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「つれズレ綴り帖」

深い意味も無く、ただ書き綴って行こうかな。
足跡を残していただければうれしいかな。

○●「自己紹介」●○

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2008-06-03 グリーフケア(3)
2008-06-02 グリーフケア(2)
2008-06-01 グリーフケア(1)
2008-05-01 伝家の宝刀抜けば竹光
2008-04-16 これです
2008-04-16 言われたとおり
2008-04-05 わかっているつもりでも
2008-03-01 私の為に世界はあるの
2008-02-01 色々と
2008-01-31 ん〜


2008-06-03 グリーフケア(3)

グリーフ(grief・悲嘆)
悲嘆とは死による喪失から生じる深い悲しみであり、死別に関わる悲嘆は深く心を痛める。
人生のパートナー・家族を失った時、残された者は精神的苦痛を体験する事になる。
また人生の中で大きな時間を失うかのような情緒的苦痛でもある。
親を亡くせば過去を、配偶者であれば現在を、子供だと未来をそれぞれ失うかのようである。
これまでそこにいた人のいない生活に順応するには長い時間を要する作業であると言っていい。
                    ⇓
喪失の悲嘆による精神状態や行動は病気ではないが、適切な処置が必要である。
悲嘆には身体的にも精神的にも大量のエネルギーを必要とする。
(悲しむのにも体力が必要なのである)

大雑把ではあるが、大切な人を失った喪失の悲嘆を如何にして緩和していくかという事がグリーフケア(grief care)であり、大切な人を失った者が立ち直るまでに努力して行う作業がグリーフワーク(grief work)である。

ここでは、第三者(宗教者・葬祭関係者・医療関係者)の遺族以外の者が行う事をグリーフケア
当事者(遺族・死者と関係のある者)が自分自身で行う事をグリーフワークとして考える。

宗教者が遺体に対して儀式を行うのも「グリーフケア」の一つとして考える。
遺族が宗教者に儀式を依頼する、写真や遺品を整理するなどの行為は「グリーフワーク」のひとつとして考える。

これから、死別者が体験する作業・過程を幾つか例示していきながら考えていきたい。

この作業は心から配慮して携わる必要がある。悲嘆に無い者が悲嘆の最中にある者に対して携わるのである。場合によっては無神経さに激怒されたり悲嘆を増す結果にと傷口を広げる結果になりかねない。行為は時として高みから「してあげている」態度に陥りやすくもある。
悲嘆に対する深い共感があってこそなのである。
グリーフケアで必要なのは立ち直る為の指導や助言ではなく、如何にして適切な悲嘆へと心を開き、悲しむことが出来るような環境を用意する事ができるか、そうできるように周囲が心がけるか。(自分がして欲しくないなぐさめはしない事が一番ではある)

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2008-06-02 グリーフケア(2)

喪失の大きさによって自分の精神状態を保とうとする防御本能が起き上がる。
(無感情な状態になる・号泣するなど精神状態を保つ為の感情が働く)

残された者の感情や精神状態をよそに、遺体処理・葬儀・埋葬という客観的事実や社会的義務でもある作業の為に要する時間が待ち受けている。
               ⇓
残された者はこれによって遺族である事を演じるように強いられるのである。
そして社会的・地域的に遺族としての振る舞いを余儀なくされていく作業に移るのである。

我々「導師」として儀式に関わる者として、これらの場面で如何にして遺族の「悲嘆の緩和」の一助として関わるべきかを探りたい。

死の喪失により心の拠り所を求めている者に対して、宗教者としてどのように関わるべきだろう。
儀式の式次第の流れに乗ったまま、対話不足になりがちである感は否めない。

「死者」を送る儀式ではあるが、「残された者」に焦点を向けたい。

先に述べた葬儀の意味を述べた所で、それは「葬儀の成立と意味づけ」であって葬儀を行う理由とはならないのではないだろうか?
悲嘆にくれる遺族の心を緩和する面では、「それでしかるべき世界に送っていただける」という安心は与えるだろうが、それが伝わらなければ理解されるだろうか?
普段から葬儀とは何かという発信と周知がなければ、急な場面で述べた所で理解は難しい・・・

