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Hideyの「蛍の光の下で」

帰国に伴い長い間ご愛読いただいたこの日記を終了させていただきます。
もうこのサイトに文章を綴ることはありませんが
もしこの先もおつきあいいただけるようであれば
メールをいただければ幸甚です。
皆様、本当にありがとうございました。お元気で。

絵日記

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2003-05-30 Capstone Class 3
2003-05-30 Capstone Class 2
2003-05-30 Capstone Class 1
2003-05-29 最後の訪問
2003-05-28 ricaさんご夫妻と食事
2003-05-27 心の休息
2003-05-25 日本人学生の絆
2003-05-24 ジャック・ウェルチのコーポレート戦略 6
2003-05-24 ジャック・ウェルチのコーポレート戦略 5
2003-05-24 ジャック・ウェルチのコーポレート戦略 4


2003-05-30 Capstone Class 3

ケースは「金が舞い降りた学年」とフォーチュン誌が呼んだ1949年度卒業生たちのプロフィールと時代背景について書いていた。戦後の経済復興、ベビーブームなどにのってビッグ・ビジネスの台頭とともに育っていった彼らは、1994年の調査によるとその45%がCEOなどの要職に就いていた。その中にはゼロックス、ABC、ジョンソン&ジョンソン、ブルーミングデールなどのCEOもいた。多くの者は大変裕福な家庭の出身で、父親がエンパイヤ・ステート・ビルを所有している者や何人もの召使を連れてきたインドの王子も含まれていた。そんな652人の学生たちの中には女性と黒人は一人もいなかった。一言で言えば特権的でコンサーバティブで上昇志向の大変強い学生たちだったのだ。

卒業当時の彼らの成功の定義と1994年現在のそれとの比較が発言集になっていた。ある者は卒業当時「成功とは金を稼ぐことだ。そして金を稼いだことによって仲間から尊敬の眼差しで見られることだ」と言っていたが45年後には「成功とは頼られること、信頼されることだ。もう私は金のために働くことはしない」と態度を翻していた。ある者は「素早く出世すること、それによって肩書き、特権、報酬を得ること」という定義を「自己実現を果たすこと。それもあらゆる活動において。自分が何者かを知ること」と変えていた。年老いて人生の真の意味を悟ったのかもしれないし、得るべきものを得てしまって欲得が減じたのかもしれない。多分両方だろう。いずれにせよ僕の賢い同級生たちは先回りしてそんな「模範解答」をそのまま口にしていた。

ケースはその後半で「金が舞い降りた学年」の比較対象である我々2003年度卒業生を取り巻く環境について言及していた。冷戦構造に変わる、アフガニスタン、イラク、北朝鮮などの新しい外交的脅威。ITバブルの崩壊による経済停滞。取り沙汰される企業倫理。発達しすぎた資本主義による貧富の差の拡大。家庭環境の悪化。そんな中で船出をする我々には1949年度卒業生とはどんな風に違った将来が待ち受けているのか。少なくとも就職戦線は大変厳しく、未だに20%近くの学生がひとつも内定を得ていないという状況を我々は既に認識している。

日本でもそうだがバブル入社組の僕の世代よりも最近の新入社員たちの方が余程しっかりと将来について考えているし、早く手に職をつけたいと努力しているように見える。考え方が大人だし総じて優秀だ。同じことがアメリカでも言えるのではないかと思うし、加えて言えばアメリカ人は殊に変化や混沌とした価値観を梃子にして何かを生み出すことが得意だ。新卒時の就職活動が最重要視される日本の企業社会と、能力さえあればいくらでも中途採用の機会があるこちらのビジネスという違いもある。今はそこそこの企業に就職しておいて、景気上昇などの機会を見てステップアップすることはいくらでもできるのだ。その意味では今苦労することでより切実に能力に磨きをかけることは彼らの将来をむしろ明るくするかもしれない。

それに比べて僕自身はどうなのだろうと考えた。もちろん自分自身の能力の有無にもよるが、相変わらずの年功序列、経験主義に代表される日本企業は僕をどのように扱うだろうか。出世などしなくてもよいが僕が僕の学んだことを実践する機会は本当に得られるのだろうか。企業派遣という身で少なくとも直近の未来は保証されている僕は、そのような拠り所のないこちらの学生を時に羨ましく思ったりもする。しかし泣き言を言っても始まらない。そんな環境的な部分まで含めて我々の世代が少しでも変化を生んでいかなければならないし、そのためにも今僕はここにいるのだ。

先頭 表紙

2003-05-30 Capstone Class 2

僕も手を挙げて発言した。「実は僕はこの学校での出来事を日記に書いており、印象に残った授業についてはそのダイジェストも記録しているのですが、その最初の授業があなたのベニハナの授業でした。別にお世辞を言おうとしているのではありません(と言うとなぜか教室中が爆笑した)。はじめはただのシンプルな読み物だと思っていたのに、あなたの指揮で教室中がオーケストレートされて、共同でそこに隠された一つひとつの問題を説き明かしていきました。そして一番最後にあなたの芸術的なまでの種明かしで一気にケースの中核に触れて鳥肌が立ったことを覚えています。これがこの学校を有名にしているケーススタディなんだ、と実感しました」

その後も懐かしい出来事を振り返る発言が続いた。ロシア出身のAlexは「前の年のセクションE(E組ということ)の連中が我々にセクションEの伝統を伝えるために授業のあとに乱入してきたことがあったけど、そのとき一番印象に残ったのは全員を起立させて何年何月以前に生まれたものは着席しなさいとか言って、どんどん若い学生を残していって最後にKristinaが最年少だと探り当てるようなゲームだった。その後Kristinaは散々からかわれたんだけど、次に最年長が誰かを探すゲームに移ったときは『Oh, my God!』と思った。だって僕は34歳だったから。だんだん立っている連中が年寄りばかりになってきて『あーあ』と思っていたら最後に残ったのはHideyだった。ほんとに助かった」と僕にとっては忌まわしい逸話を披露した(2001年9月30日の日記参照)。

