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泉木修の「百物語」

 
あなたは鳥のように這い、蛾のようにしたたる。
魚のようにまぐわい、兎のようにひりひりと裏返る。

まぶたを縫ってあげよう。
耳もホチキスでとめよう。
眠れぬ夜のために。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2000-10-05 第七十一夜。 「湖」
2000-10-03 第七十夜。 「春 その一」
2000-10-02 第六十九夜。 「面」
2000-09-30 第六十八夜。 「雪の夜」
2000-09-29 第六十七夜。 「嫉 妬」
2000-09-28 第六十六夜。 「氷 雨」
2000-09-27 第六十五夜。 「ピュグマリオーン」(2/2回)
2000-09-27 第六十五夜。 「ピュグマリオーン」(1/2回)
2000-09-26 第六十四夜。 「郷 愁」
2000-09-25 第六十三夜。 「蜜 柑」


2000-10-05 第七十一夜。 「湖」

 
 ある曇った暗い朝、遠足に出発する。
 湖畔に廻らされた廻廊を歩いていくのだが、紅柄(べんがら)を塗ったこの鉄の廻廊には幾度かの記憶がある。そうだ、父が旅先で倒れたと報らされて母と姉と共に病院に急いだのも確かにこの道だった。
 暗く狭い廻廊の床に設えられた鉄板はところどころ塗料が剥げ落ちて荒い赤錆が毛羽立ち、響く靴音の重さによってその下に湖水が近いことが窺える。廻廊の天井には床と同じ鉄板が設えられ、右手には黒く濡れた岩肌、左の、湖に面した側には丈夫な鉄の網が張られている。
 陰気な行進は続くが、これがいったいどこを目指す遠足なのかはわからない。ただ、一行が通り過ぎたあとあとには必ず何者かによって廻廊の鉄の扉が一つまた一つ閉ざされる音が響き、少なくとも今来た道を戻ることは決してできないことが知らされる。
 やがて廻廊は少しだけ開かれた草地に出て途切れ、行列は無言のままに一人ずつ小さな木造りのトロッコに乗り込んでは膝を曲げて座る。やがて鎖が解かれ、トロッコは、湖の内奥に向けて、水面に見えるか見えないかの高さに敷き渡された長方形の石台の上をごろごろと頼りなく進み始める。
 あたりは夕暮れの気配に包まれ、湖面の果ては陽の消えた空につながって、その、仄かに白光を肌射す蒼ざめた薄絹の闇空は裏地に蠢く毒々しいまでの紅を思わせて妖しい。その闇を背に、竹竿を突いてはトロッコを操る青年のくきりとした影の向こう、石台は湖面の中央を指してまっすぐに伸び続き、やがて岸辺がどの方角にも見えなくなるあたりでしゃっきりと直角に折れ曲がる。
 いつもながらこの角は恐ろしい。いくつか数珠つなぎになったトロッコの小さな車輪のうちどれか一つでも石台を滑り落ちれば最期なのだ。黒々とうねる湖水は浸す指に絡むように重く、生温かい。
 

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2000-10-03 第七十夜。 「春 その一」

 
 蕾のいっぱいに吹いた美しい春の樹に、娘は屍体を垂らしている。
 知恵遅れのその弟、その樹の下に笑いながら蟻の巣を崩す。
 春。
 

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2000-10-02 第六十九夜。 「面」

 
 雨に封じ込められたような夜の街外れ。
 急に何かとても恐ろしいものが近づいてきたような気がして、古い公開堂に走り込む。整然と長椅子の並べられた伽藍堂に身を潜めるところを求めていると、白く懐かしい手が傍らの小部屋に僕を押し入れてくれる。
 壁土の隙から窺える道の角々には銃を携えた兵士達がたむろして油断なく、僕は息を圧し殺す。彼らが狙っているのはこの僕の目玉なのだ。兵士の一人が思い当たったかのように銃を構えてこちらに数歩歩みより、僕は壁から飛び離れて小部屋の中を振り返り見る。
 暗がりに慣れた僕の目に映ったもの、それは壁一面に掛け並べられた祭りを待つ青鬼赤鬼の衣装束であり仮面だった。吊り上がった太い眉、赤く裂けた口、鈍色の牙。
 罠にはまったのだ。あの白い手は兵士達をこの小部屋に招き入れるだろう、怒・怒・怒の塗り込められ固められた鬼供の面には、どれ一つとして瞳がないのだから。
 
