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Hideyの「蛍の光の下で」

帰国に伴い長い間ご愛読いただいたこの日記を終了させていただきます。
もうこのサイトに文章を綴ることはありませんが
もしこの先もおつきあいいただけるようであれば
メールをいただければ幸甚です。
皆様、本当にありがとうございました。お元気で。

絵日記

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2001-08-22 故郷を訪ねて100マイル 3 「Dadの回顧録」
2001-08-21 故郷を訪ねて100マイル 2 「家族の食卓」
2001-08-21 故郷を訪ねて100マイル 1 「再会」
2001-08-17 スタンフォードの親友宅にて
2001-08-16 観てきました!野茂対イチロー
2001-08-15 20年来の恋人を訪ねて 4
2001-08-15 20年来の恋人を訪ねて 3
2001-08-15 20年来の恋人を訪ねて 2
2001-08-15 20年来の恋人を訪ねて 1
2001-08-12 ケーススタディーとは? 2


2001-08-22 故郷を訪ねて100マイル 3 「Dadの回顧録」

Dadは元来物静かな人で、必要以上に自分のことを話したりしない。その彼が、第二次世界大戦の回顧録を僕にくれた。回顧録と言っても大げさなものではなく、彼らしい抑揚を控えた文章は15ページに満たない。しかし彼は、自分の子供たちに自分が戦火の中で見たこと、感じたことを死ぬ前に残しておきたいと、75歳にしてはじめてパソコンを買い、1ヶ月に渡って文章を書き、推敲を重ねたという。そのパソコンというのも、つつましい彼らしく、どう見ても10年以上前の代物を、人から安価で譲ってもらったものだ。

Dadが戦時中海軍に属し、日本との戦争に参加したことは断片的に聞いていた。交換留学生受け入れの意思を申し出てから、かつての敵国日本の高校生が割り当てられたときは、さぞ感慨深いものがあっただろう。しかし、そんな話が彼の口に上ることはなく、僕は息子としてアメリカ人の高校生と変わらない生活を体験させてもらった。僕ははじめて彼自身の言葉を知ることになった。

1944年のクリスマスの後、まだ17歳の彼は、学校に戻らず入隊する決心をし、両親を説得する。海軍に入った彼は、船に配備された戦闘機を整備するメカニックとして、アストリアという軽巡洋艦に乗り込んだ。艦はスプルーアンス提督率いる米第五艦隊に属し、東京、沖縄の近海で空母を発着する戦闘機のサポートにあたった。1945年、日本国民の戦意をくじくべく、第五艦隊は湾内から東京を攻撃。ちょうど僕の住んでいたあたりだと思う。沖縄海戦では、神風特攻隊の突撃に苦しみながらも空襲を遂行。また、九州坊ヶ崎沖にて沖縄に向かっていた戦艦大和をも沈める。再度東京に決定的な空襲をせんとしていた8月15日、艦隊は日本の全面降伏の報せを聞き、停戦する。要約するとざっとこんなところだ。

最後に彼は、こう結んでいる。「これらの勇敢な戦士たちの犠牲が、この偉大な国の歴史には公式に刻まれてこなかった。(中略)彼らこそが、今日我々が享受しているこの平和と繁栄の礎をつくったのだ。私はこの偉大な国の海軍に仕える栄誉と特権を与えられたことをいつまでも感謝し、誇りをもって私たちの旗を掲げつづけたい。」

政府や軍の中枢の思惑はさておき、17歳で自ら祖国を守らんと戦地に赴いた一介の退役軍人にとって、これは偽らざる心情であろう。その意味では、日本兵もまったく同じ誇りを持って戦っていたのだと思う。彼らは同じ体験を共有していたのだ。

しかし、日本人がここまで誇らしく過去を振り返ることはありえない。我々は戦争に敗れることによって、戦争に関わるあらゆることを嫌うことを覚えたからだ。植民地支配の野望に充ち、これを諌める米国に対し奇襲攻撃をもって開戦した日本と、形式上自衛的に参戦した米国という見え方も、このような対照を助長している。穿った見方をすれば、日本人の反戦感情は、敗戦国が必然的に取らざるを得なかった自己肯定手段だと言えるかもしれない。日本が勝っていれば、世界各地の紛争への自衛隊の出動も、まったく異なる議論を呼んでいただろう。日本人は敗戦によって、もっとも純粋で中立的な平和への思いと、民族的コンプレックスとを同時に与えられたのだ。

実際に戦争を戦った人の言葉は重く、改めて我々に考える材料を提示してくれる。75歳にして思い立ち、今また日本人の僕に学ぶ機会を与えてくれたDadに心から感謝したい。

