himajin top
揚水の「人生薔薇色計画」

僕のハンドルは「ようすい」ではなく「あげみ」と読みます。表記はaghemiとしています。

妻の海月は「くらげ」と読みます。



ふりぃのかうんた

yesterday ふりぃのかうんた today ふりぃのかうんた


自分が何者であるか今よりももっとわからず身悶えしていた学生の頃、何をしたらいいのかについて友達と話しに話した。
結論は出なかった。どころか何をしてもいいんだということにすらなった。
ただし、本当に何をしてもいいというのではなかった。
一つだけ基準がある。
それは俺の、俺たちの、ひいてはほかの人たちの人生を薔薇色にするか、その一点。
時々それを思い出しては行動する。
それが僕たちの人生薔薇色計画。



    よそいき仕事日記   

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2002-04-08 足音
2002-04-07 双方向性
2002-04-07 {±Sex }
2002-04-06 やうやうしろくなりゆくやまぎは
2002-04-02 ばんどり
2002-04-01 ホンダが俺らの相棒 【長崎編7 最終話】
2002-04-01 確変ってなんなんだよ? 【長崎編6】
2002-03-31 長崎ぶらぶら節 【長崎編5】
2002-03-30 てんこ盛之介 【長崎編4】
2002-03-30 夜のトレジャーハント 【長崎編3】


2002-04-08 足音

何十年か生きてきて、春のそれは未だに聞いたことがない。
けれど、準寒冷地ともいえる僕の家の周りでも、既に蛙が鳴き始めてからしばらく経つ。蛙の声は聞くことが叶ったというのに、今年も春の足音を聞き逃したのは実に残念だ。

昨日、今年初めてホタルの幼虫の光に気が付いた。羽持て宙を舞う昆虫の姿を見ることも増えた。

「育ったら食うからな」と声を掛けていた、かつて青白みを帯びた淡い緑だった水耕栽培の大根菜が、ちょっと話し掛けるのを怠って気付かないでいるうちに、白っぽい黄緑に変色してしまっている。
これがもやしならさも旨そうな色であるのだけれど。

伸びきって花芽も膨らみ、既に枯れかけている葉先も見える有り様。ほんの少し以前であれば、こんなに速い変化は見せなかったのに。
もう食べられなくなったという訳ではないだろうが、水耕栽培大根菜の旬は逃してしまったようだ。惜しいことをした。
僕の頭が、「春だな」と思いながらもまだ出遅れて冬時間を引きずっているうちに、世界は着実に季節の色を塗り替えていく。

恐るべし、春の底力。

先頭 表紙

パーさんへ。ほほう、月の巡りの神秘ですねえ。 / 揚水 ( 2002-04-10 01:54 )
性交=繁殖ととらえた場合だけどね。つまり、親愛のための性交も繁殖行動の延長線とした場合は、例の骨盤説が有効だと思うのです。 / パオラ@あくまで説ね ( 2002-04-10 01:17 )
必ず繁殖しなきゃダメ? そうでもないのが人間の今おかれたところだとも思うけど。 / 揚水 ( 2002-04-09 19:40 )
人間は本能が崩壊してるからサカリはナシ。コンビニのように年中サカリなのです。でもね、ベストの繁殖タイミングってあるんだって。で、そのタイミングがあうカップルがうまくいくの。 / パオラ ( 2002-04-09 00:23 )
lim.さん、ラジャ。 / 揚水 ( 2002-04-08 23:56 )
活性化するねえ。海月に逢いたいよお。サカリ? / 揚水 ( 2002-04-08 23:55 )
はじめまして、空さん。僕もそう思っていたので、幼虫の光にはびっくりしました。 / 揚水 ( 2002-04-08 23:55 )
じゃあ、次はアボガドの種を水耕栽培してみて!芽が出るまでに時間が掛かるけど、出たら凄く可愛いですよ〜 / lim. ( 2002-04-08 15:16 )
風の中になまあたたかい空気が混じって、匂いが微妙に変化する、それが私の春の足音。うぉーきんぐするのが辛くなくなる、というのも目安かしら?何もかもが活性化するのが春ね。 / パオラ ( 2002-04-08 11:34 )
ホタルの幼虫ってもういるんですね。びっくりです!考えてみれば、当たり前のことなのかもしれませんが・・・まだまだ先のイメ−ジがありましたぁ。 / 空。@はじめまして♪ ( 2002-04-08 08:23 )

2002-04-07 双方向性

今日の午前中、村の蚕霊(こだま)神社というところに、消防の分団で無火災祈願に行ってきました。
無火災祈願のことを「可睡齋(かすいさい)」と言うらしいのですが、詳しいことは聞きそびれました。

祈願中、太鼓や鈴の音(ね)、柏手や神官(じんかん)さんが幣束を振る音、祝詞(こういう場合もそう呼んでいいのでしょうか?)を唱え上げる声を聞いていると、神道における「音」とは、「呼ばわるもの」だと感じました。
器物や人間の出す音によって、神にこちらの存在に気付いてもらい、声によって言わんとするところを伝える。それから、声なき神の声を「聞く」のです。
これはコミュニケーションかもしれない。そう思いました。

対して仏教の、例えば読経は、真理を説きお釈迦さまや菩薩の挿話を語ることなどで「真実」を述べ立て、それによって善きものを呼び寄せようとする行為との印象があります。
本来釈尊の「悟り」とは極私的な哲学であって、そこから他者の救済へ向かったのだと思いますが、年月を経て伝播した土地土地の土着の信仰と結びつきながらそのようになっていったのではないかと思います。
和讃や御詠歌など仏さまを讃える声明もありますが、やはり仏教の「音」は、規定の正しい音を立てることや「ほんとうのこと」を口に出して唱えることでそれ(善きもの・ほんとうのこと)を実現させようとする呪(まじな)いの意味合いが強いかと思います。

