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揚水の「人生薔薇色計画」

僕のハンドルは「ようすい」ではなく「あげみ」と読みます。表記はaghemiとしています。

妻の海月は「くらげ」と読みます。



ふりぃのかうんた

yesterday ふりぃのかうんた today ふりぃのかうんた


自分が何者であるか今よりももっとわからず身悶えしていた学生の頃、何をしたらいいのかについて友達と話しに話した。
結論は出なかった。どころか何をしてもいいんだということにすらなった。
ただし、本当に何をしてもいいというのではなかった。
一つだけ基準がある。
それは俺の、俺たちの、ひいてはほかの人たちの人生を薔薇色にするか、その一点。
時々それを思い出しては行動する。
それが僕たちの人生薔薇色計画。



    よそいき仕事日記   

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2002-12-23 耳毛
2002-12-15 冗長
2002-12-13 言葉は、万能である
2002-12-12 あばえくビーム照射
2002-12-06 まるで初心な生娘のようだ
2002-11-15 ばんどりとはよく云ったもんだ
2002-10-29 チノ   2−2
2002-10-29 チノ   2−1
2002-10-23 チノ   1 
2002-10-15 お詫び


2002-12-23 耳毛

オチャツミにミミガーを買った。
酒を飲みながらふと数本の毛が生えていることに気が付いた。

明日は晴れるといいなあ。

先頭 表紙

読めていないのはお互いさまです。僕にとっても楽しみです。 / 揚水 ( 2003-01-09 06:47 )
「オチャツミ」読んだハズなのにスミマセーン; 今年分の薔薇色計画、今年中に読み切れなかったのが心残りですが、来年の楽しみに持ち越します^^ / ( 2002-12-31 20:39 )
雪さん、「オチャツミ」に書いてあります。 / 揚水 ( 2002-12-29 21:14 )
じっと見てしまったが故に、翌日の天気に思いを馳せ、逃避したのでしょうか(笑)。 / 揚水 ( 2002-12-29 21:12 )
"薔薇色計画" を "ひまーく" 登録させていただいてるンですが、チェックするたびにこのタイトルで笑わせて貰ってます(笑)。 ところで "オチャツミ" てなんですか? / ( 2002-12-28 03:41 )
私もみみがー好き!先日飲み会で食べました。あのね、毛は見ちゃダメよ。ぢっと見ないのよ。ね。^^ / みるみる@Atelier ( 2002-12-25 09:14 )

2002-12-15 冗長

最近、買ったままでずっと放っておいた一冊の本を読み始めた。
いや期待以上のまだるっこしさだった。

「チャタレイ夫人の恋人」

まだコンスタンスは森番と媾合していない。

先頭 表紙

↓雪さんへ。よく判っていただけましたか。判るようで判らない、そのボーダーラインに、誤解をも含めた人と人相互の理解があるのだと思います。また面倒くさいことを言いますが、判ってもらえて嬉しいです。 / 揚水 ( 2003-01-07 02:03 )
読み進むうちに冗長はいつの間にやら奔流となっていました。読み続けていたいと願う本に出会ったとき、僕は「(完結、という形でないにしろ)いつかは終わりが来る」というごく当たり前の言葉の、ここでは小説の作法に理不尽で稚拙な怒りを覚えます。読み終えても世界は続くのですから、言葉で彩なされた世界にも続いて欲しいと我が儘を感じるのです。でも読み終えた。結果読み終えてよかった。 / 揚水 ( 2002-12-21 23:24 )
冗長と聞くと、一般的には「多重構成で万全」と思うところでしょうが、私は逆に「抜け道が沢山出来る」と想像します^^;。パスが増えれば、それだけ穴も増える。これゴク自然の摂理。ああ、全く日記の内容とそぐわなくて申し訳ないです^^;。 / あみすけ ( 2002-12-18 15:49 )

2002-12-13 言葉は、万能である

この世に言葉で説明の付かぬものはない。
全宇宙の出来事、存在・事象について言葉で語れぬものは皆無である。
それは何故か?

