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Hideyの「蛍の光の下で」

帰国に伴い長い間ご愛読いただいたこの日記を終了させていただきます。
もうこのサイトに文章を綴ることはありませんが
もしこの先もおつきあいいただけるようであれば
メールをいただければ幸甚です。
皆様、本当にありがとうございました。お元気で。

絵日記

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2003-05-19 嫌われ者のアメリカ人 1
2003-05-18 僕はドイツ人? 3
2003-05-18 僕はドイツ人? 2
2003-05-18 僕はドイツ人? 1
2003-05-17 地球をはさんで
2003-05-16 衝撃
2003-05-15 最愛の女性教授 2
2003-05-15 最愛の女性教授 1
2003-05-14 高級百貨店の誕生と経営戦略 2
2003-05-14 高級百貨店の誕生と経営戦略 1


2003-05-19 嫌われ者のアメリカ人 1

4月中は自分の論文だけで充分忙しかったが人の論文の調査の手伝いまでしてしまった。と言ってもいい人自慢のような話ではなくてほんの一時間半程度で終わってしまうくらいの簡単な作業。同じセクションのヘイリーという韓国人の女の子に頼まれて、ネットオークションのeBayが何故日本市場でだけ事業に失敗したかについて日本語のサーチエンジンで関連サイトを検索した。本当のいい人自慢はこれから。検索したのはいいけれどヘイリーは日本語を解さないことにバカな僕は今さらのように気づいた。しかも検索の結果プリントした資料はあまりにも膨大で、時系列に順序だてて理解していくだけでも結構な作業だった。結局キーになるところにマーカーで線を引いて図書館で3時間近くかけてつきっきりで逐次通訳した。いい人だ。

本題はそのあとの話。どうしてもお礼にというので図書館を出た僕たちは彼女の奢りで僕の行きつけのインド料理屋へ行った。二十代の女の子が好むような噂話にふーんふーんと耳を傾けていたらヘイリーが突然言った。「ねえ、うちのセクションって好き?」「うん、結構好きだよ。いい奴も多いし」と僕が答えると「そうかもしれないけど私は嫌な人も多いと思う。特にアメリカ人。上っ面は親切で優しいんだけど上っ面ってのがよく分かりすぎて時々信じられなくなる」

こういう会話はアジア人だけのものではなくてヨーロッパ人の間にもある。往々にして標的はアメリカ人なのだ。数の上ではうちの学生の65%を占めて主役の座にあるアメリカ人だが、35%と少数派ながら国籍で言えば50くらいはあるであろう残りの学生にとっては異端視すべき絶対多数だったりするのだ。

昨日の日記の「文化的プロフィールの七つの指標」に照らして考えると結構分かりやすい。アメリカ人はIndividualismの権化である。もちろん比較的という話に過ぎないが、広く浅く誰とでもニコニコつきあうかわりに少数でヘビーな関係というのは少ない。大人数のパーティーをしょっちゅう開くのも、心理学的には個人主義の彼らにとってそのように友愛を確認する手段が必要だからだそうだ。そしてそのようなパーティーでのアメリカ人の誰に対しても調子のよい挨拶に非アメリカ人は時々内心うんざりする。ヘイリーはあるアメリカ人の女の子がパーティーでドレスアップした写真を見て「素敵ねえ!」と心から褒めたそうだがその女の子はヘイリーに「あなただってこの日のドレスとっても綺麗だったわよ!」と言った。ヘイリーはそのパーティーには出席すらしていなかった。

あまり学生の間では表立って話されないが先のイラク戦争についても非アメリカ人のほとんどがアメリカの行動に批判的だったのは間違いない。うちの学生のアメリカ人なら同じように批判的なのではないかと思ったら調査の結果全学生の50%がアメリカの先制攻撃に賛成したらしいからやはりうちの学生はコンサバなのだと思った。いずれにせよ非アメリカ人がアメリカの軍事行動を理性的にだけでなく感情的にも嫌っているとしたらそれは世界の保安官を気どるアメリカのUniversalism(世界には共通のルールがあり、それを徹底すべきとする傾向)を嫌ってのことだ。マクドナルドのような画一化された商品が世界を席巻することにも世界には根強い反発がある。フィー子さんが先ごろ日記で引用した「なんでメジャーリーグで優勝するとワールドチャンピオンなんだ?」という怒りに充ちた疑問も同じことだ。

(つづく)

先頭 表紙

みほちゃん、↓この直後に例の事件が起こったわけだね? / Hidey ( 2003-05-20 22:05 )
うわー良い人!自慢できる位でしたら私の宿題も(なぜゆえ朝3時に起きて宿題・・・)当然手伝ってくれますよ、ね〜・・・っと。 / みほ ( 2003-05-20 01:21 )

2003-05-18 僕はドイツ人? 3

External(人の運命は外的要因によって左右されるとする傾向)かInternal(人の運命はその人の能力・努力次第で内的要因が大きいとする傾向)かという指標では日本人はExternalでフランス人とアメリカ人はInternalだ。これは歴史的要因によって違いが出てくるものらしい。フランス人の集団的な意志はフランス革命において、自らが運命を切り開こうという内面の意志の集団的表出という形で培われたものであり、日本人に集団的な意志があるとしたらそれは黒船の来襲や二次大戦後のアメリカによる統治などの外的要因の触発によって形成されたものだ。アメリカ人は無論独立戦争、西部開拓のフロンティア精神など自らの意志で運命に挑んだ歴史の末Internalな文化をつくった。また古来より欧米人は自然に挑むことで文明をうち立て、日本人は自然と共存して生きてきたことも相違の要因として考えられる。日本人の方が運命に従順なのだ。

Time orientation(時間的性向)という指標は、過去、現在、未来のどこに重きを置くかを問うもので、日本人とアメリカ人は現在から未来を重視するのに対しフランス人は極端に過去を愛する。これはフランス人の歴史に対する誇りによるのことで経歴や過去の関係の長さを重視することがその表れであるという。日本人も長期的関係を大事にするという点ではフランス人と同じだが、フランス人においてはその傾向がさらに強いという。日本人には忘れたい過去が多く、アメリカ人は歴史すら持たない。