「讃える」というのならばキリスト教における讃美歌などは、そのまま神を讃える「美しきもの」です。
けれど、この信仰においての祈り(寡聞ゆえユダヤ教やイスラム教については考えを持ち得ませんが、この点よく似ているのではないかと思います)は超越したものに対する、力なく過つこともある弱者が捧げる、正しくありますという「誓い」ではないかと思います。
「神」はそれに対して応分(本当に応分であるのかは、これも寡聞にして知りません)の「報い」を与える者であって、祈りは聞き入れられようとそうでなかろうと真摯に為されなければなりませんし、神の報いはそれを受ける者にとって時として一方的に映ることもあるのではないかと思います。

日本の神道における「神」もまた超越者ではありますが、何か人間に対して「対話」するといったところがあるのではないかと感じました。
けして「対等」ではありませんし、人間の望む通りのことをしてくれるとも限らないのですが、会話においては対等に、自身を呼ばわる者の言うことを「聞いて」くれるのではないでしょうか。それから徐ろに恣いままに災いを為し、福を齎す。その辺りは一方的なのですが、少なくとも言葉の遣り取りをして対話してくれるのではないか、そう思いました。

そぼ降る雨の中社殿の前に立ち、そんなことを考えていました。
けれども人との言葉の遣り取りにおいて、どのような遣り取りの方法を採る「神」であっても、「正しきことを為せ」と言うものだと思います。
仮に信仰が異なり「正しきこと」の見た目が異なれば、人はどうあっても争わねばならないものなのでしょうか。
神と語ることの他に、人と語ることも大事なのではないかと思います。

先頭 表紙

宗教、ということであれば、ここ→「たくさんの神様」とここ→「真理」にもかつて書きました。お読みになっていない方は是非ご一読ください。 / 揚水 ( 2002-04-10 00:14 )
けれど僕らはそこで生きていくのです。色々躓きながらも。 / 揚水 ( 2002-04-09 19:39 )
そーね。そういう意味ではテレビなんて見てらんない。企業と政治の企みに満ちみちているもの。 / パオラ ( 2002-04-09 00:24 )
宗教に限らず生活全般に言える事じゃないかな、多分。 / 揚水 ( 2002-04-08 23:55 )
あのさ、宗教って組織的なものになった時点でなんかおかしなことになってるのかもね。私は聖書しか読んだことないけど、あれだって随所に政治的意図がもりこまれているもんね。身内の中でも争ってる宗教ってどうよ?やっぱ聖典はひとりでこっそり読むものではないかと・・・。 / パオラ ( 2002-04-08 11:43 )
間にあわないくさい・・・。↓ / パオラ ( 2002-04-08 11:40 )
早く来てくださらないと【長崎編 最終話】に間に合いませんよ。あたしゃ構いませんがね。 / 揚水 ( 2002-04-08 00:52 )
ひつこいようだが本つっこみ予告編じゃ。六点ママの日記は字がいっぱいだからおなかがすいてるとつっこめないの。だからご飯食べてからまたくるね。 / パオラ@ガッツがいるのです。読むのに。 ( 2002-04-07 21:33 )

2002-04-07 {±Sex }

 今という時代は、良きにつけ悪しきにつけ、セックスの情報に満ち溢れていると思う。かくいう俺もその中にどっぷりと漬かっているようなものだ。
 ところが実は苦手なのである。セックスという言葉は。知っている人間が聞いたらにやにや笑いながら嘘をつけ! とでも言いそうだが、事実そうなのだからしょうがない。
 そりゃ確かに、俺はスケベだし、知らなくてもいいようなことも沢山知っている。しかし、問題はそういうことではないのだ。いくらマスをかこうが、どんなに猥雑なことを言おうと、本質的にはなんら係わりはないのだ。
 間題なのは、猥雑を猥雑と思わぬように麻痺してしまった心と、それによって人を傷つけることだ。ここでの猥雑は当然、肉慾的な快楽のみを求める歪んだ性観念のことをいう。獣にだって子孫繁栄という大義名分があるのだ。人間は自分を万物の霊長と呼んでいるのではなかったか? 痺れた心は拡がりつつあるのだ。
 「常識」とは「正論」ということではなく、「大多数」ということだ。それでは下手をすると、そのうち「清廉」な恋は異常性慾となり、「プラトニックラブ」は存在してはならないもの、といわれるようになってしまうかも知れない。冗談ではない。
 痺れた心は、精神の他の領域をも乾かしてしまう。俺自身、その乾いた心で人を傷つけたことがある。後になって、ああ可哀そうなことをした、と悔やんでみても仕方がない。そんな悠長なことではないのだ。
 命短し恋せよ乙女、などという言葉は、今や乙女の為だけのものではない。この点に於いて、人間はもっとロマンチシストになってもいいはずだ。



これを書いた当時、僕は十七歳。今回の帰省でこんなものまで発掘してきました。
もうあのころの年齢の倍近く生きてきたんだ。若かったんだなあ。
でも、よーく読んでみると、今もこの頃と大して違わないことを言っているような気もする。
内容も、物言いも。

