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Hideyの「蛍の光の下で」

帰国に伴い長い間ご愛読いただいたこの日記を終了させていただきます。
もうこのサイトに文章を綴ることはありませんが
もしこの先もおつきあいいただけるようであれば
メールをいただければ幸甚です。
皆様、本当にありがとうございました。お元気で。

絵日記

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2003-05-27 心の休息
2003-05-25 日本人学生の絆
2003-05-24 ジャック・ウェルチのコーポレート戦略 6
2003-05-24 ジャック・ウェルチのコーポレート戦略 5
2003-05-24 ジャック・ウェルチのコーポレート戦略 4
2003-05-24 ジャック・ウェルチのコーポレート戦略 3
2003-05-24 ジャック・ウェルチのコーポレート戦略 2
2003-05-24 ジャック・ウェルチのコーポレート戦略 1
2003-05-22 チャンピオンズ・オン・アイス
2003-05-21 レッドソックスvs.ヤンキース観戦 2


2003-05-27 心の休息

一昨日から昨日にかけて妻と帰国前最後の小旅行へ行ってきた。ボストンと同じマサチューセッツ州の東南端、ケープコッドという海辺のリゾート地だ。ケープコッドは人が手を上げて爪先を肩の近くまで持ってきたような形の細い弓形の半島になっている。僕たちが滞在したのはちょうど肘の内側にあたる場所だ。二日続けて雨まじりの天気だったが、僕は雨の海も好きだし妻は仕事のための最後の一時帰国から戻った翌日だったのでゆっくりできさえすれば文句はなかった。ニューイングランド独特の質素なつくりのコテージには茶色く湿った板敷きのテラスがあり、そこから静かな入り江を見下ろすことができた。聞こえる音といえば青々と濡れた草木を揺らす風、何種類もの鳥のさえずり、そしてかすかな潮騒だけだった。ゆっくりするには申し分のない場所だ。

さっそくのんびりとベッドに寝そべる妻を残して僕は夕刻の人気ない浜辺に下りた。入り江と外海を辛うじて仕切るほどの細長い浜辺だ。波打ち際に戯れる海鳥を眺めたり滑らかに洗われた小石を手に取ったりしてしばらく歩いた。するべきこともなく心の赴くままに体を動かす自由を久しぶりに感じていた。帰国準備などで慌しくしていた僕はこの束の間の休息を思っていたよりずっと必要としていたようだった。海で恋人を失い海の歌ばかり書きつづけた女性の歌を口ずさんだ。色褪せた海に音もなく吸い込まれてゆく細い雨が心地よかった。

すっかり冷え切った体でコテージへ戻るとちょうど妻が仮眠から目覚めていた。五時半に予約を入れていたイタリア料理店へ向かうため身支度をし再び車を走らせた。アナ・カランが静かにジョビンの曲をいくつか歌った。

その店はボストンにもなかなかないくらいのまともな料理を出す店だった。僕は何種類かの茸のソテーと仔牛のエスカロップ、妻はアスパラガスのソテーとキングサーモンのグリル香草ソース添えを食べた。仔牛は白ワインソースをかけたものだったのでマリオ・スキオペットのトカイの白がよくあった。久しぶりに妻と向かい合って話をした。彼女は仕事が順調なようで長旅の疲れにも関わらず表情が生き生きとしていた。

コテージに戻ると入り江には本格的に夕闇が迫っていた。何となくテレビをつけるとあるチャンネルがディアハンターのラストシーンを流していた。ああ久しぶりに観たかったと思っていたら、その直後に同じチャンネルがこの三時間を超える映画をはじめから放映し始めたのでミニバーからジャック・ダニエルを持ってきて腰を落ち着けて観はじめた。もう多分七、八回観ているが飽きない。デ・ニーロも臭みがなくて一番いい頃だ。ベトナム戦争を舞台にした右寄りとも受け取られることの多い映画だが、冷戦下のアメリカとそれに忠誠を尽くすロシア系移民、華やかな結婚式とラストシーンの葬式、ベトナムに旅立つ三人を送り出す狂騒の夜の終わりに流れるショパンのノクターンとラストで主人公たちが歌うゴッド・ブレス・アメリカ、帰還して誇りも忠誠心も失ったかのようなグリーン・ベレーと出征前の意気軒昂な主人公、救われる者と救われざる者といった様々な対照と交錯は、右や左といった単純な見方を陳腐にする。ベトナム戦争を描いたのではなくこの時代にペンシルバニアの工業地帯に暮らしたロシア系移民の生と死を描いただけだというマイケル・チミノ監督の言葉が素直に受け取れた。