先述のとおり僕はTime orientationで若干過去によっていることを除きすべての指標で中間点に位置していた。中学時代をパキスタンで過ごし日本を外から見ることを覚え、さらに高校では10ヶ月留学をしてアメリカ的価値観を内側から見たこと、そして広告会社という日本では比較的リベラルな環境に身をおいたことなどが影響してのことと思う。中間点に位置するということはどちらの考え方もある程度理解はするという意味において有利なポジショニングと言えるかもしれない。

ちなみに他の国の文化的プロフィールの標準値も見ることができたのだが僕と同様すべての指標で中間に位置していたのはドイツ人だった。たしかにドイツという国は僕も旅行などしていて違和感は感じなかったしドイツ文学には特別な親しみを感じることも事実だ。将来はイタリア人になろうと思っている僕にとってはイタリア人の文化的プロフィールの資料が得られなかったのはとても残念だ。ちなみに昨日の日記で書いたとおりやはり親しみを感じるブラジル人については、彼らがCommunitarianismに寄っていることと未来志向が強いこと以外はすべて僕と一致していた。なるほど気があうわけだ。

僕自身の結果からも分かるとおりその国民の標準値といっても個人によって千差万別である。この授業では20ほどの国からの50人強の学生たちが集まり、彼らの発言にはその国らしさを感じさせられることもあればそうでないことも確かにあった。ある人に教わったことで僕も事実だと思っていることがある。それは、人はついつい文化の相違点に注視してしまいあれもこれも違うと思い込む傾向があるけれど、実は敢えて口にしない共通点の方が遥かに多いのだということだ。人は相違点を拡大して理解の障害と捉えて悲観的になりがちなのだが、見過ごされた多くの共通点をもって相違に橋を渡す努力ができるはずなのだ。もちろんそれは必ずしも相違点を埋めるということではない。相違点をうまく尊重することさえできれば我々はお互いの相違を魅力的なものとして賞賛しあうことすら可能なのだ。

先頭 表紙

ミサトさん、特に中国はあれだけの長い歴史にも関わらず、ほんのちょっと前の文化大革命とその後の自由化による反動というのが、現在の彼らのメンタリティに大きく影響を与えているのだと彼ら自身から聞きました。もちろん台湾や香港もその歴史上の岐路においてまた異なる文化を培うことになったし。面白いですよね。 / Hidey ( 2003-05-21 23:25 )
当たり前だけど国民性って全然違うんですよね。同じアジアでも、お隣の中国(HKと大陸だとまた違うけど)や韓国とも違って。文化の違い、思考の違い、頭で理解できていても心で理解していくのが時々難しく感じることがあります。田中康夫氏が、サービスについて、日本人とイギリス人が似ていて、中国人とフランス人が似ているというような事を言っていてなるほどーと思ったことがありました。 / misato ( 2003-05-21 23:07 )
KATSUMIさん、サッカーがアメリカで根付かない理由も色々分析できるかもしれませんね。それこそフィー子さんのこの間の日記みたい。 / Hidey ( 2003-05-20 21:57 )
Ecruさん、本当に。知らないよりは知っていたほうがということだと思います。そして理性で分かっていても感情がついていかないことはとても多いし。 / Hidey ( 2003-05-20 21:56 )
なんとなくわかる気がします。サッカーファンの盛り上がり方も、国ごとに共通かもしれません。 / KATSUMI@適度に活動中 ( 2003-05-20 02:20 )
相違点を認識しあうところからまた一歩進んで真の意味で尊重しあうのは何と難しいことだろうと思います。でも、何としてもそれはしていかなくてはならないことなんですよね。 / Ecru ( 2003-05-20 00:06 )
やっちーさん、続きです。ジンバブエはなかったのですがナイジェリアはありました。それによると若干Diffuseに寄っていて未来志向が強いこと意外はすべて中間点に位置していました。何かの参考になりましたでしょうか? / Hidey ( 2003-05-19 23:25 )
やっちーさん、本文にも少しだけ書きましたが違いって本来とても大切なことですよね。違いがあるから相手を愛せることにもなるわけだし。同時に憎むこともできるのだけど。新鮮な驚きはいつまでも大事にしたいと思います。 / Hidey ( 2003-05-19 23:24 )
kofukuさん、おっしゃる通りだと思います。そしてこの授業においても教授はそれを力説していました。私は正解を持っていない。あなたがたもこの教室でそこにたどり着けるわけではない。ここにあるのは考えるための材料に過ぎないのだと。それからおっしゃるとおり力技ってのも経営上はきっとありなんでしょうね。GEなんかそんな感じみたいだし。 / Hidey ( 2003-05-19 23:21 )
もちろん、Hideyさんが言っている通り、その相違点がはっきりわかったら、それで「ダメだ」じゃなくて、さらにいい関係を築けると思うんですよ。 / やっちー ( 2003-05-19 05:27 )
この宿題、ものすごくおもしろいですね!ジンバ人の標準値がめちゃくちゃ知りたいです!私もやって、ジンバと比較してレポート出したい(どこに?)!!!私も大学のクラスで、いろんなアフリカの国々の学生がいて、文化背景による違いからか討論でも意見がすごく分かれて、日々、国による文化や価値観の違いに驚きの連続でした。もちろん、私は日本人としてアフリカの人との大きな相違点を感じたりして。私の価値観は、個人だけれど、やはり多大に日本という国の影響を受けていると思います。いろんなアフリカの国の標準値、知りた〜い! / やっちー ( 2003-05-19 05:22 )
文化的な相違点が理解できても、それを業務に生かすのは大変難しいと現在日々感じている次第です.客観的に理解することは出来ても日々起こる出来事の中でEmotionalにならずにそれを処理していくことは文化の相違に対する理解そのものよりも人間としての成熟性が要求されるなぁと痛感しています.多国籍多文化間でリーダーシップを発揮している人たちを見ていると案外意識的に文化的相違に目をつぶっているような気もするし・・・・ / kofuku ( 2003-05-19 02:15 )