あまり成長してないんだな、俺…。

先頭 表紙

いえいえどういたしまして。 / 揚水 ( 2002-04-10 02:04 )
いつもありがとう。 / パオラ ( 2002-04-10 01:19 )
がんばってください、パーさん。 / 揚水 ( 2002-04-09 19:39 )
こいつわかっててできてないんでやんの。こいつばかでないの?と思うもんね。でもね、わしらのやってることは頭でわかっても体がわかるにはうーんと時間がかかる勉強なのよ。ほんと。あー。 / パオラ ( 2002-04-09 00:27 )
ねーよ(笑)!昔はあったの。ガキのときは。今は・・・・・・いいとこもわるいとこも全部わかるからすげーイヤ。 / パオラ ( 2002-04-09 00:26 )
勇気もいるけどナルも入ってるかも。「俺凄え」って。 / 揚水 ( 2002-04-08 23:54 )
で、聴くときは全力をふりしぼって聴くのよ。フフフ。 / パオラ ( 2002-04-08 11:49 )
勇気ある行いだわ。私昔の歌の録音って絶対聴きたくないもん。勉強になるのはわかってても、最近の録音も聴くのイヤだしね。でもためになるのよ。昔の創作をまのあたりにすることって。自分の中の不変の性質、良い性質も悪い性質もみてとれるものね。 / パオラ ( 2002-04-08 11:48 )
この先も成長したいのです、僕は。その余地は、どこかに売りに出せるほどたんとあります。可能性がどれほどあるかはさておき。 / 揚水@今でも性春真っ盛り? ( 2002-04-08 03:32 )
17歳男子ってスケベ最盛期な頃だと思うんだけれど、それでこういう事思えるって凄いです。成長してないというか、17歳で成長しきっちゃってたんだと思う。 / AH "だから成長してなくてよろしいかと。" ( 2002-04-08 03:22 )
本人成長してる気でいるんだけどね。 / 六点 ( 2002-04-08 00:53 )
人間って、そう変わるものではないのですね。言われなければ、十数年前の文章なんてわかんない。きっと、二十数年前でも変わってないかも?それが揚水さんの個なのでせう。 / チロりす ( 2002-04-07 14:34 )
ミサオさんへ。うーん、久し振りなので自分の文章ながら、恥ずかしさはさておき割と客観的に読めたのですね。そうするとですね、こと性に限らず「常識」だの「人類は万物の霊長」だのを揶揄する、背伸びした考えを披瀝する自分(既に今の僕とは別人)が見えるのです。人を傷付けた免罪符を欲しがったり…。そんでもってその別人と今の僕は大して変わらねえやなんて気付こうものなら。うひゃーってなもんです。 / 揚水 ( 2002-04-07 03:43 )
性に対する考え方はもっとも成長しにくい部分な気がしますが・・・ / 水青 ( 2002-04-07 03:04 )

2002-04-06 やうやうしろくなりゆくやまぎは

実家で片付けをしていた時面白いものを見つけて、こちらに帰ってくる時に持ってきました。

僕は高校生の頃、友人ら、と言っても実際にはほとんど僕を含めて二人だけだったのですが、文芸誌とも漫画好きの戯言ともつかないようなコピー誌を作っていたのです。

その友人とは実は女の子で僕はその娘に密かに想いを…、脱線しました。僕は自分の書いたものは恥ずかしくて「うわあうわあ」心の中で叫びながら読みましたが、その娘のものは今でも面白く読むことが出来ました。
以下、本人の了承も得ましたので引用します。



枕草子   −長崎弁訳−

第一段

春は曙ばい!
だんだん白うなっていきよる山の際んにきのさ、少ーし明るうなって紫んごたぁる雲の細うたなびきよっと。

夏は夜さ。
月ンあっときがばり良か。月ン無か頃でんやっぱ、螢のようけ飛びかいよっし。そいで、一つか二つとかのぼやあって光っていきよっとも良かばい。
雨んごたっとの降っとも良かばい。

秋は夕暮れじゃ。
夕日のさして、山の頂に近うなったとこに、鳥の寝っとこに行くけん、三つか四つ二つとかの飛んで急いで行きよっとでん、良かとばい。
ほでから、雁とかのつらねとったりすっとの、いじで小そう見ゆっとのぱり良か。
日の沈んでしもうて、風の音とか虫の声とかは言わんちゃ良かさね。

冬は早朝ばい。
雪の降ったとなんか言わんちゃ良かね、で、霜のいじで白かともそうじゃなかとでも、ばり寒やっけん火とか急いでおこしてから、山灰の火でん持ち歩いて行きよっともいじでらしかたい。
昼ンなってさ、ぬくうなっていくけん、火鉢の火の白か灰になって、よっさあしか。



多少の問題や間違いがないとは言いません。が、面白い。なぜなら、僕たちが当時過ごした生の言葉に置き換えようとする試みだからではないでしょうか。
古文を読む、とはこうしたところから始めればきっと面白いでしょう。
書かれた言葉をこねくり回して、組み立てや逐語訳から自分にも理解できる記号としての現代文に置き換えるのが古文を読む目的でなく、書いた人が何を言いたいのか知る、そしてそれが面白ければ楽しいと思う。それこそが目的でしょう。
もちろんそれには、ある程度のテクニックとして知識が必要なのも事実です。
けれどある言葉の集まりが表していることを知ることを目的に、知るために必要な知識を得ようとして、なのにいつの間にかその知識を得ることが目的となってしまうこともあるやもしれません。そんなものは面白くない。