そもそもそれは当たり前のことなのである。
それは何故か?

それは、ある意味言葉というものはそもそもなにものか、なにごとかを「説明する」為に産み出された道具なのであるから、それを使って「全て」を「説明」し得るというのはこれは自明の道理なのである
言葉で説明出来ぬものはない。

けれどもそれはまた同時に「説明」する、ということが言葉の能力の埒外にないということでもある。
言葉をもってなにごとかを語るということは、言葉の持つ能力を一歩も出ることはない。
説明する、語る、解き明かすという行為そのものが言葉によってしか成り立たないのであるから、これもまた自明の理。
言葉で説明出来得るものは言葉で説明出来得るものしか説明出来ない。
説明するということそのものが言葉の持つ能力の限界の呪縛から自由ではないのだ。
従って、言葉を使って世界を説明し尽くすことは可能であるが、それは世界「そのもの」ではない。
その意味では言葉は万能とは言えないこととなってしまう。

ここにおいて言葉は、全てを説明出来る、何をも説明出来ないという二面性を持つ。

しかしそれでもなお言葉は万能なのである。

語り得ぬ言葉の能力外に取りこぼされたものさえも、語る主体が意図すらしないことまでも、言葉は「語って」しまうことすらあるのだから。
言外に表されることども、行間に秘められたる想い、知らず巧まず言葉はそうしたものまでをも語る。
そしてなお、語り得ぬことでこそ伝わるものさえあるのだ。
意図しようとしまいと。