2003-05-18 僕はドイツ人? 2

Communitarianism(コミュニティ重視主義、団体志向)かIndividualism(個人主義)かという指標でも日本人、フランス人ともにCommunitarianisticだという。日本人のコミュニティ志向は論ずるまでもないが、フランス人も家族や仲間内という概念をとても大事にする国民なのだ。コンセンサスを重視し、自分たちのグループに属しているか否かによって対応が違う。clique(派閥)やétranger(外人)という言葉の概念にも日仏の共通性がある。フランスでは特にフランス文化を愛し理解しようと努力しないと本当には受け入れてくれないということだ。逆にその努力を見せればとても気前よく受け入れてくれるということらしい。アメリカ人はもちろんIndividualistsの典型だ。

Diffuse(拡散的・包括的)かSpecific(特化的)かという指標は、別の言い方をすればHigh-context(付帯状況を大事にする傾向)かLow-context(付帯状況を軽視する傾向)かという表現もできる。例えばある人とこれから取引をはじめるか否かを考えるとき、その人を仕事の能力だけで限定的に判断するか、その人の性格、思想、背景などから包括的に判断するかの違いである。前者がSpecificで後者がDiffuseである。これも日仏ともにDiffuseな文化を持つのに対し、アメリカはSpecificに寄った文化を持っている。日本とフランスではものごとの微妙なニュアンス、様式美を大切にし、アメリカ人はより現実的、直接的な言動をする。

Affective(情緒的)かNeutral(非情緒的)かという指標では、日本人は非情緒的であるのに対しフランス人は情緒的だという。要するに感情をストレートに表に出すか否かということだ。フランス人はウィットに富んだ議論のための議論を好み、交渉事では敢えて相手を否定するようなことを平気で口にするという。彼らを否定するときは結論を押しつけてしまうと彼らの知性に対するプライドを傷つけることになるので、仮定や条件などだけを提示して彼ら自身の知性によって正しい結論を導かせる方法をとるのがいいという。アメリカ人もフランス人同様Affectiveな傾向にあるが、同じAffectiveでも微妙なニュアンスの違いはあり、フランスでは男性が女性の体の一部を褒めちぎることも美の崇拝として許容され、アメリカではセクハラで即裁判所行きとなる。

Ascription(人の能力を周辺的事実によって判断する傾向)かAchievementか(能力を客観的結果によって判断する傾向、成果主義)という指標においてはフランス人は中間よりややAscriptionに寄っている。日本人はAscriptionの傾向がさらに強い。「彼は〇〇の御曹司だ」とか「彼は〇〇の資格を持っている」など、直接的に能力を示すわけではなく付帯状況にすぎない事実から能力を判断する傾向があるということだ。フランス人は特に学歴に対して重きを置き、どの大学を出たかがその人の評価に大きな影響を与えるという。しかし日本人と異なり家系、年齢、性別などにはそれほど重要性を見出さない。アメリカ人は言うまでもなくAchivement志向が非常に強い。フランス人のAscriptionは、かつて王族や貴族の権威が神によって保証されたものと考えられ、疑問の余地すらなかったことにも由来しているという。

(つづく)

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2003-05-18 僕はドイツ人? 1

Managing across Culturesという授業をとっていたが、そこでは各国の文化の相違がビジネスを行ううえでどのような問題を生み出し、それらに対処するにはどうしたらよいかを学んだ。学んだというよりはともに考えたと言っていいかもしれない。文化の相違への対処の仕方はその人自身が持つ文化的背景によっても異なるし、しかも例えば複数の日本人が同じようにアメリカ文化に適応しようとしてもそのやり方は千差万別であり、唯一の正解はありえない。それぞれの学生がそれぞれの考え方やその根拠を発言し、議論しあった。教授はむしろナビゲーターに徹していた。

授業の初期の段階で宿題が出た。50問を超える個人の価値観に関する質問にネット上で答えて提出するというものだった。THTという会社が開発したカルチュラル・コンパスというこのプログラムを通じておのおのの学生の文化的プロフィールが分かるというのだ。その結果は一般的に国籍によって類似性が出てくるのだが、もちろんその人それぞれの価値観や環境の相違によって個人差も出てくる。宿題には続きがあって、自分がある国の文化に適応しようと仮定した場合、自分の文化的プロフィールとその国の国民の平均的プロフィールを比較して、発見したことを簡単にまとめよというものだった。僕はこの授業での学びを今後の業務に応用したいと考えていたので、昨年うちの会社とフランスの巨大広告グループが提携を結んだことから、フランス文化への適応の方法論について考えることにした。

質問の例としては、「あなたは友人が運転する自動車に同乗していたが、友人が不注意から人をはねてしまい軽症を負わせた。あなたが唯一の証人であり、あなたの証言によって友人の運命が変わる。あなたは友人を有利な立場に置くために偽証をするか否か?」とか「あなたは医者で、友人が保険の申請のためにあなたに健康診断を願い出た。あなたが診断した結果友人はほとんど健康体だが、一点健康とも不健康ともどちらにでもとれる診断箇所があった。あなたは彼に有利な診断結果を書くか否か?」というものがある。僕は第一問にはNOと答え、第二問にはYESと答えた。多分その結果だと思うのだが、僕はUniversalism(普遍的なルールを大事にする傾向)とParticularism(そのときの状況によってルールの解釈を個別的に行う傾向)という指標の中間点に位置するという結果が出た。このようにして文化的プロフィールを規定する七つの指標のどこに自分が位置するのかが分かるというプログラムなのだ。

