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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2007-01-22 『マンガの深読み,大人読み』 夏目房之介 / 光文社 知恵の森文庫
2007-01-11 我もまた檻の獣なれば 『ZOOKEEPER』 青木幸子 / 講談社イブニング(2007/01/23 No.03)
2007-01-08 今さらたしなめてどうなるものでもないが 『テレビ標本箱』 小田嶋 隆 / 中公新書ラクレ
2006-12-31 よいお年を
2006-12-25 〔短評〕暗愚と静謐と 『貴婦人Aの蘇生』 小川洋子 / 朝日文庫
2006-12-17 〔短評〕最近の新刊から 『KATANA (1) 襲刀』 かまたきみこ / ぶんか社
2006-12-11 〔短評〕最近の新刊から 『スノウホワイト グリムのような物語』 諸星大二郎 / 東京創元社
2006-12-04 〔短評〕最近の新刊から 『ドーナツブックスいしいひさいち選集 39 ライ麦畑でとっつかまえて』『暴れん坊本屋さん(3)』『ドラゴン桜(16)』
2006-11-27 新本格1/4+謀略アクション3/4 『霊柩車No.4』 松岡圭祐 / 角川文庫
2006-11-24 串刺しにされてぎゃあぎゃあ鳴き喚く 『姉飼』 遠藤 徹 / 角川ホラー文庫


2007-01-22 『マンガの深読み,大人読み』 夏目房之介 / 光文社 知恵の森文庫


【(日本のマンガ文法では)挑戦する「未来」は,常に左方向にあるのだ。】

 夏目房之介には『消えた魔球 熱血スポーツ漫画はいかにして燃えつきたか』という,それはもう実にエポックメイキングな著書がある。
 そこでは,古今のスポーツ漫画の名シーンを夏目本人が模写し(実に巧い),その作業の中から作者のペンが語るものを浮き彫りにするという手法がとられた。漫画が作画という「技術」の上になりたっている以上,その「技術」を経てしか語れない部分,それを徹底的に洗い出したわけである。この好著が単行本,文庫本ともに絶版で入手困難なのは,理解できない。ニッポンはダメだ。

 それはともかく,その後も手塚治虫論などさまざまな形で漫画を語り続けてきた夏目房之介だが……本書『マンガの深読み,大人読み』にいたっては,同じ漫画を語るにしても,もうなんとなく別の世界,時代の人,と感じてしまった。

 一つには,彼が最近推し進めている,きちんとした研究としての「漫画学」だが,これについてはいまだ「テイスト」としか言いようのない頼りない手ごたえしか感じられない。
 夏目本人に限らず,「学」というスタンスで「技術」としての漫画を研究する者が点在といえるほどにもおらず,その成果が線に結びついてないような印象なのだ。
 たとえば,
   チビ太が歩く後の砂ぼこりのような吹き出しを最初に描いたのは誰?
   超能力の「目から光」を最初に描いたのは誰?
   爆発音の「ちゅどーん」を最初に用いたのは誰?
といったことさえきちんと整理されていないレベルで「学」と言われてもなぁ,といった感じである。
(ちなみに「ちゅどーん」は田村信『できんボーイ』だそうだが。)

 また,本書の最大の柱が第2部「『あしたのジョー』&『巨人の星』徹底分析」なのだが……こちらは,「分析」と称しながら,正味は当時の作者やアシスタント,編集者のところをインタビューして回ったという内容にすぎない。「なるほどそういうことだったのか」は多々あるのだが,どうも自分の知りたいことはそうではなくて,という空回り感が強かった。

 それにしても,『あしたのジョー』にしても『巨人の星』にしても,(現在より分業が進んでなかったであろう環境の中,しかもほとんど休載の許されなかった時代の週刊連載で)そのテクニカルな工夫にあふれることは驚くばかりだ。
 たとえば,夏目が発見したことだが,『あしたのジョー』の力石の死のシーンで,力石の控え室に関係者が黙って立っているシーン,全員背後に影が描かれていてその影の伸び方を見ると光源は力石の死体となっている,とか。『巨人の星』の最終回のさまざまなコマが,飛雄馬の最後の1球の投球フォームが半透明になっていて,その向こうに打者の伴やキャッチャーが見えているのをはじめ(いかんせん,アンダースローピッチャーの視点から見れば,伴の位置や身長は遠近法的におかしいのだが),当時としては前衛漫画といえるほどのコマが続いている,などなど。

