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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2007-04-16 届かないねーその充電,僕まで届かないね 「コミックチャージ」 角川書店
2007-04-02 濁流のような情報そして時間 『気まぐれコンセプト クロニクル』 ホイチョイ・プロダクションズ / 小学館
2007-03-19 近況,『眠れる美女』,加えて『アヒルと鴨のコインロッカー』,今さら『Death note』
2007-03-05 『となり町戦争』 三崎亜記 / 集英社文庫
2007-02-26 こういうのを待っていた 『DIVE!!』(上・下) 森 絵都 / 角川文庫
2007-02-13 今さらながら 『蛇にピアス』 金原ひとみ / 集英社文庫
2007-01-29 絶句 『舞姫(テレプシコーラ) <10> 第一部完結』 山岸凉子 / メディアファクトリー(MFコミックス)
2007-01-22 『マンガの深読み,大人読み』 夏目房之介 / 光文社 知恵の森文庫
2007-01-11 我もまた檻の獣なれば 『ZOOKEEPER』 青木幸子 / 講談社イブニング(2007/01/23 No.03)
2007-01-08 今さらたしなめてどうなるものでもないが 『テレビ標本箱』 小田嶋 隆 / 中公新書ラクレ


2007-04-16 届かないねーその充電,僕まで届かないね 「コミックチャージ」 角川書店

 
 3月20日,角川書店から隔週刊の青年コミック誌として「コミックチャージ」が発刊された。
 火曜日というコミック誌の隙間に対し,講談社「イブニング」が第2,第3週を埋め,この「コミックチャージ」が第1,第2週を埋めて,これで火曜日の通勤は万全,と思いたかったのだが,残念ながら創刊2号めにしてすでに急速に購買意欲が失せつつある。

 ……

 ……

 うーん,あれこれ,書いては消し,書いては消ししてみたが,要はコミック誌としての「志」を感じ取ることができないのである。

 ここ数年,青年コミック誌としてビビッドな魅力を感じ続けていられるのはそれはもう講談社の「モーニング」だが,この雑誌はなぜにこれほどと思うほどに「こだわる」姿勢を示してくれる。往々にして馬鹿げたテーマ,下手な絵の作品もあるのだが,「金」なり「剣」なり「政治」なり「ワイン」なり「素潜り」なり,一点狙いを定めたら「この作者と編集はほかのことが目に入らないのだろうか」と気になるほどそのテーマを掘って塗って描写しまくるのである。
 「ヤングサンデー」や「コミックバンチ」にも読んで楽しい作品はなくはない。が,雑誌まるごとで強烈なインパクトを感じる点において,「モーニング」は他誌を三馬身,いやそれ以上リードしていると言っていいだろう。
(かたや老舗の「ビッグコミック」系は,一度人気を得られた作品の反復,拡大再生産を好む気味があって,読み続けるという習慣からふっと離れるともはや戻る必然性がない。)

 他誌はさておき,「コミックチャージ」である。
 キャッチフレーズは“働く男を充電する”。キャッチフレーズなどどうでもいいのだが,それにしても「充電」。働くということは電池レベルのことなのか,と読めてしまうのがつらい。創刊2号分を見た限りでは,古いあちこちの雑誌で連載をもっていたベテランを集めてみた,というほか,なんら雑誌としての方向性を感じ取ることができない。また,登場人物(主人公)も全体に中途半端で,いろいろな職業についてはいるが,マンガらしく暴走しているのは本そういつ描く『神の手を持つ男』に登場する実在の脳外科医などほんの一部のみ。むしろ,嫁さんや周囲の知人に圧倒されて「たはは」なキャラばかりと言ってよい。清原なつのが筒井康隆『家族八景』に挑戦しているのだが,これも期待はずれ。その倫理観においていつの時代のマンガ,という感じだ(清原が15年以上昔に『花図鑑』等で提示したアンモラルは現在にいたっても鮮烈なのだから,本作の凡庸さはイタい)。

 ちなみに,創刊1号,2号で唯一面白かったのはしりあがり寿『ジョーモンCEO』,投資会社のCEOの夢が世界を征服して縄文時代を再現する,というものなのだが,そんな設定以前にその投資会社の業務光景の破天荒さ,何千億の金を左右しながら手取り22万円の給料でしじみをすする(貝塚を好もしくおもうためだ)CEOの魅力。これだけは単行本になったら問答無用で購入したい。

 そのほかの作品については,何を話題にしていいのかよくわからないくらいだ。
 絵が下手,という作家もいるが,タチが悪いのは絵が下手というわけではない作家だ。業界ではベテランなのにヒット作がない,その理由がそのままこの雑誌の誌面を埋めている,そんな絵柄さえ思い浮かぶ。