はじめに結果を書いておくと僕は七つの指標のほとんどすべてにおいてその中間点に位置していた。しかし典型的な日本人やフランス人はすべての指標においてどちらかの両極に近いところに位置していた。順を追ってその七つの指標を説明し、日仏、そしてアメリカの文化の比較をしよう。

まずUniversalismかParticularismかという指標では日本人もフランス人もParticularismに寄っているそうだ。コネが大事だったり「ここだけの話」という会話が多いのがその表れだ。フランスではさらに役職に基づく権限は非常に個人的なものとして捉えられ、ある権限を与えられている者は個人的な解釈でそれを自由に応用できるし、そこに役職についている者は歓びを見出すのだという。それに対しアメリカ人はUniversalismの権化だ。ものごとにはすべて世界共通のルールがあるべきで例外はありえないと考えるのだ。

(つづく)

先頭 表紙

僕と同じですね。少なくともuniversalismかparticularismでは中間ってことかな。 / Hidey ( 2003-05-20 21:55 )
第1問は、NO。第2問は、YESです。質問に全部答えたら、どんな結果が出てくるのかやってみたいです。 / Ecru ( 2003-05-19 23:41 )

2003-05-17 地球をはさんで

またも話は一ヶ月ほど遡り、4月7日の出来事。

そろそろ三つの論文にとりかからないとと思いはじめた矢先にスタディ・グループの宴会隊長ラミからメールがまわり、スタディ・グループ最後の飲み会をやろうという話になった。「地球をはさんでバラバラになってしまう前に」とラミは書いていた。もう皆ともお別れかと初めて切実に思った最初の日だった。

前回取り仕切ったフレンチ=モロッコ・レストランでの食事会が大変好評だったこともあり(昨年の12月13日の日記参照)、エジプト人のラミは今回も中東系のラウンジ・バー、「カプリス」を予約してくれた。「月曜日の夜は特別に人気でいつも異常に人が集まるんだ」と彼は書いていた。道々タクシーの運転手とその店について話していると、彼も「月曜の『カプリス』は音楽がいいからね。俺も終わったら行こうかな」と話していた。

12人のグループのうち今回集まったのは7人。ブラジル3人と、ペルー人、アイルランド人、そして日本人だ。都合が悪くて来られなかった連中はアメリカ人2人と、カンボジア人、メキシコ人、そしてもうひとりの日本人。そもそもブラジル人のカルロスが中心になって「なるべく国際色豊かに」と編成したグループだった。カルロスとはサマー・スクールの頃から仲がよくてグループをつくるときには真っ先に声をかけてくれた。僕がブラジルの音楽が世界で一番好きなんだと話すと彼はこよなく愛するマリーザ・モンテのCDをプレゼントしてくれたことがあった。僕もお返しにピチカート・ファイヴのCDを買ってあげた。

半年以上毎日膝をつきあわせた仲ということももちろんあるけれど、僕はこの仲間が特別に好きだ。特に南米系の連中とは文化的に相性がよいのか、ここでは珍しいくらいに深い話を分かち合うことができる。もう二人のブラジル人ダニエルとジョアナは昨年夏のJapan Trekに来てくれて日本文化を学んで帰った。今回は来られなかったけれどアメリカ人のレベッカはアメリカ人にしては珍しく心の底から(ここが重要)外国人学生に対しオープンで、多国籍軍の我々スタディ・グループでは、どうしてもアメリカ企業についての話が多いケースを分析するにあたって貴重な存在だった。

あんなこともこんなこともあったねと少ししんみりしはじめた頃、気がつくと照明が暗くなっていてフロアに人が溢れていた。テーブルで食事をしていた人たちがもう立ち上がって音楽に合わせて体を揺らせていた。僕たちも同じように彼らに混ざった。音楽は純粋に中東の音楽ということではなく、最近ブルックリンで流行っているらしい中東色の強いハウス・ミュージックで、アルコールのまわった体に心地よく響く。アイルランド人のアビーと体を寄せて踊りながら彼女の男性に関する悩みを聞いたりした。音楽がうるさかったのと併せて彼女のヘビーなアクセントはとても聴き取りづらかったけれど。

二時過ぎに閉店にあわせて表に出るとこの数日の春の陽気が嘘のように久しぶりの雪が積もっていた。オレンジ色の街灯に浮かび上がる最後の雪。僕たちは子供のように駆けまわり雪合戦に興じた。この雪が解けて本当の春が来れば我々は別の道に向かって歩きはじめる。雪をつかみながら少しセンチメンタルになった。僕たちは地球をはさんでバラバラになる。でも僕たちは地球を包むように手をつなぎあうこともできるのだ。

先頭 表紙

八百屋六助さん、一応アメリカのラウンジ・バーでのブルックリンの音楽だったのでそこまでオーセンティックではありませんでした(笑)。そう言えばベリーダンスって生で見たことないなあ。 / Hidey ( 2003-05-19 00:38 )
みほちゃん、あなたは実は男子高校生?女装して女子高に通っている幸せ者? / Hidey ( 2003-05-19 00:37 )
ricaさん、気持ちを察していただきありがとうございます。ricaさんもかつて同じような思いをされたんでしょうね。僕もつとめてこれは一生を通じた地球をはさんだ友情の始まりであり、これから僕らは新しい関係を築いていけるのだと思うようにしています。でもほんと、ITさまさまというところは大きいです。 / Hidey ( 2003-05-19 00:34 )
中東系だとベリーダンスあり? ダブリンに1件,ベリーダンスを見せる店があった.昼食でたまたま入ったんだけど,ベリーダンスは夜の部.結局見られず. / 八百八六助 ( 2003-05-18 17:13 )
い・・・いいなぁ素敵な女性と踊ることができるなんてー!あ、そういう私もブラジル人のスタイルのいい姉様と向かい合って踊ったことありますけど、いやー至福の時でした / みほ ( 2003-05-18 14:27 )
寂しいですよね、寂しいですよね。ううう〜。それぞれが国に帰ることが「友達の終わり」ではないのですが、でもやっぱり国が離れてしまうとそう簡単に会えなくなるし、結構仲良くても「もしかしたら会うのが最後かも」とか思える人も出てくるし・・・。アジア諸国の人は思っているより結構頻繁に会えるかもしれませんが、南米だと厳しいかな??でもそれでもやっぱり、今はメールとかあるので昔よりはマシ!新しいテクノロジーにホント、感謝ですね♪ / rica ( 2003-05-18 00:15 )

