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「つれズレ綴り帖」

深い意味も無く、ただ書き綴って行こうかな。
足跡を残していただければうれしいかな。

○●「自己紹介」●○

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2008-06-07 グリーフケア(7)
2008-06-06 グリーフケア(6)
2008-06-05 グリーフケア(5)
2008-06-04 グリーフケア(4)
2008-06-03 グリーフケア(3)
2008-06-02 グリーフケア(2)
2008-06-01 グリーフケア(1)
2008-05-01 伝家の宝刀抜けば竹光
2008-04-16 これです
2008-04-16 言われたとおり


2008-06-07 グリーフケア(7)

3回復期

人生が継続している事を認識し始める時期である。死者に対して感情を交えずに考えられるようになる時期である。
死者に対して捉われてきた思いが「悲しみやつらさ」ではなく、懐かしさややさしさなどの「心地のよい」感情で思い出すことができるようになる。
死者抜きの新しい社会環境、生活環境や人間関係に目が向くようになる。

ただ死者からの自立期ではあるのだが、内面的な傷つきやすさは依然として残る。
立ち直ったと言うよりは、喪失に慣れ、悲嘆も緩和され情緒的感情がやわらいだと考えるべきだ。

客観的時間で社会や世の中は動くが、グリーフワークは自分自身で自分の時間の中で行うしか方法はないのである。

死別は誰にでも起こりうる事である、そして様々なケースがある。
配偶者・両親・子供・友人など様々であり、死別も病死・自死・事故・突然死など様々である。
悲嘆の方法や悲嘆の時期も人によって様々である。

特に悲嘆は周囲から見て早期の立ち直りを期待するが、悲嘆のしすぎという事は決してない。
(矛盾するが「病的悲嘆」という社会的・人間的成長を阻害するケースもある)
(↑中期のまま留まってしまうケース)

多くは事実の拒絶・怒り・罪責感や自己非難・恥ずかしさ・虚脱感などに対する周囲の目を気にして早い時期の立ち直りを考えがちであり、周囲も望みがちである。
悲嘆のプロセスが短すぎると病的な悲嘆に陥りやすい。
宗教者とて早く立ち直らせる事がつとめであると考えがちであるが、悲嘆を理解する事によって互いのグリーフケア・グリーフワークが残された者たちへの悲嘆の緩和へと誘導する事ができるのではないだろうか?

本来、宗教が取り組んでいた分野であると考えるのだが、いつしか宗教の手を離れ医学や学門の分野での発展が著しい。
死者への儀式も重要なグリーフワークの一端であると考えるが、残された者に対して宗教者が今後行うべき事柄を考えたい。

坊さん、どうするよ?

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2008-06-06 グリーフケア(6)

2中期:死者に心がとらわれる段階

遺族は死者に心をとらわれて気が沈んだり、うつ状態になりやすい時期である。
死別に悲嘆が伴うと遺族も周囲も理解する事が必要である。
時期的にも周囲はしばしば立ち直って欲しいと「元気になれ」など通常に戻る事を促す言葉を
かけがちになる。また安易な同情もかえって遺族を孤立させてしまいがちである。

気分転換を促す周囲とそれに否定的な言葉を発する周囲との間で遺族は苦しめられる。
(気分転換に遊びに出かける⇔死者の事をどうでもいいと思ってるのだろうか?)という感じ。

情緒的にも過度に自責感を持つ時期でもある。
怒りや悲しみで不眠や食欲不振、力が出ない、夢を見る、自分に存在感を感じない・・・・
                  ⇓
もっと早く○○していれば・・・自分があの時○○しなかったから・・・・
                  ⇓
自分自身を責める気持ちが非常に強いがそれは根拠の無い自責感だったりする。
恨みや怒り、不当感を持つのもこの時期であり、これらは正常な感情でもある。
                  ⇓
神仏を信仰していたのに祈りが届かなかった・・・・
医者にきちんと診てもらっていたのに・・・あの人は助かって元気なのに・・・
酒やタバコをのんでいなければ・・・やめさせておけば・・・ 
健康な人が時として恨めしく感じてしまう。