 ちなみに細かいことをいえば,遺体の清掃業を描くきたがわ翔『デス・スウィーパー』,今後の展開はいざしらず,連載2回まではまったくのところ田口ランディ『コンセント』冒頭部のパクリだろう。パクリで話題になった作家からパクってどうする。

先頭 表紙

ビデオで「麦の穂をゆらす風」を読み、アイルランドつながり?で、「アイルランドの薔薇」を読みました。よくわからない国ですが、何かお薦めはないでしょうか? ここの更新楽しみです。 / koeda ( 2007-08-25 10:49 )
お元気ですか。 / E ( 2007-08-17 01:30 )

2007-04-02 濁流のような情報そして時間 『気まぐれコンセプト クロニクル』 ホイチョイ・プロダクションズ / 小学館


【大人のやることではない。】

 このところ,夢が,重い。
 普段は夢など目が覚めたらすぐ忘れてしまうのに,なんだか妙に一場面一場面が濃密であとをひくのだ。
 理由は,たぶんこれだろう。『気まぐれコンセプト クロニクル』。
 そこらの辞書より分厚い974ページ,重量は優に1キログラムを超えて愛用のノートPCより重い。見開きに四コマが4作並んでトータルざっと2000作,この数はいしいひさいちのドーナツブックス15,6冊分に匹敵する。

 その内容が「バブル前夜から始まって,バブル絶頂,バブル崩壊,不況の90年代,ネットと携帯の普及,そして景気回復の2006年へとつづく,疾風怒濤の23年間の,日本人の日常生活を覗くタイムマシン」(「はじめに」より)とあれば,これを毎晩寝る前に少しずつ読んで(仰向けでたくさん読むのは腕がもたない),夢が重くならないわけがない。
 道理で夢の中で妙に意味ありげに登場しては説教臭い台詞をものする連中が,あの(今はない)会社のあの人だったり,あの部署の(今はどこに行ったかわからない)あいつだったり,浮いて沈んで沈んで消えて,そんなことはどうでもいいのだけれど。なんだあんたはまだそこにいたのか。

 『気まぐれコンセプト』はカブト自動車,白クマ広告社といった広告クライアント,広告代理店の社員たちの生態(変態?)を描く四コママンガだが,実は現在もまだ続いているとは知らなかった。正確にいえば,スピリッツを読まなくなって10年近く経つが,自分がスピリッツを読んでいた頃,すでに連載が終わっていたように勘違いしていたのだ。
 多分,バブルがはじけた後は連載が収束していったように勝手に思い込んでしまっていたのだろう。四コママンガとしては,同じスピリッツ誌上に『コージ苑』『伝染るんです』『クマのプー太郎』等インパクトの強い作品が多かったため,「ギョーカイ」通ぶりが鼻につく印象ばかりでギャグとしてもそう評価はしていなかったように思う。
 つまりは,『気まぐれコンセプト』は連載開始当初より決して好きな作品ではなかったし,四コママンガとしてもとくに注目に値するものではないように感じ,あげくに自分の中で勝手に使命を果たしたものとして連載を終わらせてしまっていたのである。

 だがしかし,ホイチョイ・プロダクションズ,恐るべし。
 こうして23年分の作品をセレクトして一望にすると,広告業界の馬鹿ばかしさや時代の流行の愚かしさをその場その場で追ったこの作品が,何より雄弁な現代の記録となっているのは明らかだ。六本木のもうとっくにつぶれたプレイスポットや,あっという間にブームの去った商品を取り上げたギャグで笑えるかどうかは別として,それらを均等な重みづけで描き続けた仕事は,アニメ版『サザエさん』とまったく逆に,あらゆる風俗,ブームを取り入れてただ垂れ流すように見えて,その結果23年の間で変わらないものは企業人の見苦しいばかりの生命力だということを見事に描いてその点では文句のつけようがない。

 『気まぐれコンセプト』を語るというのは,作品について語るのか,ホイチョイというクリエイター集団について語るのか,それとも時代について語るのか,区別がつけにくい。
 ひとつ言えることは,『気まぐれコンセプト クロニクル』は言うなれば80年代から2006年までの『現代用語の基礎知識』である。知識などそれだけでは毒でも薬でもない。薬や毒がそうであるように,それが意味を持つためには傷や病や憎悪が必要なのだ。

 もっとこまごましたことを書きたいようにも思ったのだが,きりがないのでやめにしよう。もしこまごましたことをきちんと書こうと思ったら,付箋やメモを片手に何度か読み返す必要があるに違いない……これを?