2003-05-16 衝撃

久しぶりにかなりびっくりした話。それもポジティブな方向に。

昨日妻を英会話のレッスンに車で送ったあと、つらつらと車を西へ走らせた。帰国までの一ヶ月間にやりたいことのひとつに、まだ見ぬボストンを開拓するということがあった。もうひとつ個人的な「宿題」があって、たまに僕の日記にもつっこみをくれる、五年前にこの学校を卒業した僕の高校時代からの友人が「こんな写真が見られたらいいな」とメールで書いてくれたいくつかの題材があるのだ。そのうちのひとつが「ちょっと郊外に出た田舎の風景」というものだった。ふと考えてみてぼくは「ボストンの郊外」と言われる場所をそれほど走ったことがないことに思い当たった。そんな二つの理由から僕はボストンの中心から西に向かって伸びているBeacon Streetに沿ってまっすぐに車を走らせたのだ。

しばらく走ったあたりから、一人ハンドルを握りつつ僕は恥ずかしさでいっぱいになった。ほんの二十分くらい走っただけで僕は未知の領域に踏み込んでいたのだ。もう二年弱もこの街に住んでいながらこんなところにも来たことがなかったとは。確かに平日は勉強で忙しかったし休日は限られた時間で計画的に妻との時間を過ごす必要があったので、気の向くままにドライブするという機会はなかった。郊外は郊外でも例えばここのモールへ行こうとか、目的地を定めてそれに伴い必然的に郊外へ出るに過ぎず、それが繰り返された結果いつも馴染みの道ばかり通っていた。僕は見たことのない風景に心を躍らせつつも自己嫌悪でいっぱいになっていた。

左右の住宅や商業施設がまばらになりそれを埋めるように緑が増えはじめると、道が次第に細くなり曲線を描くようになってきた。豪奢な屋敷のようなものが左手に見える。さらに進むと右に大きな池が現れ左には高くなった場所に緑に囲まれた邸宅が見えはじめる。目の隅でそれらが息を飲むほど瀟洒な佇まいを見せていることを感じ取る。池を過ぎると右には巨大なスタジアムが出現しその向こうには相当に背の高いゴシック様式の教会が見える。予想だにしなかった風景の連続になんなんだここはとさすがに車を停めてみた。はたしてスタジアムはボストンカレッジのものだった。先ほどの邸宅が立ち並ぶあたりに戻ってみるとようやくここがよく名前だけは聞いていたチェスナットヒルというエリアであることが分かった。やれやれ、僕はチェスナットヒルにすら来たことがなかったのだ。自分に呆れながらも美しい緑に囲まれた邸宅を中心に何枚か写真を撮った。

それからというもの、そのまま西に走った僕はニュートンという街に並ぶ極めてボストン風の煉瓦造りで品のよい住宅が次から次へと両側に現れる様にただただ唖然とした。僕はボストンのことなど何ひとつ知らなかったのだ。愛する女性の奥に秘めた本当の美しさに出会って嬉しい衝撃を受けたような気分で、僕は写真など撮る気にもならず(そんなことをしたら100メートルごとに止まらなくてはならない)ただただ流れ行く美しい風景の中で酔っていた。Beacon Streetが終わったところで方向を変え、帰りはCommonwealth Avenueというこれもボストンの中心へ続く道を辿った。途中先ほどの教会をその中心に据えた壮麗なボストンカレッジに立ち寄り、その非のうちどころのない美しいキャンパスをはじめて歩いた。