 ただ,いずれにせよ,作者がどう苦労したかは,作品の価値とは無関係と考えているためかもしれないが,当時の作者と編集者のやり取りなど知っても「だから何」という思いのほうが強い。それよりは,作品が示すもの,描くものを正面から論じてほしいのである。

 結局……自分で読むしかないのか(当たり前だって)。

先頭 表紙

2007-01-11 我もまた檻の獣なれば 『ZOOKEEPER』 青木幸子 / 講談社イブニング(2007/01/23 No.03)

 
【個体数を回復できても 最速の特性をなくしたとしたら ……それはチーターなのか】

 手放しで,という言葉がある。

 それを通り越して,脳みそ放し状態。頭のはちが開いて大脳が四方八方に踊りながら伸びていくような気分。目からはぼたぼた涙があふれ,鼻水垂れ,よだれ腹を伝う。
 めったにないことだけれど,この時のために音楽を聴いたり本を読んだりしているのだ,だ,だっだっだだだだだだだっっと黒板にチョークを叩きつけたい。キスしよう。電車を待つ乗客全員ヒザかっくんだ。

 ことほどさように,今週のイブニング『ZOOKEEPER』は,よかった。


 『ZOOKEEPER』は独楽動物園の新米飼育員が,動物たちの飼育や展示にまつわる難問をゆっくりじっくり解決していく隔週連載だ。主人公楠野香也は「温度の変化が見える」特殊能力の持ち主だが,そういったマンガ的設定抜きでも十分面白くなり得たのではないか。そう思えるだけの取材と人物設定が厚みのあるストーリーを産んでいる。個人的にはフレンドパーク担当アカネちゃんのファンだ。

 新章「チーター編」は予想外のまとまった予算が市からおりることになった独楽動物園で,飼育員たちが自分の担当する動物の展示企画を競う話。新しいサブキャラとして極端に無口な陸上競技選手(アスリート)と園の飼育係を両立する青年桑崎を配し,さて,ということになる。

 そして,最後のページだ。

 マンガで脳みそがジョウントしてしまうシーンというのは,たとえば苦戦の末の勝利であったり,思いがけない得恋であったり,いろいろあるのだけれど,その章のテーマを示されただけで全身がブルってしまうことはそうはない。めったにない。いや,はっきり言って記憶にない。

 香也の「(チーターは)今のまま飼育を続けたら 速く走れなくなったりしませんか?」という素朴な問いに黙ったまま全身を緊張させた桑崎が,途方に暮れる。

 そして,最後のページだ。途方に暮れた桑崎が走る。走りながらうろたえる。



    チーターは今や
    食べるためではなく
    チーターであるために
    走るべきなのか

      チーターの
      疾走は
      展示する事が
      できるか!?