先頭 表紙

2007-03-19 近況,『眠れる美女』,加えて『アヒルと鴨のコインロッカー』,今さら『Death note』


 久しぶりに川端康成を何冊か続けて読んだり,アガサ・クリスティの未読だったノンシリーズものに手を伸ばしたり,と,私評には向かない読書が続いている。康成の『眠れる美女』(新潮文庫)や『片腕』(ちくま文庫)は何度読んでもすごい。すごすぎて悪酔いしたような気分。
 「青空文庫」に森鴎外の怪談「鼠坂」が公開された。こちらは通勤途上でケータイで読むということを試してみたが,肝心の作品が期待したほどには面白くない。以前少しふれた「蛇」といい,どうも鴎外の怪談は生理的に合わないようだ。

 伊坂幸太郎『アヒルと鴨のコインロッカー』(創元推理文庫)はまったく期待外れ。デビュー作の『オーデュボンの祈り』(新潮文庫)だけが抜群によくて,世評に高い『重力ピエロ』(新潮文庫)含めてあとはなにか拡大再生産の印象。
 ところで伊坂幸太郎が志向しているのってもっとも良かった時代のカート・ヴォネガットJrのセンだと思うのだけれど,それでいいんだよね? そういう指摘を目にしないので少し不安。

 コミックでは今さらながら『Death note』(ジャンプ・コミックス)をぱらぱらめくる。厳しい条件づけの中でのサスペンスに原作者の頭のよさは感じるが,キャラクターやストーリーにまるで魅力を感じない。結局,最終巻を除いて後半は面倒くさくて読み通すことさえできなかった。ノートに名前を書けば相手が死ぬ,という時点でもうお手上げ。「あの国に爆弾落としちゃいなさい」と口にできる為政者とか,パッドのAボタン連射で画面内の敵を皆殺しにできるうけけけゲームとか,その程度のリアリティにシリアスな絵柄やセリフがかぶさるものだから始末が悪い。
 唯一興味深いのは,原作者の大場つぐみが誰なのかは不明らしいが,同じ小畑健作画の作品として,主人公の主たる行為(殺人,囲碁)がほかの人物に見えない霊的な存在(死神,佐為)に代行してもらっているという構造が『ヒカルの碁』そっくりだということ。『Death note』の原作者が『ヒカルの碁』からモチーフを得たのか,たまたまそうなったのか知らないが,いずれにしても気持ちが悪い。囲碁や殺人くらい,自分の手と頭使ってやれよ。

先頭 表紙

2007-03-05 『となり町戦争』 三崎亜記 / 集英社文庫


【お問合せ 総務課となり町戦争係】

 ある日「僕」は,広報紙の紙面から,自分の住む町がとなり町と戦争を始めることを知る。銃撃音が聞こえることもなく,となり町を通る通勤路に何が起こるわけでもない。にもかかわらず,町の広報紙に発表される戦死者の数は静かに増え続け,やがてある日「僕」の元にも……。

 この設定は魅力的だ。力のある作家なら,誰だってこれをコアに彼ないし彼女ならではの作品をものすることができるだろう。

 たとえば,筒井康隆の『となり町戦争』(町どうしの戦争をきっかけにハナモゲラ星雲を巻き込んで日本以外全部沈没),浅田次郎の『となり町戦争』(町の境界に立つ影は十年前に死んだ娘で,兵役に志願した課長は),京極夏彦の『となり町戦争』(この邦の内乱は全て妖怪の仕業なのだよ猿めわかったかはっはっは),瀬名秀明の『となり町戦争』(町と町を結ぶ下水管をミトコンドリアがずるりと),野坂昭如の『となり町戦争』(戦争が始まってから終わるまで句点なし),よしもとばななの,星新一の,澁澤龍彦の,平岩弓枝の,えー,きりがないので以下略。

 この魅力的な設定を,三崎亜記はどうしたか。
 ……カフカを薄めに水割りにして,甘めのリキュールを加えたような感じだろうか。

 実際,これって……カフカの『審判』だよね。
 主人公は,となり町との戦争の実態がわからないままにそれに巻き込まれていく。しかし,「戦争」という言葉からイメージされるような銃撃戦や爆撃が展開するわけではない。主人公の周囲の者たちは,いずれも「戦争」の実態について主人公よりはわかっているようにふるまう。
 この,「僕」と「戦争」の距離感は,ヨーゼフ・Kと「裁判」の距離感にかなり近い。

 ただ,ヨーゼフ・Kは翻弄され,途方に暮れ,最後にようやく一つのリアルな結論を得るが,『となり町戦争』の「戦争」はむしろ日常の一点からスタートしてファンタジー様に拡散していく。物語は収束せず,童貞が夢見るようなヘンなセックスが描かれたり,戦争論の切れ端のようなものが語られたり,距離をおいていたはずの戦争が身近な者の命を奪ったり。悪くいえばだらしない展開。
 だから若々しい印象があってかつまた読みやすい,ということも言えるし,厳しい城が構築されなかった物足りなさも残る。
 とくに,物語全編に登場して重要な役割を演ずるヒロインについて,作者が何を描きたかったのかがよくわからない。不条理を具現化した(まさにカフカ的な)事務員なのか,戦禍に嘆く悲劇のヒロインなのか。