 

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2000-09-30 第六十八夜。 「雪の夜」

 
「ぷう。いやあ、助かった。や。お安くないね、玄関に白いパンプスたあ」
「別に」
「こんな時間にお邪魔して、まずいんじゃないか。俺はよそで呑み直してもいいんだぜ」
「どうして」
「だから、奥にいるんじゃないの、この靴の主」
「いないよ。いたってかまわないが」
「ふうん。今夜は留守なんだ」
「誰が」
「いや、だから、この白い靴」
「妹のだ」
「へえ、知らなかった。妹さん、いたのか」
「いないよ。妹なんて」
 

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2000-09-29 第六十七夜。 「嫉 妬」

 
 Nの屍体がある。
 僕は古い家にいて、大きな仏壇を構えた薄暗い部屋を覗き見ている。屍骸の肌は青白いというよりは黒に近い深緑で、隙間なく鳥肌の立っているその様子はあたかも拡大して見た黒真珠の表皮のように思える。屍体は一糸も纏っておらず、ごろりと横たわったままあたりは鉛に封じ込められたような静けさに満ちている。つと、襖を手に立っている僕の傍らを通り抜けて男が──顔は見えない──Nの屍体に歩み寄ると、いつの間にか着衣を脱ぎ捨て、Nの股を押し開いて青臭い腰をそこに押しあてがう。硬直した深緑の肉塊を相手にしたぎこちないが熱っぽいセクスを僕は見るに堪えない気がするが目を離すこともできないで

 気がつくと居間に一人膝を抱えて座っている。いきなり目の前の障子が開き、先程の男が現れる。男はどうやら学生時代の同級生らしい。手にした袋には肉屋の包みが入っており、彼は棚から台秤を降ろしてその重さを確かめる。おおよそ三百グラムの荒挽きのミンチはビニール袋の中、さらに丁寧に竹の皮を模した紙にくるまれていて、ひどく新鮮そうに赤い。Nの肉なのだ。
 納得して僕は立ち上がり、食卓を整える。ガステーブルに向かって僕と男は黙々とミンチを炒め、溶いたメリケン粉に焼き込んではソースをかけて口に運ぶ。
 生焼けのお好み焼きの中に小さな肉の塊を噛み当てたとき、僕は口腔いっぱいの腐乱臭に初めてNの死を思い、それを飲み下した。
 

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2000-09-28 第六十六夜。 「氷 雨」

 
 嵯峨野に向かうバイパスは広い斜線がしのつく雨にうたれ、ときおりすれ違う対向車のライトは目の奥に白い曲線を描いては消える。無口な運転手はラジオの音をしぼり、ときおり面倒そうにハンドルを握り換えては右にあるいは左に車線を変更する。
 前後に車の影もないのに、なぜ、と首を傾げ、それからこのあたりが古戦場で知られていることに静かに思い当たった。
「すると。このあたりにはさぞかしたくさん」
「ええ、まあ」
と運転手はくぐもった声で返す。
「武者鎧の男姿が多いのでしょうか」
「いやあ、今ふうの若い子もたくさんいるようだねえ。とくにいわれはないのだけれど、呼び合うのかもしれないねえ」
「雨にうたれて、冷たいでしょうにね」
「冷たいだろうかねえ」
 それから彼は何度目かにハンドルを切ろうとし、それから面倒そうにそれをおしとめた。つかの間、対向車の光とも違う何かが後部座席の私のすぐ傍をすり抜け、すぅと雨が匂った。
 

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2000-09-27 第六十五夜。 「ピュグマリオーン」(2/2回)