 でりーしゃす。マンガが好きで,よかったと思う。

先頭 表紙

2007-01-08 今さらたしなめてどうなるものでもないが 『テレビ標本箱』 小田嶋 隆 / 中公新書ラクレ


【思えば和田アキ子は,「本音」「毒舌」を売りにしながら,いつでも強い者の味方だった。】

 テレビはあまり見ない。年末番組,正月番組の類も,ほとんど見なかった。
 見なくともとくに不自由しないので,必要ないということなのだろう。

 例外的に見ているのが日曜午後の「開運!なんでも鑑定団」(再放送),これは骨董や美術品についての薀蓄と,その真贋に一喜一憂する(もしくはその感情を圧し隠そうとする)鑑定依頼者たちの表情が楽しい。
 年末の放送では,ゲストとしてこぶ平改め林家正蔵が招かれていたが,言葉のはしばしにシャレと済ませがたい「名門」意識が感じられ,おさまりが悪かった。結局持ち込んだ品は番組としては最低ランクの500円という値づけだったのだが,正蔵が「笑われ」役をうまく演じきれない感じで,最後まで鬱陶しい印象が残った。
 この感じはどこかで,と思ったら,そうだ「画伯」を呼ぶことを周囲に強要するようになってからの鶴太郎のねっとりした喋り方がこれに近い。
 年が明けて同じ「開運!なんでも鑑定団」の新春スペシャル,こちらは司会の島田紳介がゲストと「目利き」対決する趣向。坂東英二や九重親方に接戦ながら連戦連敗のあと,最後に日本画について重々しく知識を口にする鶴太郎にだけ完勝したのだが,その展開になんとなく薄ら寒いものを感じた。
 こういった番組がまったくシナリオなしに進むとは思えない。落語家が持ち込んだ陶器が500円だったのも出来レースなら,ほかのゲストに負けて悔しがる神介が最後に一勝して喝采を得るのもある程度織り込み済みと見るのが妥当だろう。
 つまり,当初お笑いで重宝した鶴太郎を,続いて「画伯」として便利がったテレビが,ここにいたってとうとう貶めることに使い道を見出してきたのではないか。そう見えたのだ。
 テレビ側に悪意,善意があるわけではない。悪意なしにとんでもない非人道的なことを平気でしてしまうのがマスメディアなのだ。

 年末年始のテレビでもう一つ注目したのが(見てもいない)NHK「紅白歌合戦」を巡る一連の報道だ。
 言うまでもなく「DJ OZMA」というタレント(初めて聞く名前で,どういう人物かは知らない)がバックダンサーの女性に裸体と見まがうボディスーツを着せて顰蹙を買ったわけだが,この経緯が実にテレビ的で興味深い。
 時系列にインターネット上の表記を追ってみよう。
 12月30日,つまり放送前日のサンケイスポーツによれば,
「最大の目玉といわれるDJ OZMAは「視聴率よりも膨張率。とりあえず脱ぐしかない。出禁覚悟です」と前代未聞の開チン宣言」
 つまり下着まで脱いで男性器を露出するぞと挑発。これに対し,
「北島三郎は「出したら張り倒す!! 遊びと違うんだぞ。ここはストリップ劇場じゃない」と激怒り」
 ところが当日の演出は
「(OZMAが)着地して再び円筒の布に包まれる。最後に布が取り払われると,登場したのは御大の北島三郎(70)。「2007年アゲアゲだぁ〜!」と締めると,大歓声が巻き起こった」
 つまりDJ OZMAと北島三郎のいさかいは,もともと耳目を集めるためのサクラだったということになる。もちろん,その経緯をNHKが知らないわけもない。
 ところが,ボディスーツに抗議が殺到するや,一転,
「NHKでは紅白の公式HPトップに「衣装の最終チェックであるリハーサルでは放送のような姿ではありませんでした。今回の紅白のテーマにふさわしくないパフォーマンスだったと考えます」と謝罪コメント」
とDJ OZMAに責任を振って知らぬ存ぜぬのほっかむり。
 子供たちへの教育現場では,「知らなかったは言い訳にならない」が古来よりオトナの側の常套句である。否,そもそも歌いながら下着姿になることがウリのミュージシャン(なのか?)を招いておいて胸モロは「ふさわしくないパフォーマンス」の理屈は通るのか。
 しょせん歌番組は歌番組,お客様をもてなしてナンボの世界。ストリップ劇場とどこが違うのか理解できない。「天下の」「国民的」などと重々しく言葉だけ飾り立てて名門を誇っても腐臭漂うばかりだ。


 ……テレビについてはもっともっと言いたいことがあるが,残念ながらなにしろほとんど見ていないだけに論拠に甘く二の矢三の矢がつげない。
 そこで当節のテレビを手厳しく乱れ打ってくれる本にご登場願おう。

 小田嶋隆は1980年代の「遊撃手」「Bug News」当時から注目していたコラムニストで,当方が雑誌の編集に携わっていた折にはとうとう執筆を依頼する機会を得なかったが,強大な企業を敵に回して睥睨するその攻撃的な筆致は読み手として胸躍るものがあった。
 『テレビ標本箱』は利権への迎合,大物タレントの傲慢など,テレビのタブーをめくっては返し,めくっては返す棘とならんことを志向したコラムであり,その攻撃性は新書としてある程度成功している。
 とくに,最近の報道番組のCMへのおもねりや,テレビ出演者の同調しない者を許さない構造などへの指摘はおおむね的確かつ辛口で,テレビ番組の愚かしさと堕落(今さらだが)を語って切れ味も鋭い。