 けれど,文句ばかり書いてもしょうがない。最初に書いたとおり,設定は実に魅力的なのだ。
 ここには,筒井でも浅田でも京極でも野坂でもない『となり町戦争』がある。この魅力的な設定を打ち立てて,それをそれなりに面白く読ませてくれた,それが多分三崎亜記らしさということなのだろう。

先頭 表紙

ちょうどこの本を読み終わった頃、この日記がアップされて、まさに表題のように ?と思ったことと、この本は娘が買ってきて、先に拝借して読んだものの、今時の高校生はこういう本を読むのかと複雑な思いをしたのを覚えています。いろいろな人が「となり町戦争」を書いているのですね。探して読んでみようかな。 / koeda ( 2007-04-28 05:31 )

2007-02-26 こういうのを待っていた 『DIVE!!』(上・下) 森 絵都 / 角川文庫


【そこにはあなたにしか見ることのできない風景があるわ】

 噂にたがわぬ傑作,いや大傑作でした。

 ほら,よくあるでしょう,素晴らしい映画を観終わったあと,エンドロールが終わって場内が明るくなってもしばらく呆けてしまって席を立てない,あんな感覚。
 ページを繰る手が止まらない,ジェットコースター的快感とは少し異なります。むしろ,1つの章を読み終わると,思わずその意味を考えたり,味わい返したりするために,何度も同じページをめくってしまう。また泣かせる「名セリフ」が多いんだ,これが。電車の中で目頭が熱くなってしまって,苦労しました。

 そんな物語が文庫の上下2巻分,切なくじっくり展開するのだからもうたまりません。
 ダイビングという決してメジャーではないスポーツの魅力,高さ10メートルの飛込み台から水面までわずか1.4秒の演技の鋭さ,その逆の弛緩の恐ろしさを文章でこれだけ描いただけでも賞賛モノ,さらに,

 ここからは,『DIVE!!』の登場人物やストーリーについて,未読の方が本書を読むときに興趣をそぐ,いわゆるネタバレが続きます。本書を未読の方は以下を読まないことを,……もとい,もとい,とっとと本屋に走って2巻読み終えてからこちらもご覧いただけると幸い。

読み進む途中であなたはきっと声に出してしまうことでしょう,

 ダイビングとテニス,男と女の違いこそあれ,これって『エースをねらえ!』だよねーっ!?

 バラバラっと思いつくままいくつか書いてみましょうか。

 物語が,謎の有能コーチの登場と強引な指導で動き始めること。
 物語の前半で,オリンピックを目指す選抜合宿への参加をめぐって登場人物たちが競い合うのも,もともと全国で知られるほどの有力選手ではなかった主人公がそのメンバーに抜擢されて周囲から浮いてしまう展開もエースそっくり。

 主人公 坂井知季は,自分がなぜコーチに抜擢されたのか理解できないながらも,素直さとその資質でめきめき力をつける,これはもちろん岡ひろみのキャラクター。あまり詳しくは書けませんが,コーチが主人公の目に着目する点,主人公のプレイが限界を知らない点などでも似ています。
 主人公の先輩 富士谷要一は,両親ともにオリンピック出場経験をもち,高度なワザをも難なくこなすサラブレッド。言うまでもなくお蝶夫人 竜崎麗華の役柄。知季らをライバルとして心のどこかでおそれつつ,ついつい後輩たちの成長に気配りしてしまうあたりもお蝶夫人そっくりなら,最後の最後に体調を崩すのも『エース』の18巻を思い出します。
 北国から現れた強烈なライバル 沖津飛沫(しぶき)。これはもちろん加賀のお蘭こと緑川蘭子。過去をひきずり,大柄かつパワフルながらもついに(物語内では)ナンバーワンになれないこと,故障に苦しむことなどもお蘭に似ています。
 要一と飛沫が同学年で,後輩の知季がまっすぐそれを追う,これが『エース』的でなくてなんでしょう。

 そして,なにより『エース』ファンの涙腺を刺激するのが,本書の最終章が大きな大会に向かう飛行場のシーンで終わっていくことでしょうか。ただし『DIVE!!』ではコーチは死にません。大丈夫。ついでに『エース』の第2部ほどお説教臭くもありません。大丈夫。


 念のため。
 『DIVE!!』が『エースをねらえ!』に似ているところがあるからよろしくない,などと主張する気はコレッポッチもありません。上に書いたように数々の類似点がありながらも,『DIVE!!』はどこまでも『DIVE!!』であり,その魅力は『エース』とはまったく次元,手触り,鋭さ,温度の違うところにあります。