なんで自分だけがこのような目に遭わなければならないのだろうか?
自分だけがひどい運命の許にさらされているなどの不当感が沸き起こってくる。

遺族は自分自身の感情を整理することにより適切なグリーフワークへと歩む事が可能になる。
これらの感情は抑えるのではなく、ケアとしては如何にして発散させる方向に向けていくかと
いう事が肝要である。

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2008-06-05 グリーフケア(5)

                   ⇓
残された者になる立場としてのグリーフワークに心をむける基礎的知識は事前に必要である。
宗教者として残された者の心を満たす、悲嘆を緩和する為の心構えは重要である。
我々は人々の心を扱う存在である事を常に忘れてはいけないと考える。

繰り返しになるが、宗教者は上から目線の取組みに陥りがちである。
教義でそうなんだからそうであると定まったパターンで押し付けがちになりやすい。
これで次の段階に進むべきであると、感情を他所に進む事を強いている形で押し進めやすい。

悲嘆のプロセスは心理的・社会的・経済的自立へのステップでもある。
残された者が個々のペースで悲嘆から回復すべく歩んでいくのが最良なのであると考える。
失った家族が配偶者で1〜2年、子供で2〜5年が目安であるとされている。

悲嘆は悲嘆によって癒される
悲嘆を表に出して悲嘆の作業を行う事によって癒される
これは精神的作業でもあり行動的作業でもある。

宗教者とてかけがえのない家族や友人を失ったと言う経験を全てが持っている訳ではない。
だが仏教で言う四苦から感じ取れるものがあるのではないだろうか。
愛別離苦=愛するものと別れる苦しみ
怨憎会苦=うらみ憎む相手に会う苦しみ
求不得苦=求めているものが得られない苦しみ
五陰盛苦=五陰から生じる心身の苦悩

悲嘆を共感する姿勢は必要だが、同調する必要まではないだろう。
宗教者に求められている事はさほど難しい事ではない。

ブラウン&スタウデマイヤーとロバートバックマン:三段階説

1急性期:ショックと精神空白の段階

頭の中が真っ白になり体の感覚をなくしたり、喉が詰まったり、お腹が張ったり、すいたりする。
自分自身に現実感を持てなくなり感覚は麻痺気味になる。
死に対する否認の感情が沸き起こったり号泣するが、これらは突然の苦痛から精神を守る為に起こる防御機能によって生じる。

深い悲しみによって受けた心の痛みは泣くことによって緩和される。
(泣く事によって立ち直りがはやくなる場合がある)
自分自身の方法で悲しみを表現する事が必要である。
泣く事によって心が整理され気をしっかりと保てるようであればよい。
死者に対して共感性が生じる→死因になった部位に痛みを感じたりする。
(胸の病気で亡くなった方の遺族はしばしば胸に痛みを覚える)
1〜2週間続くショック状態であり、周囲は悲しみに対して否定的な言葉や接し方は避けるべき。

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2008-06-04 グリーフケア(4)

人の死は他人事ではなく自分自身にも降りかかる事である、宗教者にとっては一つの葬儀であっても、遺族にとっては宗教儀式がグリーフワークの始まりとなる場合が殆どなのである。
導師として携わる我々としては、遺族に対してのグリーフケア、そして自立に向けたグリーフワークへの一助としての方向性や取り組みについて見出す事ができればと考える。

死別者が体験する作業

デーケン・野口正彰氏などによると衝撃→否認→パニックや怒り→抑うつと精神的混乱→死別の受容という作業を経験するとされている。(この限りではない)

死の現実を受入れる事によって苦しみを覚える。苦しむ事は当然であり、固有のものである。
悲嘆は苦しみを伴い、はやく解放されたいと思うが、この事がこの先の成長や自立、グリーフワークを促進する経験となると考える。
                ⇓
死者と関連のない環境の変化に適応していく。
死者に向けられていたエネルギーを新たな関係に方向転換する。