 ただ,……本書を亡きナンシー関の遺したものと比較してしまうと,さすがにどうしても評価は低くならざるを得ない。
 ナンシー関は,あれほどテレビ番組を見,同じメディア界に属しながら,最初から最後まで一瞬とて同じ匣の中に立つことはなかった。辛口であるとかないとかそういうことではなく,彼女にとってテレビは対岸からウォッチし,解体し,語るものであって,淫するものではなかった。瞬時の油断もなく,柔らかな視線と鞭のような言葉をもって戦い続けたとでも言おうか。

 『テレビ標本箱』は,残念ながらまだまだその域には達していない。
 たとえば,明石家さんまについて,一方(53ページ)で「言われてみれば,私も,最近のさんまの芸で笑った記憶がない」「ゲストのスポーツ選手をパシリ扱いする尊大な態度」と語り,もう一方(135ページ)で「さんまのまんまの面白さは」「さんまが偉いのは,決して立派なことを言わないところだ」と言ったようなことを書いてしまう。内容の是非以前,表現者として脇が甘い。ナンシー関なら決してこのような隙は見せなかっただろう。
(似たようなブレが逮捕前,後のホリエモンに対する評価でも起こっている。)
 つまるところ小田嶋は,まだどこかでテレビを楽しんでいるのではないか。期待しているのかもしれない。その分,甘さが出る。

 それでも,黙るわけにはいかない。ナンシー関はもういないのだ。
 テレビにはもう自浄機能はない。相次ぐ不祥事に対するNHKの反応,紅白歌合戦の一連の流れを見ただけでも,それは明らかだろう。
 『テレビ標本箱』本文からの引用で締めよう。
「誰かがたしなめないといけないんじゃないのか?」

先頭 表紙

2006-12-31 よいお年を


去りゆくこの2006年って,たとえば10年経って思い出せるものだろうか?
イナバウアーとかホリエモン逮捕とかいっても,なんとなく焦点がしぼれないというか,つながりがないというか。

本のベストセラーも,『東京タワー』,『ハリー・ポッターと謎のプリンス』,『生協の白石さん』,『国家の品格』,『愛の流刑地』,『えんぴつで奥の細道』などなど,いずれも「別に今年でなくっても…」な印象。

添付画像は最近読んだうちで一番よかった,日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』(新潮文庫)。
「心神喪失」の名の下に,極悪非道な殺人犯が次々と減軽され,あるいは刑罰からすり抜けているという刑法第39条のありようと司法の思考停止を徹底的に「例証」したノンフィクション。
著者は「いじめ」によって弟を殺され,兄は精神病で入退院を繰り返すという体験の持ち主。
とはいえ週刊誌に通販商品の品定めで1ページコラムを持つなど,必ずしも重いライターではない。本書も最初のうちはワイドショー的ライト感覚,情感に訴える手法など,気になるのだが……これだけ実例を挙げられると最後にはただもう打ちのめされるしかない。
この上なく不愉快な本。その不愉快さから逃れるには,神経ではなく精神と論理の領域で振り払う努力をする以外にない。
正月テレビに呆けた新年の一冊目に強くお奨め。


さて,2007年はどんな一年になるのだろう。
ざっと考えた限りでは,やはりただなんとなく慌ただしい一年となりそうな予感。

それでも慌ただしい程度ならまだいい。
「あの泥沼の戦争が始まった年だわな」とかいうのに比べれば。

それでは皆様,よいお年を。
必要なときには,呼んでください。いつでも,僕は。

先頭 表紙

2006-12-25 〔短評〕暗愚と静謐と 『貴婦人Aの蘇生』 小川洋子 / 朝日文庫


【儀式は行なわれなかった。】

 文学論をひねるために小川洋子を読んでいるわけではない。
 ののしり合いに近い言葉が飛び交うホットな職場から離れ,鋼と革の武装を解いて一人の時間の地底湖の波を鎮めたい,それだけなのだ。
 それなのに,ほんの200ページあまりの静かな小説の,ほとんど唯一のクライマックスシーンの数行を,この文庫の解説者はほとんど全文引用してしまう。それをとめられない編集者。
 そんな無神経さは,小川洋子を読みたい時間に最もそぐわない。