 むしろ,『アラベスク』が結果として『エースをねらえ!』を産み,この2作がさらにさまざまなスポーツマンガに骨太な影響を残したように,『DIVE!!』はそういった傑作群の優れた嫡子として,スポーツ小説に新しく気高い頂を示した,そう考えるべきかと思います。

 ともかく,スポーツマンガの好きな方は,黙って読め。読めばわかる。熱くなるから。


 ちなみに……全18巻かけてキスシーンひとつなかった(2人めのコーチにいたっては仏門にすがった)『エース』と違って,『DIVE!!』の世界は異性交遊花盛り,そのあからさまな描写も今風です。
 うちの子供たちにも読ませたいのに奨めづらい,それが唯一の悩みといえば悩みかな。

先頭 表紙

2007-02-13 今さらながら 『蛇にピアス』 金原ひとみ / 集英社文庫


【シバさんは私の口を開け,眉をひそめてのぞきこんだ。】

 綿矢りさ『蹴りたい背中』が「少女マンガにもっといくらでもいいのがあるだろうに」という手応えしか得られなかったため,芥川賞で並び称された(賞された?)金原ひとみの単行本も棚ざらしになり,結局読むことなく処分してしまっていた。
 最近になって文庫(中古,105円)を手に取ったのは,新聞の書評やダリ展に寄せた金原の文章がいかにも「役割を心得た」もので,おやこれは綿矢とはまったく逆に,案外したたかな「プロ」かもしれないと思いいたったためである。

 結論からいうと,『蛇にピアス』は非常によいというほどではなかったが,予想より悪くもなかった。つまり,綿矢に比べれば,格段によかった。

 舌にピアスがどうの,スプリットタンがどうの,そういった話題は芥川賞受賞当時にうんざりするほど目にしたので,ここでは取り上げない。特筆すべきは,そういった過激な設定,過剰な性描写を抑えた文体で淡々と記していることで,まずそれだけでも評価に値する。
 逆にいえば,それだけだ。

 この作品で描かれたような精神のあり方を,今さら追体験したいとは思わない。憬れもしなければ,否定もしない。そこにも人間の真実があるのかもしれないが,何もそのあたりを探さなくとも真実なんていくらでも落ちている。

 それでも,この作品で試みられたことは,ここ百年ばかり,世界のあちこちで文学や演劇が挑戦した競技の一つである。セックスや暴力や無軌道を乾いた文体で展開することが,なんらかの精神の解放に結びつくという志向,もしくは作法,もしくは思い込み。それがオレオレ詐欺のように性懲りもなく繰り返される詐術なのか,それともいつかはどこか予想外の突破点に至るのか,それはよくわからない。
 金原の文体は無造作で,自分の描く一言一句については意図的ではないかもしれないが,全体では何をやっているかわかっているような気がする。それが意図的である限り応援したい,と言ってもよい。

 それにしても……あまり付き合いがないからよくわからないのだが,こういったいかにも内省的でない若い女が,このような内省を繰り広げるということはよくあることなのだろうか。たとえば,本当にボキャブラリーの少ない女が「私のボキャブラリーの少なさがこんなところで暴露された」などというモノローグをものするのかどうか,などなど。

先頭 表紙

(そう好きな作家ではないけれど)岡崎京子のほうが格段にすごいのは明らか。だめじゃん,文学。 / 烏丸 ( 2007-02-13 01:48 )

2007-01-29 絶句 『舞姫(テレプシコーラ) <10> 第一部完結』 山岸凉子 / メディアファクトリー(MFコミックス)


【自分の身体能力を越える踊りを振り付けることがいかに恐ろしいことか…】

 驚いたことにこの「くるくる回転図書館」で『舞姫(テレプシコーラ)』の第1巻を取り上げたのが2001年7月。もう5年半という年月が過ぎていました。

 『舞姫(テレプシコーラ)』がどのくらい売れているのかは知りません。『日出処の天子』のときのように大きな話題になっている気配もありません。
 連載が始まった頃には主人公篠原六花(ゆき)はまだ小学5年生,同級生の須藤空美に配された設定こそ苛烈極まりなかったとはいえ,全体には小さなバレエ教室の中の嵐,そんな印象でした。空美が六花の前から消えてからは,舞台での小さな事故や学校でのいじめ,プリマを目指す少女たちのダイエットの悩みなど,いずれも地方都市のバレエ教室にありそうな事件ばかり……。

 そして,その,どこにでもありそうな出来事の積み重ねが,どんなに惨い代償を生むかか,どれほど人を変えてしまうか,この第10巻はこの物語がやはりただならぬものであることを突然あらわにし,読み手を動揺させます。顔色を失わせる,と言い換えてもいい。
 第1巻のときに記したことを,改めて書いておくことにしましょう。
 山岸凉子という作家の制限(リミット)は,やはりどこかほかの作家と異なるようです。