そんな風に旧友たちの発言が続いたが一人懐かしい顔が見えなかった。ある中国人の男子学生は既にこの学校に籍を置いていなかったのだ。放校処分だった。二年生の後期の半分までは出ていたので、急に彼が授業に出てこなくなったことを知ったまわりの連中は、このタイミングだと成績不十分ということではないし、何があったのかなと訝っていた。噂の域を越えないがどうやら学歴査証があったということらしい。中国人学生に関しては過去にも似たような例があったらしく、慣習的または組織的にそのような行為をすることがままあるらしい。ちょっとお間抜けで純粋で愛すべきその学生は、実際には悪気はなかったのかもしれない。しかし倫理問題にはどこよりも厳しいうちの学校は厳しい判断を下したのだ。できすぎたくらいの「常識人」の集まるこの学校では、陰でこそこそ噂する以外にはそのような事件には触れないのが普通なのだが、愛すべき彼のキャラクターによって何人かがジョークまじりに彼を回顧するような発言をした。無人の彼の席には誰かが手書きした彼のネームカードが立っていた。

将来どのような成功を求めるかという教授の質問に何人もの学生が「金銭的な成功がすべてではない。仕事と家庭のバランスをとった上で人間として何が本当に幸せなのかを忘れずにいたい」という優等生的な発言を繰り返した。そう言いながらちゃんと彼らの多くはいずれ出世と金銭的報酬のために働き家庭を犠牲にするのだと思う。よくも悪くもこの学校は100年近くそうあり続けてきたのだ。それにも関わらず彼らがそれなりに真剣な表情でそのような発言をした背景には先述のナンシー・ケーンの書いたケースがあったものと思われる。

(つづく)

先頭 表紙

ウェリントンで最年長のオバサンには言われなくない。 / Hidey ( 2003-06-02 22:12 )
最年長・・・本当にオジサンだったのですね(微笑) / みほ ( 2003-06-01 08:37 )

2003-05-30 Capstone Class 1

またも話は遡って4月24日のこと。この日は通常授業のあと午後3時からCapstone Classという卒業を間近に控えた二年生恒例の特別授業があった。Capstoneとは冠石という意味で、要するに二年間の総まとめ的な授業ということだ。と言いつつその実態は卒業前のクラス会のようなものだった。二年生になり選択科目ばかりのカリキュラムによってばらばらになった一年生のときの80人のセクションメイトがほぼ一年ぶりに同じ教室に集まる貴重な機会だったのだ。

二年前の9月に初めて座ったのと同じ座席に懐かしい連中が座っていた。両隣のBethとKristinaとも「やっぱりこの席がいいねえ」としみじみ話した。この日のクラスディスカッションを率いる教授は学生たちの投票によって決められる。さすがに学校きっての名物教授に票が集まることは避けざるを得ないので、それぞれのセクションが一年生のときに教わった教授たちの中から誰か一人を選ぶという仕組だった。我々のセクションはTechnology and Operation Management(生産管理)の授業を受け持ってくれた中堅電器メーカーのCEO出身の教授を指名した。いみじくも一年生の一番初めの日の一時間目の授業は彼のベニハナに関する授業だった。(2001年10月5日の日記参照)

一応Capstone Classのために特別なケースが事前に配布された。うちの学校の1949年度卒業生と2003年度卒業生、つまり我々を比較したケースだった。実はこのケースは僕がこよなく愛する先述のナンシー・ケーン教授によって、僕も取っていた彼女のThe Coming of Modern Capitalismの最終日の授業のために書かれたものだったのだが、学校側のたっての願いでCapstone Classの教材として使用されることになったのだ。

しかし我々のセクションの担当教授はほとんどこのケースを無視して授業を進行した。一年生のはじめに君たちは何を率直に感じていたかという彼の問いかけに最初に手を挙げたのはアルゼンチン出身のヴェロだった。「忘れもしないあなたの最初の授業で記念すべき最初のcold call(毎回授業の頭に教授が抜き打ちで誰かを指名して発言させること)を喰らったのが私でした。まだ私はアメリカの授業のペースが分からなくて英語にも不安があったし、もうどうしたらいいか分からなくて心臓がバクバク鳴ってたことを覚えています」ヴェロは本当に優秀な学生で、ファイナンスの授業での大変厳しいcold call攻めを(五つくらいのやっかいな質問をたて続けに投げられたのだ)完璧以上に打ち返して思わず教室中が拍手喝采を送ったという前代未聞の出来事を呼んだほどだった。その彼女がそんな風に感じていたことを今さらながら知ることはとても興味深かった。

(つづく)

先頭 表紙

2003-05-29 最後の訪問

4月の半ばにミネソタからうちに遊びに来ていた妻の姉のたっての願いでメイン州へドライブをした。海のない州に住む彼女に海を見せ獲れたてのロブスターを食べさせるためだった。彼女の願いを無事叶えたあと、せっかくここまで来たのだからと僕が高校時代ホームステイをさせてもらった家族を突然だが訪ねることにした。誰かがふらりと訪れることはここではよくあることなのだ。

Dadが少し驚きながら出迎えてくれた。「Momは元気?」と訊くと彼女はちょっと元気じゃないんだ、今あっちで休んでいるけど是非会っていってくれと言う。こちらのほうが驚いてしまったがとにかくテレビを見てくつろいでいるMomのところへ行った。確かに生気がない。どうしたのと聞いてみると、よく分からないけどだるいんだと言う。少しだけ話をし、妻の姉を紹介して、今日はたまたま寄っただけだからと早々に辞した。

5月11日の母の日に電話をしてみた。Momはまだ気分がすぐれないらしい。思い切って聞いてみると鬱なのだという。医者にかかって薬ももらっているので少し安定してきているということだった。もう73歳なのでもっと深刻なこともありうると危惧していた僕は少しだけ安心したが、病気は病気だった。

昨日、今度は事前に電話をしたうえでMomとDadを妻と訪ねた。もう帰国前の最後の機会になってしまうからと。同時にDadを近くの家電ショップへ連れて行ってパソコンを選んであげることにしていた。昨年のクリスマスに、かねてからパソコンの購入を検討していた二人に、今までの恩返しにと家電チェーンの商品券をプレゼントしていたのだ。

いつもどおり二人がハグで僕たちを迎えてくれた。しかしそれはいつもより少し強めのハグだった。「買い物には行かないわよ」とMomが言うので「誰が?」と訊くと「今日は誰も行かないのよ。時間がもったいないし。パソコンなら他の人に見てもらえばいいわ。さあ、あがりなさい」とMomは言った。

Momは前に会ったときよりはずっと元気そうに色々と僕たちに質問をする。卒業式の件や妻の英会話の件など。Dadは大きな鍋を出してきて手際よくロブスターを蒸しにかかった。臆病なネコのミッシーが恐る恐る僕たちに近寄って最後は僕の膝の上におさまった。いつもどおりだった。