そして僕たちは無言の言葉をも含めた「言葉」によってしか互いに伝え合うことの叶わない悲しい存在でもある。

人よ大いに言葉をもって語り伝え合おうではないか。

愛すべき自分以外のこの世界の全存在に対するために。
自分が生きるということを素直に認め、生を拙く謳歌するために。

先頭 表紙

よく解りました。 / ( 2002-12-31 20:36 )
口ではなんとでも言えるということです。そしてなんと言おうとそれは一面真実を映すこともある、と。例え嘘をつこうとも。 / 揚水 ( 2002-12-30 08:12 )
枠にはめたくない、自分が今見うる、感じうる視点からだけでモノを判断したくない、未知の可能性を受容する余裕を持っていたい、てカンジでしょうか。私自身はそんな風に思ってます。と、こう、ひとつひとつ聞いて確かめてゆくコト自体違うンではないかと思ったりもするンですが、ひとつひとつ確かめて行かないコトには始まらない。しかしそれが元で終わりが来たりするコトもありうる。。。などなど私も言葉遊びちっくですねえ(^^;)  / ( 2002-12-28 03:39 )
難しく見えるのはこの文が酔っぱらいによって書かれたものだからです。 / 揚水 ( 2002-12-21 23:18 )
難しいことは分かりませんが、「言葉で言い表せないことはない」というのは確かだと思います。ただ、100ある意思を、正しく100伝えられるかが難しいですね。それが98で伝わるならともかく、−(マイナス=全く意図違い)の場合もあるから始末に負えない。これは書籍でも一緒ですよね。受け取り側が読み違えればですが。うーむ、この曖昧が自然と秩序を保っているのか...ああ、私は何を言いたいのか分からなくなりました^^;。 / あみすけ ( 2002-12-18 15:45 )
ですから、うまくは言えませんが、死の悲しさのようなものは、確かにないのです。ないのですが同時にあるのかもしれない、と愚にもつかない言葉遊びのようなことばかりを考えて先に進みませんでした。佐々木は死の悲しさがあることを知りながらそれを認めようとしない、今の時点で僕の中の彼はそうした男なのかもしれません。 / 揚水 ( 2002-12-17 08:16 )
そうした言葉を紡ぐ人がかつていたのですね。僕は小林氏の書かれたものはほとんど読んでいません。死ぬまでには読みたいものだと再度思いました。ありがとうございます。チノに関してはまだ不完全な言葉しか自分の中にないものからひねり出しているさなかです。屍体に悲しみを覚えないのはそれをしてしまうと自分がそこに立っていることが根底から崩れてしまうことを怖れての一種の防衛策との意識もありました。それをすれば楽なのにも関わらず、佐々木はそれを厭うのだと。 / 揚水 ( 2002-12-17 08:11 )
そんでもって『悲しい "死" がある。"死" の悲しさといふ様なものはない』と言葉を入れ替えてみました。妻の死に身を引き裂かれ胸が張り裂けても屍体にそれを感じないのは、そういうことなのかなあ。と "チノ 2−2" を拝読して思いました。 / 穂高 雪 ( 2002-12-17 03:51 )
ウロコはかねがね邪魔だと思ってたので落ちてせいせいしましたアリガトゴザイマース。「万能」とは自分に取って都合のいい自由というワケではない、ってことなんだろな、と解釈しましたがいかがでしょうか。 少しずつテキストを拝読してます。「トラとコメ」、一年も前から発動してらした「人生薔薇色計画」に遅まきながら私も共感です。小林秀雄の言葉に『美しい "花" がある。"花" の美しさといふ様なものはない』というのがあります。美しい花を咲かせたい、と私も思ってます。 / 穂高 雪 ( 2002-12-17 03:34 )
はじめまして、雪さん。そうですか、落としてしまいましたか、ウロコを。そいつぁ困った、それこそ想定外だ。意図していませんでした(笑)。パラドクサル、あるいはアンビバレンツな物言いでしか何かを伝えることが出来ないのは、僕が世界を掴み切れていない証拠でしょう。言葉の持つ不自由さを含めて言葉は自由だと思いますし、同時に自由さの陰に不自由と矛盾が潜むと考えます。また二律背反の逆説の物言いだ。しかも酩酊にて書いてますし(笑)。僕は多分に酔っぱらってアップする事がありますのでたわ事でよければ読んでください。 / 揚水 ( 2002-12-14 07:31 )
はじめまして。タイトルを拝見して「え?」と思って来てみました。 "語り得ぬ言葉の能力外に取りこぼされたものさえも、語る主体が意図すらしないことまでも「語って」しまう" 言葉というモノについては私も常々考えて来ました。それを私は言葉の "不自由さ" と捉えていましたので、逆転の発想に目からウロコが落ちました。 他のテキストも拝読させていただこうと思います^^ / 穂高 雪 ( 2002-12-13 21:46 )

2002-12-12 あばえくビーム照射

「海月はほんと可愛いね。どうしてそんなに可愛いの?」
と僕が尋ねると、てれてれに照れた海月は、
「あばえくビームが出てるんだよ」
と笑います。

あばたもえくぼビーム、海月の目からは僕に向かってそんなアヤしい光線が照射されているようです。

僕は海月といると、いつもあばえくビームにやられっぱなしです。

いやほんと。
たまらんのだて。

先頭 表紙

うふふふふふふふふふふ。 / 揚水 ( 2002-12-21 23:25 )
ふふふ、全開ですにゃ!!^^;。 / あみすけ ( 2002-12-18 15:41 )
なんのビームかと思えば!海月さんもお元気そうで良かったです。 / みるみる@Atelier ( 2002-12-17 20:48 )
おそまつさま、なのだ。うちの海月も可愛いのだ(笑)。 / 揚水 ( 2002-12-13 08:28 )
カワイイ、ビーーーーーーーーーム!! / 揚水 ( 2002-12-13 08:27 )
ごちそうさま♪なのだ。うちのびゅーねも可愛いのだ(/_-) / じゃすみん☆ ( 2002-12-12 16:06 )
きっと揚水さんのキミガカワイイカワイビームが出てるからだ!(o^-^o) / 涼+@ ( 2002-12-12 09:47 )

