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揚水の「人生薔薇色計画」

僕のハンドルは「ようすい」ではなく「あげみ」と読みます。表記はaghemiとしています。

妻の海月は「くらげ」と読みます。



ふりぃのかうんた

yesterday ふりぃのかうんた today ふりぃのかうんた


自分が何者であるか今よりももっとわからず身悶えしていた学生の頃、何をしたらいいのかについて友達と話しに話した。
結論は出なかった。どころか何をしてもいいんだということにすらなった。
ただし、本当に何をしてもいいというのではなかった。
一つだけ基準がある。
それは俺の、俺たちの、ひいてはほかの人たちの人生を薔薇色にするか、その一点。
時々それを思い出しては行動する。
それが僕たちの人生薔薇色計画。



    よそいき仕事日記   

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2005-06-27 分不相応
2005-06-19 もしも鳥になれたなら
2005-06-01 無関係は無関係なりに、でも悲しいのは何故なんだろう
2005-05-15 うんちなの
2005-05-15 初体験
2005-05-12 狼が来たぞ〜
2005-05-11 風に乗るための
2005-05-09 春という季節
2005-05-09 罵倒
2005-05-03 作品説明1 みけねこのみけ


2005-06-27 分不相応

自転車、買っちゃいました。

買ったのは先々週の土曜日で、「せっかく買ったのに雨に降られたら嫌だから梅雨明けまで預かっていてください」と頼んでおきながら、晴れ曇り続きで雨の降らない天候に我慢しきれず、先の土曜に取りに行きました。

笑っちゃいます。
プジョーです。おフランスです。

似合わないったらありゃしません。

以前、「プジョーやジャガーなんかいらない」などと言っておきながら、ママチャリのベースになるような自転車自転車したようなスタイル、変速機の充実、泥除け、荷台、カゴ(これは後付けでつけました)、これを満たした上で格好いいもの、そうやって選んでいってこういう結果となりました。

僕はブランド名に惑わされるようなミーハーではありません。
けれど見た目の格好よさには見事に惑わされるミーハーです。

見た目はともかく、性能も望んだのより以上でなかなかです。


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ぶはは。ほぼ毎日乗りまくってますよん。そこをこそ聞かせてやってくらはい。 / 揚水 ( 2005-08-06 18:04 )
プジョーの自転車と聞いて一瞬ドキッとしたけれど、それは「殿には聞かせられない」というドキッでございます。なかなかえぇ感じのチャリでないですか。私もさにゃさんと同じく「欲しいと思っていたもの」が「たまたまブランド品」だったのはOKと思うけど、「ブランド品だから欲しくて」「買った結果お粗末な食生活」だったり、タクシー代ケチってバスに乗ったりというのはNGだと思います。ましてやシャネルにダ○エーのブラウスとか・・・(-_\) / kotarou(♀) ( 2005-07-18 01:36 )
シャネルと路線バスはぎりぎりアリ、かな(笑)? 百均にベンツはアリでしょうか? 僕は判断できません。 / 揚水 ( 2005-07-01 02:27 )
欲しいものがたまたまブランドだったって経路のお買い物は正しいと思う。 ブランドってそうやって選ばれて獲得した地位だと思うしね。 使いこなせる度量があればいいわけで。 でもシャネル持って路線バス乗ってる人見るとお前は馬鹿かと言いたくなるのは私だけでしょうか? / さにゃえもん ( 2005-06-28 01:12 )

2005-06-19 もしも鳥になれたなら

道端に立っている二本の枇杷の木。
そのうちの一本は鈴生りに実を付けている。
次第にその果実の群れが色づいていくのを日々観察しながら、ああ美味そうだ美味いんだろうないやきっと美味いに違いない、やばいこのままでは俺は泥棒になってしまうなどとあらぬ心配をしてきた。

程よく熟してきたな、明日はきっともういいぞというある日のそのまさに翌日。
木が生えている場所に近づいていくと、鈴生りに実をつけたその樹上にこれもまた鈴生りの椋鳥の群れ。
かしましく囀りながら忙しく集団で食事をしている。
その様子のまた楽しそうなこと嬉しそうなこと。前日まではそんな大群では見かけなかったのに、彼らもまたその日を今か今かと待ち望みながら日々観察を続けていたに違いない。きっとそうだ。

