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口車版「雑学の泉」

 
なんで,こんなにいろいろなどーでもよいこと,知っているのでしょうかねぇ。



口車筆無精乃介、IT業界を語る  口車大王「旅のおもひで」

ふぁんレターはこちら

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2000-09-05 [昔話]口車、「そこ」について語る その7 口車、訪れる 後編
2000-09-04 [昔話]口車、「そこ」について語る その6 口車、訪れる 前編
2000-08-30 [昔話]口車、「そこ」について語る その5 口車、訪れる 予告編
2000-08-29 [昔話]口車、「そこ」について語る その4 博物館
2000-08-28 [昔話]口車、「そこ」について語る その3 建設から解放まで
2000-08-27 [昔話]口車、「そこ」について語る その2 歴史的背景
2000-08-26 [昔話]口車、「そこ」について語る その1 1939年9月1日
2000-08-24 [書評]『ヒゲのウヰスキー誕生す』川又一英 / 新潮社
2000-08-23 [書評]『大使閣下の料理人』西村ミツル作/かわすみひろし画 / 講談社
2000-08-21 [書評]『気まぐれコンセプト』ホイチョイ・プロダクションズ / 小学館 近ごろの若いもんは、、、


2000-09-05 [昔話]口車、「そこ」について語る その7 口車、訪れる 後編


●口車、訪れる 後編

 ビルケナウから取って返し、我々はアウシュビッツ I に向かいました。ここには展示室があるせいか、ビルケナウよりは訪問者が多いようです。ビルケナウでは見かけなかった、観光バスが何台か止まっており、駐車場の先には、HOTELの文字も見えます。いったいだれが宿泊するのでしょうか。私は、願い下げです。

 記憶では、駐車場で車を降りて、すぐ建物に入ります。駐車場から展示室に向かっている人達は、しゃべりながら向かっていきます。ところが、すれ違う人達は、例外なくだれも無口で、うつむいて沈欝な表情です。

 最初の建物に入ると、解放後救出された人達のやせさらばえた裸体の写真パネルが、ずらっと並んでいます。先ほどまでいた、ビルケナウの「現実」を見せつけられます。そして、解放されたときの映画の上映。言葉を失います。

 続いて中庭を通り抜け、"Arbeit Macht Frei."(働けば、自由になる)と書かれた門に向かって歩いていきます。その先には、現在展示室となっているレンガ作りの建物が続いています。ここで、我々はさらに息を飲むことになります。

 順路にしたがって歩いて行き、ある部屋の左手を見た瞬間、幅5メートル、奥行き3メートルはあろうかという、大きなガラスケースが目に飛び込みます。そこには、何と、数千人分はあるかという女性の髪が、三つ編みのリボンもそのままに、ガラスケースに展示してあります。

 ビルケナウ収容所に送られたユダヤ人は、「シャワーを浴びさせる。」と言われ、ガス室に入れられます。そして水の代りに毒ガスを浴び、クレマトリア(焼却炉)で焼却されます。死体から着衣をはがす手間を省いたのです。また、当初クレマトリアの建設が間に合わず、死体はバンカーで野焼きされていました。そのために、ビルケナウでは遺骨を踏みしめることになります。これらの髪の毛は、その殺された死体から刈り取ったのでしょうか。

 しかし、この髪の毛の山は、単なる序章でした。ガラスケースの展示から振り返った瞬間、さらに言葉を失うことになります。

 ガラスケースの反対側には、その髪の毛で編んだ絨毯が置いてあります。その隣には、死体を焼却したときに出る油から作った、石鹸が展示してあります。さらにその脇には、毒ガスシクロンBの缶が。さらに次の部屋へ進むと、死体からはぎ取られためがねと義足が、山のようになっています。

 ユダヤ人を殺して、使える「資材」は何でも使う。それはもう、家畜といっしょです。いや、家畜以下でしょう。家畜はちゃんと食事も与えられるのですから。ユダヤ人を筆頭に、ここで殺された人達は、単なる「物」でしかなかったのです。