青い闇が馴染んでいく入り江には白鳥が翼を休めていた。いつの間にか妻の寝息が聞こえた。久しぶりに自分が過不足なく自分自身だけでいられた一日だった。


*写真は近くの家。泊まったコテージではありません。


先頭 表紙

真冬さん、最後のカヴァティーナのギターの切ない音色が沁みるんですよね。「To Nick」というシーンでは自動的に涙が出ます(笑)。休暇を満喫することもそうですが、そろそろ前向きにどうやってこれからの仕事にあたっていくかを考えないとね。でも浦島太郎になることは分かりきっているので焦っても仕方ないですが。 / Hidey ( 2003-05-29 22:57 )
チチローさん、僕たちもプロヴィンス・タウンまで行ってきました。オフシーズンだったし雨で煙った景色だったのでちょっと物寂しげではありましたが。プリンス・エドワードとはずいぶん遠くまで行かれましたね。僕は高校時代にメイン州にホームステイをしていたのでこの2年間にも何度かホストファミリーを訪れています。今日これからアップする日記はその最後の訪問についてです。こんな日記に涙していただき誠にありがとうございます(笑)。 / Hidey ( 2003-05-29 22:54 )
ディアハンターは終わった後に心がシンとしてしまいます。それはとっても深くてすぐには生還できないほど(笑)。日本復帰までカウントダウンでしょうか?楽しい休暇が次のステップの栄養になりますように。 / 真冬 ( 2003-05-29 05:25 )
10年前、我が家で最初の長い自動車旅行をしたときの、最初の宿泊地がケープ・コッドの先端のプロヴィンス・タウンでした。風光明媚で開放的な雰囲気が印象に残っています。その後、ボストン、メイン州の名もない町、プリンス・エドワード島、と北上しました。ケープ・コッドは姿が絵になるからか、アメリカ人の友人が、付近の海図を壁に張っていたことも思い出します。Hideyさんの日記を読んで、思い出に涙することの多い、今日この頃です(笑)。 / チチロー ( 2003-05-29 00:32 )
やっちーさん、最後の夏休みなのにどうも落ち着かなくて。でもこの日は本当にゆっくりできました。やることがあってもとりあえず何もできない環境に身をおくっていいですよね。サファリは真剣に僕も一生のうちに一度入ってみたいと思っています。いい時間が過ごせたようでよかったですね。下のつっこみちゃんと読ませていただきました。つっこみ返しをする時は必ず前の日記をチェックしながらするようにしているのです。一応ひまじんではベテランなので(笑)。 / Hidey ( 2003-05-28 22:59 )
コインさん、八ヶ岳いいじゃないですか!僕にとっては日本で最も好きな場所のひとつです。少し離れてかすかに雪のかぶったあの連峰を眺めるのが好きでした。Bostonにいらっしゃれなかったのは残念ですが、またアメリカにいらっしゃる機会があればNYのついでにでも寄ってみてください。穴場、たくさんお教えします。 / Hidey ( 2003-05-28 22:55 )
マイケルさん、アナ・カランに反応が相次いでますね(笑)。僕はボサはボサである限りあまり区別なく聴きます。MPBはそれほど聴かないけど。現代風アレンジがお嫌いなようならこのBlue Bossaはおすすめです。ジャズっぽいシンプルなアレンジはそれ自体ボサにおいては古典的な構図だし。余分な音が入ってなくて、聴けます。 / Hidey ( 2003-05-28 22:54 )
りりさん、ケープコッドはリゾート地であるとともにメイフラワー号がプリマスに上陸する前に立ち寄った歴史的な場所でもありボストニアンの誇りでもあります。Sunflower Timeは僕にとっても愛聴盤ですがこの日はBlue Bossa。最近はこちらの方が好きになりました。 / Hidey ( 2003-05-28 22:50 )
akemiさん、もうちょっとの辛抱ですね。お子さんが、成人するまでいかなくてももう少し育ったらきっとそんな日が訪れるでしょうね。和泉ピン子って愚痴ばかり言ってるんですか? / Hidey ( 2003-05-28 22:47 )
みほちゃん、冬休みはすこしはNZで過ごしたりはしないの?今回は難しいかもしれないけどこれからはそういう時間がたくさんとれるといいね。 / Hidey ( 2003-05-28 22:43 )
プルーさん、オフシーズンの最後だったのでホテル自体もほとんどまだ客がいない状態で、かえってゆったり過ごせました。朝食バイキングがかなり素晴らしかったのですが結局我々夫婦で終始独占状態。7月のケープコッドはひどいでしょうね。あのとおりの地形なので逃げ場がないし。 / Hidey ( 2003-05-28 22:42 )
心の休息ができてよかったですね。そうそう、忙しすぎると毎日がさーっと過ぎてくって感じで、自分の心と向き合えないですもんね。私も、先週末、久しぶりの心の休息に車で出かけてきました(サファリに、、対照的ですね)。久しぶりにゆっくりできました。相棒ともいろんなこと話せたし。下の日記にもつっこみ入れたので忘れないでね(よく自分は忘れてしまうので)! / やっちー ( 2003-05-28 22:41 )
心の休息、なかなか取れないでいます。来週にでも、親のいる八ヶ岳でも行ってみるか。とうとうHideyさんの帰国前にBostonに行けなかったことが残念ですが。 / ガス欠コイン ( 2003-05-28 17:51 )
僕は変に現代風にアレンジしたボサノヴァはニガテだなぁ...Anna Caramも1枚持っているけど、「ジョアン・ジルベルトの伝説」があれば他は要らないかも。 ところでCape Codって有名なリゾート地なんですね。「Cape Cod Magazine」とかいう雑誌を見かけたこともあったけど、何せリゾート地に住んでたみたいなものだから当時は全然興味がわきませんでした(笑) / マイケル ( 2003-05-28 17:00 )
ニューヨーカーにイーストハンプトンだったら、ボストニアンにはケープコッドなのかしら? 素敵な休日になって良かったですね。Anna CaramのSunflowerTime、私も愛聴してます。 / りり ( 2003-05-28 14:00 )
なんか映画みたいだ・・・Hideyさんの語り口調がなおのこと。。。 大人になってから本当の意味で心も身体も休ませられる日って一日もなかったような・・・。子どもがいたら無理だ・・ましてや店やってたら・・・因果なもんだ。選んだ道とはいえ・・あ〜これじゃあ、泉ピン子の愚痴みたい(爆) / akemi ( 2003-05-28 11:39 )
レントな一日。私も過ごしたいもんです。日本でも無理そうだなぁ。 / みほ ( 2003-05-28 06:50 )
ケープコッド、本来ならこのメモリアルデイで混雑だったでしょうに、雨で残念でしたね。ずっと前に独立記念日の頃行ってとても混んでてケープコッドを抜けるだけで2時間かかったこと思い出しました。7月だったけれどあまり暑くなかったんです。やっぱり避暑地だからかしら。 / プルー ( 2003-05-28 00:08 )