しかし精神的に死者への同一化が強ければ死別体験者は愛する人の切り離しが難しい。
否定的自己イメージを抱きやすい人→死別に際してのイメージが際立つ事が多い
自分に自信の無い人・自分の存在を肯定できない人→死別で非常に辛い思いをする。

回避・ショック・否定・不信→直面→再確立の繰り返しに陥りやすい。

悲嘆は死者との絆の深さに比例する。

心理的要因により残された者が行う悲嘆に対する対処行動
故人についての話を避ける・仕事や学業に専念する・現実を忘れる手段としての飲食や飲酒や薬物・亡くなった場面や死の細部にこだわる・財産の処分や転居・宗教にのめりこむ・他人との接触を求める
これらは過度でなければ適応的なものとして捉える
死生観や人間的成熟度・過去の経験・人種や文化・宗教的背景などの違いで受ける心理的要因は様々である。

キリスト教では、死後に天国に行き懐かしい家族や友人と再会できると考えられている。
仏教(日本)では死後に仏弟子として修行して仏になる。
または先祖の守り神と言った祖霊化・精霊化して現世での過去から離れた存在になる。
                   ⇓
いずれの場合も「根本的な死後についての確証」はないのである。
死については死者・残された者、死に行く者にとっても切実で不安な問題である。
人の死を通して死に畏怖したり、悲嘆したりするのである。

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2008-06-03 グリーフケア(3)

グリーフ(grief・悲嘆)
悲嘆とは死による喪失から生じる深い悲しみであり、死別に関わる悲嘆は深く心を痛める。
人生のパートナー・家族を失った時、残された者は精神的苦痛を体験する事になる。
また人生の中で大きな時間を失うかのような情緒的苦痛でもある。
親を亡くせば過去を、配偶者であれば現在を、子供だと未来をそれぞれ失うかのようである。
これまでそこにいた人のいない生活に順応するには長い時間を要する作業であると言っていい。
                    ⇓
喪失の悲嘆による精神状態や行動は病気ではないが、適切な処置が必要である。
悲嘆には身体的にも精神的にも大量のエネルギーを必要とする。
(悲しむのにも体力が必要なのである)

大雑把ではあるが、大切な人を失った喪失の悲嘆を如何にして緩和していくかという事がグリーフケア(grief care)であり、大切な人を失った者が立ち直るまでに努力して行う作業がグリーフワーク(grief work)である。

ここでは、第三者(宗教者・葬祭関係者・医療関係者)の遺族以外の者が行う事をグリーフケア
当事者(遺族・死者と関係のある者)が自分自身で行う事をグリーフワークとして考える。

宗教者が遺体に対して儀式を行うのも「グリーフケア」の一つとして考える。
遺族が宗教者に儀式を依頼する、写真や遺品を整理するなどの行為は「グリーフワーク」のひとつとして考える。

これから、死別者が体験する作業・過程を幾つか例示していきながら考えていきたい。

この作業は心から配慮して携わる必要がある。悲嘆に無い者が悲嘆の最中にある者に対して携わるのである。場合によっては無神経さに激怒されたり悲嘆を増す結果にと傷口を広げる結果になりかねない。行為は時として高みから「してあげている」態度に陥りやすくもある。
悲嘆に対する深い共感があってこそなのである。
グリーフケアで必要なのは立ち直る為の指導や助言ではなく、如何にして適切な悲嘆へと心を開き、悲しむことが出来るような環境を用意する事ができるか、そうできるように周囲が心がけるか。(自分がして欲しくないなぐさめはしない事が一番ではある)

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2008-06-02 グリーフケア(2)

喪失の大きさによって自分の精神状態を保とうとする防御本能が起き上がる。
(無感情な状態になる・号泣するなど精神状態を保つ為の感情が働く)