 その直前までの、明白な生きていた証と死んだ後の姿を対比してこれでもかというくらいに見せつけられ、何を語れば良いのでしょうか。後ろから頭をひっぱたかれたような衝撃です。

 なぜ、展示を見終わった人達が、押し黙り、うつむいて戻ってくるのか、良くわかりました。我々も、その例外ではありません。

 ここが、ヒトラーの作り出した特別のものではないことは、その後の歴史が証明しています。我々日本人も、他人事ではないのです。

 合掌  完結編へ

先頭 表紙

博物館で上映している、解放当時の映画を見ると、妙に収容者が少ないのですね。自分で歩ける人達は、第三帝国領内奥地へ連れていったのです。すでに書きましたが「死の行進」というやつです。厳冬の1月に移動していますから、ばたばた移動中に収容者は死んだようです。ただ、親衛隊も相当あせっていたようで、撤収から逃れて収容所に残った人もいますし、建物もすべて壊しきっていません。 / 口車大王 ( 2000-09-06 08:55 )
烏丸が「ここ」について知ったのは,中学のときに担任に薦められて本を読んで,でした。当時と比べても,「ここ」や「広島」「長崎」をきちんと語る本があまりに少ないように思います。あるいは少年コミック誌などに「ここ」や「広島」「長崎」「水俣」等について掲載されることがすっかりなくなったことも非常に気になります。実は広島の記念館さえ,むちゃくちゃヌルいわけで。 / 烏丸 ( 2000-09-06 00:56 )
刈り取られた髪の毛がドイツ内に送られ,クッションの詰め物の材料にされた,という話を読んだことがあります。すると,物持ちのよいドイツの家では,何も知らずにそのクッションを大切に使っている,ということもあるのでしょうか。ルフトハンザに感じられる勤勉,清潔とのあまりのギャップにくらくらしてしまいます。 / 烏丸 ( 2000-09-06 00:50 )
ドイツの敗戦が決まって、アウシュビッツは証拠隠滅ラッシュだったそうですね。近年「ホロコーストはなかった」という主張を展開する人がいます。そういうウソで歴史捻じ曲げをさせないよう、アウシュビッツービルケナウは永久保存されなければならないのですね。 / ドイツ語会話を挫折した私 ( 2000-09-05 22:45 )

2000-09-04 [昔話]口車、「そこ」について語る その6 口車、訪れる 前編


●口車、訪れる ビルケナウの巻

 皆さま、永らくお待たせいたしました。いよいよ、本編です。

 19XX年8月のある日の午後、口車はポーランドに遊びに来た弟とともに、口車の居住地のプォーツクでチャーターしたタクシーのおぢさんの車で、宿泊先のクラコフからオシフィエンチムへ向かいます。天気は快晴、東独製トラバントの空冷エンジンは、独特のエンジン音を軽やかに響かせます。緑豊かな盛夏のポーランドの平原の中を、ああ、なんと気持ちの良いドライブでしょう。

 1時間少々走ったころでしょうか、鉄道の陸橋を越えると、眼前に刑務所の監視塔のような建物が飛び込んできました。そうです、ビルケナウです。タクシーは、監視塔の下のゲートから、構内に滑り込みます。そして、駐車場に静かに止まります。おもむろに、3人は車を降りました。するとどうでしょう、今まで雲ひとつなく快晴だったのが、一転にわかにかき曇り、突然突風が吹きつけ始めました。まるで、ここで理不尽に殺された人達の怨念の声を届かせようとするかのように、その風は膚にちりちりします。