それは古文に限らず外国語に関してもそうなのかもしれません。
いえ、違いますね。僕たちが普通に会話している中にも、言葉を交わすことで満足してしまって相手の真意を酌もうとすることを怠る場面がありそうです。自身の真意を伝える時も然り。面白いか面白くないかは別にして、有り体に言えばそんなものは嘘です。
いつもいつもそこまで気を配ることは無理なのかもしれません。けれど、空疎な言葉は聞くのも話すのもいやです。
僕はそう思います。

先頭 表紙

今度朗読したげます。 / 揚水 ( 2002-04-08 23:53 )
これ音で聴いてみたいね。 / パオラ ( 2002-04-08 11:58 )
私もそう思います。>空疎なことば   / パオラ ( 2002-04-08 11:52 )
僕は橋本治さんは思い出せなくて、橋爪勲さんの顔が脳裏にちらついてしょうがありません。はじめまして、水青さん。 / 揚水@水着かと思った… ( 2002-04-07 03:20 )
橋本治って梅垣に似ていると思うんだ。 / 水青 ( 2002-04-07 03:03 )
僕の受験は名古屋コーチンでした。 / 揚水 ( 2002-04-07 01:39 )
別にわざとなんかじゃないのよ。誰かに早く蝙蝠を見せたかったの。 / 揚水 ( 2002-04-07 01:38 )
ワタクシは橋本治の桃尻語版で大学受験を乗り切ったわ。 / まう ( 2002-04-07 01:22 )
あーさん、お店の様子はどうかしら?ママねえ、自分のところの作文したら力つきちゃったみたい。あしたまた寄らせていただくわ。それにしても怒濤の更新でママおろおろしちゃうわ。早くこないとつっこめなくなるかもね。あーさんたらわざとなのかしら。いやあねえ。オホホホホ。 / パオラ@ラウンジパオラもよろしく ( 2002-04-07 01:12 )

2002-04-02 ばんどり

この日の夕方、なんとなくNさんの家に行った。誰もいなかった。
待てど暮らせど帰ってこない。勝手に上がり込んで本を一冊借り、濡れ縁で読んでいるうちに暗くなってきたので玄関灯を灯し、その脇でさらに読み耽った。
洗濯物を適当に取り込んでまた読んだ。

頭上でぴゅうと音がした。
もしやと思ってあたりを見渡すと、正面の杉の木の幹を、一匹のムササビが上っていくところだった。
鳴いている。

本を最後まで読んでも誰も帰ってこない。
きっと一家で奥さんであるYちゃんの実家にでも遊びに行っているに違いない。
帰ることにした。

帰り道、ゆるやかな左カーブを曲がっていくと、僕の車のヘッドライトに驚いた一匹のタヌキが道の脇に逃げ込むところだった。

ムササビやタヌキが未だ暮らす山。
「まだ」そんなところがある、などと言うことそのことこそが、人間の奢りだ。僕をも含めて。

彼らがかつて棲んでいたところから棲めなくなるように追い出してしまったのは、誰だ?

先頭 表紙

そうなのです。またのお越しをお待ちしています。 / 揚水 ( 2002-04-07 00:35 )
揚水さま、分なのですね。ありがとー。そしてあしたまたきます。 / パオラ@おやすみなさい ( 2002-04-06 02:53 )
はじめまして、一生○女@二十四歳+αさん。僕はサルが見てみたいです。見たことありません。キツネ、タヌキ、シカ、カモシカ、ヒキガエル、ヒラタクワガタ、カブトムシ、ミヤマクワガタ、ノコギリクワガタ、オオクワガタ、ナナフシ、カメムシ、ホタル、キジ、キツツキ、メジロ、ウグイス、ホオアカ、ホオジロ、ウグイ、イタチ、リス、ムササビ、そういったものは近所で見ることが出来ます。姿を見たことはありませんがイノシシもいます。サルとクマはまだ見たことがない。野生のクマにはあまり遭いたくありませんがね。 / 揚水 ( 2002-04-06 01:32 )
野生のサルやリス、カモシカは見たことがあるのですが、タヌキは見たことがありません。見てみたいです。 / 一生○女@二十四歳+α ( 2002-04-05 17:59 )
はっ、かたじけないでござるよ。 / パオラ@ヤマダくんよろしく ( 2002-04-04 16:22 )
あっはっはっはっは。座布団五枚だね。 / 山田くん ( 2002-04-04 16:14 )
最近その欺瞞が重要なビジネスツールになってきているのがまたどうも・・・。大声で「地球の未来を考える・・・社」っちゅうことは今までは考えてなかったってことかや? / パオラ ( 2002-04-04 16:07 )
そうですね。確かにあべこべかも。けれど僕らが自身人間を「悪者」に仕立て上げたとしても、それもまたあべこべ。僕たち人間という生き物は確かに他の生き物のいろいろな物を奪った。棲み家にとどまらずその命までさえも。しかしただ単に自身を「悪」と見なすのでなく、問題はそこから何が出来るか、その先にあるのですね。未来を、見ましょう。自分たち人間のためであることを隠して「地球に優しくする」などという欺瞞は投げ捨てて。 / 六点 ( 2002-04-04 15:15 )
よく、猪が農作物を荒らす、サルが土産物屋を襲う、熊が生ゴミを・・・といって、鉄砲で「退治」するとかいうけど、これもアベコベな話よね。 / チロりす ( 2002-04-04 09:40 )