先頭 表紙

あややさん、僕も祖父の話を神妙に聞いたことを覚えてます。でもほんと、4人の祖父母のうち誰か一人でも運命が変わっていたら僕たちは存在しないんだもんね。もっと先祖をたどると大変な偶然の集積ということになりますよね。ちょっと考えてしまいました。 / Hidey ( 2001-08-23 07:48 )
おおきな動きの中で祖父は大陸を渡り歩き、紙一重の選択の中で私がここに生きていることをずっと教わってきました。なるほどと思って読みました。 / あやや ( 2001-08-22 23:42 )
みかりんさん、今、朝の10:30です。サマータイムで時差は13時間です。日本は今のところ恋しくないですね。恋しくなるというか、こーいうところがアメリカっていや!っていうのは、サービス業に携わる人たちの客への横柄さ。それがフランクな文化につながってることは分かってるんだけど、自分も長年サービス業に従事してたんで余計にそう思ってしまうのです。 / Hidey ( 2001-08-22 23:30 )
lamanchaさん、おっしゃるとおりなので、僕もDadの述懐を読みつつ複雑な気持ちだったのです。まあ、現代の、特に若いアメリカ人には、政府をウォッチするくらいの視点はきちんと備わっているとは思いますけどね。 / Hidey ( 2001-08-22 23:26 )
マイケルさん、はじめまして。何度か日記は読ませていただきました。マイケルさんこそご家族をとても大切にしてらっしゃる方だと思います。久しぶりの日本はいかがですか? / Hidey ( 2001-08-22 23:20 )
フィー子さん、MBAの勉強でも、実際の経営者がしょっちゅうゲストで学校にきてくれるのです。やはりリアルな言葉は大事ですよね。 / Hidey ( 2001-08-22 23:19 )
たまたまさん、Pier 4は、2回行きましたがやはりだめでした。まあ、まずいと言うよりはシーフードが新鮮でない(少なくともそんな味がする)という程度なので、あのトラッドな雰囲気や、誰もが感激するハーバーの向こうにそそり立つフィナンシャル・ディストリクトの夜景を楽しむのは一度経験してもいいかもしれません。ボストンの中では比較的高めの店ですけどね。 / Hidey ( 2001-08-22 23:16 )
たまたまさん、はらぽ〜んは実は化学のお勉強でこちらに来ているんです。今度彼との奇遇な出会いについて書くつもりです。学校では日本人同士でも英語になりますね。ほかの友達もいますから。その方が、日本人同士の上下関係も関係なくなって、年寄りの僕には楽なんです。 / Hidey ( 2001-08-22 23:12 )
ボストンですか。。日本がちょっと恋しくないですか?時差はどのくらいなんだろう?ねえ。。今何時? / みかりん ( 2001-08-22 23:06 )
↓貴方のDadを責めているのではありません。念のため。 / lamancha ( 2001-08-22 18:38 )
その一方で、隠密に通勤ラッシュのニューヨークの地下鉄で細菌兵器の実験をしたり、枯葉剤をまいて何世代にもわたって人々の健康を奪ったり、放射能汚染の危険を知りながら、兵士にはその危険性をひた隠して劣化ウラン弾を湾岸戦争で使ったりした「偉大な国家」、「神に祝福される国家」アメリカがあるわけですね。平和のための暴力、平和を守るための死、無数の不幸によって守られた偉大な国、なんとも悲しいパラドックスですね。 / lamancha ( 2001-08-22 18:34 )
はじめまして、ボストンといえば「Next Stop Wonderland」という映画の舞台だったんですよね。僕は6月までの2年間マイアミに駐在してましたが、時間が無くてボストンに行けなかったのが残念です。 / マイケル ( 2001-08-22 18:25 )
ふぅむ、深い話ですね。実体験者の言葉もさんざんエッセーやら小説やらで書き続けれられてきましたが、それぞれ微妙な違いがあるのではと思います。これから経営の授業で忙しいとは思いますが、ちょっと違ったこういうった類の話を見聞きすることもきっと遠回りでも授業の議論のひとつに役立つことがあるんじゃないでしょうかね。奥深い一言を発せられる人間として。なーんちゃって偉そうに。しっつれいしました〜(^o^)丿 / フィー子 ( 2001-08-22 16:31 )
Hideyさん 実は会社の取締役が仕事でボストンに100回ほどいったことあるらしく、その人にピア4のロブスターが最高においしいって言われたんだけど、、(とほほ、、、)。いつもメーカーに支払いしてもらうので値段は知らないって言ってました。まずいの?(笑) WALTHAM(ボストンより南?)に原子力ロボットやソーラーカーなどつくっているメーカーあるらしいけど、知っています? / たまたま ( 2001-08-22 15:56 )
↓はらぽ〜んさん はじめまして、つっこみもありがとう。ぜひ、いろいろ教えてください。特に英語とMBA習得の極秘。ちなみに英語を学びに行くので、なるべく英語だけ使おうと思っていますが、みなさんは英語でいつも会話しているのでしょうか? / たまたま ( 2001-08-22 15:51 )
わぁ〜、楽しみ〜。 / はらぽ〜ん ( 2001-08-22 14:48 )
はらぽ〜ん、もちろんです。うちのクラスメイトにもこのサイトのことオープンにしたので、オンもオフも充実するかも? / Hidey ( 2001-08-22 13:01 )
つっこみ専門のはらぽ〜んです。ボストンオフ会なんてのが実現するかも〜。そしたら僕も忘れずに入れてね。 / はらぽ〜ん ( 2001-08-22 12:54 )
たまたまさん、電光石火のような突っ込みありがとうございました。恐るべしエリート商社マン!僕も父がエリートではないですが商社マンだったので商社にあこがれていました。結局広告代理店に行きましたが。こちらも負けずに全部つっこみ返ししておきました。 / Hidey ( 2001-08-22 12:03 )
はじめまして、わたしは、会社から4ヶ月の短期語学研修なるものでボストン北のmerrimack にいくことになりました。将来的にはMBA習得ですが、まずはこの研修で結果をだすようにがんばります。部屋にはインターネット専用のラインもつきます。ボストンまですぐなので、是非是非、お会いしてご指導ください。よろしくお願いします。ちなみに下へ5つほど遅れつっこみしました。。 / たまたま ( 2001-08-22 11:27 )

2001-08-21 故郷を訪ねて100マイル 2 「家族の食卓」

再会の夜、Dadは初めて僕を迎えてくれた日と同じ、彼特製のビーフステーキを焼いてくれた。「はじめは強火、後から弱火、最後はvermouthをひと振り」という鉄則は今も変わらない。日本の父が家事と名のつくことは何ひとつ手を出さない古典的な父親だったので、少年の僕にとってDadからは学ぶところが多かった。お陰でこんな僕でも料理を作ったりする癖はつくようになった。

今回の訪問ではちょっとした計画があった。初めて彼らに僕の手料理を食べてもらうことだ。手料理と言ってもひとつ覚えのパスタくらいしか作れない。その中でも僕も一番好きで作り慣れているプッタネスカとボンゴレビアンコにしようかと思っていたが、Dadが糖尿病のため、塩分は厳禁だという。プッタネスカには塩分の多いアンチョビが必要だし、塩なしのボンゴレビアンコなど考えられない。結局オリーブオイル、ガーリック、たまねぎ、バジル、唐辛子、トマトだけでできる、シンプルなポモドーロにすることにした。これなら塩を使わなくてもそれほど影響はない。パスタをボイルするときも、Dadの分だけは塩なしでボイルすることにした。