考えるべき事柄が多いが、「グリーフケア」「グリーフワーク」という面から我々が出来る事を見出していく事ができればと考える。

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2008-06-01 グリーフケア(1)

    昨年に書いたレポートの草稿
それから幾つかの葬儀に携わり多くの「遺族になった人々」と接してきた。
未だに自問自答しながら問い続けているそんな内容。

葬儀とグリーフケア・ワークについての考察

葬儀:真言宗(または)仏教では出家者の死に対してのみ葬送儀礼に関わる
   実際は壇信徒や非出家者の葬送儀礼に携わっているが、その場合は死者に対して出家得度・灌頂の儀式を行い僧侶にしてから供養してあの世に送る
                 ⇓
   密厳浄土・弥勒の兜率天(大師の居所)・大日如来が説法する阿迦尼天へ送るとする。

葬儀は仏門に導いて入門させ同門にする儀式行為であり通過儀礼でもある。
通過儀礼とは主に「開始→入門→手ほどき→伝授」と進んでいくのであるが、葬儀の過程はその過程を辿る。

日本では死霊が生者に対して害をもたらすと信じられてきた。また「死に至らしめるもの」への畏怖の念が強く自分にそれが降りかからないようにと強く願った。
死者を死後の世界に加入させる事が残された者の務めであると考えたのである。
魂・霊魂の存在を信じる日本人の中でその条件の一つとして仏教が取り入れられ、葬儀の儀礼が編み出され確立されていったと考える。

葬儀の内容 多くの仏教宗派では葬儀とは「授戒作法」である。
      剃髪・生前の行いを懺悔・戒律を授ける・仏弟子としての名前を授与する・僧侶として出家させた後に供養・読経・・・と進んでいく

葬儀の導師 儀式を司るものとして死者が仏弟子となってあの世の住人になった事を説き、残された者に対しては死者の旅立ちを示し安心を与える存在である。

葬儀の後  遺族は社会的儀礼として社会的に規定された行動としての喪に服する。
      「四十九日」など遺族が死者の成仏を祈る儀礼的期間でもある。
死によって遺族が受ける精神的衝撃や悲嘆を受ける期間を社会が認知した行為でもあると考える。

葬儀・出棺の際に故人の茶碗を割る、棺を回転させるなど、死者が戻ってこないようにする為の所作を行う事がある。
残された者は死者がしかるべき場所に辿り着くようにとあえて決別し、成仏を願う決意をする。
帰るなといいながら成仏を願い、お盆には帰ってくる事を願うのである。
法要・儀式を重ねる事により死者は生者を守る存在となり祖霊へと変化をたどる。
そう信じることによって死別の苦しみから脱却することが可能になり、残された者は未来へと歩む事が可能になるのであると考える。

葬儀は死者には仏道に歩む始まりの儀式であり、遺族には決別を告げるも安心を与える儀式であり、周囲に対しては何故葬儀を行うのか納得のいく儀式であるべきだろう。


現在は葬儀も多様化してはいるが、社会的義務としての死体処理(火葬・埋葬)のみで済ますというケースはまた少数派である。死に対するなんらかの儀式行為を求めている場合が多い。
                   ⇓
葬儀は死の事実を残された者に突きつけて死の事実を認識する重要な意味がある。
          
身近な者の死は看病期間が長ければ一時の開放感を与えるが、主には虚脱感や今までに無い感覚と時間、精神の極限状態をもたらすものである。
                   ⇓
死の否定・死を打ち消したいという衝動にかられるも「死の事実」は目前に突きつけられる。
                   ⇓

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2008-05-01 伝家の宝刀抜けば竹光

久し振りにラジオを聴きながら過ごしていた。
その時に聴いていて思った事・・・・


人は何かと免罪符を欲しがる生物です。
それは私とて例外ではなく、なにかの逃げ道を常に作って生きていきます。
逃げ道や抜け道を失った時に初めてそれに気付くのです。

そしてそれに気付いた時に
「逃げ道はない自分はかわいそうなんだから同情しなさい」
というベクトルで前に進んだり、
「逃げ道ではなく根本から見つめなおそう」
と原点に立ち返ってみたりする。