2002-04-01 ホンダが俺らの相棒 【長崎編7 最終話】

僕は一切パチンコをやらない。
なにがなんだか判らないまま椅子に座って玉の行方を眺めていると、海月が帰ってきた。
「Kちゃんは?」
僕が尋ねると
「行っちゃった。間に合いそうなら揚水くんと見送りに行くねって言ったけど、後二回は掛かるやろうけん間に合わんやろう、って言ってた」と答える。
「ふーん。掛かるって?」
「さあ?」
僕たちの間抜けな会話を聞いていた隣のお兄ちゃんが、掛かるとはどういうことか、玉の落とし方やドル箱が溢れそうになった時の店員の呼び方、ゲームの終え方や換金の仕方まで親切に教えてくれた。
帰ろうとする僕に店員が機械から抜き取ったカードを渡そうとした。
「何これ?」
「カードです、余りの」
「?」
お兄ちゃんがまた教えてくれた。
「玉の残りばい」
「ああ」
プリペイドになっているのか。僕はそのカードをお兄ちゃんにあげ、「色々教えてくれてありがとう」と言って店を出た。

店を出て換金したら、僕と海月が思っていた金額よりはるかに高額だった。Kちゃんはくれると言っていたが、こんなに高額のお金をただもらうのは気が引ける。
海月がいいことを思いついた。
海月が中華街で買ったポチ袋は三枚一組で百円、買ったのは六枚。そして海月の甥と姪は五人。一枚余る。そして僕には姪が一人、クジラしかいない。合わせて六人だ。
「クジラにあげようよ」
「そだね」
Kちゃんはあまり金を遣う男ではない。釣りとパチンコくらいしか金の掛からない人なんだとかつてYちゃんに聞いたことがある。彼が金を遣うのはほとんどクジラに関することだけだ。
クジラにと言ってこのお金を渡せば、Kちゃんから出た金がKちゃんに返ることになる。それは良い考えだ。
僕は慶應義塾を開いた人物の肖像が描かれた紙をポチ袋に押し込んだ。

僕の家に帰ろうとした時に、二人の電話両方の着信履歴にFさんの名前があることに気が付いた。パチンコ屋はうるさかったので掛かってきたことに気付かなかったのだろう。
僕は彼女に電話した。
「なに?」
「Kちゃんには会(お)うたね?」
「うん」
「頼んどった角煮饅頭は買(こ)うてくれたね?」
「うん」
「そいなら、帰りに焼き海苔と沢庵ば買うてきてくれんね」
「うん」
僕たちは家に帰った。

ポチ袋はすぐにFさんに預けた。Yちゃんが実家に来たときに渡してもらえばいい。
キビナ寿司は、旨かった。
寿司にしたものしか用意されていなかったが、海月が初めてキビナを食べるので、後から余っていたキビナを開いて、刺身にしても食べさせた。
彼女はしきりにおいしいおいしいと言っていた。
Fさんは海苔と沢庵で巻物を作ってくれた。僕たちの帰りの道中のお弁当だという。
お腹がこなれるのを待つためにしばらく休んで、出発した。

海月は長崎に来る前には、僕の両親や妹一家に会うことを楽しみにしていて、一方で不安でもあった。受け入れてもらえるだろうかと心配していた。
結句、その心配は杞憂だった。
別れ際、父も母も彼女に実のこもった声で「また来んね」と言ってくれていた。
海月はにこにこしながら「はい、はい」と何度もうなずいていた。

僕たち二人はまた長い道のりを走る。
途中で海月の実家にも寄ってお土産を渡し、愛知に帰ってきた。
往復2000キロ、僕の車もよく頑張ったと思う。
僕の愛車はホンダトゥデイ。民生さんの歌では「ホンダ」は金色だが、僕のホンダはラベンダー色。
本来愛知と長崎を軽自動車で往復しようというのは無茶だったかもしれない。本当によく頑張ってくれたと思う。

ありがとうね。

先頭 表紙

2002-04-01 確変ってなんなんだよ? 【長崎編6】

明けて僕と海月が愛知に帰る予定の日。
午前中僕は、かつて自分が使っていた部屋の捨てる物と置いておく物、持って帰る物を分けていた。子供の頃の写真も出てきた。
僕のアルバムに混じって、母Fさんのアルバムも出てきた。それらを見た海月は大喜びだった。

昼前に家を出て長崎市内を少し見て回りそのまま帰るつもりだったが、Fさんに「夜出発すると思うとったけど、そのまま帰るとね?」と尋ねられた。今夜はキビナの寿司にするつもりでいたのにと言う。僕は即座に心を変えた。
キビナ、あるいはキビナゴはイワシ科の6〜7センチの小魚で、手で頭を取って開く。刺身で食べるにはそのまま、寿司にするには酢で締め手開いた身を酢飯に載せる。旨い。海月に説明してやると、彼女も目を輝かせ、早く出発して余裕を持って帰ろうという考えをいとも簡単に捨てた。

家を出て市内に入り出島の近くに車を停め、ミニ出島を見た。
それから昼食を食べようと歩いて中島川沿いまで行き、その辺りをうろついた。
眼鏡橋その他の石橋群を見、渡った。川には白鷺がいた。鴨がいた。大きな鯉が何匹も泳いでいた。

目当てにしていたお店は見つからなかった。
僕が探していたのは入り口には古い路面電車のドア、座席も電車のシートを流用した洋食屋で、店内には吊り革や網棚まで取り付けられている。トルコライスを食べさせてくれる。潰れてしまったのか僕が場所を間違えているのか。後者だといいのにねと話した。

残念に思いながら適当なところで食事を済ませた。丸山町界隈まで行きカステラを買った。
長崎にはカステラの「本家」が少なくとも二つ以上はある。僕はこの界隈にある本家の方が好きだし人に食べさせるならこちらだとも思っている。
昼間の閑散とした銅座町の迷路みたような飲屋街を潜り抜け、新地の中華街に行った。なにやらという洋行店、貿易商の雑貨屋でそれぞれ友人へのお土産を漁った。海月は土産以外にも赤と金の派手なポチ袋を買っていた。甥姪にお金を上げるときに使うんだと嬉しそうだった。