ロブスターは今まで食べた中で一番殻が硬く身が締まっていた。ロブスターが大好きな妻はとてもおいしいと言って食べ、それを見てMomは嬉しそうにしていた。僕が昔彼女たちと一緒に住んでいた頃、人の家で初めて冷凍のロブスターを食べた僕がじんましんを出して病院へ行った話をしてくれた。僕はそんなことはすっかり忘れていた。それから何度か聞いたことのある僕との思い出話をMomとDadはいくつか繰り返した。何度聞いても悪いものではない。そしてDadが僕が日本へ帰った日のことを話しはじめた。空港で泣きじゃくって抱き合ったこと。少し照れくさかった。会話が湿ってきたこともあったが、それとは別にMomの話が途切れがちになっていたことに僕は気がついていた。

何度かためらったあとに僕はようやく「もう行かなくちゃね」と言って立ち上がった。最後にMomとDadは強く強く僕たちを抱きしめた。「必ず帰ってくるから」と僕は言って扉に手をかけた。「これからはパソコンで写真のやり取りもできるしね」

階段を下りて車に向かう僕たちをMomはいつまでも見守っていた。体のどこかを物理的に患っていないことがせめてもの救いだ。DadがしっかりMomを支えてくれるだろう。そして僕はまた彼らに会いに来る。まだ訪れたばかりの北国の春の夜を冷たい雨が湿らせていく中僕はボストンへと車を走らせた。

先頭 表紙

akemiさん、ありがとうございます。ホストファザーは糖尿病もちなのですが、しっかり摂生して辛い思いをしながらも透析に通い、でもそれ以外はとても健康にしています。また何度でも会いに行きたいと思っています。 / Hidey ( 2003-05-31 01:06 )
みほちゃん、ありがとう。みほちゃんの日記を読んでいるとそちらのホストマザーさんもとっても温かい方のようだね。みほちゃんは大丈夫だと思うけれど、当たり前に過ごす毎日にも感謝の気持ちを忘れず、いつまでも大切な関係を築いていってください。 / Hidey ( 2003-05-31 01:05 )
やっちーさん、もう20年の関係になります。その間ずっと彼らは僕を本当の子供のように扱ってきてくれました。やっちーさんは昔から海を越えて人とのつながりを大切にされていたのですね。そのご家族とまたいつか会えればいいですね。 / Hidey ( 2003-05-31 01:04 )
これはでじこママさん、いらっしゃいませ!いつもでじこちゃんと遊ばせてもらってありがとうございます。ホームステイをされていたのですね。そう言えば以前外国人の方が来られたようなことを書いてらっしゃいましたっけ。お孫さんに初対面してとても嬉しかったでしょうね。うちのホストペアレンツもだいぶ前ですが一度日本に来てくれました。お見舞いのお言葉、ありがとうございます。僕も早い回復を祈っています。 / Hidey ( 2003-05-31 01:02 )
Hideyさまのアメリカのお父さんとお母さんが、いつまでも元気でいてくださいますように。 / akemi ( 2003-05-30 15:11 )
素敵なホストペアレンツ。私のホストマザーは良い友達という感じです。ホストって大切ですよね / みほ ( 2003-05-30 07:25 )
高校の時のホストファミリーと温かい関係が続いてるなんて素敵ですね。きっとHideyさん達が会いに行ったことはMomさんを勇気づけたと思いますよ。私も、20歳の時ボランティアで行った初・海外のフィリピンの田舎に大好きなファミリーがいて、また会いたいと願い5年後に夢が叶いました。2回行ったかな。1回は新年を一緒に迎えたんですよ。そんなに簡単に行ける場所じゃないので、最後の別れの時は今度会える日が来るのだろうか、という想いがお互いにあったと思いますが、、、、いい出会いは大事にしたいですよね。 / やっちー ( 2003-05-30 06:51 )
私にはアイオワにアメリカ人の両親がいます。数年前までパスポートも持っていなかった彼らが、昨年、日本人の孫に会いに初来日し、新しい思い出ができました。でも、別れは、いつも涙です。 再会を強く思い、彼らの健康を思う気持ち、私も同じです。 I hope your Mom will get better soon. / でじこママ ( 2003-05-30 01:24 )

2003-05-28 ricaさんご夫妻と食事

昨夜はボストン在住のひまじんライターricaさんとそのご主人と食事をしてきた。ricaさんが日本で日記を書いていらした頃からかつてricaさんがボストンに住んでいらしたことがあるとは伺っていたが、ご主人の研究の関係で再びこちらにいらっしゃって日記をはじめられたのを知りびっくりしたのがこの二月のこと。それからというもの、僕とはまったく異なる環境でボストンライフを満喫され、たくさんの貴重な情報をご提供くださるricaさんの日記は僕にとって欠かせない存在となった。いつしかつっこみのやり取りから「一度お会いしましょうか」という話になって、昨日それが実現した。

ricaさんのご提案でチャイナタウンにあるしゃぶしゃぶレストラン「しゃぶ禅」へ。そこへ現れたricaさんはお世辞抜きに本当にお綺麗な方だった。新婚ほやほやというご主人も伺っていたとおりとても温和な方で、新婚ほやほやだとは分かっているのだけど、一目見ただけでもう何年も連れ添ってらっしゃるかのように思えてしまうほど一緒にいることがとてもしっくりするお二人だった。

何度か書いたことがあるように僕はオフ会というものには偏見はないけれど誰とでもやたら会おうとは思わない。ricaさんの良識とバランスの感覚ある日記を読み、積極的に有意義な生活を築こうとされているお姿を拝見し、この方ならお会いしてもいいなと思っていたところへそんな話が持ち上がったのだ。果たして想像どおりricaさんはとても明るく前向きな方でコロコロと笑いながら楽しい話をたくさんしてくださった。それでいて話す言葉の隅々までが思慮深かった。日記でも分かるとおり、そのオープンな価値観で様々な国籍の多くのご友人たちと楽しく過ごされていらっしゃる方だ。