 我々3人は、展示コースになっているバラックへと向かって歩きます。建物に入った途端、鼻孔に異臭が飛び込んできます。もう何十年も経つのに、仄かに異臭が残っているのです。粗末な建物の中の粗末な二段ベッド。冬場には、氷点下摂氏20度にもなろうかというこの地で暖房もなく、ろくな食事もなく、いつ殺されるかわからない、いつのたれ死ぬかわからない、絶望的な状況の中で、ここに押し込められた人達は、如何にして生きる希望を持ち続けたのでしょうか。年月を越えてなお残る異臭の中に、ここに暮らした人達の、情念が伝わってきます。ただ、そこに立っているだけで、気持ちが重たくなっていきます。

 バラックを通り抜けると、目の前にモニュメントが広がります。今はもう覚えていないのですが、鎮魂の文言が数カ国語で石碑に刻まれています。その奥には、ナチスドイツが証拠隠滅のために爆破し、廃虚となった死体焼却場クレマトリアが見えます。ここで行われたことに思いが至るとき、口をついて出る言葉はありません。相変わらず空はどんよりと灰色、風が止むことはありません。

 それにしても、寒いわけでもないのに、なぜこんなにぞくぞくするのでしょうか。

 後年、イギリスのグラナダテレビ製作のドキュメンタリーを見て、戦慄を覚えました。このドキュメンタリーは、ビルケナウの生存者が再びこの地を訪れるというもので、彼女は我々が歩いたのと同じ道を歩きながら、過去をなぞっていきます。そしてあるところで立ち止まり、そこの土を掘り返します。すると、犠牲となった人の人骨が、ぞくぞくと出てくるのです。

 我々は、犠牲者の遺骨を踏みしめて、歩いていたのでした。

続く

先頭 表紙

でも,掘ったらいたるところから出てきそう。 / 烏丸 ( 2000-09-07 16:13 )
をを、明るくなった。 / ぽた公 ( 2000-09-07 15:34 )
シリーズ終了で、この暗くなったバックも元に戻るのだろうか? / ぽた公 ( 2000-09-06 16:20 )
く、暗くなった。 / ぽた公 ( 2000-09-04 11:11 )
うーむむむ。 / 烏丸 ( 2000-09-04 00:57 )
をを… / ぽた公 ( 2000-09-04 00:16 )

2000-08-30 [昔話]口車、「そこ」について語る その5 口車、訪れる 予告編


 これまで、「そこ」について、どのような背景で設置され、現在はどのようになっているのかについて、長々と説明してまいりました。しかし、客観的な事実のみに記述をとどめ、ちくちくと膚を刺すような「こわさ」については、語ってまいりませんでした。いよいよ、口車が訪れたときの、こわい体験について語りたいと思います。

 しかしながら、残念なことに本日は時間がございません。ということで、本日は予告ということで、これまでとさせていただきたいと思います。せっかく「桟敷席」に置いていただいたにも関わらず、恐縮です。

 ああ、この文章を書いているだけで、ちりちり、ぞくぞく来ています。アウシュビッツ・ビルケナウ博物館のホームページにアクセスしてしまったことによって、どうも呼び寄せてしまったようです。

 ひまじんネットにリンク張ってしまいましたから、ほら、皆さんのところにも。。。

続く

先頭 表紙

ドイツ語会話学校を脱落した私様、私の日記にもその写真を貼り付けましたが、入口の文言は"Arbeit Macht Frei."です。訳すと「働けば自由になる。」と言ったところですか。とんでもないうそっぱちですね。ワルシャワの戦争博物館は、ワルシャワ蜂起の時の武器も展示されています。中でも目を引くのが、ドイツ軍が使ったリモコン式の戦車「ゴリアテ」。全長1メートルくらいのちっこいこのですが、こいつに爆弾を積んで爆発させたわけです。 / おフランス語挫折した口車大王 ( 2000-09-02 22:55 )
7年前、私は軍事フリークの主人とアウシュビッツ・ビルケナウに行きました(ワルシャワの武器ゴロゴロ軍事博物館も)。入り口のドイツ語Arbeit Machat...(働けばナントカ)の標語、ド迫力でした。訪れた人みんな言葉にならないんですね。ここでその昔現実に起きた残虐シーンを考えると。子連れではまだ行きたくないな。でも、ポーランドとハンガリーはまた行きたい。 / ドイツ語会話学校を脱落した私 ( 2000-08-30 22:47 )