 
 そのうちにアプロディーテーの祭りが近づいてきました──キュプロスの島で盛大に祝う祭りです。供犠(いけにえ)が捧げられ、祭壇には香が焚(た)かれ、その香の匂いがあたり一面にひろがりました。ピュグマリオーンは祭礼での自分の務めを果たしおえると、祭壇の前に立って、はにかみながら言いました、「神々さま、あなたがたがどんなことでも叶(かな)えてくださいますなら、どうかお願いです、私にお授けください、私の妻として」──彼もさすがに「私の象牙の乙女を」とは言えず、そのかわりにこう言いました──「私の象牙の乙女に似た女性を」。この祭りに臨席していたアプロディーテーは、その言葉を聞くと、彼が言いたかった心の内を悟りました。そこで彼に対する恩寵のしるしとして、祭壇に燃えている炎を三度、空にむけて鋭くもえたたせたのです。ピュグマリオーンは家に帰ると、自分の作った像のところへ会いに行き、臥床に身をかがめて、乙女の口に接吻しました。するとその唇はなんとなく暖かいように思えました。そこで彼はもういちど唇を押しあて、自分の手を乙女の体の上に置いてみました。すると象牙はその手に柔らかく感じられました。そして指で押してみるとヒュメトスの山の蜜蝋(みつろう)のようにへこみました。彼は驚き喜びながらも、半信半疑で、自分が思いちがいをしているのではなかろうかと心配して、いくどもいくども恋にもえる熱い手で、この憧(あこが)れの対象に触れてみます。ところが像はたしかに生きていたのです! 血管は、押えてみると指の下でへこみ、放すと元どおり円くなりました。そこでようやく気のついたこのアプロディーテーの崇拝者は女神に感謝のことばを捧げました。そして自分の唇を自分と同じように血のかよっている唇の上に押しあてました。乙女はその接吻を感じると、さっと顔を赤らめ、内気な両の目をこの世の光に向けてあけると、同時に、恋人をじっと見つめました。けれども、ピュグマリオーンはどうしても、愛する姉にそっくりなこの美しい乙女を抱くことができませんでした。

*1 本歌:トマス・ブルフィンチ、大久保博訳、「ギリシア・ローマ神話 伝説の時代」、1970年12月20日発行、角川文庫
 

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2000-09-27 第六十五夜。 「ピュグマリオーン」(1/2回)

 
 ピュグマリオーンは、愛しい女性がついには自分のものにならないことを悟って、とうとう女性を忌(い)み嫌うようになってしまい、一生独身でくらそうと決心しました。彼は彫刻家で、すばらしい腕をふるって象牙の立像を彫っていたのですが、その作品の美しさは、生きた女なぞ誰ひとりそばにも寄せつけぬほどのものでした。それはまったく申し分のない乙女の姿で、ほんとうに生きているように見えました。そして動かないでいるのは、はにかみのためなのだとしか思えないほどの出来栄えだったのです。彼の技術は実に完璧(かんぺき)でしたから、人工の跡も残さず、できあがったものはまるで大自然の手になるものかとも思えました。ピュグマリオーンは自分自身の作品に見とれ、そしてとうとうこの作りものの女性を恋するようになりました。彼は、この像がほんとうに生きているかどうか確かめでもするかのように、何度も手を触れてみました。そしてそれでもこの像が象牙にすぎないのだと信じこむことができませんでした。そこでこの像を抱きしめたり、若い娘たちがよろこぶような贈り物を──つまり、美しい貝殻や滑らかな小石や、かわいい小鳥や色とりどりの花や、じゅず玉や琥珀(こはく)などを、贈りました。また体には着物をきせ、指には宝石をはめ、首には首飾りをかけてやりました。耳にも耳飾りをつけ、胸にも真珠のくさりをかけてやったのです。着物はよく似合って、彼女は裸でいたときにもおとらぬほど美しく見えました。彼はテュロス染めの布を張った臥床(ふしど)に彼女を寝かせ、彼女を自分の妻と呼び、彼女の頭をすばらしく柔らかな羽根枕の上にのせてやりました。それはまるで彼女がその柔らかみを喜ぶことができると思っているかのようでした。

(つづく)

 