ご主人はとても丁寧な話し方をされるのだけど、その真面目な口調がいつの間にかそのままギャグになっていたりしてずいぶん笑わせていただいた。できた方だ。今は研究でこちらにいらしていて、その分野は僕の勉強とはずいぶん方向が違うのだけど、お話を伺っているとボストンで勉強をすることになった動機や背景に共通するところが多くてずいぶん話し込んでしまった。分野は違うもののきっと互いに参考にし合えるところが多いに違いない。見るからに聡明な方なのだけど聞いてみるとなんでもご自分の手を動かしてやってしまうマメな方で、特に料理には相当こだわっていらっしゃる。ricaさん同様チャレンジ精神が旺盛で、お二人とも大好きというアジア料理は大概二人で家でつくってしまうらしい。こんなご主人との海外生活は本当に幸せだろうな。

僕はそれほど料理はできないけれどアジア料理は負けずに大好きなのでボストンの美味しい店情報を交換した。インド料理、中国料理、ベトナム料理。ボストンはアジア料理を堪能するには意外な穴場なのだ。各国の友人がこの店なら大丈夫と教えてくれるのではずれも少ない。

しゃぶ禅は我々三人ともおいしいらしいとの噂を聞いていたのだが、まだ誰も一度も来たことがない店だった。牛と野菜がせっとになったコースが一皿16ドルで味もまともだった。神戸牛も時価で出してくれるのだが食事が終わってから聞いてみたらなんと48ドルだった。たのまなくてよかった。

せっかくいい方たちに出会えたのにもうすぐにお別れだ。ぜひ家にも遊びにいらしてほしかった。でもricaさんがひまじんで日記を書きつづけてくださる限り僕は多くのまだ見ぬボストンを知ることができる。ricaさんの日記がこれまでにもまして僕にとっての大切な場所になることと想像している。

先頭 表紙

ricaさん、本当に楽しい時間をありがとうございました!どの当たりが思慮深いか?全部ですよ、ぜ〜んぶ。日記は焦らずマイペースで書いてくださいね。ゆっくり楽しみにしています。ご主人にもよろしく! / Hidey ( 2003-05-29 23:01 )
うう〜そんな、あのうちは2人とも全然、普通です〜(笑)。夫は「ricaの言葉のどの辺りが思慮深いのだろう?」と疑問に思っておりました(笑)。うちの日記、本当に怠惰なのでまだ27日分の更新まで追いついていません!数日先になっちゃうかもしれませんが私も昨日のお話は書かせて頂きますね〜っ。取り急ぎですが、とーっても楽しかったです!うちはもう夫婦ともどもとっても楽しい時間をすごさせて頂きました。ありがとうございました♪♪ / rica ( 2003-05-29 14:22 )

2003-05-27 心の休息

一昨日から昨日にかけて妻と帰国前最後の小旅行へ行ってきた。ボストンと同じマサチューセッツ州の東南端、ケープコッドという海辺のリゾート地だ。ケープコッドは人が手を上げて爪先を肩の近くまで持ってきたような形の細い弓形の半島になっている。僕たちが滞在したのはちょうど肘の内側にあたる場所だ。二日続けて雨まじりの天気だったが、僕は雨の海も好きだし妻は仕事のための最後の一時帰国から戻った翌日だったのでゆっくりできさえすれば文句はなかった。ニューイングランド独特の質素なつくりのコテージには茶色く湿った板敷きのテラスがあり、そこから静かな入り江を見下ろすことができた。聞こえる音といえば青々と濡れた草木を揺らす風、何種類もの鳥のさえずり、そしてかすかな潮騒だけだった。ゆっくりするには申し分のない場所だ。

さっそくのんびりとベッドに寝そべる妻を残して僕は夕刻の人気ない浜辺に下りた。入り江と外海を辛うじて仕切るほどの細長い浜辺だ。波打ち際に戯れる海鳥を眺めたり滑らかに洗われた小石を手に取ったりしてしばらく歩いた。するべきこともなく心の赴くままに体を動かす自由を久しぶりに感じていた。帰国準備などで慌しくしていた僕はこの束の間の休息を思っていたよりずっと必要としていたようだった。海で恋人を失い海の歌ばかり書きつづけた女性の歌を口ずさんだ。色褪せた海に音もなく吸い込まれてゆく細い雨が心地よかった。

すっかり冷え切った体でコテージへ戻るとちょうど妻が仮眠から目覚めていた。五時半に予約を入れていたイタリア料理店へ向かうため身支度をし再び車を走らせた。アナ・カランが静かにジョビンの曲をいくつか歌った。

その店はボストンにもなかなかないくらいのまともな料理を出す店だった。僕は何種類かの茸のソテーと仔牛のエスカロップ、妻はアスパラガスのソテーとキングサーモンのグリル香草ソース添えを食べた。仔牛は白ワインソースをかけたものだったのでマリオ・スキオペットのトカイの白がよくあった。久しぶりに妻と向かい合って話をした。彼女は仕事が順調なようで長旅の疲れにも関わらず表情が生き生きとしていた。

コテージに戻ると入り江には本格的に夕闇が迫っていた。何となくテレビをつけるとあるチャンネルがディアハンターのラストシーンを流していた。ああ久しぶりに観たかったと思っていたら、その直後に同じチャンネルがこの三時間を超える映画をはじめから放映し始めたのでミニバーからジャック・ダニエルを持ってきて腰を落ち着けて観はじめた。もう多分七、八回観ているが飽きない。デ・ニーロも臭みがなくて一番いい頃だ。ベトナム戦争を舞台にした右寄りとも受け取られることの多い映画だが、冷戦下のアメリカとそれに忠誠を尽くすロシア系移民、華やかな結婚式とラストシーンの葬式、ベトナムに旅立つ三人を送り出す狂騒の夜の終わりに流れるショパンのノクターンとラストで主人公たちが歌うゴッド・ブレス・アメリカ、帰還して誇りも忠誠心も失ったかのようなグリーン・ベレーと出征前の意気軒昂な主人公、救われる者と救われざる者といった様々な対照と交錯は、右や左といった単純な見方を陳腐にする。ベトナム戦争を描いたのではなくこの時代にペンシルバニアの工業地帯に暮らしたロシア系移民の生と死を描いただけだというマイケル・チミノ監督の言葉が素直に受け取れた。