2000-08-29 [昔話]口車、「そこ」について語る その4 博物館


博物館

 1947年、ポーランド議会は収容所のうち、アウシュビッツIとアウシュビッツII(ビルケナウ)を「アウシュビッツ・ビルケナウ博物館」として永久保存することを決めます。そして、1979年、「アウシュビッツ・ビルケナウ博物館」は、ユネスコ世界遺産として登録されます。後年、広島の原爆ドームも世界遺産として登録され、第二次世界大戦の大量虐殺の「遺跡」は、こうして人類の負の遺産として、保存されることとなりました。

 アウシュビッツIのレンガ作りの建物は、展示室として利用されています。また、ここに、訪問者のための受付施設があります。

 ビルケナウ収容所は、入り口の監視所、バラックの一部、そしてSSによって爆破破壊されたガス室とクレマトリアが、そのまま保存されています。古い写真には入り口のところに鉄道が走っていますが、現在、鉄道はなくなっています。

 アウシュビッツの元々のポーランドの地名はオシフィエンチムであり、現在のポーランドの地図を見ても、アウシュビッツという地名は見当たりません。アウシュビッツIは、オシフィエンチムの市街中心から約3キロ、アウシュビッツII(ビルケナウ)は約5キロの位置にあります。それぞれの距離は、約3キロです。落ち着いて見て回るには、半日は考えておいたほうが良いでしょう。

続く

先頭 表紙

2000-08-28 [昔話]口車、「そこ」について語る その3 建設から解放まで


●建設から解放まで

 ポーランド占領の翌年、1940年の半ばに、ナチスドイツはポーランドの古都、クラコフ西方60kmのオシフィェンチムをアウシュビッツと改名し、当地のポーランド陸軍の兵舎を、収容所として転用します。これが、後世絶滅収容所と呼ばれる施設の始まりです。アウシュビッツの収容所には、まずポーランド人の知識階級、政治犯が収監され、殺されました。続いてソビエト軍の捕虜、ジプシー(Roma)、その他の国の囚人が収監され、殺されていきます。劣悪な環境と拷問、そして人体実験によってです。さらにヒトラーは、1942年の初頭、アウシュビッツを「ユダヤ人問題の最終解決」の場とします。ここにアウシュビッツ収容所は、歴史上最大の、ユダヤ人に対する大量虐殺の場へと、変容していきます。

 アウシュビッツはヨーロッパの真ん中に位置し、「貨物」の輸送が容易であったことで、どんどん拡張されます。アウシュビッツ絶滅収容所は、ポーランド陸軍の兵舎を転用したアウシュビッツI、1941年に、3キロ郊外に作ったアウシュビッツII(ビルケナウ)、1942年に6キロ郊外の工場に隣接して作ったアウシュビッツIII(モノヴィッツ)から成ります。アウシュビッツII(ビルケナウ)は最大のキャンプで、木造のバラックが建ち並んでいます。ここにガス室や焼却場(クレマトリア)といった、虐殺のための主な施設が作られました。ヨーロッパ各地から送られたユダヤ人は、ただちにビルケナウに送られて殺されました。また働ける者は、モノヴィッツの収容所に送られました。そして結局はビルケナウで、殺されます。そして、1945年1月27日、ソビエト赤軍が解放するまで、大量虐殺は続けられました。

