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みきの日記帳

長年勤めた会社を定年退職
今は御隠居生活の「みき」(♂)と申します。
山登り、写真、パークゴルフ、PC、家庭菜園
を趣味とするオヤジです。
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是非遊びに来て下さい。

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2003-02-15 芸術はむずかしい
2003-02-11 お地蔵さんまつり
2003-02-10 馬のシッポ泥棒
2003-02-06 昔話
2003-02-03 屯田防風林
2003-01-31 冬本番
2003-01-26 ペットのシャワー
2003-01-19 石狩川エレジー
2003-01-15 新聞少年?
2003-01-11 OB会


2003-02-15 芸術はむずかしい

 友達の誘いがあり写真による「野の花展示会」を鑑賞してきた。
豊平区の国道36号線沿いの一画に喫茶ギャラリーはあった。
全体に淡い色仕立てでソフトな感じの作品が多い。絵はがき用にもプリントしてあった。詩的感覚の入口に立ったようだったが、どうも自分で予想していた「野の花」とは違和感があったのでスッキリとした鑑賞の気分には浸れなかった。家庭の花畑に咲いている題材が多かった。好みの相違で仕方のないことだけれども、……芸術として観ると素人が軽々しく批評することは出来ないが、もっと抽象的ではなくはっきりと表現したのが自分は好きだ……。自分のセンスはかなりさび付いているので大きなことは言えませんが…。先日名古屋でしたか?オークションで一万円予定の絵がゴッホの作品とのお墨付きが付いて6,600万円。ただ、ただ、驚きと庶民の感覚とのほど遠い所での話のようで・・・芸術はむずかしい。

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ねんねこさま、わかげのいたり、いや!としげの…。実力の割には大きなこと言ってしまってスンマセン。 / みき。 ( 2003-02-21 00:59 )
いやいやみきさんのウデで観てしまうから辛口になるのだと思うのですが・・・野の花って表現は鬼門ですよね(笑)その辺に咲いているから野とはいえませんし、外来種だったり園芸種だったり・・・きびしくつっこんじゃダメってことですね。好きかキライかでいいんじゃありません? / ねんねこ ( 2003-02-20 21:18 )

2003-02-11 お地蔵さんまつり

 隣の馬喰おやじさんで取り引きのようすを思い出しました。夏のある時売り方買い方の4人位、自分の家で馬喰おやじさんを間に、雑談話し合いの後、売り方または買い方、交互にマンツーマンで袋(風呂敷だったかも)の中に手を入れ握り合ながら、指サインで値段の交渉をしていた。「これとこれ」「うん、いや…」などと意志を確認しながら馬喰が中を取り持って交渉が成り立った。隣の村からまでも良馬を求めてやって来ていたようだ。毎年お盆の時期になると農道の一画に祭ってあるお地蔵さんの祭りがあり、十字に農道の交差する地蔵さんの前にやぐらを組み小屋が作られ、地域の青年がその日の為に練習した、演劇を披露する。昼は子供の相撲大会、夜は歌や演劇、藁で編んだ、むしろを持って行って場所を取り家族で楽しんだ。隣や近所の人ばかりが出演するので本当に身近な娯楽であった。見物人も隣の村から若者数人、また、河川工事飯場の入れ墨をしたお兄さん、と結構賑わっていたが、終った後、隣村の若者ともめ事があり隣の兄さんがやられたらしい、それを知った馬喰おやじさん息子の助太刀で大立ち回り、稲城(いなぎ、秋、稲を刈り取った時干す為の木)を振り回し大ケガを負わせた。なにせ村相撲の横綱格なのでひとたまりもなかったと思う。でも今のように刃物を持たなかったのは、平和な時代だったのかも知れないね。時はうつり馬はトラクターに変わったが農業の後継者不足、輸入品にばかり頼って大丈夫なのでしょうか。
 春先故郷から大雪山の写真