青い闇が馴染んでいく入り江には白鳥が翼を休めていた。いつの間にか妻の寝息が聞こえた。久しぶりに自分が過不足なく自分自身だけでいられた一日だった。


*写真は近くの家。泊まったコテージではありません。


先頭 表紙

真冬さん、最後のカヴァティーナのギターの切ない音色が沁みるんですよね。「To Nick」というシーンでは自動的に涙が出ます(笑)。休暇を満喫することもそうですが、そろそろ前向きにどうやってこれからの仕事にあたっていくかを考えないとね。でも浦島太郎になることは分かりきっているので焦っても仕方ないですが。 / Hidey ( 2003-05-29 22:57 )
チチローさん、僕たちもプロヴィンス・タウンまで行ってきました。オフシーズンだったし雨で煙った景色だったのでちょっと物寂しげではありましたが。プリンス・エドワードとはずいぶん遠くまで行かれましたね。僕は高校時代にメイン州にホームステイをしていたのでこの2年間にも何度かホストファミリーを訪れています。今日これからアップする日記はその最後の訪問についてです。こんな日記に涙していただき誠にありがとうございます(笑)。 / Hidey ( 2003-05-29 22:54 )
ディアハンターは終わった後に心がシンとしてしまいます。それはとっても深くてすぐには生還できないほど(笑)。日本復帰までカウントダウンでしょうか?楽しい休暇が次のステップの栄養になりますように。 / 真冬 ( 2003-05-29 05:25 )
10年前、我が家で最初の長い自動車旅行をしたときの、最初の宿泊地がケープ・コッドの先端のプロヴィンス・タウンでした。風光明媚で開放的な雰囲気が印象に残っています。その後、ボストン、メイン州の名もない町、プリンス・エドワード島、と北上しました。ケープ・コッドは姿が絵になるからか、アメリカ人の友人が、付近の海図を壁に張っていたことも思い出します。Hideyさんの日記を読んで、思い出に涙することの多い、今日この頃です(笑)。 / チチロー ( 2003-05-29 00:32 )
やっちーさん、最後の夏休みなのにどうも落ち着かなくて。でもこの日は本当にゆっくりできました。やることがあってもとりあえず何もできない環境に身をおくっていいですよね。サファリは真剣に僕も一生のうちに一度入ってみたいと思っています。いい時間が過ごせたようでよかったですね。下のつっこみちゃんと読ませていただきました。つっこみ返しをする時は必ず前の日記をチェックしながらするようにしているのです。一応ひまじんではベテランなので(笑)。 / Hidey ( 2003-05-28 22:59 )
コインさん、八ヶ岳いいじゃないですか!僕にとっては日本で最も好きな場所のひとつです。少し離れてかすかに雪のかぶったあの連峰を眺めるのが好きでした。Bostonにいらっしゃれなかったのは残念ですが、またアメリカにいらっしゃる機会があればNYのついでにでも寄ってみてください。穴場、たくさんお教えします。 / Hidey ( 2003-05-28 22:55 )
マイケルさん、アナ・カランに反応が相次いでますね(笑)。僕はボサはボサである限りあまり区別なく聴きます。MPBはそれほど聴かないけど。現代風アレンジがお嫌いなようならこのBlue Bossaはおすすめです。ジャズっぽいシンプルなアレンジはそれ自体ボサにおいては古典的な構図だし。余分な音が入ってなくて、聴けます。 / Hidey ( 2003-05-28 22:54 )
りりさん、ケープコッドはリゾート地であるとともにメイフラワー号がプリマスに上陸する前に立ち寄った歴史的な場所でもありボストニアンの誇りでもあります。Sunflower Timeは僕にとっても愛聴盤ですがこの日はBlue Bossa。最近はこちらの方が好きになりました。 / Hidey ( 2003-05-28 22:50 )
akemiさん、もうちょっとの辛抱ですね。お子さんが、成人するまでいかなくてももう少し育ったらきっとそんな日が訪れるでしょうね。和泉ピン子って愚痴ばかり言ってるんですか? / Hidey ( 2003-05-28 22:47 )
みほちゃん、冬休みはすこしはNZで過ごしたりはしないの?今回は難しいかもしれないけどこれからはそういう時間がたくさんとれるといいね。 / Hidey ( 2003-05-28 22:43 )
プルーさん、オフシーズンの最後だったのでホテル自体もほとんどまだ客がいない状態で、かえってゆったり過ごせました。朝食バイキングがかなり素晴らしかったのですが結局我々夫婦で終始独占状態。7月のケープコッドはひどいでしょうね。あのとおりの地形なので逃げ場がないし。 / Hidey ( 2003-05-28 22:42 )
心の休息ができてよかったですね。そうそう、忙しすぎると毎日がさーっと過ぎてくって感じで、自分の心と向き合えないですもんね。私も、先週末、久しぶりの心の休息に車で出かけてきました(サファリに、、対照的ですね)。久しぶりにゆっくりできました。相棒ともいろんなこと話せたし。下の日記にもつっこみ入れたので忘れないでね(よく自分は忘れてしまうので)! / やっちー ( 2003-05-28 22:41 )
心の休息、なかなか取れないでいます。来週にでも、親のいる八ヶ岳でも行ってみるか。とうとうHideyさんの帰国前にBostonに行けなかったことが残念ですが。 / ガス欠コイン ( 2003-05-28 17:51 )
僕は変に現代風にアレンジしたボサノヴァはニガテだなぁ...Anna Caramも1枚持っているけど、「ジョアン・ジルベルトの伝説」があれば他は要らないかも。 ところでCape Codって有名なリゾート地なんですね。「Cape Cod Magazine」とかいう雑誌を見かけたこともあったけど、何せリゾート地に住んでたみたいなものだから当時は全然興味がわきませんでした(笑) / マイケル ( 2003-05-28 17:00 )
ニューヨーカーにイーストハンプトンだったら、ボストニアンにはケープコッドなのかしら? 素敵な休日になって良かったですね。Anna CaramのSunflowerTime、私も愛聴してます。 / りり ( 2003-05-28 14:00 )
なんか映画みたいだ・・・Hideyさんの語り口調がなおのこと。。。 大人になってから本当の意味で心も身体も休ませられる日って一日もなかったような・・・。子どもがいたら無理だ・・ましてや店やってたら・・・因果なもんだ。選んだ道とはいえ・・あ〜これじゃあ、泉ピン子の愚痴みたい(爆) / akemi ( 2003-05-28 11:39 )
レントな一日。私も過ごしたいもんです。日本でも無理そうだなぁ。 / みほ ( 2003-05-28 06:50 )
ケープコッド、本来ならこのメモリアルデイで混雑だったでしょうに、雨で残念でしたね。ずっと前に独立記念日の頃行ってとても混んでてケープコッドを抜けるだけで2時間かかったこと思い出しました。7月だったけれどあまり暑くなかったんです。やっぱり避暑地だからかしら。 / プルー ( 2003-05-28 00:08 )