 この4年半ほどの間に、110万から150万の人々が、この地で虐殺されました。

 戦争の終盤、ナチスドイツの敗色濃厚となると、収容所を管理していたナチスドイツ親衛隊(SS)は、証拠隠滅のため収容所を破壊し、歩ける囚人をドイツ第三帝国本国の奥へと、連れ去ります。「死の行進」と呼ばれているものです。ソビエト赤軍には、「死の行進」から逃れ、収容所の中に隠れていた人達が救出されました。ビルケナウ収容所には、現在爆破されたガス室とクレマトリアが、そのまま保存されています。

続く

先頭 表紙

あ、すいません、余計なちゃちゃ入れちゃって。 / こすもぽたりん ( 2000-08-28 12:11 )
その答えは、もうちょっと待って下され。 / 口車大王 ( 2000-08-28 10:45 )
私はいわゆるアウシュビッツについて、これまで「アウシュビッツ-ビルケナウ」と呼んできましたが、「アウシュビッツII」が正しかったわけですね。ふむふむ。 / こすもぽたりん ( 2000-08-28 08:45 )

2000-08-27 [昔話]口車、「そこ」について語る その2 歴史的背景


●歴史的背景

 ポーランド侵攻直前、ヒトラーは「ダンツィッヒ回廊の奪回」をドイツ国民の悲願として煽っていました。第一次世界大戦終結後のベルサイユ条約でポーランドが独立を果たしたとき、東プロイセンとしてドイツ領が飛び地で残りました。これは現在、カリーニングラードがロシアの飛び地としてポーランドとリトアニアに挟まれてありますが、ほぼこの地域です(半分は現ポーランド領のマルボルク)。そして、ベルサイユ条約により、グダンスクすなわちダンツィッヒが自由都市としてドイツから切り離され、東プロイセンは飛び地となったわけです。この飛び地になった東プロイセンを、連続した領土として奪回しようというのが、ヒトラーの主張でした。

 東プロイセンは、13世紀、ここに古プロイセン人という、ドイツ人とは全く関係のない種族が居住しており、常にポーランド王国を脅かしていました。そこで古プロイセン人をやっつけるため、12世紀以来入植者として招いていたドイツ騎士団を、ポーランド国王は安易に傭兵として雇いました。このドイツ騎士団によって古プロイセン人は殲滅されましたが、彼らは代りに東プロイセンに居座ってしまい、不思議なことに、ドイツ人は古プロイセン人の文化を伝承し、自分たちのものとしました。そしてなんと、ポーランド王国と敵対するようになります。それで、東プロイセンは、ドイツ人が住む地域となったのです。考えてみれば、この13世紀に、すでにドイツ人はジェノサイドをやっていたことになります。

 こういう歴史的背景により、ヒトラーは、「ポーランドはドイツのものである」と、勝手なことを言っていたようです。第三帝国にとって、「平坦な土地」という意味のポーランドは、安全保障上も経済上も、なくてはならない土地だったのです。ポーランド侵攻はグダンスクへの艦砲射撃によって始まりましたが、理由はこのためです。1939年8月23日、独ソ不可侵条約が締結され、その8日後、ナチスドイツは安心してポーランドに攻め込んだのです。

続く

先頭 表紙

2000-08-26 [昔話]口車、「そこ」について語る その1 1939年9月1日


 久しぶりの、ポーランド昔話でございます。

 これまで、ポーランドの昔話は、どちらかというとおちゃらけ話を書いてきましたが、怖い話を書いてみたいと思います。そうです、ここのところ話題になっている「そこ」の話です。

 作り話ではない、本当の怖い、怖い話を。。。

 「そこ」とは、そう、アウシュビッツのこと。ホロコーストの代名詞となっている場所です。まずは「そこ」についての背景について、語りましょう。

●1939年9月1日

 ヒトラーは、ポーランド軍が当時ドイツ領にあった鉄塔を爆破したとしたという話をでっちあげ(どっかで聞いたような話だ)、それをきっかけに1939年9月1日、グダンスク(ダンツィッヒ)に寄港していたドイツ海軍の戦艦が市街地に向かって艦砲射撃を開始し、それと呼応するようにドイツ機甲部隊がポーランドになだれ込み、これによって第二次世界大戦が勃発しました。そして9月30日にはポーランドは降伏します。