残された者の感情や精神状態をよそに、遺体処理・葬儀・埋葬という客観的事実や社会的義務でもある作業の為に要する時間が待ち受けている。
               ⇓
残された者はこれによって遺族である事を演じるように強いられるのである。
そして社会的・地域的に遺族としての振る舞いを余儀なくされていく作業に移るのである。

我々「導師」として儀式に関わる者として、これらの場面で如何にして遺族の「悲嘆の緩和」の一助として関わるべきかを探りたい。

死の喪失により心の拠り所を求めている者に対して、宗教者としてどのように関わるべきだろう。
儀式の式次第の流れに乗ったまま、対話不足になりがちである感は否めない。

「死者」を送る儀式ではあるが、「残された者」に焦点を向けたい。

先に述べた葬儀の意味を述べた所で、それは「葬儀の成立と意味づけ」であって葬儀を行う理由とはならないのではないだろうか?
悲嘆にくれる遺族の心を緩和する面では、「それでしかるべき世界に送っていただける」という安心は与えるだろうが、それが伝わらなければ理解されるだろうか?
普段から葬儀とは何かという発信と周知がなければ、急な場面で述べた所で理解は難しい・・・

考えるべき事柄が多いが、「グリーフケア」「グリーフワーク」という面から我々が出来る事を見出していく事ができればと考える。

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2008-06-01 グリーフケア(1)

    昨年に書いたレポートの草稿
それから幾つかの葬儀に携わり多くの「遺族になった人々」と接してきた。
未だに自問自答しながら問い続けているそんな内容。

葬儀とグリーフケア・ワークについての考察

葬儀:真言宗(または)仏教では出家者の死に対してのみ葬送儀礼に関わる
   実際は壇信徒や非出家者の葬送儀礼に携わっているが、その場合は死者に対して出家得度・灌頂の儀式を行い僧侶にしてから供養してあの世に送る
                 ⇓
   密厳浄土・弥勒の兜率天(大師の居所)・大日如来が説法する阿迦尼天へ送るとする。

葬儀は仏門に導いて入門させ同門にする儀式行為であり通過儀礼でもある。
通過儀礼とは主に「開始→入門→手ほどき→伝授」と進んでいくのであるが、葬儀の過程はその過程を辿る。

日本では死霊が生者に対して害をもたらすと信じられてきた。また「死に至らしめるもの」への畏怖の念が強く自分にそれが降りかからないようにと強く願った。
死者を死後の世界に加入させる事が残された者の務めであると考えたのである。
魂・霊魂の存在を信じる日本人の中でその条件の一つとして仏教が取り入れられ、葬儀の儀礼が編み出され確立されていったと考える。

葬儀の内容 多くの仏教宗派では葬儀とは「授戒作法」である。
      剃髪・生前の行いを懺悔・戒律を授ける・仏弟子としての名前を授与する・僧侶として出家させた後に供養・読経・・・と進んでいく

葬儀の導師 儀式を司るものとして死者が仏弟子となってあの世の住人になった事を説き、残された者に対しては死者の旅立ちを示し安心を与える存在である。

葬儀の後  遺族は社会的儀礼として社会的に規定された行動としての喪に服する。
      「四十九日」など遺族が死者の成仏を祈る儀礼的期間でもある。
死によって遺族が受ける精神的衝撃や悲嘆を受ける期間を社会が認知した行為でもあると考える。

葬儀・出棺の際に故人の茶碗を割る、棺を回転させるなど、死者が戻ってこないようにする為の所作を行う事がある。
残された者は死者がしかるべき場所に辿り着くようにとあえて決別し、成仏を願う決意をする。
帰るなといいながら成仏を願い、お盆には帰ってくる事を願うのである。
法要・儀式を重ねる事により死者は生者を守る存在となり祖霊へと変化をたどる。
そう信じることによって死別の苦しみから脱却することが可能になり、残された者は未来へと歩む事が可能になるのであると考える。