僕と海月はこの日の夕方、Kちゃんと長崎駅前で待ち合わせることになっていた。
クジラが僕たちに折り紙でプレゼントを用意してくれていたものを五島に忘れてきてしまっていた。ちょうどこの日仕事で博多に発つKちゃんがそれを預かってくれているのだ。
前日別れ際にそれを忘れてしまったかもしれないことを僕と海月が謝ると、クジラは家に帰るやそれを確かめ、「お父さん、揚水くんと海月ちゃんにこい(これ)ば持っていって!」と開口一番言ったらしい。

駅前でKちゃんに電話すると、今近くのパチンコ屋にいるという。じゃあ待ってるからと言って電話を切りしばらくすると、今度は彼の方から掛かってきた。
「ちょ、ちょっと来てくれ!」
切迫した様子に僕たちは慌ててパチンコ屋に向かった。

店内に入りKちゃんを探した。やっと見つけて近づくと、
「揚水、汽車の時間になりよっとに掛かってしもうてさ、後二回は掛かると思う。どんだけ出てもそれはもうやるけん、おい(俺)の替わりに続きば打たんね。折り紙渡すけん、海月ちゃんおいと一緒に来て!」と言って僕を座らせ、訳も判らずにいる海月を伴って慌ただしく店を出ていった。
僕はもっと訳が判らなかった。

ぼけーっとしていると、隣の席のお兄ちゃんが
「今確変中やけん、黙っとっても玉は出るばい」と教えてくれた。

確変って、なんだ?


先頭 表紙

2002-03-31 長崎ぶらぶら節 【長崎編5】

午後になってフェリーに乗ったので、本土に着いたのはそろそろ夕方とも言えるような時間だった。
それなのにまだ、まるで昼間の明るさだ。
僕と海月の頭と体の中では、時計と空の明るさとの関係がかみ合わない。まるで白夜の国に迷い込んだ旅人のようだ。
五島にいた二日間は時間のことなど気にしないで遊び回っていたので、そんなことにすら気が付かなかった。

この日の夕方、空がこの白夜の国でもきちんと暗くなる時分には、Yさんも街に出てきて四人でご飯を食べることになっている。いくら空がまだ明るいとはいえ、あちこち見て回るほどの時間はない。
それでもどこかに行こうということになった。
僕とFさんとの二人で相談して「祟福寺」に行ってみることにした。

「そうふくじ」、一名を「赤寺」。日本で最初の黄檗派寺院で「唐寺」のひとつとして有名だ。
というよりも、このような建築様式の建造物は、おそらく日本に他にない。
殊に中国盆の華僑の人々による賑わいは、この狭い長崎のどこにこんなに中国人がいたのだろうと思わせるほどだ。線香の煙の立ちこめる中派手に爆竹が鳴らされ、色とりどりの色紙や何かを書き付けた紙切れが地面を埋める。弁柄で朱(あけ)に染め上げられた漆喰壁で囲まれた空間に、鉦や銅鑼などの鳴り物の音が響く。旧正月も派手だ。

仏教とは、いわゆる抹香臭いイメージの他にこうした姿も持つ。
長崎における「異国情緒」とは何もポルトガルやオランダなど西洋だけの専売特許ではないのだ。

山門をくぐり、Fさんが料金を払おうと受付のおじいさんに近づいて声を掛けた。
おじいさんが「今日はもう終わりだから…」と言い差したのが聞こえた。ああ、ダメなのかな。
そう思っていると、それに続くおじいさんの言葉はこうだった。
「いいよ」
こんなことってあるんでしょうか? おじいさんが「今日はもう終わりだからお金は払わなくていいよ」と言っているのだと分かるのに少し時間がかかった。実にのんびりしている。緩やかだ。
三人はおじいさんに感謝して石段を登った。

この寺には媽祖が祀られている。
媽祖は福建省に起源をおく女神・道祖神で「千里眼」と「順風耳」の兄弟を家来に従えている。家来どもはその全てを見、聞く能力で悪事を逃さず、主人に注進に及ぶという。
また媽祖は「航海」に関する神でもあるから、港町長崎の地に在する寺に祀られるのは当然と言える。

寺を辞し、僕の父Yさんと待ち合わせた中国料理店に向かう。僕と海月はそこに併設された土産物屋で、「麻花兒」と「金錢餅」という中華菓子を買った。その中国料理店のエントランスにも媽祖と両脇侍の像がある。
歓迎御一行様の札に、僕たちの他にも三〜四件の予約が書かれていた。
上海の役所や長崎県知事の某くんを囲む会などの団体名に混じって一つだけうちの名字がぽつんと書かれている様に僕は大笑いした。

前菜は唐辛子の味を付けた数の子、薔薇の飾り切りのトマト、冷やした焼き豚のスライス、姫胡瓜の漬け物、皮蛋。
それから酢豚、春雨スープ、海老チリ、これはグリーンピースでなく緑色に染めた銀杏が入っていておいしかった。豚の角煮饅頭、東坡肉(とんぽうろう)をコッペパン状の白饅頭に挟んで食べる。
最後にご飯も出てきたが、その前にはパン生地で野菜を入れた魚のすり身をくるんだ春巻き状の揚げ物も出た。

