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あるまじろの「まるまり日記U」

イツデモコンナフウニスギテイクナラ、
ソレハソレデヘイワナマイニチ。。。

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2011-02-02 プラグマティズムの幻影を隠れ蓑にすべきではない
2011-02-01 甘い
2011-01-21 1月ももう終わる
2011-01-19 食べラー・メンマ牛丼
2011-01-16 台本上がる
2011-01-10 休日の昼下がり
2011-01-09 男も一緒
2011-01-08 正月も終わり
2011-01-05 とりあえず一本!!
2011-01-04 この繰り返す果てしない戦いの毎日に


2011-02-02 プラグマティズムの幻影を隠れ蓑にすべきではない

少し前にテレビの中で、「学校で習うことは生きていく中で使わないから必要ない」という理屈で勉強をしない少年の言葉を耳にした事がある。この中で「生きていく中で使う知識」というのは何か。それは一般的に「読み・書き・そろばん」であり、
あとは職業に直結する専門知識だ。しかしそもそも高校学校までで習う知識の多くは一般教養であり、学ぶ事は知識や技術の他に道徳やマナー、礼儀も含まれるのだから、「使う」「使わない」で必要性を問うのは物差し違いであろう。

そもそも実用性の無い知識・教養こそ、以前は余裕のある人生の中で人々が追い求めてきたものである。『源氏物語』などの文学、モーツァルトの音楽を楽しめたのは、
経済的・時間的に余裕のある貴族階級だけであったはずだ。

実用性だけを求めて、「読み・書き・そろばん」と職業に直結する専門知識だけしか持たないのは、芸術の創造性や象徴性には一切縁のない世界に、身を置くことに直結することになる。それは現代日本では単なる「消費者」で終わるということだ。
自分では何も生み出さない消費者。
そして「学校の知識は必要ない」と主張する若者世代の多くが、一般的にアニメ・漫画・ゲーム・アイドル・ネットなどの、オタク文化の洗礼を受け受容している。
そもそもアニメ・漫画・ゲーム・アイドル・ネットなど若者文化のほとんどが、
成り立ちから受け手の消費を激しく指向している。
日本でこれらが商品になっているからだ。
そもそもオタク文化を生み出しているのがオタクなのか、
という根本的な疑問もあるが、そこは一緒くたにしない方が良いと思う。
オタク文化を生み出しているのはオタクではなく、それぞれの道のクリエイターなのではないかと思うのだ。確かにオタクならではの言語や習性はあるけれど、
それを世に出しているのはクリエイター。
受け手でいるだけの消費者ではないはずだ。
その両方を混同している現状だが、世界に冠たるアニメ映画の監督や漫画家、ゲームクリエイターまで、オタクと呼んで単なる消費者と混同するのは違和感がある。
消費者はファンであり読者であり愛好者でしょ。
クリエイターの側から言えば受け手があっての文化とも言うが、
消費者の側が自分達が文化を牽引していると思いこむのは、
やはり少し違うと思う。

話を戻すが、
「学校で習うことは生きていく中で使わないから必要ない」
という理屈で勉強をしない少年の言葉には、大いなる矛盾がある。
少年が絶対に享受しているはずの若者文化そのものも、
そもそも実用性があるものではない。
それにどっぷり浸かりながら、学校の勉強を否定するのは、
ただ自分が努力するのを怠る怠慢が理由である。

学校で習う知識こそ以前は貴族階級でしか手に入らなかったものだ。
そこから真・善・美という普遍的な価値観の本質に手を伸ばすことを始めて、
象徴や暗喩、記号や法則、歴史や技術などの先人の遺したものを、
まずは幅広く受け入れることが、単なる自分を消費者に留まらせず、
何かを発信し、自分なりの解釈を主張する土壌を形成する。
それは本を読む人を単なる消費者ではなく読者にする。
映画や演劇を観る人を単なる消費者ではなく観客にする。
人は単なる消費者ではなくちゃんと作品を受け取り、
読み取れる、良さの分かる人で居るべきだ。
それには発信しようとするクリエイターの側の視点が必要不可欠であり、
時には実際に文章をものしたり、演じてみたり、
シャッターを切ったり、歌ったり、演奏したりすることが大切なのだと思う。


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2011-02-01 甘い

っていうか甘酸っぱいか、カシスは。
もしかして二月に入った?

今が今だけしかないってこと、
若いときにはなかなか分からなかった。
別れが一つあるたびに、
今がどれだけ貴重かを思い知らされる。
人を大切に出来ないのもそういう経験がないから。

大切な人との時間は最初から大切に思わないといけないのは、
ちょっと大人にならないと分からない。
だから突然の別れがやたら悲しいんだね。
そりゃ別れが悲しいのは大人も一緒だけど、
別れる準備ってのもしてるからね。