葬儀は死者には仏道に歩む始まりの儀式であり、遺族には決別を告げるも安心を与える儀式であり、周囲に対しては何故葬儀を行うのか納得のいく儀式であるべきだろう。


現在は葬儀も多様化してはいるが、社会的義務としての死体処理(火葬・埋葬)のみで済ますというケースはまた少数派である。死に対するなんらかの儀式行為を求めている場合が多い。
                   ⇓
葬儀は死の事実を残された者に突きつけて死の事実を認識する重要な意味がある。
          
身近な者の死は看病期間が長ければ一時の開放感を与えるが、主には虚脱感や今までに無い感覚と時間、精神の極限状態をもたらすものである。
                   ⇓
死の否定・死を打ち消したいという衝動にかられるも「死の事実」は目前に突きつけられる。
                   ⇓

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2008-05-01 伝家の宝刀抜けば竹光

久し振りにラジオを聴きながら過ごしていた。
その時に聴いていて思った事・・・・


人は何かと免罪符を欲しがる生物です。
それは私とて例外ではなく、なにかの逃げ道を常に作って生きていきます。
逃げ道や抜け道を失った時に初めてそれに気付くのです。

そしてそれに気付いた時に
「逃げ道はない自分はかわいそうなんだから同情しなさい」
というベクトルで前に進んだり、
「逃げ道ではなく根本から見つめなおそう」
と原点に立ち返ってみたりする。

当の本人にはそれは抜けば威力の高い宝刀のつもりかもしれませんが、
その宝刀を持っている、抜こうとする人はただの過保護の子だと思う。
伝家の宝刀を持っている時点で誰かに与えられたモノしか使えない自分がそこにいるだけ。

何かに守られていなければ生きていけないでは前には進めないと思う。
守られたいのではなく、自分が守るべきではないか?

自分が変わるのではなくて、周りが変わるべきな思考回路が多すぎる。
過保護に育った感性が世界に飛び出せるとは思えない。

出たとしてもすぐに言い訳をしながら帰ってくるだけだろう。

子供は親に甘えられる時は甘えればいいと思う。
それはあくまでも家庭内もしくは親子の中であっての事
親子や家庭の甘えの世界を世間や社会に広げないようにと思う。

かつては光輝く宝の刀だったのだろうが、
振り回しすぎてただの棒切れになってしまっている事に気付かない
そんな事が多くはないかと自分自身を省みながらの一時だった。

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2008-04-16 これです

森一丁さんのコメントを読んですごく考えました
わずかな文章で深い内容のコメント、さすがです。
ありがとうございます

この世の大地には生命の木が生えておりそれぞれの生命体が枝葉の様に描かれている
学校なんかの授業でそんな絵を一度ぐらい見た事あるだろう

そして天敵もいれば相愛の仲もそこにはあり、交わる機会のないままの存在も然り
自らの生命を脅かす存在ですら共存しているのだが全ては一つの生命の木から伸びた枝葉である

どの生命にももれなく枝葉が枯れる時期が訪れ
この世の大地に帰っていく
それが死の時を告げる落葉ではあるが、大地に戻り肥料となり
新たな生命の息吹をもたらす糧となる
大地にしても木にしても枝葉の種類はとりとめのないもの

この世に生きとし生けるものは種類名前は違えども枝から根元に辿れば一つの存在にすぎない
人間はそれぞれの枝葉に名前をつけて枝葉を分類した
そうしてしっかりと枝葉にくっついたままで
自分たちは木から超越した存在であると考えるようになってしまった

名前をつける知能を得たがあたかもそれが生命を作り出したかの様に振舞った
それでも生命の木はただそこに生えている

太陽と大地の恵みを与えられながら生命の木は枝葉を育む
そこには何の区別もないが生えている場所によっての差異が生まれる
日の光をいっぱい浴びられる位置の枝葉
日陰になって日のあたらない枝葉

葉の一つでもある人間も一つの木として考える
その木には多くの家族や民族が人間の木の幹より枝葉へと広がりをみせている
枝葉同志は時に寄り添い時にはこすれ風に揺れている