当の本人にはそれは抜けば威力の高い宝刀のつもりかもしれませんが、
その宝刀を持っている、抜こうとする人はただの過保護の子だと思う。
伝家の宝刀を持っている時点で誰かに与えられたモノしか使えない自分がそこにいるだけ。

何かに守られていなければ生きていけないでは前には進めないと思う。
守られたいのではなく、自分が守るべきではないか?

自分が変わるのではなくて、周りが変わるべきな思考回路が多すぎる。
過保護に育った感性が世界に飛び出せるとは思えない。

出たとしてもすぐに言い訳をしながら帰ってくるだけだろう。

子供は親に甘えられる時は甘えればいいと思う。
それはあくまでも家庭内もしくは親子の中であっての事
親子や家庭の甘えの世界を世間や社会に広げないようにと思う。

かつては光輝く宝の刀だったのだろうが、
振り回しすぎてただの棒切れになってしまっている事に気付かない
そんな事が多くはないかと自分自身を省みながらの一時だった。

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2008-04-16 これです

森一丁さんのコメントを読んですごく考えました
わずかな文章で深い内容のコメント、さすがです。
ありがとうございます

この世の大地には生命の木が生えておりそれぞれの生命体が枝葉の様に描かれている
学校なんかの授業でそんな絵を一度ぐらい見た事あるだろう

そして天敵もいれば相愛の仲もそこにはあり、交わる機会のないままの存在も然り
自らの生命を脅かす存在ですら共存しているのだが全ては一つの生命の木から伸びた枝葉である

どの生命にももれなく枝葉が枯れる時期が訪れ
この世の大地に帰っていく
それが死の時を告げる落葉ではあるが、大地に戻り肥料となり
新たな生命の息吹をもたらす糧となる
大地にしても木にしても枝葉の種類はとりとめのないもの

この世に生きとし生けるものは種類名前は違えども枝から根元に辿れば一つの存在にすぎない
人間はそれぞれの枝葉に名前をつけて枝葉を分類した
そうしてしっかりと枝葉にくっついたままで
自分たちは木から超越した存在であると考えるようになってしまった

名前をつける知能を得たがあたかもそれが生命を作り出したかの様に振舞った
それでも生命の木はただそこに生えている

太陽と大地の恵みを与えられながら生命の木は枝葉を育む
そこには何の区別もないが生えている場所によっての差異が生まれる
日の光をいっぱい浴びられる位置の枝葉
日陰になって日のあたらない枝葉

葉の一つでもある人間も一つの木として考える
その木には多くの家族や民族が人間の木の幹より枝葉へと広がりをみせている
枝葉同志は時に寄り添い時にはこすれ風に揺れている

そんな枝葉の全てに人は名前をつけている
そして自分自身のモノとして大切に守りたいと思いつつ生い茂る

人間という種族として今を生きているとは言えそれぞれの価値観・信条で時に衝突もする
天敵も生まれれば同志も生まれる
それでもそんな生命の木を描けばみんな一つの木の一つ

自分の人生を木にしてみよう
時間と共に枝葉が多く生い茂って豊かな木へと育てたい

時には笑い・時には苦しみ多くの喜怒哀楽をちりばめる
好きな人嫌いな人と人との出会いと共に枝葉が茂る

好きであろうが嫌いであろうが多くの人も人生の色づけをしてくれる
自分の人生の枝葉になる人物とてそれぞれに一つ一つの木があり人生も名前がある
名のない存在はそこにはいない

好きな人にも名前があり嫌いな人にも名前があり、出会う人で会わない人にも名前がある
たとえそれが各々が勝手に付けた呼称であって
生命の木がそうは呼んでいなくとも
生命の木にとっては全てが自分から生み出されている必要で大事な枝葉