満腹の胴体を抱えた四人は二台の車に乗り、帰宅途上僕はFさんが妹のYちゃんから預かってきた金と合わせて、Yさんに還暦祝いの携帯電話を買うことにしていた。四人で店に寄り機種を決めて値を尋ねると、還暦祝いは八百円と相成った。


先頭 表紙

今回は見逃してやるよ。 / 揚げ足 ( 2002-04-05 15:09 )
うぬぬ。一時きえてもうたらしい。そう。正解であるぞよ。 / パオラ@むう。脳も太りすぎ。 ( 2002-04-04 16:23 )
でぶード? ひょっとしてでぶモード? / 今回は揚水、揚げ足ではない ( 2002-04-04 16:13 )
わたくしの今のこんなにもっさりした腹ぐあいでも、このメニューだされたら無言で食べ尽くすと思うわ。で、これってもうでぶードなのよ。きっと。 / パオラ ( 2002-04-04 15:59 )

2002-03-30 てんこ盛之介 【長崎編4】

朝食はご飯と味噌汁とかまぼこと温泉たまごだった。旨かった。

車に乗り込んで、目指すは頭ヶ島天主堂。
天主堂建築の世界では有名な鉄川与助なる棟梁の手になるもので、日本にはこの建物を含めて石造の天主堂は二つしかないという。
僕はキリスト者ではないけれど、内部に入った時の清冽な空気はなにか、そんな僕でも敬虔な気持ちにさせてくれるものがあった。
昔日から連なる人々の想いがそうさせるのであろうか。
神父様の住む建物(今でも住んでいるのだろうか?)も質素かつ、美しかった。
天主堂に繋がる幾段かの階段の下にあるちょっとした広場の芝生の上では、猫が三匹ひなたぼっこをしていた。うち二匹は二つ巴の形に丸まって寝ていた。
とても嬉しくなった。

天主堂を後にして、上五島の飛行場にも行ってみた。
小さな小さな空港だった。

さらに日之島というところに渡り、なにやらという名前の古墳群に行った。
古墳といっても、平たい丸石を積み上げたお墓がたくさんある場所だった。周囲には最近のお墓もある。古墳群がいつの時代のものかは迂闊にも調べなかったが、その下には無縁仏が眠っているという。
けれどその島に来た目的は古墳群ではなかった。ではその目的とは?

島に渡る前、KちゃんとYちゃんの夫妻は食パンを買い込んでいた。
野生の鹿。この島では野生の鹿に餌をあげることが出来るという。
車を走らせていると、確かにそこかしこに鹿の姿が見える。適当なところで車を停め、僕たち六人は車を降りた。
ワラワラと寄ってくる鹿にパンをあげては喜んだ。
クジラは「パンあげる!」と張り切っていたくせに、怖がって逃げまどっていた。みんな笑った。
僕は調子に乗って鹿に跨った。クジラは「クジラも乗る」と騒いでいたが、Kちゃんに「怖がっとるくせに」とからかわれていた。

中通島に戻り、道々タラの芽を摘んで歩いた。車はKちゃんと僕で交互に少しずつ進めた。
途中の展望台でお弁当を食べた。食後僕と海月とクジラは、芝の枯れ草を丸めたボールと拾った棒で野球ごっこをして遊んだ。

フェリーの時間が近づいている。僕たちはまた車に乗り込んだ。

フェリー乗り場で乗船時間まで遊んでいた。
僕たち、僕と海月とFさんが船に乗るべき時が近づいている。クジラは泣き始めてしまった。お父さんやじいちゃんばあちゃんが船に乗るときはいつもそうなのだという。僕たちは今日いなくなってしまう。Kちゃんも僕らの次の日には博多に発つらしい。
その寂しさに、かわいそうにクジラは泣いた。

僕と海月は乗船後甲板に出てみた。Fさんは船室で荷物を見てくれていた。
待合室の窓に親子三人の姿があった。クジラは靴を脱がされ窓枠に立たせてもらって、両親に促されて手を振りながら、泣いていた。僕たちもそれに応えていつまでも手を振り続けた。また会いに来るからね。

たった一泊で僕は久し振りに、海月は初めてKちゃんやYちゃんやクジラに会った。会っただけでなくいろんな場所に連れて行ってもらい、たくさん遊んだ。何日も一緒に過ごしたような気がする。
その時間ももちろん楽しかったけれど、この先クジラ一家と海月の間には何か温かい関係が生まれ、育つに違いない。その予感も、くすぐったく嬉しかった。