帰国に間に合って思い知って本当によかった。僕はボストンの魅力をまったく理解していなかったのだと。この街に訪ねるべき美しさはまだまだいくらでもある。


*チェスナットヒルの、構図も何もない凝縮されたエッセンス。
 仔細は「絵日記」に乞うご期待。


先頭 表紙

KNくん、ほんとにびっくりしました。きっかけをつくってくれてありがとう。でもあまりにうっとりしすぎて肝心の写真はあまり撮れなかったのでまた少し撮りに行ってきます。 / Hidey ( 2003-05-19 23:19 )
Newtonは本当に美しい街だよね。Newton Circusにあるchinese restaurantは結構うまかったよ。 / KN ( 2003-05-19 10:15 )
kofukuさん、お久しぶりです!もうそちらにいかれてからしばらく経ちますよね?僕も部署が決まり、期待と不安が入り混じっているところです。Wellesleyの情報ありがとうございます。さっそくドライブ行ってみます。 / Hidey ( 2003-05-19 00:40 )
お久しぶりです。私は年寄りのクラスにいたせいかクラスメートがNewtonやWellesleyに住んでいたのでこの辺にはよく行きました。私自身もChesnut Hillの近くに住んでいましたし。ちなみにWellesleyもとてもいいところですので帰国前に是非行ってみて下さい。 / kofuku ( 2003-05-18 01:34 )
みほちゃん、助手席で寝る女の子はかわいいけどイビキまでかかれたんじゃねえ。K氏に同情。 / Hidey ( 2003-05-17 23:09 )
鳥さん、ボストンは本当に美しいですよ!日本から短期語学留学に来る方も多いです。ホームステイと英会話学校とセットでね。ぜひそのうちやってみてください! / Hidey ( 2003-05-17 23:08 )
ricaさんのことを考えるととても恥ずかしくて書けないなあなんて思ってたのですが。ricaさんの活発な毎日を読ませていただいていると僕もこうすればよかったと思うところが多々あります。これから毎日のように東西南北出かけていきたいと思います。 / Hidey ( 2003-05-17 23:06 )
りさ子さん、おひさしぶり!この写真じゃよく分からないしさすがに家宅侵入罪になっちゃうんでこんなになっちゃったのですが、この奥の庭の優雅なこと優雅なこと。それも成金的な優雅さじゃなくて、ずっとこの土地にあってここの自然と溶け合った美しさがあるのです。りさ子さんきっと気に入るよ。 / Hidey ( 2003-05-17 23:04 )
チチローさん、僕も運転しながら、これが戦前戦後を通じてずっと豊かでありつづけたアメリカの姿なんだなあとつくづく思いました。彼らは豊かであることを当たり前のように呼吸しているのではないかと想像します。本当に短い間ですがボストンの美しさを堪能して帰りたいと思います。 / Hidey ( 2003-05-17 23:01 )
綺麗な景色の中をドライブですか。・・・私はその中で相手が5時間以上も運転しているというのに眠気にまけて助手席で寝てしまったことがあります。しかもイビキまでかいていたらしくKにはいい迷惑だったでしょう。綺麗な景色の中でのドライブは一人でするに限るなぞと呟かれましたが。けっ。 / みほ ( 2003-05-17 21:07 )
ドライブする機会があってよかったですね!そんなにも美しい街なのかぁ・・いつか行ってみたいな。 / ( 2003-05-17 11:32 )
6年前、私もまったく同じような後悔をした経験があるので、今回のボストン滞在ではできるだけアクティブに様々なことに参加し、行き、観るようにしているのです!学生の時って、学校のことと周りで起きている日常生活のことでいっぱいになってしまって、なかなか遠出(それが近所でも生活サイクルからはみでること)をしなくなっちゃうんですよね・・・。残りあと1ヶ月強くらい?たくさん色々なアメリカを楽しまれて下さいね! / rica ( 2003-05-17 02:40 )
すごい綺麗だねー ^^  / りさ子 ( 2003-05-17 01:44 )
アメリカの大都市の郊外には、大抵、本当に美しい地域がありますね。日本の大都市にはない豊かさ。この違いは、本当にどうしたことだろうと思います。帰国までの短い間、せいぜい、アメリカの美しさを味わってください。 / チチロー ( 2003-05-16 23:42 )

2003-05-15 最愛の女性教授 2

この本は、ブランドを構築することによりその企業の競争力を高めて世界の最高峰に押し上げた六人の起業家たちに注目し、ブランド論にとどまらない奥深い経営術を歴史物語風に鮮やかに描き出したものである。六人の起業家とは陶磁器メーカー・ウェッジウッドのジョサイア・ウェッジウッド、食品メーカー・ハインツのヘンリー・ハインツ、昨日の日記にも書いた百貨店のマーシャル・フィールド、化粧品のエスティ・ローダー、スターバックスのハワード・シュルツ、そしてデルコンピュータのマイケル・デルである。ウェッジウッドについては一年生開始直後の特別期間の授業でも学んだことを2001年9月6日の日記に書いたが、実はその時使った教科書のウェッジウッドの部分はナンシー・ケーンによるもので、それがそのまま「Brand New」の第二章に使われている。いずれにせよこの本は六人の天才起業家の伝記としても読めてしまうほど一般の人にも読みやすく、またストーリーが起伏に富んでいる。あまりにも面白いので一日60ページ以上の宿題もあっという間に読めてしまったほどである。

実はこの本は日本語にも翻訳されており日本でも大変高い評価を得た。2001年の末に樫村志保の翻訳により翔泳社から出版された「ザ・ブランド」という本がそれである。「Brand New」では日本人にはぴんと来ないだろうということで「ザ・ブランド」と意訳されたらしい。amazon日本版や青山ブックセンター、旭屋書店などのビジネス書ランキングで軒並み10位以内にランクされ、幅広い人々から好評を博した。

そんな教授の生の授業に参加できるということで、このクラスでは毎回のように学生が家族や友人をゲストとして連れてくる。一日に三組ということも少なくない。僕もちょうどミネソタに住む妻の姉がうちを訪ねていたときに妻とその姉をクラスに招いた。ちょうどアメリカのビジネス史における女性労働力の進出というテーマで「Brand New」からエスティ・ローダーの部分を取り上げた授業だったので余計に彼女たちの興味を引いた。

授業内容としては、化粧すること自体がモラルに反していた戦前のアメリカ、戦争により男手が不足して初めて日の目を見た女性の労働力、終戦後も一度覚えた働く歓びを捨てきれずなおも職場にとどまりつづけたアメリカ人女性たち、そうした職場で肌をさらすことによる化粧の必然性という社会背景の中で、エスティ・ローダー自らが女性ならではの感性を武器にして実業を興すという先駆的・象徴的な役割を担ったことを学んだ。彼女は自らの名前を変えてまで(本名はJosephine Esther Lauter)自分がマーケティングすべきアイデンティティを確立し、自らの生き方の延長とも言える高級感で統一されたそのブランド・イメージは彼女のビジネスの根幹であると同時に、女性が心の贅沢を味わうことを許される社会を切り拓いた、時代の象徴でもあった。

授業中エスティ・ローダーのセールス術について語っていたケーン教授は最前列に座っていた僕の妻の手を握り、「エスティ・ローダーはこうして客の手を握って化粧品のサンプルを塗ったりしながら三分くらいその手を離さなかったのよ」と自ら三分くらい妻の手を握りつづけ、教室中の笑いを誘っていた。妻もびっくりしたらしいけれどとてもケーン教授のことを好きになったようだ。