2003-05-25 日本人学生の絆

4月21日には一年生の日本人学生が我々二年生の日本人学生を送り出すフェアウェル・パーティーがあった。と言っても日本/韓国料理屋でテーブルを囲んで寿司や焼肉を食べるというカジュアルなものだ。この早い時期に開催したのは二年生がその直後に期末試験期間に入り、そのあとは6月5日の卒業式までの間旅行などの理由でばらばらになってしまうためだった。

うちの学年の日本人もしくは日本的環境に育った者は当初17人いた。内訳としては商社が7人、コンサルティングが2人、自動車メーカーが2人、ベンチャーキャピタルが1人、金融情報サービスが1人、情報通信が1人、官公庁が1人、そして僕と、僕と同じ広告代理店を辞めてきた者である。僕と同じ会社出身の彼は日本で政治を志すために現在休学中で、商社から来ている者の一人は一年目に体調を崩したため今は下の学年に属している。この数年日本人及びそれに順ずる者は7人とか5人という学年が続いていたので規模としては大きな方になる。しかし900人の学生たちの中ではマイノリティとなる。

僕の日記からも分かることだと思うけれど僕たちは日本人同士でべたべたと寄り集まることはしない。皆この環境でできるだけ多くの国の友人たちとコミュニケーションを取っていきたいと考えているからだ。かと言ってそれは日本人同士毛嫌いしているということでもない。日本的環境で育った者同士、口を開けば(または開かなくても)もっとも分かり合えるし楽な間柄だということは分かりきっている。飲み会やカラオケなどで普段抱えている気持ちやストレスを解放しあうこともある。

しかし実のところは個々人のレベルで既に国際化ができているのであまり日本人やその他など区別をする意識すらなかったり、ストレスなどそもそもほとんど存在しなかったりもするのだ。例えば飲み会を開いたらたまたま日本人がもう一人いた、というような具合だ。どうしても助けが必要な者には手を差し伸べる者もちゃんといる。その意味ではつかず離れずというこの環境は非常に理想的である。要は大人なのだ。

そんなわけでよく海外駐在員コミュニティにありがちな閉鎖的会員組織やヒエラルキー、奥様同士のなかば義務的な集まりみたいなものは一切ない。たまにメールをしあって家に呼び合ったり外で食事をしたりする程度だ。僕も妻も楽なことこの上ない。

そんな我々日本人学生があえてアイデンティティをあらわにして共同作業をした唯一の機会が、70人のうちの学生たちを10日間日本に連れて行った昨年5月のJapan Trekだった(過去日記参照)。普段の予習だけで多忙ななか、名だたる企業を相手に協賛金を集めたり見学の許可を取ったり合計80人分のロジスティクスを組み上げたりという大変負荷の大きい作業は、時に仲間同士のテンションを生んだりもしたけれど、自分たちが誇りにする国に様々な国からの大勢の友人たちを招き理解を促進させたという達成感が我々の結びつきをさらに強いものにした。

6月5日に僕たちは卒業しふたたび離れ離れになる。中には派遣元の日本企業には戻らず新天地を求めてアメリカに留まる者もいる。卒業式のあと、ばらばらになってしまう前にもう一度だけ打ち上げパーティーを開こうと思っている。程度の差こそあれ、同じ種類の苦難を克服した歓びを一番分かち合える連中だから。そして情報技術のお陰もあって僕たちは同じようにつかず離れずの関係を容易に維持していくことができるだろう。もともと地理的なアイデンティティに依存しない間柄なのだから。

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可哀想かどうかなんて他人が判断できることではないですね。サバイバル生活を楽しんでらっしゃるやっちーさんのお姿がいつも日記から伝わってきます。日本人学校で働いていらしたら色々と思うところはおありでしょうね。香港の学校は大きいだろうな。カラチは小中学校合わせて40人弱でした。 / Hidey ( 2003-05-28 22:40 )
あ、切れちゃいました:という環境で、日本人会にも入っていないし、大学はもちろん一人だし。日本人が少ないので、日本の友達は私をかわいそうって言いますが、逆にいろいろな人と友達になれるし、淋しいときもありますが、しがらみがなくて自由で、私はいいかなと。香港では日本人学校で働いていたので、狭くて閉鎖的な日本人社会の怖さ、よーく知ってます。Hideyさんがパキスタンの学校で経験したこと、よくわかります。 / やっちー ( 2003-05-28 22:30 )
私ジンバの田舎に住んでいるので、ムタレには日本人は私入れて一般人4人、協力隊2人 / やっちー ( 2003-05-28 22:18 )
コインさん、これだけ国籍・人種が多様なのが当たり前の環境でしかもITによるバーチャルなコミュニケーションが多いと、あまり地理的要素が重要でなくなります。最後は思いっきり暴れます。ありがとうございます。 / Hidey ( 2003-05-27 23:32 )
マイケルさん、企業でそういう理想的な関係というのはなかなかないですね。社風にもよるのでしょうね。僕が中学時代を過ごしたパキスタンでは子供の中にも勘違いしている奴がいましたから。うちのパパは領事館だからみたいな。でもいつも彼らが惜しげもなく弁当に日本米を詰めてきていたのは羨ましかったです(笑)。 / Hidey ( 2003-05-27 23:31 )
akemiさん、ところによっては奥様方にまでヒエラルキーがあるそうですからね。会社の格や亭主の上下関係なんかで。あーばかばかしい。でも学校関係ではまったくないかというとそうでもなくて、僕の行っている学校の建築関係の大学院の日本人コミュニティではばっちりそういうのがあるらしいですから、結局はメンツ次第ですね。 / Hidey ( 2003-05-27 23:28 )
みほちゃん、僕も高校の留学では1000人を越える学校で唯一の日本人でした。あれは本当によかった。カラオケってまだ最近もはやってんの? / Hidey ( 2003-05-27 23:25 )
チチローさん、そうでしたか。このところランキング常時トップのあの学校ですか。僕はEssayの問題の相性があまりよくなさそうだったので受験もしませんでした。それにしても60人はすごいですね。時代という意味で言えば、銀行もないしメーカーもありません。自動車メーカー出身の者は二人ともデトロイトでアメリカのメーカーで働いていたので。 / Hidey ( 2003-05-27 23:24 )
地理的なアイデンティティに依存しない。いい空間ですね。最後はぱあっとやってください。それぞれの道を祝福しながら。 / ガス欠コイン ( 2003-05-26 23:23 )
僕がアメリカに赴任していた時も日本人は7人(全社で90人くらい)でしかも上下関係がなかったので、すごくすごしやすかった。独身で、ゴルフをやらなかった、というのも日本人コミュニティにどっぷりつからなくて済んだ要因だたかも... / マイケル ( 2003-05-26 17:17 )
わ〜いい感じぃ〜海外に転勤とかして、そういうのでウザい思いしたって話、よく聞くし。 あたしの地元では3校からの小学校から集まってる中学校で、あるひとつの小学校の母親たちがいっつも群れてて・・ほんと見苦しい。その群れの中の知り合いに注意(集まりのときなど一箇所にまとまって座り、先生の話が聞こえないくらい私語が多いので)したこともあるんだけどね。ダメだね、まったく。。レベル低いんだよね。そういう人って。 / akemi ( 2003-05-26 11:37 )
日本人学生がいない私の学年は超楽です。そういえば上の学年に二人日本人学生がいますけど片方はNZに居すぎて日本語あんまり喋れない(・・・。)でも要は相性の問題ですけね。・・・しかしカラオケいきてー。 / みほ ( 2003-05-26 01:45 )
金融機関の人がいない様子ですが、今という時代を感じさせます。私が経験したのは、700人中に日本人が60人という環境で、恐らく、学校や年次を通じて史上最高の比率。そういう時代もあったということですね。同じリーグの中で最も南にあって、Wのつく学校でした。仕事がそっち関係なので。野茂が渡米するよりも前の話ですが(笑)。時代と言えば、当時はまだ、インターネットもメールも使ってませんでした。Windows 3.1(だったかな)の時代です。 / チチロー ( 2003-05-26 00:24 )