大人は最初から大切にすべき人は大切にする。
それが出来ることが成長するってこと。
手間暇を惜しんでるようじゃね。

少しの面倒くささで手間を惜しむようじゃ、
良いものはいつまで経ってもできないよ。


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2011-01-21 1月ももう終わる

ふと思う。

人に笑いかけられることがどんなに人生の救いになることか。
人に助けられることが物事のそれ以上に、自分を奮い立たせることか。

人に笑いかけることが人生のスピードをゆっくりとさせてくれることか。
人を助けることが深い満足を自分に与えてくれることか。

急いで行くことはない。
効率の良いことは何のためか、
良く分からなくなってくる最近だ。

困っている時は周りを見回して助けが来るのをじっと待つ。
たとえすぐに助けが来なくても良い。
待つ、ということが大切な時間でもあるのだ。
そのまま一人で歩き出すことになっても、
もともと一人で歩くことが当たり前なのだ。

誰かが助けてくれたら儲けもの。
そう思って歩き出そう。


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雅さんへ。確かに、その時が来たら大声を出して叫びましょう。 / あるまじろ ( 2011-01-29 23:26 )
大の大人でも。強いと思われている男の人でも。「助けて〜。」と声をだしていうのも時には必要かもしれませんよ。 / 雅(みやび) ( 2011-01-26 19:11 )

2011-01-19 食べラー・メンマ牛丼

あんま辛くないので、辛いものが苦手な人でも大丈夫。
メンマが好きなのでとても美味しい。
もうちょっと辛くても、僕は大丈夫だね。

いや、これ、も一回食べたいな。


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2011-01-16 台本上がる

昨日はつき合いのあるM中の芝居の演出を午後一杯見て、
芝居のアイディアについて、色々幾つか試す部分が見つかった。
昔、何も分からなかった時は色々出来る人のアイディアに、
はっとすることが多かったが、
今では自分でも多少アイディアを出すことが出来るようになった。
そういう意味では(おこがましいけど)、
サッカー選手のファンタジスタが、
凡人には思いつかないようなプレーをしちゃうのと、
少し共通点があるのかもしれない。
数多く経験を積み、高いレベルでの実践を重ねて、
アイディアを体現出来るようになるんだろう。

夕食後から俳優座公演のための台本のラストスパート。
今回は久しぶりにKYにも新作を用意するつもり。
スタッフを固めて、一人一人の役者に当て書きして、
万全の布陣でガツンと歯ごたえのある芝居を作りたい。
それを六本木に持っていこうと思う。

僕の台本の書き方は一回数ページを書いては、
書いた部分を読み直しては書き直して、
少しずつ積み上げていく方法。

だからどんどん読み直していく分量が増えていく。
丁寧に大きなピラミッドを作っていく感じ?
それでも今回はプロットの段階で随分悩んでしまい、
本来は金曜に上げるはずの台本が週末にズレこんでしまった。
ところがプロットが出来てからは三日で書けてしまった。
最も土曜日は午前四時まで掛かっての完成だったので、
最後は一気に仕上げたってことです。

今回は会話に重点を置いて微妙に絡んでくる伏線とか、
単語の連なりが発想させる複雑なイメージとか、
感情の多面的な構成とかを念頭に置いて書きました。

@人間じゃないヤツは出てこない。
A誰も死なない。
Bハッピーエンド。
という僕の基本線は外してません。

と言うのも安易な感じで
@人間じゃないヤツが必ず出てくる。(死神とか。)
Aすぐ人が死ぬ。
Bバッドなエンドが奇想天外だと勘違い。
という台本というかストーリーが氾濫している気がするので。

さて、今回は上質なハートフルコメディのつもりだけど、
いかがでしょうか。
誰かに読んでもらうまでのこの時間が、
作家としては少し緊張するとこなんですが。

何はともあれ、一本書き上げるとほっとするものです。


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くすのき燕さんへ。興味をそそられますね、楽しそうです。新作があがると嬉しいですねえ。ネット上ですが乾杯っ!! / あるまじろ ( 2011-01-23 22:42 )
僕の新作は、人間じゃないのばかりがでてきます。 / くすのき燕 ( 2011-01-21 22:09 )

2011-01-10 休日の昼下がり

朝起きて、部屋に掃除機を掛けて、
朝ご飯を食べてから一息つく。
ここのとこ、ずっと走りたい欲求が高まっていた。
「ここだな」という気になった。
ジョーバやったり、軽く散歩したりしてたから。

十一時半から走り始めて、
見沼グリーンロードと呼ばれる、
見沼代用水沿いに続く道を、
ゆっくりとジョギングして鷺山公園を通り過ぎ、
東浦和の手前まで走った。
7キロ弱だと思うのだが、
一時間半を掛けて走ったのが良かった。

用水路には鴨や鴫が泳ぎ、のどか。
晴れていて北風が強いが寒くはない。

帰宅してシャワーを浴びて、
まだ休日の午後はたっぷり残っている。


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2011-01-09 男も一緒

退屈な女より   もっと哀れなのは 悲しい女です。
悲しい女より   もっと哀れなのは 不幸な女です。
不幸な女より   もっと哀れなのは 病気の女です。
病気の女より   もっと哀れなのは 捨てられた女です。
捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です。
よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です。
追われた女より  もっと哀れなのは 死んだ女です。
死んだ女より   もっと哀れなのは 忘れられた女です。