そんな枝葉の全てに人は名前をつけている
そして自分自身のモノとして大切に守りたいと思いつつ生い茂る

人間という種族として今を生きているとは言えそれぞれの価値観・信条で時に衝突もする
天敵も生まれれば同志も生まれる
それでもそんな生命の木を描けばみんな一つの木の一つ

自分の人生を木にしてみよう
時間と共に枝葉が多く生い茂って豊かな木へと育てたい

時には笑い・時には苦しみ多くの喜怒哀楽をちりばめる
好きな人嫌いな人と人との出会いと共に枝葉が茂る

好きであろうが嫌いであろうが多くの人も人生の色づけをしてくれる
自分の人生の枝葉になる人物とてそれぞれに一つ一つの木があり人生も名前がある
名のない存在はそこにはいない

好きな人にも名前があり嫌いな人にも名前があり、出会う人で会わない人にも名前がある
たとえそれが各々が勝手に付けた呼称であって
生命の木がそうは呼んでいなくとも
生命の木にとっては全てが自分から生み出されている必要で大事な枝葉

自分の木から落ち葉がポトリ
落ち葉は土に帰り自分の木に命を運んでくれる

自然に帰ればそこには何の区別もない
空気もそうだけど
「こいつにはイイ酸素吸わせて、こいつには吸わさせない」
なんて事はせずに誰にもあまねく吸いたいだけ酸素を与える
そして普段は意識したり感じることはなくても必ずそこにあり離れる事はない
自然と一体化した境地とでも言えばええか

ちっぽけな存在ですら壮大な事を考えて尊大になる
ちっぽけな存在がちっぽけなことを考えてちっぽけになる

時に自分という存在に混乱を起こす
喜怒哀楽、好き・嫌いそんな感情が調整剤になる

天敵だってきちんといて名前がないとつまらない
嫌な出来事はたまらんけれど、なければないでどうだろう

あっ迷っててイイんや。。。。。。

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2008-04-16 言われたとおり

遠足は家に帰るまでが遠足なり
無事に家に到着
久し振りに結構歩いた3日間やった。

実家の車が使えなかったので移動は徒歩+公共交通機関
おかげで多くの移動は無理やけど色々な景色を満喫した。

新聞の投書欄で車を手放して歩きの生活になったとたんに
今まで目に留まらなかった景色を堪能できてすばらしい!車を乗るのをやめようよみんな!
ってな感じの事を投書するのがいるけれど、その気持ちがよくわかる。

景色以上に人の動きを眺めながら見えてくる世の中、人間模様は面白い。
もっともその流れに乗るのが嫌な私ではあるけれど。

春の桜は綺麗やけれど
花弁は生命の終わりを自然に委ねて風にまかせて散っていく
土へと帰り肥やしとなって新たな生命を生み出す土壌となる

色々と執着してるけれど私もそんなつたない枝葉の末である
死の風が吹けば自然に任せて散っていく
何も持てずに一枚の花弁がひらひらと。。。。。

祈りの中に祈りがきちんと込められているかい?
その合わせた手は形の為?思いの為?
自分自身に手を合わせるゆとりを持ちたいね

多くの人の中にいたからすごく疲れた
良くも悪くもいい勉強になった外出だ。
ちょっとだけ充電して前に進むかな。
まぁ勉強に行っているんやから気力も知力も体力もつかうけどね。

私はきちんと大地から枝葉に繋がっているかな?
最後の散って風の舞に酔っている所やないやんな。


森一丁さんのコメント

木の葉が子供だとしたら、幹は親なのですかね・・??

親は一枚一枚の葉になんて名前をつけるんでしょうかね??

「大地くん」「水音ちゃん」「太陽くん」「翼ちゃん」

数ある名前の中に、天敵である「人間くん」とはつかないのでしょうかね・・・やっぱ。。。
人間でいう「悪魔くん」と同列なのですかね??

人間は「樹」や「葉」の名前を使いたがるのに・・・あちらはそうではないのですかね。。。

と、のんすけさんの文を読んで、なんだか飛躍して考えちゃいましたが…なんだかなんだかデス。。。

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