自分の木から落ち葉がポトリ
落ち葉は土に帰り自分の木に命を運んでくれる

自然に帰ればそこには何の区別もない
空気もそうだけど
「こいつにはイイ酸素吸わせて、こいつには吸わさせない」
なんて事はせずに誰にもあまねく吸いたいだけ酸素を与える
そして普段は意識したり感じることはなくても必ずそこにあり離れる事はない
自然と一体化した境地とでも言えばええか

ちっぽけな存在ですら壮大な事を考えて尊大になる
ちっぽけな存在がちっぽけなことを考えてちっぽけになる

時に自分という存在に混乱を起こす
喜怒哀楽、好き・嫌いそんな感情が調整剤になる

天敵だってきちんといて名前がないとつまらない
嫌な出来事はたまらんけれど、なければないでどうだろう

あっ迷っててイイんや。。。。。。

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2008-04-16 言われたとおり

遠足は家に帰るまでが遠足なり
無事に家に到着
久し振りに結構歩いた3日間やった。

実家の車が使えなかったので移動は徒歩+公共交通機関
おかげで多くの移動は無理やけど色々な景色を満喫した。

新聞の投書欄で車を手放して歩きの生活になったとたんに
今まで目に留まらなかった景色を堪能できてすばらしい!車を乗るのをやめようよみんな!
ってな感じの事を投書するのがいるけれど、その気持ちがよくわかる。

景色以上に人の動きを眺めながら見えてくる世の中、人間模様は面白い。
もっともその流れに乗るのが嫌な私ではあるけれど。

春の桜は綺麗やけれど
花弁は生命の終わりを自然に委ねて風にまかせて散っていく
土へと帰り肥やしとなって新たな生命を生み出す土壌となる

色々と執着してるけれど私もそんなつたない枝葉の末である
死の風が吹けば自然に任せて散っていく
何も持てずに一枚の花弁がひらひらと。。。。。

祈りの中に祈りがきちんと込められているかい?
その合わせた手は形の為?思いの為?
自分自身に手を合わせるゆとりを持ちたいね

多くの人の中にいたからすごく疲れた
良くも悪くもいい勉強になった外出だ。
ちょっとだけ充電して前に進むかな。
まぁ勉強に行っているんやから気力も知力も体力もつかうけどね。

私はきちんと大地から枝葉に繋がっているかな?
最後の散って風の舞に酔っている所やないやんな。


森一丁さんのコメント

木の葉が子供だとしたら、幹は親なのですかね・・??

親は一枚一枚の葉になんて名前をつけるんでしょうかね??

「大地くん」「水音ちゃん」「太陽くん」「翼ちゃん」

数ある名前の中に、天敵である「人間くん」とはつかないのでしょうかね・・・やっぱ。。。
人間でいう「悪魔くん」と同列なのですかね??

人間は「樹」や「葉」の名前を使いたがるのに・・・あちらはそうではないのですかね。。。

と、のんすけさんの文を読んで、なんだか飛躍して考えちゃいましたが…なんだかなんだかデス。。。

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2008-04-05 わかっているつもりでも

「拝み方教えてください」
「手と手を合わせればいいんですよ」
「そんな事わかってます」

幾度となくそんなやりとりをした事がある。
私は手と手を合わせる事の大切さがすごく奥深い事であると思うが、
「そんな事わかってます」と言い切れる方がすごいと思う。
時折その「手を合わせる事」の大切さを忘れていた事に気付く方もおられる。
読経や作法について聞きたいのは分かるけれど、まず手を合わせる事の大切さや当たり前と思っている事が当たり前でない事に気付く事が最初の段階だろうと思う。

目を閉じて合掌してしばし黙想する。
すぐに何かが頭の中に浮かんでしまうが何も考えない瞬間がある。
その瞬間は宇宙と一体になっていると思ってもいいと思う。
手と手と間にはぬくもりがあり祈りや思いがそこにある。。。。