2003-05-24 ジャック・ウェルチのコーポレート戦略 6

そして1995年、ウェルチは最後の重要なコーポレート・ストラテジーを講じた。あのシックス・シグマである。シックス・シグマとはもとはモトローラで開発されアライドシグナルというウェルチの旧友が営む企業で大いに威力を発揮した品質管理システムである。実はそのモトローラも1980年代に日本のポケベル市場に参入しようとしたときに品質の悪さから失敗したことを教訓にしてこのシステムを構築したのだ。シックス・シグマとは文字通りの意味としては100万個生産して3.4個の欠陥率を目指すという意味である。シグマとは統計学でいう標準偏差のことである。

ウェルチはこの純粋に生産管理的なコンセプトを経営コンセプトにまで昇華させた。目標設定、目標達成のための人材管理、経営目標への組み込みを行い、さらにベスト・プラクティス・プログラムとの融合を図った。特に人材管理においては「グリーンベルト」、「ブラックベルト」、「マスターブラックベルト」という三つの等級を設けてこれらの資格を希望する何千もの社員に所定の訓練を施し、資格取得者はボーナスによって報酬を得た。今やシックス・シグマといえばモトローラのものというより「GEの」「ジャック・ウェルチの」と枕詞がつくほどである。当然このストラテジーも全事業分野に及ぶ付加価値をもたらした。

こうしてジャック・ウェルチの21年間にわたる統治における数多のコーポレート戦略は様々な効果を生み、それは経営指標にも反映された。1998年のROE(株主資本に対してどれだけの利益が得られたかという指標)は、前任の伝説的CEOジョーンズの時代をはるかに凌駕する25.4%にも達した。ウェルチが20世紀最高の経営者と呼ばれる所以である。

GEのケースは言ってみれば、ともすると官僚主義と非効率を生みがちのコングロマリットが、天才経営者ジャック・ウェルチという経営資源によってコングロマリット特有の危険性から脱し、さらにコングロマリットの最大の資産である規模と多様性といういわば量的優位を質的優位に転換した最たる例なのだ。ジャック・ウェルチの講じたコーポレート・ストラテジーが機能した結果だが、ジャック・ウェルチという人間のカリスマによるところも非常に大きい。

そのカリスマの語り口を直接聞く機会を得たことは2001年10月29日の日記に書いた。この頃はまだジャック・ウェルチの改革については形骸的事実しか認識していなかったので彼の傍若無人な態度ばかりが目についたし彼の言わんとしている事の本質もよく分かっていなかった。今日の日記はCorporate StrategyのGEのケースのほかに登録を希望したものの抽選に落ちて取れなかったGeneral Management: Process and Actionという授業のお試し期間に使ったケースを元にした。どちらかというとそちらのケースの方がジャック・ウェルチの生の言葉の引用に終始しており、このケースを読んだことによってウェルチの戦略と人間の本質を知り得た。二年近く前に自分で書いた日記の意味がようやく今になって分かるとは皮肉なものだ。

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ぶちょー、ほんとにおっしゃる通り。シンプルな思考がアメリカビジネスの強みであり限界でもありますね。強みの部分は日本人もおおいに参考にしてほしい。うちの会社でももっとパッケージ化された知的資産をふやせば、もっと仕事ができる人が増えそうなものなのに。サラ金学、成功されてもあまり参考にしないようにします(笑)。 / Hidey ( 2003-05-27 23:21 )
アメリカ人というのはこういったものを体系的に整理して知的資産にするのが上手いですね。日本のその手はどうも苦労話と根性論になっちゃうもんな。知的欲求をすぐに学問にしていくリベラルさは学ぶべきだろうな。俺もサラ金学でも立ち上げようかと思いました。おっと、まだ成功してないや。 / ぶちょー ( 2003-05-27 11:38 )
チチローさん、こんな自分のための覚書のような長ったらしい文章をお読みいただいてありがとうございます。その本については僕も聞いたことはありますが、同じく手がまわらないうえにアクセスもありません。ウェルチの本くらいはこれからじっくり読みたいと思いますが。 / Hidey ( 2003-05-25 23:29 )
確か、割と最近、長年秘書を務めた女性が本を書いたんですよね。面白そうですが、そこまで手が回りません。 / チチロー ( 2003-05-25 00:41 )