2002-12-06 まるで初心な生娘のようだ

諸々の事情、忙しさやそのために家に帰らない日々が続いたことなどでネット環境になく、久し振りで何から書いていいものやら。

うわあ、なんか滅茶苦茶恥ずかしいな。

先頭 表紙

ふひー、です(笑)。 / 揚水 ( 2002-12-21 23:24 )
ふひーーー、久々にひまじんの旅してます。これからもよろしゅうに! / あみすけ ( 2002-12-18 15:40 )
ああ、じゃすみんさんというお名前なのですねえ。お久し振りです。 / 揚水 ( 2002-12-12 08:43 )
わたしも、おひさしぶりなのだ・・・うふ♪ / じゃすみん☆ ( 2002-12-11 13:05 )
ええ、ええ、みるさん、復活しようと思います。 / 揚水 ( 2002-12-08 07:26 )
あはははは、ホントにお久し振りです、kyonさん。もう忙しいんだかなんなんだか。 / 揚水 ( 2002-12-08 07:25 )
お久し振りです!復活してくださいね。楽しみにしています。 / みるみる@Atelier ( 2002-12-07 07:50 )
ひさしぶりっすね!お忙しそうで・・・ / kyon ( 2002-12-07 00:18 )
誕生祝いのお言葉、ありがとうございました。この台詞ももう既に何度目になるのか、ご無沙汰してます。「チノ」の続きもそろりそろりと書いていきます。 / 揚水 ( 2002-12-06 16:29 )

2002-11-15 ばんどりとはよく云ったもんだ

ムササビが鳴いている。
僕はムササビの鳴き声は知らないがあれはきっとムササビだ。
そうに決まっている。

先頭 表紙

ところで僕が勝手にムササビだと思うことにした生き物の鳴き声ですが、ピルピルピルというかピョルルルルというのか、そんな感じです。鳥のようで鳥でないような鳴き声です。 / 揚水 ( 2002-11-21 11:03 )
あああ、ありがとうごだいまふー。22時間くっついてました(笑)。最近書き込みしてないのに、ホントありがとうございました。 / 揚水@会社の飲み会 ( 2002-11-20 20:33 )
どんな鳴き声ですか? お誕生日おめでとうござりまする!! / あみすけ ( 2002-11-19 23:36 )
お誕生日おめでとー!!お忙しそうですが充実した1年になりそうですね。暇になったらまた遊んでね。 / みるみる@お久し振り! ( 2002-11-19 10:36 )
お誕生日おめでとうございます(^^)お祝いとかされているのでしょうか?うふふ♪ / 綺羅@お久しぶりです。 ( 2002-11-19 09:09 )

2002-10-29 チノ   2−2

佐々木は特に猫という生き物を愛しているわけでもなんでもない。道を歩いていて寄ってくる猫がいればたまにかがんで撫でるくらいはするが、素知らぬ振りを装う猫がいれば佐々木もそれに倣う。どちらのような場合であっても、わざわざ自分から呼ぶようなことはしない。寄ってくることを期待して待つようなこともしない。ああ、猫だ、と思うに過ぎない。
そんな佐々木が猫の屍体を見る。
死んでしまった生き物は、それはもうどんな形をしていようと、ただの物体だ。それはよく判る。傷一つないように見える、まだはねられて死んだばかりの愛らしいままの猫であっても、その後何度もその上を車に往復されて毛皮付きの挽肉にされた猫であっても、さらに踏みしだかれて煎餅か熨斗イカのようにされた猫であっても、かつては生き物であったものが今は生きていない物体に成り下がったという点では何ら変わるところはない。いのちが抜けてしまった生き物の体は、かつてはいのちの容れ物であったかもしれないが、その生き物が死んでしまった瞬間からその容れ物ですらなくなって、ただの物体になってしまう。死んだ妻も、ただの物体だった。