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2003-02-10 馬のシッポ泥棒

 子供の頃の話、盆地の水田地帯にあった農家、各家には農耕馬が必需品であった。馬のいない農家は考えられない。隣の農家ではおやじさんが馬喰(家畜商)を副業にしていた。春だったと思うが馬産地から新馬三歳を汽車の貨物車に乗せて近くの駅で下ろし、3〜4キロの道をシルクロードを行進するラクダのように一列に連なってやってきた。そんなある朝、馬の一頭にシッポの尾が刈り取られているのに気づいたが犯人は分からず終いだった。馬泥棒ならず馬のシッポ泥棒とのこと、何のために?今では考えられないが、物資不足のおり何でも金になったようだ。刷毛、ブラシ、筆などの原料になったのかな。当時「コックリ」さん、というのが流行っていてそれで犯人を占ったが文字をたどると自分の家の兄弟の名前を指したと同級生のM君は笑っていた。それにしても、尾を刈り取られた馬はしばらく不便難儀だったろうと同情?…アブや蠅などシッポで払えない。アブなど食らい付いたら離れないからね、その後、無事にシッポが生えたのか、どこの馬主に飼われたかは知りません。

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ねんねこさま、シッポは半分くらい、骨も肉も大丈夫。 / みき。 ( 2003-02-11 19:01 )
ねんねこさま、苦労なさったんでしょうね、大事にしてあげて下さい。と言う自分の母は89才親不孝ものです。 / みき。 ( 2003-02-11 18:54 )
私の母は3歳で両親を亡くし親類のところで馬と一緒に育ったと・・・馬だけが家族だった。という話を思い出しました。母は今71歳です / ねんねこ@根元からナイのかしら?骨が・・ ( 2003-02-10 21:12 )

2003-02-06 昔話

 今朝は寒かった-13度(札幌)道内ではまだまだ寒さの厳しい所があるのであまり大きな声で寒い寒いとは言えないけれども…。小学4〜5年の頃の話。晴天の寒い日近所の友達と朝早く学校へ行った、なぜ早い時間に行ったのかは分らない、4キロほどの雪道を歩き教室に入ったが、まだストーブに火が入っていなかった、小使いさんが種火を各教室のストーブに配って火を付けている最中だった。種火の燃えているストーブの教室があるのを初めてその時知った。何クラスかに一つポツポツと燃やしてあり、そこから各教室に配られる。いつものんびりしているように思っていた小使いさんだが、以外と自分達の知らない所で忙しいンだなと思ったものだ。また当時始業時間や終業時間の知らせは鐘を持ってカラン、カランと触れて歩いていたっけ、窓も今のように二重窓ではなく一重ですきま風が入ってきたり、雪が隙間から入ることもあった。でも不思議と寒かった記憶はない、子供は風の子、熱ったかいから感じなかったのかな。今の環境と比べるべくもないが、ウン十年昔の田舎の話です。

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ねんねこさま、そうですか、自分の小学校も高校も建て変わってしまいました。中学がまだ老体をさらしているようです。小学校の跡地には屯田兵記念館があります。 / みき。 ( 2003-02-11 18:47 )
木造の校舎で1重マド、廊下はひん曲がってました。もう跡形もありません数年後にはダムのソコになる小学校です。中学も高校ももうありません。 / ねんねこ@遠くにありて思うモノです ( 2003-02-10 21:15 )
ねんねこさま、エ〜ツ!・・・??もしかして同じ学校。そんなこと…ないか。 / みき。 ( 2003-02-07 20:50 )
うふふ その20年後の小学校でも鐘以外は同じでしたよ。ただし、寒かったですよ〜1時間ごとに座席のローテーションしてました。 / ねんねこ@ストーブ前だけ暖かい ( 2003-02-07 08:20 )

2003-02-03 屯田防風林

 自宅から5分くらいの所に屯田防風林がやや西から東の方向に続いている。幅約50メートル石狩街道の近くまで約3キロ、たも、白樺、ポプラ等の林に新雪踏み固められた道が続いている。長靴を履いているが膝ぐらいの深さで交差する時お互い身体を斜にしてスレ違う程の道だ。平行してついている道はスキーの跡だったが歩いたのは数人のようだ。散歩しているのもいるが、犬を連れての散歩も結構いる、純白の雪に所々黄色に染まった場所があり、愛犬家には申し訳ないが興醒めする。糞は始末(持って帰る)出来るけれども、尿のほうはどうしょうもない、雪解けまで残ってしまう。防風林のほうもたまったものではない、年がら年中、尿をカヶられると枯れてしまわないか心配…。気軽に散歩出来る場所だけに残念、良い方法はないものでしょうかね。自宅から往復70分、万歩計8100歩だった。