 実はこのとき、ソビエト軍もポーランドに攻め込み、ポーランドを2対1で分割し、それぞれ併合してしまいました。独ソ不可侵条約には、こういう秘密協定があったのです。

 第一次世界大戦後、1919年のベルサイユ条約によって、それまでの約100年間、ロシアとプロシアとオーストリアに分割されていたポーランドは独立を果たします。しかし、たった20年で、またこの世からポーランドは消えてしまいます。

 ところで、第二時大戦後、ソ連に乗っ取られたポーランド領はそのまま現在のベラルーシ領となり、減った領土はドイツから分捕り、オーデル・ナイセ川が国境となります。東プロイセンは、ドイツとソ連で「山分け」となりました。したがって、第二次世界大戦を挟んで、ポーランドは国土が西にずれています。そして、東プロイセンを含め、先祖伝来の地に住んでいたドイツ人は難民と化し、日本が満州で味わったどころではない悲劇を味わいます。ヒトラーがばかなことをしなければ、起きなかった悲劇です。北方四島がなぜなかなか返還されないか、理由のひとつです。

続く

先頭 表紙

静聴。 / 烏丸 ( 2000-08-28 11:58 )
をを、『あれ』の話が、ついに。 / こすもぽたりん ( 2000-08-26 09:26 )

2000-08-24 [書評]『ヒゲのウヰスキー誕生す』川又一英 / 新潮社

 日本のウィスキーの歴史を知るには、まずこの一冊。

 海外の工事現場に、単身で長期滞在していると、休日に結構やることがなく、読書量が増えるものである。ま、別の方面に行ってしまう御仁もいるが、定常的に月130時間の残業なんていうと、だいたい休みの日はごろごろしていたいものである。特にタイの工事出張はそうであった。だって、怠惰。

 さて、オヤジギャグはおいておいて、本題である。

 そんなタイの工事出張でのある日、宿舎の食堂に来てみると、書架に日本から新しい本が届いていた。そんな中の一冊が本書であった。

 一言で言うと、本書は竹鶴政孝の伝記である。私は、竹鶴政孝という人物が、ニッカウヰスキーの創業者であることは知っていた。それで本のタイトルでピンと来てすぐ手にしたわけであるが、竹鶴政孝がとんでもない人物であることがわかる。本当に本物を追及して、スコットランドに4年も留学し、大学で勉強するだけでなく、蒸留所で働きながら、門外不出という技術を習得してくるのである。その情熱はただものではない。しかも、一生の伴侶まで連れて帰っている。

 かねがね、日本のウィスキーは世界的に見ても大変美味しいと思っていたが、納得である。

 そしてもうひとつ驚いたのは、現在のサントリーウィスキーも、彼が立ち上げているのである。彼は10年間寿屋(現サントリー)に在籍し、退職して日本果実酒株式会社を創業している。私は常々、同じ金を出すなら、ニッカの方がうまいと思っていたのだが、本書を読んでその理由がわかった。もっともニッカの方がうまい理由は、もうひとつある。それは、ニッカの方が売れていないから。

 竹鶴政孝という人は、なかなか強烈な人物であったようである。そのあたりも、きれい事だけではなく、うまく書ききれている本書である。

 なお、広島県竹原市にある竹鶴酒造は、竹鶴政孝の生家である。また、てっとり早く、竹鶴政孝とリタ夫人について知りたい場合は、リタ物語参照のこと。ただし、いきなり音楽流れるから、要注意。


国会図書館OPACデータ
出版地 :東京
出版者 :新潮社
出版年月:1982.11
資料形態:239p  20cm  1100円
NDLC:KH258
NDC :913.6
請求記号:KH258-417

