化・宗教的背景などの違いで受ける心理的要因は様々である。

キリスト教では、死後に天国に行き懐かしい家族や友人と再会できると考えられている。
仏教(日本)では死後に仏弟子として修行して仏になる。
または先祖の守り神と言った祖霊化・精霊化して現世での過去から離れた存在になる。
                   ⇓
いずれの場合も「根本的な死後についての確証」はないのである。
死については死者・残された者、死に行く者にとっても切実で不安な問題である。
人の死を通して死に畏怖したり、悲嘆したりするのである。

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2008-06-03 グリーフケア(3)

グリーフ(grief・悲嘆)
悲嘆とは死による喪失から生じる深い悲しみであり、死別に関わる悲嘆は深く心を痛める。
人生のパートナー・家族を失った時、残された者は精神的苦痛を体験する事になる。
また人生の中で大きな時間を失うかのような情緒的苦痛でもある。
親を亡くせば過去を、配偶者であれば現在を、子供だと未来をそれぞれ失うかのようである。
これまでそこにいた人のいない生活に順応するには長い時間を要する作業であると言っていい。
                    ⇓
喪失の悲嘆による精神状態や行動は病気ではないが、適切な処置が必要である。
悲嘆には身体的にも精神的にも大量のエネルギーを必要とする。
(悲しむのにも体力が必要なのである)

大雑把ではあるが、大切な人を失った喪失の悲嘆を如何にして緩和していくかという事がグリーフケア(grief care)であり、大切な人を失った者が立ち直るまでに努力して行う作業がグリーフワーク(grief work)である。

ここでは、第三者(宗教者・葬祭関係者・医療関係者)の遺族以外の者が行う事をグリーフケア
当事者(遺族・死者と関係のある者)が自分自身で行う事をグリーフワークとして考える。

宗教者が遺体に対して儀式を行うのも「グリーフケア」の一つとして考える。
遺族が宗教者に儀式を依頼する、写真や遺品を整理するなどの行為は「グリーフワーク」のひとつとして考える。

これから、死別者が体験する作業・過程を幾つか例示していきながら考えていきたい。

この作業は心から配慮して携わる必要がある。悲嘆に無い者が悲嘆の最中にある者に対して携わるのである。場合によっては無神経さに激怒されたり悲嘆を増す結果にと傷口を広げる結果になりかねない。行為は時として高みから「してあげている」態度に陥りやすくもある。
悲嘆に対する深い共感があってこそなのである。
グリーフケアで必要なのは立ち直る為の指導や助言ではなく、如何にして適切な悲嘆へと心を開き、悲しむことが出来るような環境を用意する事ができるか、そうできるように周囲が心がけるか。(自分がして欲しくないなぐさめはしない事が一番ではある)

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