 剥製を集めて,最後には庭先で北極グマの剥製に首をつっこんで絶命した伯父。
 亡命ロシア人で,洋館にところ狭しと並ぶ剥製のことごとくに‘A’の文字の刺繍をほどこして日々をすごす老いた伯母。
 あらゆる建造物に入るために必ず扉のところで複雑な儀式を要する強迫性障害をわずらった青年。

 グロテスクでエキセントリックな登場人物たちは,しかし,バルテュスの絵の一枚のように動きをとどめ,外からながめた謎は,静かに謎の意味を喪ってたゆたう。

 風のない湖のように静まり返った水面は,やがて内からの力にゆっくりと細かい波動を寄せ,渦巻き,水しぶき,やがて解説者の魯鈍を忘れ。

先頭 表紙

2006-12-17 〔短評〕最近の新刊から 『KATANA (1) 襲刀』 かまたきみこ / ぶんか社


【客から預かった刀でおまえがコロコロ遊んだあとは なぜだか刀が優しくなったもんだ】

 伝統ある刀匠の家に生まれ,人間国宝の祖父とその技術を受け継ぐ父に育てられた成川滉(あきら)。彼には刀自身の姿がなぜかまるで人間のように見える。
 滉は刀鍛冶の仕事を継ぐつもりはないが,中学卒業と同時に「研ぎ」の仕事を任されるようになり,やがて刀をめぐるさまざまな事件に巻き込まれていく。

 かまたきみこは,『クレメンテ商会』でもOA機器が人間に見えるなんていうとびっきりな設定を描いた作家で,刀たちの本性が人間の姿に見える描写などお手の物だ。呪われた名刀がキレた美少女,などはありきたりとしても,ヘタクソな研ぎ師にあたって錆びた刀がうらぶれ不貞腐れた与太者姿で,それが主人公に研がれるにつれ月代(さかやき)もこざっぱりしたきまじめな浪人姿に変わっていくあたりなかなかおかしい。
 刀鍛冶の厳しさを知るだけに刀とかかわることを避けようとし,それにもかかわらず常に刀がらみの事件に書き込まれる主人公がばたばたしたギャグノリであるのに対し,描かれる事件そのものは存外に陰惨で切ない。言うならばガラスを金属でひっかくような状況を,主人公が刀を「研ぐ」ことで和らげていく。かまた作品ではおなじみクールで無頓着な女の子も登場し,物語はにぎやかかつ若干アンバランスに展開していく。

 連載化することを想定していなかったため,読み切りだった第一話と第二話以降の設定が微妙に異なること,主人公が「見えてしまう」能力のためにさまざまな怪異に巻き込まれていく設定など,今市子の『百鬼夜行抄』を思い起こさせる。だが,かまたきみこの本領はおよそ「ホラー」に程遠く,刀剣を扱うだけに死人が出ないのが不思議なほど危ういシーンも少なくないが,それでもその本領は喪われたものたちへのやさしく遠い目線にある。

先頭 表紙

青島幸男死去。岸田今日子死去。昭和が死んでいく。昭和が死んでいく。丹波哲郎(キーハンター)。伊福部昭(ゴジラ音楽)。実相寺昭雄(ウルトラマン、怪奇大作戦)。はらたいら。藤岡琢也(ケンチ)。岡田真澄。内山田洋。吉村昭。久世光彦。昭和が消えていく。昭和が。 / 烏丸 ( 2006-12-21 01:51 )
野球,ボクシング,医術,料理,受験,そして刀研ぎ。何度も書くようだけど,マンガはどうしてこう「技術者」を描くと面白くなりやすいのだろう。もひとつ。剣術や日本刀を紹介して売り出し中の牧秀彦はこの作品を知っているだろうか。 / 烏丸 ( 2006-12-18 00:49 )