二日目の昼、僕は厨房に立った。いつもより念入りにたまねぎを「飴色」になるまで弱火で炒めた。アメリカのトマトの水煮缶はやっぱりちょっと甘味が足りないようだ。オリーブオイルで味を調整する。最後はきれいにバジルを飾って食卓に運んだ。田舎のアメリカ人らしく、クラフトの粉末パルメザンチーズを思いっきりぶっ掛けられたり、片っ端からスパゲッティを刻まれたりしたが、”Hidey, it’s sooooo delicious!”と言ってくれて、嬉しかった。水分も制限されているDadは、「記念の食事だから」と、貴重な水分摂取の機会を、この昼食の白ワインにあててくれた。

その日の夕食は、人工透析のため外出し辛い思いをしているDadには大変申し訳ないが、Momと二人で正真正銘のメインロブスターを食べた。観光客用に軒を並べるシーフードレストランとはひと味違う、ちょっと外れの海辺に立つ、自らロブスターを釣り上げ、販売してくれる店に行き、ボイルしたてのメインロブスターを2匹買ってきた。別の食堂でさっぱりおいしいポテトサラダをテイクアウト。あとは白ワインをあければ完璧なディナーになる。とても簡単だ。気になるロブスターのお値段は、2匹で$18.50という安さ。これでも観光シーズン用の値段で通常の倍近いということらしい。しかもこの季節はソフトシェルのロブスターばかりで、よりtastyだというハードシェルを食すには、やはり冬場がよいのだそうだ。

昼も夜も気持ちよく白ワインをいただいたおかげで、その日は久々にぐっすり寝入ってしまった。

先頭 表紙

lamanchaさん、そうなんです。素敵な両親が二組いるということは嬉しいことです。Dadももう長距離の運転はしないので、僕の運転でボストンの僕の家につれてきたいと思ってます。 / Hidey ( 2001-08-22 23:08 )
くららさん、ありがとうございます。自分が食べたかっただけだって噂もありますけどね。こちらに来てからまともなパスタは食べてなかったので。今日もこれからアラビアータ! / Hidey ( 2001-08-22 23:05 )
素敵なhost parentsですね!これからも大切に。 / lamancha ( 2001-08-22 18:42 )
素晴らしく読み応えのある日記ですね。ホストペアレントとの記念の食事のポモドーロ、美味しそう。喜んでもらえてよかったですね! / くらら@はじめまして ( 2001-08-22 14:55 )
ここらへんでもメイン州のロブスター売ってるところあるよ。今度買ってみるよ。牡蛎はだんぜんCape Codのがうまいし、ちょっとした地域の違いで水産物の味違うんだね。 / はらぽ〜ん ( 2001-08-22 12:59 )
はらぽ〜ん、しかもボストンのロブスターとはひと味違って、おいしいんだよ〜これが!! / Hidey ( 2001-08-22 12:54 )
ロブスター2匹で$18は安い!ボストンは物価が高いから、他の土地に行くとしょっちゅう同じものが半値くらいで売ってるのに驚かされることがある。 / はらぽ〜ん ( 2001-08-22 12:52 )
たまたまさん、ボストンで一番初めに犯す間違いは、ガイド本に従って、ウォーターフロントの「Anthony's Pier 4」というゴージャスなシーフード屋に行くことです。ザガットサーベイのボストン版の採点を見ればわかりますが、この店はマズイ!チェーン店ですが「リーガルシーフード」の方がよっぽどましです。 / Hidey ( 2001-08-22 12:01 )
やっぱ、ロブスター、シーフードおいしいですか?やばいなー、ダイエットもしようと思っているのに、、、 / たまたま ( 2001-08-22 11:24 )
あややさん、ようこそ!つっこんでいただいて光栄です。ほんとですね、妻のためならと時々主夫になってました。 / Hidey ( 2001-08-21 22:56 )
フィー子さん、ポモドーロごときでお恥ずかしい。今度ニューイングランドクラムチャウダーをマスターしたいと思います。 / Hidey ( 2001-08-21 22:54 )
peachさん、色々ご助言ありがとうございます。Dadはかなりストイックな人なので、食事療法がさっそく効を奏し、各種の数値が改善しているそうです。僕も塩分を摂り気味なので気をつけます。 / Hidey ( 2001-08-21 22:52 )
はじめまして。食べてくれる人のために料理をして、喜ばれるのって最高な気分ですよね。私も大好き。さ〜て、あたまっから読み返しにしゅっぱーつ。 / あやや ( 2001-08-21 17:52 )
さすがハイディ氏!考えていたメニューがだめになったら私だったらパニクりそう。たまねぎ、ご苦労様でした〜 / フィー子 ( 2001-08-21 17:23 )
素敵な夢が見れましたか?想うだけで、実際に実行に移す事が出来ない人が多い中で、こうして今も交流を続けていらっしゃるHidey様は素敵だわ!糖尿病、、、日本にはもう少ないけれど、天然の塩が良いのですよ…フランスとかの岩塩とか天然でミネラルが含まれているものとか。今の食塩はナトリウムとかで出来ているので、体外への排出が難しくて病気の引き金に成るそうです。何かしてあげる事が有れば良いのにな。。。 / peach ( 2001-08-21 16:13 )

2001-08-21 故郷を訪ねて100マイル 1 「再会」

ここのところ遊びの話ばかり書いているのでMBAというのはそんなに暇なのかと思われているかもしれないが、サマースクールが8月3日に終わってから、8月27日の本番の授業開始まで、3週間の休暇中なのである。その後は想像するのもためらうほどの過酷な日々が待っている。そんなわけで、残りもわずかになってきたこの週末を、僕はメイン州で過ごした。

高校3年のとき、僕は交換留学生として、メイン州のBiddefordという小さな街で10ヶ月のホームステイを経験した。お世話になったホストペアレンツとはずっと交流を続けており、これまで3度里帰りさせてもらった。4度目の今回、初めて僕は自分の運転する車でBiddefordを訪れた。かつてはDadの運転で何度か通った、わずか2時間の道のりだ。