思いを託して合わす手に偽りはないと思う。それが祈りだろう。

今年は様々な勉強の機会に恵まれた。
おかげで行法に関しても以前より深く出来るようになったと思う。
私の現時点でのレベルは「あたりまえ」の段階かも知れない。
でもその当たり前である事が理解できた事が何よりの成果と自画自賛(笑)
なんせ自分自身がアホであるという事がさらによく理解できる機会にも恵まれた。
これが一番の収穫やったかな(`・ω・´) 

ここ最近は坊守りとしての寺院運営の事で考える事が多い。
年末調整やら決算やら「数字で見る今年」が具体的になってきたからだ。
私が来る以前の事はあまり触れないようにしているが、それを整理してなくてはならないのは私の仕事。かなり大変な事が多すぎるのだが私が坊守りである以上はそれは当然な事であるでぼちぼち消化して行くのみだ。頭が痛い面も多々あるが運営で安心があるのも怠け街道に陥りそうやしね。それにそれがクリアして行く毎に自分の色に染まっていく愉しさがある。昔からあるお寺だけれど自分の想う色に染めて行く作業が出来る事ほどありがたいことはない。間違った方向に行かないようする事の基本が「掃除」であり「ロマン」(笑)なのだと師僧の言葉に思う。

今は勉強できる機会を多くいただけているのが一番のご縁やね。
ホンマこれが一番何よりの事だ。

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2008-03-01 私の為に世界はあるの

久し振りにジャスコまで足を延ばして買い物に行ってきた。
その帰り道の事・・・・

片側二車線のバイパスに入り第二車線を走る
時刻は夕方、次第に車の量も増えだしだ。
制限速度を下回る速度で車は流れる。

別に家路に急いでいる訳でもなく、車は流れている。。。。
時間的にそんなもんかとハンドルを握る。
前方では我先にと車線変更に忙しい車も見える。
ゆるいカーブで先頭の車がちらっと見えた。
その先頭の車の前は全く車の姿がなかった。

二つの車線の先頭にゆっくり走る車が並走していたのだ。
そりゃ渋滞もするわ(笑)
後方からも前に進みたい車がジグザグとせわしない。
でも先頭の2トップに阻まれて先には進めない。
わずかなスキマができたら2トップを抜けて先に進んで行く車達。。。
この2トップは連れではなかったみたいで第一走行車線の車は側道へと消えていった。
気がつけば私の前に2トップのかたっぽがいた。
他に倣って私も第一走行車線に車線変更すると信号が赤になった。。。

第二走行車線の乗用車はおばちゃん二人が乗っていた。
乗用車のドアミラー越しに大口あけて喋る口元がみてとれる。
運転しているおばちゃんも手振りをいれながら喋っている。
もう話に夢中になっていて運転どころではないのだろう。

信号が青になり車を走らせる。
すぐに色々な車がおばちゃんを追い抜いて走っていく。

車内と言う小さな世界の中で周囲を見ずに喋くり倒しているのだろう。
楽しい一時を楽しみながらの歓談。

自分の時は別にいいじゃない、それぐらい。
そう思っている事が周囲の迷惑になっている事もあるのだと気付かされた。
そんな時、車内のTVからこんな言葉が・・・
「○○さん、もっと周囲の空気を読んで!」
それなりに周囲に気を配りながら愉しみたいものだ。

先頭 表紙

2008-02-01 色々と

頭の中で色々と浮かんでは消え、時に留まりながらまた消えていく。。。

変っているようで変っていない
進んでいるようで進んでいない
始まっているようで始まっていない
終わったようで終わっていない
でも確実に生きている

人間って面白いと思う。

まだまだ道の途中やね、何処に辿り着くか知らんけど(^^ゞ

先頭 表紙

2008-01-31 ん〜

他人事と思っていてもそれが他人事であり続けるとは限らない
当事者として関わる事もあれば、第三者として関わる事もあるかも知れない。
そうなれば数多の物事が他人事ではなくなってくる。
でも受け止めすぎると心が重く苦しくなるから見切りをつけるのも必要だ。

心中複雑なモノがあった今日一日やったな。

先頭 表紙


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