2006-12-11 〔短評〕最近の新刊から 『スノウホワイト グリムのような物語』 諸星大二郎 / 東京創元社


【え…営業より ずっと きついぞ……】

 グリム童話を素材にしたパスティーシュ集。
 原作の残存率は各作品平均で3割程度か。タイトルを見ないと原作を思い出せないようなものも少なくない。

 さすがは諸星大二郎,有名な童話を本歌取りしながら闇にうごめく影を描いて独自の……と言いたいところだが,ぜんぜん物足りない。
 掲載誌がミステリ雑誌だったためか,妙にSF,ミステリ,ホラーの型にはめようと窮屈な印象が強いのだ。表題作「スノウホワイト」のほか「ラプンツェル」など,まったくのベタ落ちでがっかりしてしまう。
 朝日ソノラマから9ヶ月ばかり前に出た,同じ「グリムのような物語」のサブタイトルを冠した『トゥルーデおばさん』も必ずしもよい出来とは言いがたかったが,それでもあちらは黒い世界観,憑かれたような登場人物,諸星ならではのもごもごねっとりした雰囲気があった。『スノウホワイト』は全体に粉を吹いたような白っぽい絵柄,笑えないギャグがページを埋め,作者のバイオリズムが十年周期で上がり下がりするその最低局面なのかな,と,そのくらいつまらない。

 とりあえず,『スノウホワイト』よりは『トゥルーデおばさん』。『トゥルーデおばさん』よりはまず,稗田礼二郎か栞と紙魚子を揃えましょう。

先頭 表紙

2006-12-04 〔短評〕最近の新刊から 『ドーナツブックスいしいひさいち選集 39 ライ麦畑でとっつかまえて』『暴れん坊本屋さん(3)』『ドラゴン桜(16)』


ドーナツブックスいしいひさいち選集 39『ライ麦畑でとっつかまえて』 いしいひさいち / 双葉社

 うーぬむぬむむん?
 バラエティに富んでいた前巻に比べて,今ひとつキレが悪いというか……得した気分が薄い。『ライ麦畑でとっつかまえて』という名作文学パクリタイトルも伝説の(か?)『いかにも葡萄』や『椎茸たべた人々』『伊豆のうどん粉』に比べて面白くない。
 しいていえば用務員の操る「シュリ剣抜き器」の存在感と,最後のページ,青空に抜けるような外れ矢がお見事。……何の本の紹介なんだこれは。

 次巻は第40巻,ドーナツブックス収録作だけで通算5000を超える。
 本作は今ひとつだったが,朝日朝刊の『ののちゃん』のクオリティは今朝のもなんちゅーかで,いしいひさいちが相変わらずいしいひさいちであり続けているところはすごい。

『暴れん坊本屋さん(3)』 久世番子 / 新書館 UN POCO ESSAY COMICS

 1巻めが大手新聞の書評欄で取り上げられるなど,ベストセラーとなった(のだろう,書店でのあの平積み度合いを見ると)書店店員エッセイコミック。
 この手の作品はヒットすると売れる間は出来る限ーーーり引っ張ることが多いのだが,帯にこの3巻で完結とある。思いがけず動揺した。どうやら自分で思っていたよりずっとこのオバQが気に入っていたようだ。
 要は,本好きは本好きな人が好きなのである。多分。

『ドラゴン桜(16)』 三田紀房 / 講談社モーニングKC

 東大を目指す登場人物の一人,水野直美が初めて表紙をピンで飾った。これには意味がある。
 『ドラゴン桜』は,ダメダメな龍山高校を立て直すために,債権整理を請け負った弁護士桜木が特別進学クラスを組織して東大合格を目指す物語である。特進クラスの水野,矢島は,有能かつ個性的な講師陣の教えに少しずつ学力を高め,マンガ作品としてよりはその過程における勉強法がウケているわけだが……。
 前巻の手帳の話といい,今回の学力の話といい,ここ数巻は,水野がただの教えられ子から,いかに自分自身で力をつけてきたかが大きなテーマとなっている。つまり,『ドラゴン桜』は,ここにいたってようやく水野や矢島にとっての成長物語となりつつある,ということである。
(非力な主人公が超人的なマスターと出会って成長し,強敵と倒していくのは少年マンガの王道パターンである。が,『ドラゴン桜』は,16巻を費やしてなお,主人公にあたる二人は自力で試験に出願することもできない。これは,実際に東大を受験する高校生においても大同小異だろう。勇者候補生には,高校二年の秋あたりに本書をがーっと読むことをお奨めしたいものだ。)