メイン州はアメリカの北東の先端に位置し、カナダとの国境に接している。夏にはカナダからの観光客が海岸を目指して下って来たり、秋には見渡す限りの紅葉が美しかったりするが、裏を返せば、海と森と、あとはせいぜいロブスターしかない、極めて非文化的な州である。冬は長く厳しく雪に覆われ、気温はマイナス20度以下にまで達する。自然とともに暮らすことを選んだ人たちがひそやかに住む場所なのだ。

エンジンを止め、慣れ親しんだ庭に降り立つと、もうMomが両手を広げて待っていた。”Oh, my dear!”と何度も何度も抱擁され、ふと目を上げるとMomの肩越しにDadが優しく微笑んで立っているのが見える。いつもと同じだ。

18年前に初めて会った日もそうだった。当時それぞれ57歳と55歳のDadとMomは、しばらく離れていた息子と再会したかのように僕を抱きしめた。10ヶ月間、そのまま我々は、顔つきが似ていないだけの親子のように過ごすことになる。

猫も杓子も海外留学の昨今とは違い、当時高校生での海外留学はまだ稀であり、その分真剣だった。留学機関も由緒正しい5つくらいの団体に限られ、すべて非営利で運営されていた。留学生は当時で90万円程度の費用(旅費、渡航手続き費用、プログラム運営実費)を負担するだけで、受け入れ先の家庭は一切報酬を受け取らない。だから、僕が多少なりとも英語や海外経験を身につけ、それが今の自分に結びついているとしたら、それはすべて彼らの無償の愛情の賜物なのだ。

どうしても同じではいられないこともある。Dadは糖尿病で人工透析を受けており、Momは昨年左手を骨折したのだが、高齢のためもうあまり自由が利かない手になってしまった。その代わり、僕には妻がおり、Thanks givingのときには彼らに紹介しようと思っている。

先頭 表紙

たまたまさん、Andover、地図で見ました。Interstate 93でまっすぐ北ですね。近いので遊びましょう!日本人のクラスメートも15人います。 / Hidey ( 2001-08-22 11:54 )
わたしもホームスティします。ボストンより北へ25マイルのAndoverという都市です。いろいろ教えてくださいね。 / たまたま ( 2001-08-22 11:22 )
hidey様、11月には奥様が渡米されるご予定なのですか?良いホスト・ファミリ〜に恵まれて良かったですネ!回り逢いも本人の力ですし、アメリカでの心の拠り所?みたいな感じなのでしょうね。良い関係はそれでけで、素敵な人達を想像出来ちゃう気がします。。。 / peach ( 2001-08-21 16:04 )

2001-08-17 スタンフォードの親友宅にて

話がしょっちゅう前後して恐縮だが、先週末のカリフォルニアの話。コンサートが目的とは言え、やはり親友を訪ねるのは嬉しい用事だった。結局彼の家に2泊お世話になった。

ステート101をPalo Altoで降りて高級住宅街を貫くUniversity Avenueをまっすぐ行くと、もうそこはスタンフォードである。University Avenue沿いの商店街、レストラン街は非常にカリフォルニア的で、クリーム色の建物が青い空にひときわ映えていた。大学も同じ色調のサンドストーンで統一された瀟洒な建物が平たく連なり、この街はすべてスタンフォードなのだということを教えている。実際この街のほとんどはスタンフォードの私有地なのだ。

彼は学校に隣接したビレッジに建ち並ぶメゾネットタイプの家に、奥さんと二人の娘さんと一緒に住んでいる。庭の囲みの向こうはそのまま周辺の子供たちが集う遊び場になっている。その庭先で彼が自ら焼いてくれたバーベキューをつつきながらワインを飲み交わした。

実は彼とは高校3年間同じクラス、同じクラブに所属、同じ留学機関で1年間アメリカの高校に留学(州は別)、大学も同じ学部、同じクラス、同じクラブで、彼が部長を務め僕は総務的な役職を務めた。ここまでならたまに聞くような話だが、就職もたまたま希望が一致して同じ企業へ。二人とも最終的には営業になった。入社13年目にしてまたも志が重なり、たまたま同じ年に社外研修生の選抜試験に合格。僕は東海岸へ、彼はスタンフォードへ留学することになった。

実に20年も近くにいればお互いいいところも悪いところもすべて分かる。しかも同じ道を歩んできたとは言え、我々は正反対と言っていいくらい性格が違うのだ。いつもニコニコと笑っている彼は、人に警戒心をまったく与えず広く誰とでも親しくなれる。僕はどちらかというと人を選んでしまうほうで、人によってはとっつきにくいところがあるらしい。彼は非常に常識的でバランスが取れた人間であるのに対し、僕はどちらかというとバランスを崩してまで何かにこだわってしまうところがある。それでも同じ道を歩んだということは、大枠の価値観が同じなのだろう。

彼の奥さんも実は大学で同じクラブだったので、まるで親戚のように歓迎してくれた。二人の女の子もまるで叔父さんにじゃれるかのように僕の周りから離れなかった。

たった1ヶ月だがこれまでのアメリカ生活を山のように語り合い、励ましあった。昔高校で留学したときもときどき熱い手紙を交換し合ったことが思い出された。それぞれの時代でお互いの辛さを一番分かり合える存在だったから、こんなに性格が違っても親しくしてこられたのだと思う。