「鎮静剤」という堀口大學が訳した、
マリー・ローランサンの詩ですが。
                  


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2011-01-08 正月も終わり

夕べは七草粥を作り、これで正月も終わり。
今年の冬はまだこれから三連休ですから、
もう少しゆったりと過ごして、
新年の仕事は本格的に始めとなるのでしょう。

今年の冬は寒くて、
最近では朝七時くらいだと気温零度の時もある。
でも信州で学生時代を過ごした経験では、
冬は寒くて結構だ。
気温三度なら「温かいな」と思ってた。
あの寒くて部屋の中でもコート着たまま、
こたつに足突っ込んで寝ていた頃の空気の冷たさが懐かしい。
それでもそんな寒さがふとした日差しの中で緩む時が来る。
そのひだまりの温かさを知っているから、
寒さに負けない気持ちを持ち続ける事が出来る。
だから寒い冬は好きだ。

今年も胸に秘めるは同じ言葉。
どうやら人生はドラマティックに出来ているようだ。
まだ見ぬ景色を見て、まだ出会わぬ人と出会おう。
そうして歩いていければ、
と思っている。


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2011-01-05 とりあえず一本!!

・・・と言うことで、2011年の舞台、
一本目、「飆」懐かしき宇宙科学館の舞台で演じてきました。
まあ、以前びーばーがやってくれた禅額という役でしたが、
自分で言うのもなんですが、さすがのアドリブでした。(アドリブ?)

今年はあと何本、舞台に上がれるだろうか。
そしてどのくらい前に進めるだろうか。

この日が初舞台という人がいて、それも良かった。
ここから始まるなら、どこまで行くだろうかね。

うっちゃん、照明が暗いって駄目だしくらったし。
あははは、でもお世話になりました。
仕込みの手際はさすがのプロだね。
☆野さん、いつでもうっちゃん、科学館イケますぜ。
球も交換してたし。

さて、次はサクっと新しい台本書いて、
六本木俳優座劇場に殴り込みだっ!!


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2011-01-04 この繰り返す果てしない戦いの毎日に

今日はたまたまだけど、
自分のして来た演劇について話を聞くことがあった。
うっちゃんが明日のオペの下準備で、
一日芝居の稽古に付き合ってくれた後のことだ。
もちろんうっちゃんの言葉に悪意は無いし、嘘もない。
ただ知らないこともある。

僕のいる「この世界の演劇」は鬼の世界だ。
それは僕とうっちゃんが芝居をしていた、
15、6年前には全く気づかなかったことだ。
必死に中央を目指していて駄目だったあの頃は気楽だった。
今から考えると甘い甘い世界の中で、
一生懸命やっていた自分に酔っていた。
そしてそういう部分が今もあるから駄目なのかもしれない。

ものの言い方かも知れないが、
お金を掛けて、
素晴らしい作家に脚本を書いてもらい、
スタッフにプロを使って、
実力のある役者を揃えて、
実力のある演出が芝居を作り、
大劇場で芝居をするのは、
確かに僕の作る芝居より素晴らしいはずだ。
しかしそれは僕の芝居じゃない替わりに君の芝居でもない。
そして僕はそれには興味がない。
僕には勝ち負けの無い世界で「甘いもの」にしか見えない。
素晴らしいけど甘いもの。
(いや、きっとそこには僕の知らないきつさはあるだろうけど)

僕との違いは僕はある意味たった一人で、
「勝ち負けのある芝居」を戦って来たことだ。
戦友は居たけれど戦い続けてるのは僕だけ。
そういう意味では孤独な戦い。
僕の芝居はそういう意味では素晴らしくなくてもいい。
僕の芝居は僕が作らなきゃ意味がないからだ。
そして「勝ち負けがある」ってことはそれだけで、
鬼の世界にいるってこと。
相手にしている鬼はもう二十年以上も勝ち続けてきた相手とその後継者。
ここに勝負しているのは埼玉でも五人くらいだ。
僕はもうその幾人かのうちの一人だから。

そして負けるもんだから、
どん底に落ち込みながらまた這い上がって、
何度も何度も立ち向かうことになる。
「どんだけ敵が多いんだ」と言われたことがあるけど、
そう意味では敵ばかりなのは当たり前だ。
勝ち負けがあるそういう世界は修羅の道だから。
「芝居に勝ち負けは無い」って言うのは、無い世界にいるだけ。
ある世界にはある。

うっちゃんに悪意はない。
敵ではなくかなり味方だ。
ただ知らないことはある。
未熟でもあいつらは戦ってる。
うっちゃんだってそういうあいつらに、
あいつらの知らない世界の存在を教えたかっただけだ。
そういうことも分かっている。

でも、僕の苦しかったこの15、6年で何をしてきたか、
見てきたんじゃなくて、してきたか、
それはきみにも知らないこと。
そういうことがあると言いたかった。

明日はうっちゃんにお世話になる。
僕の前に現れるのはプロの照明家の一人の男だ。
もうかつての口だけの高校生ではない。
なぜなら彼もこの15、6年してきたことがあり、
それで今の彼があるってことだ。
無事本番が終わったら「ありがとうございました」と伝えよう。


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