2003-05-24 ジャック・ウェルチのコーポレート戦略 5

ベスト・プラクティスについては、ウェルチ自身がGEよりも生産性の高い他のいくつかの企業に注目し、何が違うのかを自問した結果、分からないのなら彼らから直接学ぼうと思いついたのがその起源である。それらの企業に社員を派遣しその成功の秘密を探らせてもらう代わりに同じことを先方企業にも認めた。こうしてGEが学びを交換し合った企業にはフォード、ヒューレット・パッカード、ゼロックス、東芝などが含まれていた。驚いたことに彼らの成功の秘密には共通性があった。それはこれらの企業が個々の部署の成果を上げることよりも部署間の連携をいかに高めるかに注目したり、在庫管理を効率化したりと、何をどれだけ生み出すかよりもどのように生産工程を管理するかを重視しているということであった。ウェルチは学びをここで終わらせることなく、企業内学習センターの一コースに仕立て上げ、全社員による知の共有を図った。

こうしてジャック・ウェルチは80年代の前半にコングロマリットにおいては往々にしてバラバラになりがちの企業文化を統一しながらコングロマリットの最大の弱点である官僚主義を排除し、80年代終わりにはワークアウトとベスト・プラクティスによってこの俊敏で筋肉質な企業文化をさらに全社員レベルにまで直接的に浸透させつつ、同時にコングロマリット内のすべての事業分野に共通する業務効率化という付加価値を経営側が付与するきっかけをつくった。本格的なコーポレートストラテジーの萌芽である。そして90年代、ウェルチはさらにコーポレートの機能を充実させることにより、コングロマリットに否定的なアナリストたちの主張に対し大きな一石を投じた。

1990年のGEのアニュアルレポートにてウェルチは次のように述べている。

「バウンダリレス(boundary-less:境界のない)な企業では事業部間の境界、国内・海外作業の境界などが存在しない。そこには経営者、給与労働者、時間給労働者という、共同作業の障害になるような区別もない」

ウェルチはこのように定義したバウンダリレス企業において、最善のアイデア・知識・人材がどこからでも誰からでも自由に流れ、それを誰もが歓迎するという理想的な組織構造を志向した。従来は個人が頭脳の中に明文化しないまま囲い込んでいた暗黙知を明文化・データ化して形式知に転換しこれを企業内の誰もが共有することにより個人の知が結びつきあってさらに高度な知として企業に蓄積されるという、今でいうナレッジ・マネジメントの重要性をウェルチは逸早く見抜いたのだ。しかもそれを実践する際の最大の障壁も知っていた。

「バウンダリレスでない者には辞めてもらう。縄張り意識が強かったり、自己中心的だったり、他人と知識を共有するのを拒んだり、他人の知識を求めないような者にはここには居場所はない」

こうして彼は個人による知の共有の拒否という最大の障害を人事政策によって除外した。逆に知を共有、または積極的に模索した者が報いられるようにボーナスとストックオプションの基準を改定した。

「我々はすぐに互いから学ぶことを覚えた。GEライティングからは生産性について、GEアプライアンスシズからはクイック・リスポンス(大量生産と受注生産の融合の方法論)について、GEキャピタルからは資産の取引における効率化について、GEエアクラフトエンジンズからはコスト削減のテクニックについて、GEプラスチックスからはグローバルアカウント管理について、他事業部が学ぶようになった」

(つづく)

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2003-05-24 ジャック・ウェルチのコーポレート戦略 4

「おそらく我々が事業部長たちに確約しなければならない最も大事なことは素早いアクションだ。我々役員の仕事は、彼らが仕事をし易くするために全社的な交渉をしてやること、彼らが必要とする企業買収や提携を取りつけてやることだ。彼らが我々を求めるとき、彼らは学問的な見解を求めているのではない。明快な答えを求めているのだ」

そしてウェルチはこのような組織に必要な人材を育てるために能力に応じて高額の報酬を保証した。

「平等主義的な報酬は漸進主義の源だ。我々は成果を上げた者に高い報酬で報いるが、大きな成功を求めて失敗した者を罰したりはしない。失敗を責めることは間違いなく冒険心をくじく」

1989年、ウェルチはより実践的に彼が理想とする文化を根づかせるための二つの具体的な仕組みを創り上げた。それらは実践的な分実際の業務効率化のプロセスとしても機能することとなった。有名なワークアウトとベスト・プラクティスである。

ワークアウトとは経営陣が選んだ40から100人程度のあらゆるレベルの社員をホテルや会議場などの非日常的な空間にに集めて行う三日間のセッションである。はじめに彼らの上司にあたる人間が議題を説明し、上司は部屋を去る。残された社員たちは五つか六つのチームに分かれ、外部の進行役に助けられながら一日半かけて議題について討議をし解決方法を模索し、最終日のプレゼンテーションの準備をする。三日目がワークアウトのハイライトで、何が話し合われたかまったく知らされないまま上司が入室し、部下達に対面する。上司のさらに上司である役員たちも出席することが多く、彼らは上司の後ろ側に座る。チームの代表者がひとつずつ提案事項を読み上げる。上司には三通りの回答しか許されない。その場で同意するか、その場で否定するか、または判断材料を得るため数日検討するか―その場合は約束の日までに回答することが義務づけられる。往々にして100を超える質問が浴びせられ、上司は役員たちの目の前で即決を求められる。上司が役員の顔色を窺おうとすると、彼は部下たちに背を向けて役員にすがるかのような情けない姿を晒さなくてはならない。

ウェルチによるとワークアウトの狙いは三つある。

「実際的な目的はGE創立以来積み上げられてきた悪癖を一掃することだ。」

「二番目に教育的見地から、事業部長たちを年に8から10回ほど100人程度の部下の前に座らせ、部下が常々会社についてどう思っているのか、彼らが業務や評価システム、時間の使い方などについて何を好み何を嫌っているかを分からせるという意味がある」

「究極的には上司と部下の関係を定義し直すことを意図している。部下たちが日々上司に挑戦するという状況が望ましいのだ」

ウェルチは「社の文化は斯くあるべし」といったお題目を文章にするだけで終わってしまう変革などには興味はなく、あくまで実際に社員にこれを強いて体験・実感させてある結果を導き、それによって彼らが本当に文化を変えるべきだと悟らせる手法をとったのだ。ワークアウトは新しい文化を体感するだけでなく現実に迅速な意思決定や大胆な戦略の転換を生み、業務の効率化に多大なる貢献をした。

(つづく)

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