なかなか沈まないカリフォルニアの夕陽に映えるSancerreの味は、忘れ得ぬ味になった。友よ、また2年後に美味い酒を飲もう。

先頭 表紙

たまたまさん、NYには行かれたことがあるかもしれませんが、ボストンはさらに東っぽくさびれた感じがしてしまうかもしれません。初夏は本当にきれいなんだけど。 / Hidey ( 2001-08-22 11:52 )
サンフランシスコとサンディエゴに合計12ヶ月くらい住んでたことあります。Palo Altoとかunversity Avenueとか何度通ったことか。ついでにスタンフォードにも10回は行きました。その近くのスタンフォードショッピングセンターももちろん、、、 MBですか?自分も近いうちに会社から選ばれるようになりたいと考えています。いろいろ教えてください。 / たまたま ( 2001-08-22 11:21 )
美奈子さん、大当たり。行かれたことがあるんですね。家庭的でいい家ですよね。僕は日本と変わりばえのしないボストンのアパートにひとりさびしく住んでいます。 / Hidey ( 2001-08-21 14:12 )
↓失礼、まだサマーコースでしたね(笑) / 美奈子 ( 2001-08-18 07:52 )
すばらしい日記ですね。MBAコースの緊張感が伝わってきます。ああ、私も勉強しないとなぁ・・・。お友達の家、キャンパス隣接のメゾネットというとエスコンディード・ビレッジかな。 / 美奈子 ( 2001-08-18 07:45 )
ブルーさん、うちの夫婦は、お互い同性でも異性でも、それが二人きりでも、食事に行ったりすることを許容しあっています。友人の大切さが分かっているから。でも一般的には難しいことなんでしょうね。 / Hidey ( 2001-08-17 23:16 )
はらぽ〜んさん、ちょっと待っててね、僕らのこともUPするから。月曜にメイン州から戻るので、例の集まり、やりましょう。 / Hidey ( 2001-08-17 23:11 )
↓フィー子さん、問題ないよね。そちらでもなんとなく書いてるし。今度はぜひフィー子夫妻とこっちで乾杯したいものです。 / Hidey ( 2001-08-17 23:09 )
lamanchaさん、もう一人、大学まで同じ道を歩んだ親友がいるのですが、それは○ィー子さんのダンナです。 / Hidey ( 2001-08-17 23:06 )
いいですね、長年のお友達。うらやましいです。女性は結婚すると、なかなか付き合いにくいですから。。。 / サンセールは大好き@プルー ( 2001-08-17 22:04 )
そんな僕もHideyとともにボストンに今住んでいるんですが、Hideyとは小学校で同じクラスだったんだ。... あ、ここ自分のこと書く場所じゃないか。つっこまにゃ、つっこまにゃ。 / はらぽ〜ん ( 2001-08-17 18:11 )
うわーーー、最後のキメ台詞にノックダウン(゜o゜) / フィー子 ( 2001-08-17 16:37 )
貴重な友達ですね! / lamancha ( 2001-08-17 15:11 )

2001-08-16 観てきました!野茂対イチロー

昨夜、フェンウェイパークにてレッドソックス対マリナーズの試合を観てきた。5月に一度学校見学にきたときも、野茂が投げるというので当日券を買って観戦したのだが、そのときに8月14〜16日にレッドソックス対マリナーズがあるというので、先行してチケットを買っておいたのだ。前売りの状況が極めてわかりやすく表示してあったのだが、ほとんどの日が売り切れで、なぜか奇跡的にマリナーズとの3連戦だけが残っていた。ラッキーとばかりに、1枚25ドルのチケットを2枚購入。外野席しかなかったが、イチローの背後のライトスタンドが空いていたのでそこにした。たまたま選んだ14日が野茂の登板だったというのは僥倖というしかない。

野球観戦は初めてという韓国ギャルのヤンミンとともにフェンウェイへ。あらかじめ野茂の登板が発表されていたこともあり、ダフ屋を通じて日本人も沢山入っていた。ご存知のとおり、こちらはホーム&アウェイの感覚が極めて強く、会場のどこを見回してもおおっぴらにマリナーズを応援しているファンはいない。シアトルからわざわざ熱狂的なマリナーズファンが飛んでくるわけはないし、ボストンでボストンを応援しない野球ファンなどいないのだ。したがって、唯一マリナーズを応援する可能性のある日本人客は、肩身が狭く、心の中で応援するにとどまる。さもなくばボコボコにされて追い出されてしまうからだ。

僕はもともと野茂が好きだし、イチローも好きだがやはり自分もボストニアンということで、きちんとボストンに声援を送った。イチローがヒットを打ったときだけはこっそり小さく拍手をしたが。

おせっかいな応援団がいないのはやはり見ていて気持ちがいい。最低限、手をたたくための合図だけが思い出したように聞こえてくるだけで、それにあわせて隣に座ってた12〜3歳くらいの男の子が腰を振って踊ってるのもかわいくてよい。2アウト後サードにランナーを置いて野茂がバッターを2ストライクまで追い込んじゃったりなんかしたら、いつの間にかみな総立ちになって、大声援になる。その中で三振を取りまくる野茂君はやはりかっこよかった。イチローの打席になるとひときわブーイングが大きい。それだけ手ごわい相手だとみな知っているのだ。

ニュースでご存知のとおり、野茂は8奪三振、イチローは4安打2盗塁、佐々木は2奪三振でセーブを記録と、まさに日本人客のためにあったような試合であった。今日はクラスメートの家で6人くらいの日本人が集まり、カレーパーティーをしながら第2戦をテレビで見る予定。今日はおおっぴらにイチローを応援することだろう。生粋のボストンファンの皆さん、不純な応援の仕方ですみません。