ああよかったねえと心で呟きながら、美味しそうな枇杷の実を前にすごすご立ち去らねばならない自分の身を思い、羨ましくて仕方なかった。

先頭 表紙

枇杷は目出度く度重なる椋の襲撃によって丸裸です。今は別のお宅のヤマモモの実が気になってしかたありません。あんまり鳥は食べに来ない風。盗み食いより今回は道に落ちたのを拾い食いしそうな自分の衝動と戦っています。 / 揚水 ( 2005-07-01 02:25 )
実家の庭にでかいコケモモの木があって毎年鈴なり。 でも高すぎて実がちっこ過ぎてうまくとれないの。 8割が鳥に食われてます・・・・・ちょっとわけてくれっつーの!! / さにゃえもん ( 2005-06-28 01:14 )

2005-06-01 無関係は無関係なりに、でも悲しいのは何故なんだろう

今日自転車で走っていて、道端に車にはねられたらしい狐の死体があるのに気付いた。
少し悲しかった。

犬や猫や鴉や鳩や雀や椋鳥や、狸すらよりも疎遠で縁遠いはずなのに、何故かしらそれらの死体を見るよりもほんの少しだけ悲しかったように思う。

何故だろう。

そうやって自問しておきながら、答えは実は知っている。

僕はおそらく狐に、自分からは疎遠な生き物に、自然を、或いは野生を見ているのだと思う。曖昧で勝手な基準ではあるが、前述のほかの生き物たちよりも、自分が見ることの少ない、たとえば熊や栗鼠や猿や鹿や、そして狐に、より強く野生を感じているのだと思う。勝手な上に頭でっかちなきらいのある基準だとは自分でも思う。
でも確かにそうなのだ。そしてその野生は崇高なものだとの憧れに似た感情すらあるに違いない。

人間に野生が蝕まれている。
それがきっと悲しい。

そして自分はあちら側野生の側ではなく、明らかにこちら側人間の側に立っている。それもまた、僕自身どうしようもない事だけれども、悲しい。きっとそうなのだと思う。
つまり僕が崇高なものだと思っているものが形を失い死んでしまうこと自体も勿論、その崇高なものが車にはねられ死んでいるということは、それを僕自身が足蹴にして踏みにじっているようなものだと思い知らされる事もまた悲しいのだと思う。

身近なものの死は、それは当然悲しい。
脳天気に悲しいだなんて言えない種類のことだとも思う。

けれど自身から縁遠いはずのものであるものの死も、それとはまた多少異なったかたちで悲しいものなのだと、そうも思う。

やるせない。
やるせない僕とは無関係なものの死。

先頭 表紙

そうですね、おっしゃる通りだと思います。そして上で自分が言った通りであるとも。けれど何かそれでは言い切れない、どこかに引っ掛かりを感じます。だから半ば判断停止したまま「何故なんだろう」と自問するのでしょうか。突き詰めて考えを述べればとても上のような文章量では足らないだろうとも感じます。言葉の堂々巡りを逃れ得ても。でもきっと答えは、言ってしまえば須木成さんのおっしゃる通りなんですよねえ。 / 揚水@最早堂々巡り ( 2005-07-06 22:53 )
無関係ではなく縁遠いとも思えないからこそきっと感情が発動するのだと思います。 / 須木成 ( 2005-07-04 01:55 )

2005-05-15 うんちなの

ここのところこの地方は肌寒い日々が続きます。もしやこのまま梅雨寒かと思うと少し憂鬱です。もう少し暖かくなってもらいたいものです。
暑くなればなったで「暑い暑い」との文句も出ようというものですが、それはそれでまた別の話。

1〜2週間ほど前、配達途中で家の鍵を開けようとしている小学校2〜3年生の男の子を見かけました。鍵っ子は大変だ。でもなんか、そうでない子供より少しだけ大人のような気分でもあって少し誇らしかったものです。うんうん、おじさんがそうだった。

「開けてくださいー」

最初空耳かと思いました。ちょうど僕はその家の郵便物を外のポストに投函していました。
でも違った。

よくよく見ればなにか男の子の顔は切羽詰っています。
彼はランドセルにチェーンでぶら下げている鍵がなかなか上手く鍵穴に刺さらなくて焦っています。
落ち着いてやればそんなに慌てることでもないだろうに。
ランドセルを背負ったままではチェーンは短すぎて、かといってランドセルを背から下ろしても、それをきちんと持ってからでないと鍵穴に鍵が届かない様子です。焦れば焦るほどうまくいかない。
なにそんなに慌ててるんだろうな。