 なお,勉強に適した姿勢,計算のテクニック,試験の際の心構えなど,この第16巻は(受験生だけでなくおそらく社会人にとっても)役立つ情報が少なくない。
 惜しむらくは,受験生として精度を高めた水野や矢島が,登校の途上で淡々と目に入る光景を英語で表現したり,通りがかった車の番号4桁を足したり掛けたり縦横に計算してみせるシーンが次の17巻にこぼれてしまった。
 「学生が勉強する姿」を美しく描いたという点で,稀有なシーンである。次巻の発売が今から楽しみだ。

先頭 表紙

2006-11-27 新本格1/4+謀略アクション3/4 『霊柩車No.4』 松岡圭祐 / 角川文庫


【遺体は貨物だ,だから載せられる。きみは,まだ貨物じゃない】

 失礼,こちらは同じ角川でも「ホラー文庫」ではなかった。『姉飼』と並んで平積みだったのでつい勘違いしていたようだ。

 『催眠』,『千里眼』の松岡圭祐の新作,というか新シリーズである。
 主人公はリンカーンのショートリムジンタイプの霊柩車を駆るドライバー,伶座彰光,39歳。黒づくめの身だしなみ,ほっそり痩せているが物腰は油断なく,端正な鼻高い面影はどこか神秘的(御手洗とどこが違うんだ……)。
 数知れぬ遺体を運んできた彼の経験は,遺体を一見するだけでその死に様を読み取り,深い洞察をもって真実を看破する……。

 葬儀屋探偵という設定にはすでに前例があるが,本作は「霊柩車ドライバー」という職業に限定することで,独特のキャラクター,雰囲気を作り上げることに成功している。

 松岡圭祐という人は不思議な作家で,『催眠』ではサスペンス,アクション色を排した朴訥なまでに謎と解明を積み上げるような作風だったのが,次作『千里眼』ではジェームス・ボンドもよもやの戦闘機アクションまで飛んでいってしまい,面白いがどこかついていけない,とその後は縁遠くなってしまっていた。
 『霊柩車No.4』は何年ぶりかに手にとった松岡作品だが,短編と中編を組み合わせたような構成の,短編のほうはシックで緻密で大人びたA級作品,中編のほうは絵に描いたようなジェットコースターサスペンスのB級作品と,作者の二面性のよく表れた(正確には二面めが暴走した)構成になっている。
 霊柩車,遺体,火葬場といった要素にそれだけで「怖い」「気持ち悪い」と敬遠される方は別として,予断を許さないスピーディでスリリングな展開,プロの霊柩車ドライバーのブログに取材したというリアリティあふれる葬儀の薀蓄が読み手を飽きさせず,よく出来たエンターテイメントとなっている。たとえばこんな一節だ。

 「脳卒中や心筋梗塞で亡くなった故人を,しょっちゅう運ぶ。たいてい,生きているうちに血液がサラサラになる薬ってやつを飲んでる。そのせいで血液が固まりづらい。デリケートな液体入りの袋を運んでいるようなもんだ」

 個人的には,こういった薀蓄がちりばめられ,遺体の様子から事件の謎を読み取る,新本格ばりの前半の短編部が好もしい。このシリーズそのものは残念ながらそうではない方向に進みそうだが,ニヒルでカッコいいヒーロー像といい,エンターテイメントのジャンルに新しい柱ができたことは祝いたい。
 ……ただ,一点。この続編のタイトルは『霊柩車No.4 2』になるのか?