頭を痛めることなくワクワクしながらビジネスの真髄を学べる「ザ・ブランド」。ぜひ一読をお勧めしたい。

先頭 表紙

たらママさんにはとてもスーツが似合う印象があります。彼女のプレゼン能力には本当に学ぶものがありました。 / Hidey ( 2003-05-17 22:59 )
私もエレガントで人を惹きつける話術を持ちたいです。もちろんシャネルとは言わないけど、お気に入りのスーツが似合うように努力したいです。 / たらママ ( 2003-05-17 21:37 )
八百屋六助さん、おもしろいですよー!レポートはありませんでしたが最後の試験は五つの問題に対し4時間で2000ワード以内で10くらいのアメリカビジネス史の事象、人物をテーマについて論じるというものでした。オープンブックだけど辛かったです。 / Hidey ( 2003-05-16 22:32 )
akemiさん、ブランドについては日本ではあまりにも「ファッションブランド」という意味の解釈しか与えられないので、マーケティングの大事なエッセンスとしての意味合いが理解されず残念に思うこともあります。そもそもはその商品の特別な技術性などの付加価値を「刻印」として象徴しただけのものなので、有象無象の商品群から健全な差別化を図るためのツールに過ぎないのです。日本にはブランドの本当の価値を分からずに名前だけを偶像崇拝する人が多すぎる。 / Hidey ( 2003-05-16 22:30 )
こういう面白い講義って聞いてみたい.レポートはいやだけど.(第一英語じゃ期限守れない) / 八百八六助 ( 2003-05-15 23:08 )
【感じたこと】話術って大事。何を知っているか?より 自分は何を感じ、それをどう伝えるか?が肝要なんだ・・ということ。そして「あたしの嫌いなブランド志向=人に金を出させて贅沢するのを当然と思う発想」は、本来自らが働くことの中で得た心の贅沢であったこと。 / akemi ( 2003-05-15 23:05 )

2003-05-15 最愛の女性教授 1

昨日のマーシャル・フィールドに関する日記の原典は、The Coming of Managerial Capitalismの授業を教えてくれたナンシー・ケーン教授による「Brand New」という本である。僕はこの学校で20人以上の教授に教わってきたが、彼女こそもっとも賞賛に値する教授だと思っている。彼女に教わった学生は皆多かれ少なかれ同様の感想を持っている。1998年には学生投票により最も優れた教授の一人として表彰を受けたこともある。

彼女はとてもアグレッシブな教授である。大きな太い声で80人の学生をリードし、授業の頭から斬り込むように学生に結論を迫る。スマートな学生たちのとりすました発言に対し鮫のように喰らいつき、否応なしに議論を本質へ、大局へと引きずり込んでいく。オーバーアクションたっぷりに教室中を歩き回っては、学生の机に頬杖をついて、鼻先30センチのところで彼を見据えて質問をする。学生が負けじと質の高い発言をはじめると彼女はその机を離れ、振り返りつつ学生を指差しながらニヤリと笑い、独特の筆記体で豪快に板書をはじめる。

彼女はとてもユーモアの溢れる教授である。怒涛のような勢いで独自の歴史観を論じあげたあとそのまま睨むようにひとりの学生を見据えながら数秒間の沈黙ののち、まったく表情を変えずに「私は今リチャードと二人でアイコンタクトを楽しんでいるのよ」と言う。文章ではそのニュアンスが再現できなくて残念だが、そんな調子で彼女は三分に一度の割合でニコリともしないまま教室を爆笑の渦に巻き込む。

彼女はとてもエレガントな女性である。愛用のシャネルのスーツは何着持っていることだろう。そのシャネルがこれ以上なく似合うくらい、既に五十代の彼女は二十代の若い女性のようなスタイルを保ち、同時に若い女性には醸し出せない妖艶さを身につけている。ワインカラーに染め上げウェーブのかかった短めの髪は少年を想わせる。そうした若々しさとは不釣合いな顔の皺は人を醜く年取らせる種類の皺ではなく、むしろ彼女の人間としての円熟味を美しく物語っている。

そして彼女は思いやりの深い人である。中国人の学生が多少ポイントがずれた発言をとつとつと続けていると周囲から失笑が洩れはじめた。教授はその方向をきっと睨み、中国人学生の発言の趣旨をひとつずつ汲み取りながら、最後は誰にとっても意義深い発言に導いた。彼女は自らの教えるビジネス史を学問としてだけではなく人の普遍的な営みの集積として愛情をもって捉え、ビジネスの世界へと再び巣立っていく我々が頼るべき、もしくは陥ってはならない「ためし」として提示してくれる。彼女もまた学生がそれぞれ自由に持ちうる歴史観から学ぼうと常に心がけている。

ナンシー・ケーンはスタンフォードで学士号を、ハーバードで修士号と博士号を取得し、そのままハーバード大学で講師を務めたのち当校に至り、すでに十年教鞭を執っている。経営学全般の教授である彼女はビジネス史の権威でもある。有名企業のコンサルタントとして数々のビジネスリーダーと交流を保ち、テレビ番組にも多数出演した経験がある。その彼女が2001年に出版した「Brand New」という本は世の中の彼女に対する評価をますます高いものにした。

(つづく)

先頭 表紙

2003-05-14 高級百貨店の誕生と経営戦略 2

1902年にリニューアル・グランド・オープンしたマーシャル・フィールドは彼のブランド観、顧客サービスの精神を具現化した金字塔である。その店舗はコリント式の柱に支えられ、ティファニー製のシャンデリアがマホガニーのショーケースにその煌めきを注いでいた。広大なアトリウムは12階まで吹き抜けになっており、イタリア宮殿風に各フロアがこのアトリウムに向かって開け放たれていた。トイレにはアメニティ設備が完備されており、髪をカールするためのアイロン、ブラシ、櫛などが置かれ、必要があればメイドが石鹸、化粧用パウダー、ヘアピン、針、靴紐などを無料で手渡した。