ヒゲのウヰスキー誕生す  川又一英‖著


出版地 :東京
出版者 :新潮社
出版年月:1985.11
資料形態:298p   15cm   360円
シリーズ名: 新潮文庫  
ISBN:4101428018
NDLC:KH258
NDC :913.6
請求記号:KH258-648

先頭 表紙

あ、OLちゃんだ。いいな。誰に言っているんだ、私。(最近、ナンシー関調を勉強中) / こすもぽたりん ( 2000-08-25 13:19 )
はは、よろしく。今忙しいので、これまでに書きためた書評を流していますが、近々ポーランド昔話復活の予定です。ごひいきに。 / 口車大王 ( 2000-08-25 11:40 )
次なる愛読日記を探すべく旅に出ているわたし。初めてココに来てみたら、私達の名前が出ていてびっくり。同期に宣伝しておきます。 / 傷心癒えぬOL旭1号 ( 2000-08-25 10:11 )
ぽた公の伸びは、地道なリロード作業の成果です(うそ)。なんか家に酒がなくて寂しいから、「やまや」に買いに行こうかなっと。 / こすもぽたりん ( 2000-08-25 09:14 )
不肖口車、ぴったし20日にして1000ヒット達成と相成りました。ぽたさまの異常な伸びをみているとたいしたことないようにも思いましたが、考えてみると早いんですね。結構常連さんをぶっちぎっているのでわかります。で、アルマニャックですが、やです!山崎はありません(ちなみにキンカン本舗の社長は山崎)。やっぱ旭美人OL7人衆を筆頭に、常連の女性の皆さまと飲める機会まで取っておきますわ。 / 口車大王 ( 2000-08-24 21:51 )
あ、ほんとだ、1,000ヒットだ。アルマニャックとは言いません、『山崎』ください。 / こすもぽたりん ( 2000-08-24 15:37 )
あ。今ちょうど1000ヒットなのですわ。記念にアルマニャックくださいなのですわ。 / 烏丸 ( 2000-08-24 14:31 )
うえ、今の口車には、べっせかいーーーーーー。我が家にある一番高い酒は、5万円のアルマニャックだな。確か50年もの。 / 口車大王 ( 2000-08-24 13:20 )
なんか、サントリーが1本50万円のウヰスキー出すらしいですね。角瓶が500本買えちゃいますね。どっちがいいかって、多いほうがいいですよねえ。 / こすもぽたりん ( 2000-08-24 09:59 )

2000-08-23 [書評]『大使閣下の料理人』西村ミツル作/かわすみひろし画 / 講談社

 料理とは、機転と思いやりである。

 この漫画は、駐ベトナム大使館に単身赴任した、所帯持ちのコックの物語である。おもてなしの料理とは、そのおもてなしをする「主人」の人間性をさらけだすということを、淡々と綴っていくのが、この物語の主軸である。「主人」である大使と、それを支える厨房の責任者の主人公との信頼関係が、読んでいてなんとも気持ちが良い。

 加えて、ベトナムの日本大使館が舞台という設定が、なんとも興味深い。大使館の内側でどのようなことが行われているか、余人に知る由もない。登場する日本の外務大臣とかちょっとカッコ良すぎるのであるが、どろどろした外交官の世界とか、垣間見せてくれる。

 そして、ベトナムの風景である。未だベトナム戦争の傷跡が残る中、豊かなベトナムの農村とたくましく生きる市井の人達を描く。ベトナム大統領はご愛嬌であるが。

 ああ、ベトナムに行ってみたい。

 話は戻るが、最近の物語ではソムリエを登場させ、もてなすということはどういうことか、再認識させてくれた。田崎真也氏がなぜ世界一のソムリエとなったか、彼の言動はなぜ快感を与えてくれるのか、すなわち、ソムリエとは本来どういう存在であるのか、物語の中でその理由を具体的にわかりやすく提示している。世の中、ソムリエ自身もお客も勘違いしているのが多いのである。