「どうしたの?」
「開けてくださいー」
「?」
「うんちなのー」

なにそれはてえへんだ一大事だどれおじさんにまかせてみなほれ鍵を寄越せ早くしな。

僕はすっ飛んでいって彼を手伝います。
「ランドセルをしっかり持って」
僕は彼から鍵をひったくるようにして彼にそう指示したのですが、動転している彼はランドセルまで手放してしまいます。
僕は片手でランドセルを抱え片手で鍵を差し込み、錠を廻します。
彼の困惑して焦っている表情。うんちはもう未知の世界に顔を出さんと意気揚々に違いありません。僕だってこの年齢の頃にこうした状況におかれたら、いまだ短い人生の中でこの世の終わりかと軽く絶望する気持ちになる、そうした覚えが確かにあります。

「開いたよ」
「ありがとうございますー」
「大丈夫?」
「はいー」

彼は情けない声で返事をしながら家の中へ消えました。
少年よ、安堵するはまだ早いぞ。これからは君自身の戦いだ。玄関からトイレまでの普段ならばなんでもない距離が遥かで険しい道程となるのだ。しっかりやりたまえ。

最近玄米を食べ尽くしてしまい、それまで三割玄米だったものが銀シャリになって、僕のうんこは柔らかく、キレのないものになってしまっています。うんこに玄米の粒がないのを見て、腸内の掃除も出来てないとも思います。

このところ排便する度に玄米の素晴らしさを思い、彼を思い出します。

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2005-05-15 初体験

甘酸っぱくなれるといいのだけれど。

実家から夏みかんが送られてきました。
そのままでも美味しいのはもちろんなのですが。

ジャムにしてみることを思い立ち、今、煮詰めています。

生まれて初めてのジャム作り。分量のことなど何も知りません。
美味しく出来るといいなあ。

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2005-05-12 狼が来たぞ〜

うん、明日から煙草止める。
今度こそ止める。

ほんとだってば。

先頭 表紙

まあなんせ狼中年の言うことですし(笑…)。 / 揚水 ( 2005-05-13 01:17 )
あら、むそうなの?頑張れるといいわねぇ (* ̄▽ ̄)y-~~~~ 朗報を待つし / kotarou(♀) ( 2005-05-12 19:11 )

2005-05-11 風に乗るための

昨日、欅の下で鳥の羽根を一枚拾いました。
おそらくは鳩の羽根。

風切り羽根でも羽毛のような和毛でもない、その中間の羽根。

こうしたものをからだにたくさん持っているからこそ、宙に受けるのだと感じさせる柔らかで軽い器官。
風に乗るための器官。それが為に空気を掻いて空に浮く、直截そういうはたらきをするものではないのだろうに。

封筒に入れて、切手を貼って宛名を書いて。
そうやって遠く離れたあの地へと送ろうかと思います。

僕は風には乗れないけれど、僕の気持ちは空を越えてどこまでも飛んでいくことが出来るから。

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2005-05-09 春という季節

今日も今日とて郵便屋さんは配達です。
とあるマンションの集合ポストに立ち寄った折、聞こえてきた会話。

「三番目は当たってる」
「三番目って?」
「だーかーらー、気になる人ってこと」
「それって? 好きな人ってこと?」

うろ覚えながら大体こんな感じ。

「うーん、そんなもんかなあ…」
「それってそういうことでしょ? 教えてよ」
「えー…」
「青春だねえ」

(お前は“ちびまるこちゃん”かっ、と、これはワタクシの心の声)

「そんなことこれまで興味なかったのになあ」
「だから『青春』だよ」
「そうかなあ…」

(そうそう)

「ねえ、誰? ○○? △×じゃないよねえ?」
「それはありえないでしょう?」
「だよねえ」

(ああ、『青春』なのだなあ)

「教えてよ、誰にも言わないからさあ」
「でもお…」

ああ、じれったい。
でも微笑ましいなあ。

ワタクシは彼女らにとって風景の一部でしかないんですねえ。
女子中学生って、サカるんだなあ。

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2005-05-09 罵倒

何を調べていたのか、辞書を開いていると「ももんがあ」という語があります。
「ももんが」と「ががんぼ」は語感が似ています。ともに好きな言葉です。
「あめんぼ」となるとちょっと違う。
でも「あめんぼ」も好きです。

辞書によれば「ももんがあ」とは【@→ももんが。】と一番目は身も蓋もありませんが、【A着物を被り、肘を張って子供をおどかす遊び。】ともあります。そういえば杉浦日向子さんの漫画でそういうシーンがありましたっけ。