先頭 表紙

たまたまさん、ボストンは、いつもいい位置につけても決して勝てないチームのようです。だからこそ応援しがいがあるのかな?とりあえずヤンキースを退治だ! / Hidey ( 2001-08-22 11:46 )
わたしも小学校から16年くらい野球続けています。まずは、ボストンでレッドソックスを応援します、 / たまたま ( 2001-08-22 11:18 )
peachさま、実は時々日記を覗かせていただいてました。先日カリフォルニアから帰ってきたばかりですが、やっぱり建物の雰囲気とか、明るくていいですね!僕も新庄はなかなか見る機会がなさそうです。 / Hidey ( 2001-08-16 23:46 )
はらぽ〜んさん、僕らはかなり後ろのほうにいました。たしかにあのメジャーリーグストレッチを見るだけでも球場行く価値はあるかも。佐々木がブルペンで投げてるときにNOMOのTシャツを着てる日本人が鈴なりになって写真とってたのは凄かったね。 / Hidey ( 2001-08-16 23:42 )
フィー子さん、5月に行ったときの試合は、なんと野茂が7連続三振を含む14奪三振を記録、1安打完封したという、内容的にはノーヒッターのときよりいい試合だったのですが、人と合う約束があったので、2回の裏で出てしまいました。7連続三振のときの盛りあがり方を想像すると、本当に気絶しそうです。 / Hidey ( 2001-08-16 23:37 )
Hidey様、初めてお邪魔致します。今夜のインフィ〜ルド企業席が入手出来なくて、ナマ新庄選手を見損ねてしまいました。。。イチロ〜選手はこちらで観戦しましたが、ヤッパリ本物は凄いですよね。丁度余り調子が良くなかったので、盗塁とか見る事は出来ませんでしたが、凄く共鳴しちゃったの。野茂選手の試合も未だ観たことが無い位の初心者です。 / 海外組みです!どうぞ宜しく@peach ( 2001-08-16 17:25 )
↓私も噴出してしまいました!ほんといつもストレッチしてる。お尻ふりふり。絶対に無駄な動きはしないだろうから全て計算の上だと思うんだけど、結構可笑しいですよね。それにくらべてジャイアンツのマルちゃん。腰が90度も曲がらなそうっす。 / フィー子 ( 2001-08-16 17:13 )
そう、僕の周りもイチローのときは大ブーイング。あまりボールの飛んでこないライトで守備するイチローはご存じの通りいつも外野で柔軟体操ばかりしてる。だから、やじで、「メィジャーリーグストレッチャー」と叫んだのには、皆が吹き出していた! / はらぽ〜ん ( 2001-08-16 15:34 )
あれ、どこにいたの?僕もライトスタンドにいたんだよ。僕はいつも野球は外野のブルペンの近くをとってます。だって、今回は野茂、佐々木を間近で見れたし、前回は大家、佐々木が見れた。勿論イチローが始終ストレッチやっててプリプリの尻を振ってる真後ろでもあるのだった。日本人にとってはいい席だね。"Bleacher"という席です。 / はらぽ〜ん ( 2001-08-16 15:31 )
うわー、羨ましすぎる〜。気絶。 / フィー子 ( 2001-08-16 13:31 )

2001-08-15 20年来の恋人を訪ねて 4

客電が暗転する。どんなコンサートでも最もどきどきする瞬間だが、今回はその比ではない。幕が上がり、闇の中にバックバンドが演奏を始める。頭上に浮く球面のスクリーンに、過去のヒット曲のメドレーに合わせて、オリビアの半生を綴った映像が映し出される。眠っていた記憶がよみがえる。

曲調が変わり、闇の中からシルエットが浮かび上がる。スポットが彼女を射抜く。オリビアだ。これは、ファンだから言うのではない。52歳とは誰にも信じられないほど若く、美しい。体型も全然変わっていない。声は若干渋みが加わったもの、まったく衰えがない。彼女は何一つイメージを損なうことなく僕との再会に臨んでくれたのだ。

始めは座って観ていたが、目の前に体の大きなおばちゃんが座っており、よく観えない。左右に体を振って何とか頑張って観てたら、係員が、袖のほうなら立って観ていいぞ、と言ってくれた。東洋からきたらしい若者が必死になって観ようとしているので気を利かせてくれたのだろう。礼を言って立ち上がった。彼女と僕の間の5mには、もはや何も遮るものがない。僕の周りはやたら盛り上がって声を発している客が多かったが、僕は静かに立ち尽くして彼女を見つめていた。

上品なトークを混ぜながら、次々と馴染みの曲を歌う。Joleneなどのカントリー、Xanadu、Greaseからのメドレー、Physical。僕の最も好きなDon’t Stop Believin’、Samいったところも歌ってくれた。そして、環境へのメッセージを込めながら、Dolphin Song。途中、15歳の娘、Chloeもデュエットで登場。母親より低く、荒削りながら情感豊かな歌声が印象的だった。

オリビアは時々水を口にし、客席に”Cheers”と声をかける。会場もグラスを持って”Cheers”と返すと、彼女はさらに”Salute” “Kampai”と景気よく投げかける。なぜ、僕はそのとき大声で「カンパーイ!」と叫ばなかったのか。やさしい彼女のことだから、”Oh, somebody from Japan?”くらい言ってくれたに違いない。フィー子さんではないが、本当に機転の利かない自分の脳みそが恨めしかった。

アンコールのあと、ロングドレスに着替えた彼女は、かつてアルバムにも収めたことのある、Don’t Cry for Me, Argentinaを歌い上げ、最後はお約束のI Honestly Love Youで締めくくった。

もう多分彼女に会うことはないだろう。恋人との邂逅は一度で十分であり、僕はいつでも彼女のアルバムに帰っていけるのだ。満ち足りた気持ちで、翌朝僕は美しい湖を後にした。

最後に、飛行機代、レンタカー代、ホテル代、コンサート代と、貧乏学生には分不相応な出費にぶつぶつ文句は言いつつも、かつての恋人との再会を快く許してくれた日本にいる妻に、心からお礼を言いたい。

先頭 表紙

え、Pizzicato Fiveもう解散しちゃったんですか!知りませんでした。なんか、もったいないですね。アメリカのCD屋は基本的に歌詞が英語じゃないものはあまり置きませんが、喜多郎(←アメリカではメジャー)、坂本龍一、富田勲あたりはけっこう見かけました。 / lamancha ( 2001-08-16 12:50 )
lamanchaさん、最も最近入れ込んだアーチストはPizzicato Fiveだったのですが、解散してしまってちょっと残念。そう言えば、こちらのCDショップで日本のアーチストでもコーナーがあって実際にアルバムがいっぱい並んでるのはPizzicatoだけですね。 / Hidey ( 2001-08-16 00:44 )
フィー子さん、昨日妻と電話で話したのですが、残念ながら彼女のバイオではメモリ不足で「ひまじん」が表示できないようです。メールで報告しろと言われてしまいました。トホホ... / Hidey ( 2001-08-16 00:41 )
ブルーさん、はじめまして。52歳でも若くいられる秘訣はスポーツだそうです。僕も何とかしないと... / Hidey ( 2001-08-16 00:38 )
そこまで入れ込んでいるアーチストが居るのは素敵ですね♪ / lamancha ( 2001-08-15 18:06 )
これだけ立派に報告が書けたのだからきっと奥様も許してよかったと思うんじゃ? / フィー子 ( 2001-08-15 11:21 )
静かに見ていたからきっと叫べなかったんでしょうね。でもきっとカーテンの陰にいたJAPANESEに気づいていたから「カンパイ」って言ってくれたんじゃないかしらん。 / フィー子 ( 2001-08-15 11:20 )
オリビアニュートンジョン、とても懐かしい響きですね。シドニーのオリンピックで歌ってるのを見てとても若若しいと思いました。 / プルー ( 2001-08-15 05:25 )