 料理をテーマとした作品としては、最も好きな作品のひとつである。

先頭 表紙

おお、mishikaさんもアオザイがお好きで! 私、"Good Morning Vietnum!"を見てから、大のアオザイファンになっちまいまして。普通の人はロビン・ウィリアムスのファンになるんだろうけどなあ。 / こすもぽたりん ( 2000-08-26 11:33 )
僕もアオザイ姿の娘さんと友達になりたい。いえいえ、それ以上のことは望んでおりません、と嘘をついたりする。 / mishika ( 2000-08-25 13:45 )
私、アオザイ姿の娘さんが、大好きです。 / こすもぽたりん ( 2000-08-25 13:20 )

2000-08-21 [書評]『気まぐれコンセプト』ホイチョイ・プロダクションズ / 小学館 近ごろの若いもんは、、、

 もう10年くらい前になるであろうか、今はもうなくなってしまった、赤坂一ツ木通りTBS会館真ん前、神戸屋ベル2階のパブレストラン「イエスタディズ」にて、学生アルバイトのボーイ君に、

 「今の我々の遊びのスタイルは、口車さんの世代に形作られていますから。」

と言われたことがある。おお、なるほど!

 ちなみになくなってしまった「イエスタディズ」は、あのTBS「3時に会いましょう」制作会社御用達でもあった(わかる人にはわかるか)。

 1969年、東京大学安田講堂が陥落し、学生運動は一気に沈静化に向かった。70年代、よど号ハイジャック事件や三菱重工爆破事件、そして浅間山荘事件といった学生運動の残滓のような事件が起きるが、もはや広く一般的な学生運動とは乖離していた。70年代の学生はと言えば、「無気力、無感動、無関心」の「三無主義世代」と揶揄され、マスコミにでくの坊のように言われていた。

 一方学生運動の沈静化と反比例してモータリゼーションが一気に爆発し、若者必須アイテムの車が比較的容易に手に入るようになり、またテニスやスキー、サーフィンといった遊びも、大衆化していく。そんなご時世に、頭でっかちに熱くなって、中身のない空虚な議論に血道を上げるなんて、いったいだれがやるだろうか。世の中もっと楽しいことがいっぱいあるのである。学生の関心事は70年代初頭大きく変わり、いわゆる「軟派」が主流となったのである。ちなみに「軟派」転じて「ナンパ」という単語が登場したのは、ちょうどこの頃である。「三無主義世代」と言われても、ま、しかたありませんな。

 さて、本題に戻ろう。

 ホイチョイ・プロダクションズ代表にして元日立製作所宣伝部馬場康夫氏は、そんな「三無主義世代」まっただ中の人である。自分たちが流行を作っているという自負が、本作品の中にあふれている。「三無主義世代」の、「無気力、無感動、無関心だとぉ。なめんなよ!」という怨念すら感じるのである。

 そして、そしてである。近ごろの若いもんが、「三無主義おぢさん世代」の馬場康夫氏に、手玉に取られている。iモードだ、プレステ2だ、クラブだと言ってみたところで、「三無主義おぢさん世代」のお遊びの世界で、ちょっと暴れているだけではないの。情けないねぇ。自分たちもいずれおぢさんおばさんになることに考えが至るとき、「我々の若いころはね、、」というアイデンティティがないと、つらいよぉ。

追伸 ほぼ、歳がばれたかな。

先頭 表紙

あ、そういう取り方もありますね。語源は、烏丸様の書評を参照のことあるよ。 / 口車大王 ( 2000-08-25 14:42 )
要するにボクと同じくらいの年齢と言うことですな。 / mishika ( 2000-08-25 13:47 )
あれ、また増量されてきりの悪い数字になってる?? / こすもぽたりん ( 2000-08-22 18:18 )
あれ、また増量されて32%になってる。「きりのいい数字」にしましたね? / こすもぽたりん ( 2000-08-21 17:44 )

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