誰が買うわけでもない高価なペルシャのカシミヤ製のショールなどが飾られ、他にもロシア製の毛皮、日本製の屏風、フランス製の手袋など、フィールド独自の海外ルートで仕入れた舶来品が並んでいた。フィールドは特定の供給業者と独占契約を結び、それをさらにプライベート・ブランドに発展させたりした。また自ら生産設備を持って綿の布地などを供給し服飾を生産したりもした。いわゆる垂直統合であり、その根拠には取引費用や中間マージンの削減と規模の経済性による価格の低減または自社の利益の増大ということのほかに、生産工程をコントロールすることでより市場ニーズに合わせた柔軟な対応が可能ということがあった。こうした戦略はフィールドのブランド力と密接な関係があった。プライベート・ブランドは小売店のブランドが大前提だし、独自生産によるオリジナルデザインはブランドを強化した。しかしこれらの戦略は市場が未発達であればこそ意味をなすが、現代においては逆効果にもなりかねない。自社内生産設備は固定費の増大を生み、むしろ激変するファッショントレンドについていけなくなったりもする。現代においては市場の他プレイヤーに任せておいたほうが経営の柔軟性を保てるのだ。

自社ブランドの活用以外にもフィールドは様々な販売促進および経営効率向上のための戦略をうち出した。クレジット会社やそのエージェンシーなど存在しなかった当時においてマーシャル・フィールドは独自の調査網で顧客の信用情報を収集し、自前の割賦販売システムを構築した。利益をほとんど出さないかもしくは損失を生むほど安価な値段で特定の商品を売り出すことで集客効果を高め、彼らが同時に他の利幅の大きい商品も購入することにより最終的には利益を確保するといういわゆるロス・リーダー戦略を開発した。棚卸資産回転率という概念に注目し資産の効率的活用を図った。今は一般的な地下のバーゲン売場を設けることによって回転率の落ちた商品を一ヶ所に集め、バーゲンを大きく訴求して集客を図り、通常の売場の貴重なスペースは回転率も利益率も高い商品のために確保した。

フィールドの独創的な戦略は着実に効果を上げ、その売上高は1867年の創業当時の140万ドルから1905年には2530万ドルへと拡大し、彼の店を全米でもっとも有名な百貨店へと押し上げた。今でこそニーマン・マーカスやノードストロームなどの高級百貨店が群雄割拠しているが、当時のマーシャル・フィールドのブランド価値はそれらのものを遥かに凌いでいた。そして彼のビジネスセンスやブランドに対する洞察からは今も色褪せない経営の極意を見出すことができる。

この文章は授業で教科書として使用した「Brand New」という、この授業を教える女性教授ナンシー・ケーンの著書から抜粋、授業の内容と僕自身の考察を交えて書かれたものである。次の日記においてはこの学校で僕がもっとも人間的に尊敬するこの教授とその授業、著作について少し書いてみたいと思う。

先頭 表紙

2003-05-14 高級百貨店の誕生と経営戦略 1

2月28日の日記「19世紀のブロードバンド」に続くような話をひとつ。同じThe Coming of Managerial Capitalismの授業からの抜粋である。この日の日記でも書いたように鉄道の発達に伴いアメリカは西へ西へと開発が進み、その過程でシカゴという大都市が誕生した。そのシカゴを舞台に希代の創造性をもって現代の百貨店ビジネスの基礎をつくりあげたのが、今もアメリカ中西部を中心に展開する高級百貨店としてその名を残すマーシャル・フィールドである。

マーシャル・フィールドは1834年にマサチューセッツ州に生まれ、1856年に兄を頼りに新天地シカゴに移り、兄の勤める服飾小売店に就職した。早くからその商才を発揮した彼はめきめきと実績をあげて出世をし、若くして経営者の一人となった。しかしより大きなビジネスチャンスを求めるフィールドは1865年、当時シカゴで急成長していたポッター・パーマーという百貨店を安価で買収する機会を得た。これがフィールド・パーマー&ライター、後のマーシャル・フィールドの誕生である。

当時のアメリカでは輸送・通信革命によって全国規模の市場が成立していた。つまりこれまでは不可能だった遠隔地からの物品の調達、遠隔地での販売が可能になったのだ。また経済も好調で1870年から1880年にかけては平均所得が年率4%近くの割合で上昇した。こうした環境を追い風として多くの小売業者が誕生し凌ぎを削った。しかし当時はまだ大変多くの粗悪品が流通し、消費者は商品購入に際して細心の注意を払う必要があり、損失を蒙っても購入者本人がその責任を負うというのが常識だった。そんな社会環境の中、有象無象の小売業者の間でどのように仕入先及び末端消費者に対して差別化を図るかが求められていた。マーシャル・フィールドが導いた答えは「ブランド」だった。

当時の小売店の差別化は単純に品揃えと価格の組み合わせによるものでしかなく、相場価格で売られている商品についてはどこで何を買っても変わりがなかった。しかもそこには粗悪品が混じっていた。フィールドは彼の店が絶対的なブランド力を持つことにより、仕入先とも消費者ともブランドの信用に基づく差別的な取引ができると考えた。同じ商品を買うにしてもフィールドの店で売っている同じ商品を買いたい、と思わせるということだ。そのために彼は自らも差別的に特定の顧客に仕えるという戦略を採った。当時のシカゴで急増していたものの他の小売店が重要視することのなかった上流階級の女性たちに客層を絞ったのだ。彼女たちのニーズを把握しそれにもっともよく応える店だからこそ彼女たちもフィールドの店を選ぶ。今でいうこのターゲティングはビジネス全般の戦略の選択において大きな影響を及ぼす指針となった。

高品質でハイファッションな商品政策が採られたのは当然のこととして、むしろその豪奢な店舗の設計や徹底した顧客サービスにこそフィールドの創造性を見ることができる。彼は顧客が求めるのは商品を購入することだけではなく、それに伴い心を高揚させる環境であり経験であると考えた。今でいうところの経験マーケティングである。そしてそこにはブランド論の大家デビッド・アーカーの言う機能的ベネフィットを超えた情緒的、自己実現的ベネフィットに通じるものがある。要するにフィールドは、顧客の心理を誰よりも熟知し、ブランドビジネスの真髄を理解していたのだ。

(つづく)

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