三番目に【B人をののしっていうことば。】とあります。
しかし、今日び人を罵倒するのに「この『ももんがあ』め」とか言いますか? 言われてもなんだか笑ってしまいそうです。言われて笑いながら相手を殴り倒したりして。「何が『ももんがあ』だこの野郎」ってなもんです。

人を罵る言葉というのはたいそうたくさんあります。けれど実際に使われる罵倒語は結構貧困です。
つい最近まで毎日毎日特定の人物たちから罵られ続けていましたが、彼らのボキャブラリーは実際貧困極まりなかった。
曰く「この馬鹿野郎め」、「馬鹿」、「気違いめ」、「乞食め」。「トーテムポールじゃねえんだからよ」などと言葉自体はふるっているものもありましたが、ともあれ語句数はとても貧困でした。「トーテムポール」と言われるのと「ももんがあ」といわれるのはどこか似通っているかもしれませんが。

罵倒といって連想したのが馬頭観音ですが、この「馬頭」を「ばとう」と読めば観音様で、「牛頭馬頭」の「めず」と読めば地獄の獄卒となるらしいです。
言葉って面白い。

勿怪の幸いの「もっけ」、これも面白いですね。
誰か僕を「この『ももんがあ』め」とでも罵ってくれれば、それはそれで勿怪の幸い。

先頭 表紙

「おばけだぞ〜」「きゃ〜(あはははは)」ってカンジなんすかね。大人も子供もともに遊ぶ。大人の方から見た遊びってことだと、それはちょっと凄いものがありますね(笑)。 / 揚水 ( 2005-05-13 01:09 )
ももんがあ、気に入りました。大の大人が子供をおどかして遊ぶところを想像するとほほえましい。つか、大人が子供をおどかす「遊び」っていうのがまた……。 / みなみ ( 2005-05-10 22:26 )

2005-05-03 作品説明1 みけねこのみけ

まず、三毛猫のオスというものは存在しません。
猫の体毛の発色に関する遺伝子は性決定染色体上にあり、これが正解ではないかもしれませんが、おそらく、黄土色の斑、黒色の斑の発現遺伝子がそれぞれX遺伝子上にあるために、それらがそろう、つまり黄土斑の遺伝子を持つX染色体と黒斑の遺伝子を持つX染色体とのXXの組み合わせでないと三毛の猫は生まれてこないということではなかったかと記憶しています。
では何故、船乗りが縁起物として重宝したというように、実際には三毛猫のオスというものがこの世に存在するのか?
正確にはそれはオス猫ではなく両性具有であるようです。
つまりXXでもXYでもなくXXYの性決定染色体を持つ猫。それが多分、記憶に間違いがなければ、三毛猫のオスの正体です。

この世に生きるもの存在するものはすべて、大まかな生き物や種という枠組みの中で、共通・共有するものと、個々それぞれの差異というものをいずれも持っています。
蟻は蟻、人は人ですが、一匹一匹の蟻、人ひとりひとりはそれぞれ違います。
ところで、個性の尊重と声高に叫んでみたところで、その場合の個性というものは共通・共有の範囲内であることが多いようです。もちろん共有する認識、共通する身体性などの上に立った個性なのですから、それはそれでごく当たり前のことでもあります。
ただし枠からはみ出さない程度に突出することはある程度単純に個性的だともてはやされても、大きくはみ出すものに対しては、人はそこに優れたものとしての賞賛とばかりは限らず、或いは蔑みの感情を持つようです。
賞賛、この場合であればただ単に賞賛するというよりは畏敬でしょうか。畏敬することも蔑視することも、そのどちらもおそらくは自分等とは異なるものに対する「おそれ」が根にあるのでしょうから、天才と畏敬することも蔑み差別することも、大きな差異に対するある種の排他という意味では大変近いものがあるでしょう。
人は多く、個性「的」であることは羨望し歓迎しはしても、実際強い個性を目の当たりにすれば、それを畏れます。その畏れの感情の表れとして、それが上に向けば或いは尊敬もし、下に向けば或いは差別が生まれるということが往々にしてありはしないでしょうか。
それはきっと自分の主義や趣味に合わない、嫌う、ということとは少しばかり異なります。重なることもあるでしょうが、それを同じにするのは少し乱暴です。

繰り返しになりますが、作中の「みけ」ほどの突出した個性ではないとしても、われわれは共通する身体性、共有する認識の上に、それぞれ異なる差異をもって暮らしています。それが僕たちの個性です。
お互いそれぞれが同じ、それでいて同時にそれぞれが異なる。僕たちが生きているのはそうした世界です。それが種であっても国であっても人種であっても、何であれ、そうした世界です。

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