彼はかつて妻が亡くなった時、安置された死体の前に座って、その死体そのものからはなんの感慨も得なかった。ただ、不思議だった。
もちろん妻が亡くなったことを聞かされた時は悲しかった、悔しかった。身を引き裂かれ胸が張り裂けるような思いがした。
けれど屍体はただのモノだった。
いのちの容れ物はその中にいのちが入っている間だけ容れ物であるのであって、生き物が死んでしまってはただのモノだ。霊安室に横たえられた妻の体を前に、その時の佐々木はぼんやりそんなことを考えていた。不思議だった。
いのちの容れ物がただの物体になってしまう。「いのち」が抜けてしまうことによって。そうであるのならば容れ物であるからだという物体そのものよりもいのちの方が大事であることは間違いがないだろう。けれどしかし、ただの物体、容れ物に過ぎないとはいえ、その容れ物に外的な力が加えられて壊されれば、生き物は死んでしまう。いくらただの物体に過ぎないものといえ、その物体としてのからだと、より高次で大事であるはずのいのちは、密接なつながりを持っている。生き物が死ぬということはそのつながりを絶たれるということでもあるのだろう。
それではいのちとはいったい何なのだろう?

妻の死後、いくら考えても判らなかった。判らないまま佐々木は妻のいなくなった後の長い年月を生きてきた。そんなこと判らなくても陽はまた昇るし俺は明日もまた生きているのだろう。幾度そんなことを思ったかもう覚えもない。
猫の屍体を見る度に、答えの見つからない問いを突きつけられるような気がして、佐々木は戸惑う。

先頭 表紙

ありあとごだいまふー。 / 揚水@帰宅途中 ( 2002-11-01 22:24 )
拝読しておりまふー(足跡ペタ) / 涼@ ( 2002-11-01 01:56 )

2002-10-29 チノ   2−1

最近猫の屍体を見掛けることが多くなったと佐々木は思う。それも礫死体を。
仕事が変わって毎日のように運転するようになったのだから、単にそれまで見る機会の少なかったことが多くなったといえばそれまでなのだろうが、猫も鈍くなったのだろうかと思う。現にそれまではあまり見た記憶のない鳩や鴉、雀などが車にはねられた屍体も見るようになったから、そうも思う。
絶対に街なかの鳥類は鈍臭くなっている。
生き物としての人間が鈍くなってしまっているのに歩を合わせているようにも見受けられる。
不景気だと言いながら、昼夜を問わず、飲食店から出る残飯などの量が減っているわけではない。むしろ増えているくらいなのかもしれない。一度覚えた無駄はなかなか抜けるものではないらしい。景気が悪くなってしまった今、かつてカラ景気に踊ったこの国の住人は、当時無駄に使った金の替わりに今では自分の生命を無駄に、無為に過ごしている。佐々木は漠然とそう思っている。食べ物を無駄にするような生き物がもしこの世界に存在を赦されているとしても、早晩その種は滅びるに違いない。人の生活に関わりの深い鳥たちが、気の毒にも
先触れとなって死んでいるのかもしれない。死ぬべきは彼らではないだろうに。
けれど俺には関係のないことだ。
佐々木にはそんなことよりも鳥や、そして猫の屍体が、屍体が増えているのではないかということが気掛かりだ。

先頭 表紙

2002-10-23 チノ   1 

不意にやってくるもの。キンモクセイの香り。
毎年唐突に嗅がされる。それで「ああ、キンモクセイは秋の花だったんだな」と思う。洋子は何故か、小さい頃からキンモクセイの季節が覚えられない。
そしてこれも何故だかは判らないが、洋子はキンモクセイの匂いを嗅ぐと毎年憂鬱になる。
いい匂い、だとは思う。嫌いではない。けれどどうしても好きになれない。そんな匂いだった。
今年もその香りは、少し時季遅れの台風が吹き荒れた翌日、突然に洋子を襲った。
台風がもたらした土砂降りの雨粒の隙間に潜んでいたその植物のエキスは、すっかり晴れあがった明くる朝には、そこいらの空気にもうしっかり陣取って自分の存在を主張していた。もう少し控えめであればいいのではないだろうか。
それまではそこになかった、あるいは気付かなかったもの。洋子にとってのそうしたものはいつも不意にやってくる。
この年最初にキンモクセイが香った日。
その日、男は洋子の前に現れた。