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ルンルンさま、日中明るい内は誰か彼か歩いているよ。 / みき。 ( 2003-02-09 17:21 )
その場所って変質者が多いって聞いたけど。。。みき様は男だから良いけど、女一人で歩くのは危ない危ない。 / ルンルン ( 2003-02-07 20:24 )
ねんねこさま、…そうなんです、夏には自転車で発寒川堤防を散歩。運がよければアオサギに会えますょ。 / みき。 ( 2003-02-05 21:31 )
ああ・・・あそこですね?わたしのエリアは自衛隊演習林です(笑) / ねんねこ@さすがに犬はいませんよ ( 2003-02-04 22:45 )

2003-01-31 冬本番

 朝7時頃から吹雪模様で降り出した雪、ワッサワッサと積もり午前中に雪かきしたのに、止む気配なく降り続き午後にも2回雪かき、約50cm程積もったんではないだろうか。この後、除雪車が入れば、入口の所にどっさり硬い雪を置いて行く事が多い。起きている時に除雪車が入ってくれれば良いのだが、遅い時間だと眠ってしまって、朝固まった重い雪をはねなければならなくなる。昨日から連日の雪はねで、本格的な冬を実感する。真冬日のサラサラ雪、まさにパウダースノー、スキーには最適な雪質だ。昨日、今日の雪はねで、なまった身体には丁度良い運動になった。

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ねんねこさま、近い所に居るようですね、よろしくおねがいします。 / みき。 ( 2003-02-02 20:36 )
今朝の道新で札幌19センチの積雪です、ってぜぇ〜ったいウソですね。現実を見て記事を書いてほしいもんです。 / ねんねこ@はじめまして ( 2003-02-01 17:06 )

2003-01-26 ペットのシャワー

 我家のペット、オウムの「モモちゃん」シャワーと鳥かご掃除したいのだが外は寒いマイナス温度なので外に出す訳にはいかず、風呂場に持って行って掃除することにした。もっとも「モモちゃん」が簡単に籠から離れてくれれば「モモちゃん」だけを風呂場に持って行くのだけど、育て方の悪いせいか思うように手なずけられない。風呂場で鳥かごの止まり木の上の部分だけ外すと、しかたなくかごの外側に出て来た、ゆっくりとシャワー(温水)をかける。以外とおとなしくしている、普段だと体に触ると嫌がるのだが、じっとしている。シャワーの方向も前後左右、かける。高い所から頭めがけてかけると、首を伸ばしていかにも気持ちの良さそうに目を細めている、背中の方に重点的にかけると、羽を伸ばして広げている、空中遊泳のようだ、こんなに気持ちの良さそうにしているのは初めて、身体ブルブル震わしてくれればもっと洗えるんだがと、思いつつも羽がびっちゃり濡れてしまったので止める。鳥かごの掃除をして、茶の間で身体の毛が乾くまで一緒にいた。写真は6ヵ月程前に写す


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2003-01-19 石狩川エレジー

 朝まだ暗いうちに目覚めて、イヤホーンでラジオをうつらうつらしながら聞いていると、100年物語のなかで北海道出身の作詞家、高橋掬太郎の紹介がされていた。驚いたことに、「酒は涙か溜息か」古賀政男、作曲の作詞をしていたこと。「石狩川エレジー」三橋美智也、歌の作詞をしていたこと、まだまだ数多くの作詞を手掛けていたらしい。釧路新聞、函館新聞など経て小樽新聞の懸賞に応募したのが、きっかけで、東京に移り住み、本格的に作詞活動を始めたらしい。
 「石狩川エレジー」は今のカラオケの曲目からはほとんど見つけることはできない。自分はオンチ、少ない唯一のレパートリーだけに残念だ。
歌詞は 
 