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2000-09-26 第六十四夜。 「郷 愁」

 
「つまりね、恐竜の図版ではたいがいの恐竜は現存する爬虫類、たとえばアリゲーターやコモドオオトカゲのように灰色のざらざらした肌で描かれる。ティラノザウルスはなぜだか薄茶色で、同じ肉食竜でもアロサウルスは緑色だ。しかし、これらの色については実はなんの確証もないんだね」
「化石では色はわからない、ということかい」
「そう。アナコンダのように派手な模様があったかもしれないし、体温を維持するために羽毛で覆われていたという説だってある。なにしろ骨や足跡は残っていても、皮膚の形状が残っていることは珍しく、ましてや色まではわからないからね」
「それが、どうしてこうしてアリゾナの砂漠で夜なべすることになるんだい」
「だからね、このあたりは恐竜の化石が多いんだが、どうやらそれは生きたまま崖崩れで下敷きになったらしい。人間だって無念が残れば幽霊になって出てくるだろう。で、幽霊を見れば、お岩さんがどんな着物を着ていたかわかるってもんじゃないか」
「おい。なんだそりゃ。冗談だろ」
「それがまんざら冗談でもないのさ。ああ、そろそろ草木も眠る丑三つ時だな。しっ」
 うながされて私も耳を澄ました。テントの外、遠くかすかな足音が聞こえる。それは何かとても重い生物が、大きな歩幅でこちらに向かうような音。
「おい、これは・・・」
 カメラを取り、急いで立ち上がろうとした私を、友人は肩に手を置いて制した。
「無駄だよ。目には見えない。この幽霊はね、音だけなんだ」

 足音は少しずつ数を増やし、その一団はやがてテントの脇を思ったよりずっと速く通り抜け、それからまた遠くに消えていった。何億年の彼方に。
 

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2000-09-25 第六十三夜。 「蜜 柑」

 
 フリーライターになる前はそこそこ名の知れた会社に務めていたおかげで、明日をも知れぬこの職についてからも多少の無理は利く。その日、俺は大手新聞社の資料庫にこもり、ある雑誌社から依頼された次回のコラムのネタを捜していた。
「マイクロフィルムの扱いはけっこううるさいんだ、あんまり無茶は言わないでくれよ」
「そういってちゃんと古い事実を調べもせず、ずさんな記事書いてられるのがあんたらだろ」
「耳が痛いね。ま、お手やわらかに頼むさ」
 大手新聞の記事の「小学生の自殺が増えている」という表記の嘘を暴いたのが、最近の俺の手柄の一つだ。哀れな子供、愚かな大人の数や比率というものは、洋の東西、時代の古今を問わず、そう変わらないものらしい。俺の仕事は、統計値を元に社会の常識に巣くう嘘を暴くものとして、読者にそこそこ人気を博しているらしい。人様に自慢できる仕事じゃない・・・・しかし、世間は常に人が犬を噛む話を求めているのだ。

 大正八年一月の新聞に目を通していたとき、他愛ない記事がふと気にかかった。
 中村千代という十二の娘が、列車から転落死したとある。神奈川の農家の次女である彼女は、新橋へ奉公に赴くために横須賀発上り二等客車に乗り、県境の隧道を抜けて踏切に達したあたりで窓から墜落している。線路わきの柵に追突後、車輪に巻き込まれ、即死であった。
 それだけならどうということはない。私が妙に気になったのは、彼女の墜落の折に居合わせた三人の弟の言である。彼らは奉公に出る姉を見送るためその踏切のところに立っていたのだ。千代は、その踏切の手前で、餞別のつもりか弟たちに蜜柑を投げた。
 上の二人の弟たちは蜜柑を追ったが、足の利かぬ末の松吉は姉の墜落を目撃した。松吉によれば、姉は蜜柑を投げた後乗り出した身を客車に戻そうとし、急に身をよじらせるようにして客車内を振り返り、それから抗うように墜落したというのである。松吉は怖い顔の細面の男が姉を突き落としたと主張したが、何分幼少のこともあり相手にされなかったことが新聞の文面からも伺える。また、騒ぎが起こった後、その車両にほかの乗客の姿がなかったことも車掌によって確認されている。
 しかし・・・・すると。

 大正八年四月に発表された作家Aの掌編の末尾にある、
「私はこの時始めて、伝ひやうのない疲労と倦怠とを、さうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅に忘れる事が出来たのである」
 という一節ははたしていかなる意味をもつのか。偶然かも知れないが、Aはこの記事が載った二か月後には海軍機関学校嘱託を辞し、今私がこうしてマイクロフィルムをあさっている新聞社の社員としてほぼ専業作家生活に入っている。この事件の記録が彼をして作品にしたためさせたのか、あるいは逆に松吉の証言したところの・・・・。
 無論今となっては、誰にも確認のしようのないことだ。

 Aがベロナアルを服毒して自殺したのは、その事件から八年後、昭和二年七月のことである。
 

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