2001-08-15 20年来の恋人を訪ねて 3

スタンフォードの親友宅から、空港で借りたレンタカーに乗り、一人レイクタホへ向かうことになった。5時間くらいの道のりと聞いていたが、何しろほとんど始めて左ハンドルで右側通行をするのに加え、とある事情から、車の運転自体3年ほどご無沙汰しているのだ。レンタカー屋でもらった大雑把な地図を頼りに、初めてのカリフォルニアのハイウェイをぶっとばした。

結局6時間あまりかかって、無事レイクタホに到着。日本とほぼ同じくらいの大きさのカリフォルニアを横断し、隣のネバダ州に入ってすぐのところなので、感覚としては東京から新潟に関越をぶっとばしたようなものだ。青く巨大なレイクタホは緑の山に縁取られ、静かに横たわっていた。

コンサート会場はシーザーズ・レイクタホという、あのシーザーズ・パレスの系列と思われるホテル内のホールである。周辺は一大リゾートエリアになっており、それほど趣味のよろしくないホテルが立ち並んでいる。ラスベガスのあるネバダ州ということで、ギャンブルに関しても規制がゆるいのだろう。すべてのホテルにカジノがある。気分にはまったくそぐわないがこの際無視することにする。

ホールはカジノのあるホテルらしく、小さいテーブルに8人ずついすを並べたユニットで構成され、目算3000人位のキャパというところか。山奥の保養地でカジノのホテル、しかもオリビア・ニュートン・ジョンというくらいだから、客層は言うまでもなく高い。白髪の客に混じって、今年35とは言え、アメリカ人から見れば20歳くらいにしか見えない、日本人にしても童顔の僕は、どう見ても浮いていた。僕の席は、ステージに向かって左端の方だが、ステージまでの距離5メートルという絶好の位置だった。

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ひゃー、良かった、無事で。 / フィー子 ( 2001-08-15 11:18 )

2001-08-15 20年来の恋人を訪ねて 2

実は、そのオリビアに一度だけ会ったことがある。1990年、広告代理店に勤めて2年目の僕は、なぜか外国人記者クラブの会員であった上司あてに、「国連環境名誉大使オリビア・ニュートン・ジョンを招き、外国人記者クラブにて昼食会および記者発表を開催」というFAXが届いているのを目撃した。当の上司は末期ガンで入院中だったこともあり、外国人記者クラブに電話、「代理のものですが出席しても構いませんか」と、ずうずうしく招待状を手に入れることになった。昼食代のみ負担でたった3000円というプラチナチケットである。

当日、ひな壇にはオリビアや、日本で同じように環境保護活動を続ける加藤登紀子さんが座り、我々メディア関係者は昔風の結婚式のように、列になったテーブルに掛けて食事をする。フランス料理だったと思うが、はっきり言ってまったく味などしなかった。いかにしてオリビアに近づき、話し掛けるか、そればかり考えていた。

森林保護、動物保護など、さまざまな環境に関する記者発表があり質疑応答を経て、ようやく閉会。個人的にオリビアと話をしようとする人がちらほら出始めた。今しかない!と、僕もオリビアに歩みより、恥も外聞もなく、このときのために家から持参した10枚組みのボックス(購入当時はまだLP)とマジックを取り出し、”I am your biggest fan in Japan. Can you please give me your autograph?”と、何度も練習した言葉を口にした。極東の国でこんなボックスが発売されていることなど、彼女の記憶にはなかったらしい。「これ、何が入ってるの?」「あなたのアルバムが10枚」”Wow, 10 albums!?”この彼女の甲高い驚きの声は今でも耳に残っている。「Olivia」とサインが入ったボックスも、レコードプレーヤーなどもう持っていないにもかかわらず、きちんと保管してある。

しかし、彼女の生の歌声は、まだ聴くことはなかった。それから約10年。道中飛行機が落ちたりレンタカーで事故に遭ったりすることがなければ、僕はいよいよオリビアの本当の「声」を聴くことができるのだ。

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そ、その末期がんの方は・・・!(*_*) 事故があったりしなければ、ってあえて書かれると何かあったんじゃないかと心配になりますねえ。 / フィー子 ( 2001-08-15 11:18 )

2001-08-15 20年来の恋人を訪ねて 1

8月10日〜13日でカリフォルニアに行った。スタンフォードに通う親友の家を訪ねたのだが、実はそもそもの目的は別にあった。オリビア・ニュートン・ジョンのコンサートを観るためだ。なぜ今ごろオリビア?と誰もが思うだろう。それもそのはず、彼女は今年52歳で、日本ではほとんどその消息を知る人はいないと思う。かくいう僕も、最近聞いている音楽といえば、ボサノバくらいのものだ。ではなぜオリビアなのか?

彼女との出会いは高校一年の頃に遡る。1981年、ビートルズの「イエスタデイ」に並ぶビルボード10週連続1位という大ヒット曲「フィジカル」を聴き、当初はそれほど好きではなかったが、次第に力強く魅了されていくことになった。もともと成熟した女性を好むこともあったが、(当時オリビアは32歳)それにも増して、彼女の「声」に引き込まれていったのだ。

か細い声に加え、平和的で人畜無害な70年代ポップスを代表する、かわいいだけの、歴史的には無価値な歌手。大方のオリビアの評価はそんなところだろう。だが、それは権威主義的で平板なものの見方でしかない。確かにマライヤ・キャリーやホイットニー・ヒューストンの圧倒的な声量には程遠い。しかし、そこに日本人好みの逆説の美学が生じうるのだ。