 第一部完結となる本巻の最後の数ページに得られるカタルシスは,その作者が登場人物たちに科した重荷が過酷であるがゆえに圧倒的です。
「その恐怖を押さえ込んでまで振り付けたいものが 自分の中にあることを発見したのだ」
 ここにおいて『舞姫(テレプシコーラ)』は,ようやく表現者の物語として幕を開けました。そして,山岸凉子が淡白な筆遣いで描くその道程は,なんと恐ろしいもの,であることか。

先頭 表紙

だうもー。そうですか,ご夫婦で読まれてますか,テレプシ。ちなみにこの巻に限っては,感想やアラスジを口にするのはお互い読み終わるまで禁じることをお奨めします,はい。 / 烏丸 ( 2007-02-03 03:04 )
お久しぶりです。我が家は夫婦そろってテレプシファンです。10巻出ましたか。早速ダンナに買わせねば(笑) 第一部完結なんですね、気になります。 / みなみ ( 2007-01-29 16:04 )

2007-01-22 『マンガの深読み,大人読み』 夏目房之介 / 光文社 知恵の森文庫


【(日本のマンガ文法では)挑戦する「未来」は,常に左方向にあるのだ。】

 夏目房之介には『消えた魔球 熱血スポーツ漫画はいかにして燃えつきたか』という,それはもう実にエポックメイキングな著書がある。
 そこでは,古今のスポーツ漫画の名シーンを夏目本人が模写し(実に巧い),その作業の中から作者のペンが語るものを浮き彫りにするという手法がとられた。漫画が作画という「技術」の上になりたっている以上,その「技術」を経てしか語れない部分,それを徹底的に洗い出したわけである。この好著が単行本,文庫本ともに絶版で入手困難なのは,理解できない。ニッポンはダメだ。

 それはともかく,その後も手塚治虫論などさまざまな形で漫画を語り続けてきた夏目房之介だが……本書『マンガの深読み,大人読み』にいたっては,同じ漫画を語るにしても,もうなんとなく別の世界,時代の人,と感じてしまった。

 一つには,彼が最近推し進めている,きちんとした研究としての「漫画学」だが,これについてはいまだ「テイスト」としか言いようのない頼りない手ごたえしか感じられない。
 夏目本人に限らず,「学」というスタンスで「技術」としての漫画を研究する者が点在といえるほどにもおらず,その成果が線に結びついてないような印象なのだ。
 たとえば,
   チビ太が歩く後の砂ぼこりのような吹き出しを最初に描いたのは誰?
   超能力の「目から光」を最初に描いたのは誰?
   爆発音の「ちゅどーん」を最初に用いたのは誰?
といったことさえきちんと整理されていないレベルで「学」と言われてもなぁ,といった感じである。
(ちなみに「ちゅどーん」は田村信『できんボーイ』だそうだが。)

 また,本書の最大の柱が第2部「『あしたのジョー』&『巨人の星』徹底分析」なのだが……こちらは,「分析」と称しながら,正味は当時の作者やアシスタント,編集者のところをインタビューして回ったという内容にすぎない。「なるほどそういうことだったのか」は多々あるのだが,どうも自分の知りたいことはそうではなくて,という空回り感が強かった。

 それにしても,『あしたのジョー』にしても『巨人の星』にしても,(現在より分業が進んでなかったであろう環境の中,しかもほとんど休載の許されなかった時代の週刊連載で)そのテクニカルな工夫にあふれることは驚くばかりだ。
 たとえば,夏目が発見したことだが,『あしたのジョー』の力石の死のシーンで,力石の控え室に関係者が黙って立っているシーン,全員背後に影が描かれていてその影の伸び方を見ると光源は力石の死体となっている,とか。『巨人の星』の最終回のさまざまなコマが,飛雄馬の最後の1球の投球フォームが半透明になっていて,その向こうに打者の伴やキャッチャーが見えているのをはじめ(いかんせん,アンダースローピッチャーの視点から見れば,伴の位置や身長は遠近法的におかしいのだが),当時としては前衛漫画といえるほどのコマが続いている,などなど。

 ただ,いずれにせよ,作者がどう苦労したかは,作品の価値とは無関係と考えているためかもしれないが,当時の作者と編集者のやり取りなど知っても「だから何」という思いのほうが強い。それよりは,作品が示すもの,描くものを正面から論じてほしいのである。

 結局……自分で読むしかないのか(当たり前だって)。

先頭 表紙

2007-01-11 我もまた檻の獣なれば 『ZOOKEEPER』 青木幸子 / 講談社イブニング(2007/01/23 No.03)