君と歩いた 石狩の
流れの岸の 幾曲がり
思い出ばかり 心につづく
ぁあ 初恋の 遠い日よ

 2番は忘れました、なんて暗い…。なんて、お思いでしょうが、好きな歌です。
昭和36年にヒットしたとのこと、家庭を持って間もない頃、(昭和42年)積丹めぐりの観光バスに乗って、曲がりくねった大小のトンネル、若かったけれど、歳の数、以上のトンネルと絶景の海岸を眺めながら、余興に歌った。当時「カニ族」といわれた、リュックを背負った若者数人に、すごく気に入られ大拍手(自分だけの思い込みか?)。楽しい一日でした。


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ルンルンさま昔はうまかった?と言いたいが…そんなことあるわけない!だから今がある。汗、 / みき。 ( 2003-01-26 21:53 )
みき様の歌唱力は。。。取りあえずノーコメントと言う事で。。。(苦笑) / ルンルン ( 2003-01-25 14:16 )

2003-01-15 新聞少年?

 朝リサイクルゴミを出しに外へ出ると、寒い!-14度とのこと、でも太陽の朝焼けがきれいだ、うっすらと新しく雪化粧しキラキラと輝いている風景、歩くとキユッ、キユッ、と音がする、こんな時は寒いんだよね…。
中学2年の時一ヵ月のアルバイト、朝刊配達を思い出した。朝自分では起きれず母に起こされて、茶の間へゆくと、マキストーブの前で母が丹前にくるまりストーブの火をつけていた。外はまだ暗い、勢い良く燃えているが、部屋はまだ暖まっていない、廊下を歩くと足の裏が、痛いような冷たさが頭の芯まで伝ってくるようだった。
夜明けの寒い道を歩いていた時も朝焼けが素晴らしくきれいだった。販売店まで4キロ往復8キロ、冬休みの期間だけだったが、田舎の一軒一軒は離れていて結構時間がかかった。配達の終るのは8時半か9時頃だったと思う。学校が始まると両立は出来ないので、郵送に切り替え午後郵便物と一緒に配達される、そんなんで当時は夕刊はなかった。49年前の東旭川での話でした。  

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よこ!さん、はじめまして、誕生日が同じとはありがとうございます。 / みき。 ( 2003-01-17 17:38 )
みきさま、はじめまして。同じお誕生日のよしみでご挨拶にまいりました。私はクマモト出身なのですが、九州とはいえ盆地のせいか冬は寒く、裏の田んぼが白く霜吹く中、朝課外に向かうべく自転車をこいだ高校時代を思い出しました。それでも東旭川の寒さとは比べるべくもないんでしょうねー。 / よこ!@お誕生日おめでとうございます。 ( 2003-01-17 16:59 )
ネコさん 12〜3軒だったように思います、寒かったのと、朝焼けが今でも強く印象に残っております。 / みき。 ( 2003-01-16 19:07 )
新聞配達と牛乳配達は少年達の唯一のアルバイトだったですね。ぼくもちょっとだけ経験があります。夕刊だけで5軒だけだったですけど。自転車で10分もあれば終わりました。 / ネコさん ( 2003-01-16 10:33 )

2003-01-11 OB会

 自分が会社に入社した頃より18年間の懐かしきメンバー14名が集まった。
どんな会社でも長年定年になるまでは栄華盛衰おなじ形態で終る事はまずまれでは無いだろうか。昭和34年10名のメンバーで始まった職場52年には26名にふくらんでいた。ほぼ同じ形態でのピークだった。以後は大合理化の波に職場名も変わり職場の統合人員縮小移動となり、同企業の中で種々の職種に移動、散って行った。
懐かしいメンバーに会うため集合時間の5分前に行ったがもうすでに全員集合していた。顔を見るなり「変わってないねー」うれしい事を言ってくれる。でもこの間9名のかたが亡くなり鬼籍となっていた。移動で連絡のつかない人も数名…。入院しているもの又身内に不幸があり欠席したもの等色々あります。会は最初から盛り上がりそれぞれ言いたい事を言い、爆笑に次ぐ爆笑、実に愉快なひとときだった。毎年集まる事を約束し散会。離れていても会った瞬間から元の職場と同じ雰囲気で冗談の言える事、個人的にはそれぞれ苦労してきているだけに「暖かいもの」が感じられる。たのしかった、うれしかった、ありがとう。 

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