先頭 表紙

ももたさん。そうですね。親しいものを乗り物が連れ去ってしまうのは、悲しい。でも乗り物は、逆に親しいもの、親しくなれるかも知れないものをつれてきてくれもしますよね。連れ去ったものをまた再び連れてきてもくれる。そうして僕たちは生きているのですね。そう考えると、別れも含めて人生は、楽しい。 / 揚水 ( 2002-04-05 15:12 )
ところで、鹿に跨るのは、反則ですか? うーん、どうなんだ? / 揚水 ( 2002-04-05 15:11 )
どうだろうね、パーさん。確かに客人に対して免疫はあるのかな。でも僕の実家は郡部で、いわゆる昔ながらの「長崎」とはまた違うんだけどね。「きゃくじん」、「客人」は「まろうど」とも読むよね。つまり「まれびと」、稀な人。人間誰しも稀人に対して興味と恐怖の双方を抱くものだと思う。未知なるものに対する興味と恐怖。確かに長崎という地はそれに慣らされてはいるのかもしれないね。でもオランダ人を受け入れたといってもお上の意向でポルトガル人を追い出してもいるし。うーん。個々人は、受け入れ合ったのかな。 / 揚水 ( 2002-04-05 15:10 )
↓下のパーさんへ。それをやるならボールが七つはいるでしょう? 一つしかなかったもの。 / 揚水 ( 2002-04-05 15:10 )
嬉しいです。ところで私も小さい頃に、お別れの時はいつも泣いていたのを思い出しました。クジラちゃんの気持ち、よくわかります。あれは本当につらい。しかもフェリーだと、だんだん遠く、小さくなっていくわけでしょう。時間がきたら動き出す乗り物が、連れて行ってしまう気がするのです。 / ももた ( 2002-04-04 16:51 )
きっとさ、長崎の人ってオランダ人をうけいれたくらいだから客人好きなんだろうね。そんなかんじがするなあ。うちの実家のほうはもっとぎこちないもの。ところで揚水くん、鹿に跨るって、それは反則でないの? / パオラ@鹿に跨る揚水太郎 ( 2002-04-04 15:55 )
いらっしゃいませ、ももたさん。安心してください、予定ではもう少し続きます。 / 揚水 ( 2002-04-03 19:59 )
はいはいパーさん。 / 揚水 ( 2002-04-03 19:58 )
長崎シリーズはもう終わりなのでしょうか。情景が目に浮かぶようですごく面白いのですが。もっと読みたいです。 / ももた ( 2002-04-03 15:36 )
あげみちゃん、あしたまたくるね。 / パオラ@寝ます ( 2002-04-03 03:46 )

2002-03-30 夜のトレジャーハント 【長崎編3】

浜栗浜、あるいは蛤浜。Kちゃんが連れて行ってくれた浜を後にして、次に着いたレンガ造りの教会の名は、福見天主堂。内装は新しく改修されていたものの、美しい教会だった。
クジラはKちゃんに嬉しそうな様子で浜で拾ったボールを見せていた。
「そがんと捨てんね」と言われてしまっていた。まあ彼がそう言うのも無理はない。それほど小汚いボールだった。
僕はクジラからボールを受け取ると自分のポケットにねじ込んだ。
僕にはちょっとした魂胆があったからだ。

ケーキ屋はKちゃんの同級生がやっているということだった。
ゲームボーイかなにかのキャラクターを描いてくれているらしい。ちょっと見かけたアイパーか何かをあてたリーゼント風の髪型をしたおっさんが一生懸命そんな絵を描いていたのかと思うと笑えてきた。
もっともKちゃんの同級生というのであれば僕とも同い年ということであるのだが。
僕もおっさんだ。
ケーキを受け取って家に帰る間、僕たちはKちゃんに明日は何時に帰るのかと尋ねられた。「朝に帰るつもりだ」と答えると、ゆっくりするのなら面白いところに連れて行くつもりだったのになあとニヤニヤするので、そのお言葉に甘えることにした。長崎市内の観光よりそちらの方がいいな、と思った。

家に帰ると、クジラは僕と海月を海岸に立っているマリア様の像のところに案内してくれた。
そこの磯で遊んだ後、網置き場の脇の広場になった空き地で、三人でボール遊びに興じた。僕たちは遊びに夢中になってとうとうボールを失ってしまった。クジラはその後自転車を引っ張り出してさんざ駆けずり回っていた。

僕たちが戻ってみると、YちゃんとKちゃんは夕食の準備にかかっていた。
僕と海月は、帰ってからもクジラと遊んでいた。
Kちゃんは「霧雨(きっさめ)」の生麺を揚げてくれている。霧雨とは長崎の皿うどんをさらに細くしたものだそうだ。わざわざ生を買ってきて家で揚げてくれるという。
ケーキと霧雨で遅がけの誕生祝いだ。
電気を消してロウソクを灯し、クジラがその火を吹き消すとクラッカーを鳴らした。
霧雨は旨かった。
ケーキの絵も上手に描けていた。夫妻によると他の絵は下手くそなのに今回はまずまずだということだった。リーゼントのおっさんも散々な言われようである。

食事の後、クジラは両親と話が付いていたらしく、僕とクジラに「散歩に行こう」とせまってきた。夜の散歩。夕方行った磯場で貝を拾いたいというのだ。

三人それぞれ懐中電灯を下げて、出掛けた。
途中の建設会社の飯場で、クジラは「友達に挨拶するんだ」と行って扉を開け、おじさんに話しかけていた。
磯場は、宝の山だった。僕たちは懐中電灯の丸い光の輪の中にたくさんの宝物を見いだした。拾った貝殻は、とてもきれいだった。

帰って僕と海月とクジラの三人で風呂に入った。明日はどこに連れて行ってもらえるのだろう。

先頭 表紙

そうっすか。わかりました。彩色を施すのではと思ったのです。 / パオラ@ドラゴンボールふうにね ( 2002-04-04 16:24 )
ああ、「魂胆」のことについてなのでしょうか。単にボールで遊びまくる目的があっただけです。それは達せられました。 / 揚水 ( 2002-04-04 16:01 )
ボールは夕方も夜も三人で探したの。でも見つからなかったの。残念。 / 揚水 ( 2002-04-03 00:28 )
そこんちの浴槽は広かったの。僕の実家は大人二人でいっぱいいっぱい。 / 揚水 ( 2002-04-03 00:27 )
ほんとだ、ボールはどうなったんだろ? / lim. ( 2002-04-02 08:17 )
そんなでかい風呂なの?成人ふたりに子供一人がはいれるほど大きいの?長崎はみんなそうなの?で、ボールどうすんの? / パオラ ( 2002-04-01 22:08 )

[次の10件を表示] (総目次)