 
【個体数を回復できても 最速の特性をなくしたとしたら ……それはチーターなのか】

 手放しで,という言葉がある。

 それを通り越して,脳みそ放し状態。頭のはちが開いて大脳が四方八方に踊りながら伸びていくような気分。目からはぼたぼた涙があふれ,鼻水垂れ,よだれ腹を伝う。
 めったにないことだけれど,この時のために音楽を聴いたり本を読んだりしているのだ,だ,だっだっだだだだだだだっっと黒板にチョークを叩きつけたい。キスしよう。電車を待つ乗客全員ヒザかっくんだ。

 ことほどさように,今週のイブニング『ZOOKEEPER』は,よかった。


 『ZOOKEEPER』は独楽動物園の新米飼育員が,動物たちの飼育や展示にまつわる難問をゆっくりじっくり解決していく隔週連載だ。主人公楠野香也は「温度の変化が見える」特殊能力の持ち主だが,そういったマンガ的設定抜きでも十分面白くなり得たのではないか。そう思えるだけの取材と人物設定が厚みのあるストーリーを産んでいる。個人的にはフレンドパーク担当アカネちゃんのファンだ。

 新章「チーター編」は予想外のまとまった予算が市からおりることになった独楽動物園で,飼育員たちが自分の担当する動物の展示企画を競う話。新しいサブキャラとして極端に無口な陸上競技選手(アスリート)と園の飼育係を両立する青年桑崎を配し,さて,ということになる。

 そして,最後のページだ。

 マンガで脳みそがジョウントしてしまうシーンというのは,たとえば苦戦の末の勝利であったり,思いがけない得恋であったり,いろいろあるのだけれど,その章のテーマを示されただけで全身がブルってしまうことはそうはない。めったにない。いや,はっきり言って記憶にない。

 香也の「(チーターは)今のまま飼育を続けたら 速く走れなくなったりしませんか?」という素朴な問いに黙ったまま全身を緊張させた桑崎が,途方に暮れる。

 そして,最後のページだ。途方に暮れた桑崎が走る。走りながらうろたえる。



    チーターは今や
    食べるためではなく
    チーターであるために
    走るべきなのか

      チーターの
      疾走は
      展示する事が
      できるか!?





 でりーしゃす。マンガが好きで,よかったと思う。

先頭 表紙

2007-01-08 今さらたしなめてどうなるものでもないが 『テレビ標本箱』 小田嶋 隆 / 中公新書ラクレ


【思えば和田アキ子は,「本音」「毒舌」を売りにしながら,いつでも強い者の味方だった。】

 テレビはあまり見ない。年末番組,正月番組の類も,ほとんど見なかった。
 見なくともとくに不自由しないので,必要ないということなのだろう。

 例外的に見ているのが日曜午後の「開運!なんでも鑑定団」(再放送),これは骨董や美術品についての薀蓄と,その真贋に一喜一憂する(もしくはその感情を圧し隠そうとする)鑑定依頼者たちの表情が楽しい。
 年末の放送では,ゲストとしてこぶ平改め林家正蔵が招かれていたが,言葉のはしばしにシャレと済ませがたい「名門」意識が感じられ,おさまりが悪かった。結局持ち込んだ品は番組としては最低ランクの500円という値づけだったのだが,正蔵が「笑われ」役をうまく演じきれない感じで,最後まで鬱陶しい印象が残った。
 この感じはどこかで,と思ったら,そうだ「画伯」を呼ぶことを周囲に強要するようになってからの鶴太郎のねっとりした喋り方がこれに近い。
 年が明けて同じ「開運!なんでも鑑定団」の新春スペシャル,こちらは司会の島田紳介がゲストと「目利き」対決する趣向。坂東英二や九重親方に接戦ながら連戦連敗のあと,最後に日本画について重々しく知識を口にする鶴太郎にだけ完勝したのだが,その展開になんとなく薄ら寒いものを感じた。
 こういった番組がまったくシナリオなしに進むとは思えない。落語家が持ち込んだ陶器が500円だったのも出来レースなら,ほかのゲストに負けて悔しがる神介が最後に一勝して喝采を得るのもある程度織り込み済みと見るのが妥当だろう。
 つまり,当初お笑いで重宝した鶴太郎を,続いて「画伯」として便利がったテレビが,ここにいたってとうとう貶めることに使い道を見出してきたのではないか。そう見えたのだ。
 テレビ側に悪意,善意があるわけではない。悪意なしにとんでもない非人道的なことを平気でしてしまうのがマスメディアなのだ。