洋子は小さな動物病院で働いている。
獣医師でも正式な助手というでもなく、アルバイトで病院の雑用をしている。いずれは獣医になりたいと思ってこの世界に飛び込んだけれど、それには大学に通わなければならない。そして洋子は高校を中退しているので、大学に通うためにはまず大検を受けるか高校に通い直すところから始めなければならない。今さら高校生活に戻る気にもなれず、洋子は大検を受ける方法を選択した。
目的をはっきり持った若者にとって、そしてそれ故にこそ、その目的のための手段が時に煩わしく迂遠なものにも思われる。獣医になりたいと思い、大検や大学受験のための勉強をしながらもまずは少しでもそうしたところの近くに身を置いておきたいと考えて始めたアルバイトではあった。さしあたって受験をするにも何にもお金が必要ということもあった。洋子にとってここで働くことは目的ではなく手段の一つであったはずだった。けれど日々それなりに充実していて、洋子は当初の目的を見失い掛けていた。
「副院長、谷口さんちのエルザちゃんの処置、これでよろしかったですか?」
副院長といっても夫婦でやっている小さな動物病院には、院長とその妻の二人の獣医師以外には洋子しかいない。
「奥さん」と呼ぶのもおかしいような気がしたし、妙に馴れ馴れしいような気がして名前では呼べない洋子は、彼女を勝手に副院長と呼んでいた。
洋子がアルバイトで入るまでは、名目上夫の方が院長ということになっていたようではあるが、特にそうした区別はなかったらしい。病院にやってくる飼い主達はそれまで「院長先生」「敦子先生」などと呼んで区別していたようだ。本人達は「ああ」とか「ねえ」、「おい」などと呼び合ってさして気にしていなかったようだ。
「ああ、エルザちゃんね」
副院長は手際よくカルテを見て、看畜の猫を観察した。
「それでいいわよ。洋子ちゃんもだいぶ慣れてきたわね」
「はい、ありがとうございます」
誉められれば、素直に嬉しかった。

先頭 表紙

lim.さん、なぜに「チノ」か? それはおいおい明らかになるでしょう。 / 揚水 ( 2002-10-29 12:26 )
なぜ「チノ」???? どきどきどきどき... / lim. ( 2002-10-24 14:24 )
善処します(笑)。でも今日は寝ます。 / 揚水@夜勤明け今帰り ( 2002-10-24 10:43 )
ぱちぱちぱちーー続きを早く読みたぁーーい^^; / あみすけ ( 2002-10-23 22:34 )

2002-10-15 お詫び

僕には伝えようとする、言葉で表されることが多少なりともある、のかもしれない。
そして僕は自分なりに操る言葉もある、多分。

けれども僕の言葉に対して反応してくれる人に対しての返答すら出来ないでいます。

ごめんなさい。もう少しでまた言葉を出していきます。
飛び飛びでゆっくりですがご勘弁ください。

先頭 表紙

うわあ、俺まさに今そんな生活だ…(笑)。 / 揚水 ( 2002-10-22 13:05 )
眠いときは寝るのだぁー!!そして寝るのが飽きたら起きるのだぁー!!...なんて生活してたらダメになるね^^;。 / あみすけ ( 2002-10-19 20:47 )
おおお、お、お元気ですよお。でも眠いのれす。 / 揚水 ( 2002-10-17 09:29 )
おお、おひさです!元気してます? / あみすけ ( 2002-10-17 06:09 )
あわわ・・・お元気ですか?の間違いです。ごめんなさい。。。 / みるみる@Atelier ( 2002-10-15 21:22 )
お久しぶりです。お元気か?お忙しそうですね。今大切なこと、十分になさってくださいね。のんびり楽しみにしています。 / みるみる@Atelier ( 2002-10-15 21:17 )

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