持って生まれた声質の限界を補うべく、彼女は知性と技巧をもって、自分のスタイルを確立する。「七色の声を持つ歌手」というのが、オリビアに対する僕の勝手な評価である。はかなげに始まる導入部に続き、いきなり声帯をフルに開いて歌い上げ、かと思うと惜しげもなくその語尾を抑制し、ハスキーに空気に溶かしてしまう。ワイルドに濁った声を出す曲もあれば、極めてフェミニンな裏声を多用する曲もある。ロック系の曲では最も響きやすい周波数帯の声を打楽器のように弾ませ、荘厳な曲では独特に霞がかかったアルトを響かせる。イギリス発音(育ちはオーストラリア)に固有の、鋭く弾かれるTの音が、華やかにアクセントを添える。曲や詞のコンテクストに沿って、発声法を瞬時に切り替える。声量はあっても芸のない多くの歌手に比べ、まことに味わい深く、耳の保養になる。

とは言え、この10年くらいは僕もすっかり彼女の歌にはご無沙汰していた。新しい音楽への興味に加え、正直なんとなく高校時代に夢中になった音楽を聴き続けるのは気恥ずかしかった。また、彼女は日本人が漁業を守るためにイルカを殺戮することに抗議して以来、決して日本でコンサートをすることはなかった。したがって僕も彼女の生の歌声を聞いたことはなかった。

アメリカに来てから、ある日、暇にまかせてネットサーフィン(死語)をしていたら、彼女が近年積極的にツアーを行っており、8月にも西部を中心にアメリカを回るということを知った。20年来の恋人の歌声。失われた日々への憧憬。僕は、日程と場所と、よい席が取れるか否かを総合して検索、8月11日、ネバダ州レイクタホでのコンサートを選び、1人分のチケットをヤフーで購入した。ボストンからサンフランシスコに飛び、さらにレンタカーで約300kmの道のりだ。恋人との邂逅は近くにあるようで、まだまだ遠かった。

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ほぅ、ワクワクしてきましたー。 / フィー子 ( 2001-08-15 11:16 )

2001-08-12 ケーススタディーとは? 2

(前回よりつづき)

サマースクールでも、既に大変活発なケーススタディーが展開された。特に南米の学生は英語もほとんどネイティブなので、怒涛の勢いで意見を述べ合う。学生の成績評価の50%は、授業中の発言でいかにクラスに貢献したかによるので、その練習ということで、みな真剣である。

日本人の僕としても負けているわけにはいかない。とにかく参加できそうな部分はがむしゃらに手を挙げて発言の機会を求める。しかし教授が指してくれないうちに、議論の流れが全然別の方向に行ってしまい、せっかく言おうとしたことが言えなくなったりということはしょっちゅうである。常に流れをつかみ、それぞれのポイントで的確な意見を言えなければいけない。

教授もできるだけ多くの学生に発言させようとするのだが、授業の流れ上、これは誰でも答えられるというような質問を時には振らざるを得ない。学生としては、1つの授業で1〜2回しか回ってこない貴重な発言の機会を、easy questionに費やすことになってしまう。従って、どのタイミングでどんな発言をするかが、よい評価を得る上で重要になり、微妙なテクニックも必要になる。

うちの学校の日本人はかなり英語ができる連中が集まっているので問題ないが、ほとんどのビジネススクールで最近取り沙汰されているのが、日本人学生の授業への貢献度の低さである。ある学校では、アメリカ人の学生が、「なぜ授業中お客さんのように座ったままで何一つしゃべらない日本人に、貴重な入学資格を与えるのか?」と学長に詰め寄り、実際翌年から日本人の合格者は大幅に減ったということである。多かれ少なかれどこの学校でも同様の見解らしい。

だから、MBAを持ってます、という人がまわりにいても、それだけでは何の評価にも値しない。本当の経営のプロへの道は、非常に厳しく険しいものなのである。いよいよあと2週間もすると本番が始まる。期待というよりは緊張という言葉しか浮かんでこないのが今の偽らざる心境である。

先頭 表紙

あ、申し送れました。そう、学部はアメリカのテネシー州で、修士はカナダのトロントで取りました。下の突っ込みは、発言が成績に響く授業で留学生の間で使われていたテクです。僕は理系で専攻科目では発言は一切成績に響かないので、教養科目以外使うことがありませんでした。 / lamancha ( 2001-08-15 17:05 )
Chieちゃん、大変といいつつ、8月に入って既に2週間のオフですので、大変さを忘れてしまうくらい遊びまくってます。遊びの話もそろそろアップします。 / Hidey ( 2001-08-14 23:37 )
大変だろうとはおもってたけれど、本当に大変なのね!でもその分とっても力が付きそうだわ! / Chie ( 2001-08-14 21:12 )
lamanchaさん、おっしゃる通りですね。僕もこの間図らずもアイスブレーカーをやらされました。しかし、lamanchaさん、何でそんなに詳しいんですか?さては経験者? / Hidey ( 2001-08-14 12:06 )
フィー子さん、考えることもそうなのですが、世界中から、ケースのモデルになりそうなビジネス体験をした人が集まっているわけで、それぞれ異なる視点を聞くということが生きた勉強になっているようです。入学のためのEssayで、あれだけリーダーシップの経験を問われた意味が今わかる気がします。 / Hidey ( 2001-08-14 12:04 )
↓なるほど〜。すばらしいテクを聞いた感じ。ってあたしはどこで活かすんだ?(ーー;) / フィー子 ( 2001-08-13 11:46 )
語学にハンデを感じるときは、一番最初に発言するのが良いとされています。皆がそのひとの発言を比較的ちゃんと認知する上、自分が話の発端なので、議論の展開について行きやすいです。先生が質問をする前に質問をするのとディスカッションの途中でも新しい論点を加えるのが良く見られる先頭をとる手段です。 / lamancha ( 2001-08-12 14:58 )
結局教授がやらせようとしていることというのは、「考えること」なんでしょうね。その考えてますってことをアピールしないといけないんですね。発言することが目的になってしまうと、本来の意味が崩れてきてしまうということなのかなあ。そのへんのバランスが非常に難しそうです。やはりMBAってすごい体験ですね・・・。(>_<) / フィー子 ( 2001-08-12 13:14 )

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