先頭 表紙

霊柩車ドライバーについては,著者(松岡)がテレビ番組「ブログの女王」に出演時に審査員として選んだブログからのネタだそうです。それにしても,催眠術師として怪しいエロ番組に出ていたり,全体に不思議な作家です。でも,名誉よりエンターテイメントを体が選んでいる感じで,嫌いではないなー。 / 烏丸 ( 2006-12-03 14:05 )
松岡圭祐って、変な作家さんですよね。『催眠』を書いていた頃は、ほとんど本は読まないと言っていた気がします。それなのに、そういう特殊な知識はどこで得るのでしょうね。 / koeda ( 2006-12-03 10:05 )
こんなシュミのものもあります。 / 烏丸 ( 2006-11-27 02:08 )

2006-11-24 串刺しにされてぎゃあぎゃあ鳴き喚く 『姉飼』 遠藤 徹 / 角川ホラー文庫


【──さぞ,いい声で鳴くんだろうねぇ。】

 角川ホラー文庫から気になる本が続けて発売されたので,とりあえず紹介。

 「姉飼(あねかい)」は,短編ながら第10回(2003年)日本ホラー小説大賞受賞作。しかし,大賞に選んでおきながら選者らの評価がどちらかといえば酷評に近いものばかりで,ある意味悪趣味な興趣をそそられた。単行本をつい買い逃していたため,文庫になってさっそく購入してきた。

 「姉」とは,脂祭りの縁日に胴体のまんなかを太い串に貫かれてぎゃあぎゃあ泣き喚いている危険な生き物である。主人公は子供のころにクラスメートの家で姉を見て以来,姉を買うことを夢見続けて……。

 蚊吸豚,脂祭り,出店の姉ら,想像力がしたたるような世界を淡々と描く前半のエグさは悪くない。と思って読み進むと,後半は思いがけず正当派,といっておかしければ妙に人間ドラマ臭い短編小説としての体裁整えて終わる。力のこもったエンディングではあるが,容易に予想がつくといえばつく,類型的なオチでもある(類型的なものは,強いのだ)。

 かつて筒井康隆がSFを語るにおいて,小説を
   通常の世界に 通常の登場人物
   異常な世界に 通常の登場人物
   通常の世界に 異常な登場人物
   異常な世界に 異常な登場人物
の4つに分け,一番めは普通の小説,SFが担うのは二番めと三番め,四番めはもはや小説といえない,ということを書いていた。
 「姉飼」は,この分類でいえば途中から軸がぶれているのである。意図的かどうか。「妹の島」という作品でも視点がぶれたように,この作者はそのあたり少し無頓着なのかもしれない。

 ただ,よい悪いを問われれば,「姉飼」は,よかった。
 思わず鼻をそむけたくなるような悪臭,陰惨を随所に盛り込み,最後には強引に小説の型にはめて終わらせている。これはマンガに近いチカラワザである。無駄に話を長引かせず,短く切り上げたこともよかった。

 強いて物足りない点をあげるなら,「姉飼」という素晴らしいタイトルを得ながら,「姉」という言葉が作品中でなんら意味を持たなかったことだ。主人公に「弟」の要素を一切持ち込まなかったのは,作者の側の意図だろうか。

 ところで。「姉飼」が大賞を受賞した同年の日本ホラー小説大賞の短編賞は朱川湊人の「白い部屋で月の歌を」が受賞した。「白い部屋で」も作品としては悪くないが,確かに,一短編としての固さ,重さは「姉飼」に及ばない。
 もっとも,短編集『姉飼』収録の他の三篇(「キューブ・ガールズ」「ジャングル・ジム」「妹の島」)の思わぬ出来の悪さに比べれば,朱川の語り部としての技術,素養は桁違いで,その後朱川が営々と一定水準以上の作品を発表し続けていることを思うと『花まんま』での直木賞受賞はダテではない。

 ただ,ここでは,遠藤,朱川が日本ホラー小説大賞において同年受賞者であったこと,また,朱川のデビュー短編集『都市伝説セピア』収録のホラー短編「アイスマン」が,少年の日に縁日で非日常的な生き物に出会ったことがその少年の後の人生を狂わせて行くこと,その生き物や出店の正体が最後まで曖昧なままで終わってしまうこと,さらには登場人物を巻き込んだありがちなエンディングまで,実に「姉飼」そっくりな構成になっていることを記しておきたい。

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