 年末年始のテレビでもう一つ注目したのが(見てもいない)NHK「紅白歌合戦」を巡る一連の報道だ。
 言うまでもなく「DJ OZMA」というタレント(初めて聞く名前で,どういう人物かは知らない)がバックダンサーの女性に裸体と見まがうボディスーツを着せて顰蹙を買ったわけだが,この経緯が実にテレビ的で興味深い。
 時系列にインターネット上の表記を追ってみよう。
 12月30日,つまり放送前日のサンケイスポーツによれば,
「最大の目玉といわれるDJ OZMAは「視聴率よりも膨張率。とりあえず脱ぐしかない。出禁覚悟です」と前代未聞の開チン宣言」
 つまり下着まで脱いで男性器を露出するぞと挑発。これに対し,
「北島三郎は「出したら張り倒す!! 遊びと違うんだぞ。ここはストリップ劇場じゃない」と激怒り」
 ところが当日の演出は
「(OZMAが)着地して再び円筒の布に包まれる。最後に布が取り払われると,登場したのは御大の北島三郎(70)。「2007年アゲアゲだぁ〜!」と締めると,大歓声が巻き起こった」
 つまりDJ OZMAと北島三郎のいさかいは,もともと耳目を集めるためのサクラだったということになる。もちろん,その経緯をNHKが知らないわけもない。
 ところが,ボディスーツに抗議が殺到するや,一転,
「NHKでは紅白の公式HPトップに「衣装の最終チェックであるリハーサルでは放送のような姿ではありませんでした。今回の紅白のテーマにふさわしくないパフォーマンスだったと考えます」と謝罪コメント」
とDJ OZMAに責任を振って知らぬ存ぜぬのほっかむり。
 子供たちへの教育現場では,「知らなかったは言い訳にならない」が古来よりオトナの側の常套句である。否,そもそも歌いながら下着姿になることがウリのミュージシャン(なのか?)を招いておいて胸モロは「ふさわしくないパフォーマンス」の理屈は通るのか。
 しょせん歌番組は歌番組,お客様をもてなしてナンボの世界。ストリップ劇場とどこが違うのか理解できない。「天下の」「国民的」などと重々しく言葉だけ飾り立てて名門を誇っても腐臭漂うばかりだ。


 ……テレビについてはもっともっと言いたいことがあるが,残念ながらなにしろほとんど見ていないだけに論拠に甘く二の矢三の矢がつげない。
 そこで当節のテレビを手厳しく乱れ打ってくれる本にご登場願おう。

 小田嶋隆は1980年代の「遊撃手」「Bug News」当時から注目していたコラムニストで,当方が雑誌の編集に携わっていた折にはとうとう執筆を依頼する機会を得なかったが,強大な企業を敵に回して睥睨するその攻撃的な筆致は読み手として胸躍るものがあった。
 『テレビ標本箱』は利権への迎合,大物タレントの傲慢など,テレビのタブーをめくっては返し,めくっては返す棘とならんことを志向したコラムであり,その攻撃性は新書としてある程度成功している。
 とくに,最近の報道番組のCMへのおもねりや,テレビ出演者の同調しない者を許さない構造などへの指摘はおおむね的確かつ辛口で,テレビ番組の愚かしさと堕落(今さらだが)を語って切れ味も鋭い。

 ただ,……本書を亡きナンシー関の遺したものと比較してしまうと,さすがにどうしても評価は低くならざるを得ない。
 ナンシー関は,あれほどテレビ番組を見,同じメディア界に属しながら,最初から最後まで一瞬とて同じ匣の中に立つことはなかった。辛口であるとかないとかそういうことではなく,彼女にとってテレビは対岸からウォッチし,解体し,語るものであって,淫するものではなかった。瞬時の油断もなく,柔らかな視線と鞭のような言葉をもって戦い続けたとでも言おうか。

 『テレビ標本箱』は,残念ながらまだまだその域には達していない。
 たとえば,明石家さんまについて,一方(53ページ)で「言われてみれば,私も,最近のさんまの芸で笑った記憶がない」「ゲストのスポーツ選手をパシリ扱いする尊大な態度」と語り,もう一方(135ページ)で「さんまのまんまの面白さは」「さんまが偉いのは,決して立派なことを言わないところだ」と言ったようなことを書いてしまう。内容の是非以前,表現者として脇が甘い。ナンシー関なら決してこのような隙は見せなかっただろう。
(似たようなブレが逮捕前,後のホリエモンに対する評価でも起こっている。)
 つまるところ小田嶋は,まだどこかでテレビを楽しんでいるのではないか。期待しているのかもしれない。その分,甘さが出る。

 それでも,黙るわけにはいかない。ナンシー関はもういないのだ。
 テレビにはもう自浄機能はない。相次ぐ不祥事に対するNHKの反応,紅白歌合戦の一連の流れを見ただけでも,それは明らかだろう。
 『テレビ標本箱』本文からの引用で締めよう。
「誰かがたしなめないといけないんじゃないのか?」

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