2003-05-25 日本人学生の絆

4月21日には一年生の日本人学生が我々二年生の日本人学生を送り出すフェアウェル・パーティーがあった。と言っても日本/韓国料理屋でテーブルを囲んで寿司や焼肉を食べるというカジュアルなものだ。この早い時期に開催したのは二年生がその直後に期末試験期間に入り、そのあとは6月5日の卒業式までの間旅行などの理由でばらばらになってしまうためだった。

うちの学年の日本人もしくは日本的環境に育った者は当初17人いた。内訳としては商社が7人、コンサルティングが2人、自動車メーカーが2人、ベンチャーキャピタルが1人、金融情報サービスが1人、情報通信が1人、官公庁が1人、そして僕と、僕と同じ広告代理店を辞めてきた者である。僕と同じ会社出身の彼は日本で政治を志すために現在休学中で、商社から来ている者の一人は一年目に体調を崩したため今は下の学年に属している。この数年日本人及びそれに順ずる者は7人とか5人という学年が続いていたので規模としては大きな方になる。しかし900人の学生たちの中ではマイノリティとなる。

僕の日記からも分かることだと思うけれど僕たちは日本人同士でべたべたと寄り集まることはしない。皆この環境でできるだけ多くの国の友人たちとコミュニケーションを取っていきたいと考えているからだ。かと言ってそれは日本人同士毛嫌いしているということでもない。日本的環境で育った者同士、口を開けば(または開かなくても)もっとも分かり合えるし楽な間柄だということは分かりきっている。飲み会やカラオケなどで普段抱えている気持ちやストレスを解放しあうこともある。

しかし実のところは個々人のレベルで既に国際化ができているのであまり日本人やその他など区別をする意識すらなかったり、ストレスなどそもそもほとんど存在しなかったりもするのだ。例えば飲み会を開いたらたまたま日本人がもう一人いた、というような具合だ。どうしても助けが必要な者には手を差し伸べる者もちゃんといる。その意味ではつかず離れずというこの環境は非常に理想的である。要は大人なのだ。

そんなわけでよく海外駐在員コミュニティにありがちな閉鎖的会員組織やヒエラルキー、奥様同士のなかば義務的な集まりみたいなものは一切ない。たまにメールをしあって家に呼び合ったり外で食事をしたりする程度だ。僕も妻も楽なことこの上ない。

そんな我々日本人学生があえてアイデンティティをあらわにして共同作業をした唯一の機会が、70人のうちの学生たちを10日間日本に連れて行った昨年5月のJapan Trekだった(過去日記参照)。普段の予習だけで多忙ななか、名だたる企業を相手に協賛金を集めたり見学の許可を取ったり合計80人分のロジスティクスを組み上げたりという大変負荷の大きい作業は、時に仲間同士のテンションを生んだりもしたけれど、自分たちが誇りにする国に様々な国からの大勢の友人たちを招き理解を促進させたという達成感が我々の結びつきをさらに強いものにした。

6月5日に僕たちは卒業しふたたび離れ離れになる。中には派遣元の日本企業には戻らず新天地を求めてアメリカに留まる者もいる。卒業式のあと、ばらばらになってしまう前にもう一度だけ打ち上げパーティーを開こうと思っている。程度の差こそあれ、同じ種類の苦難を克服した歓びを一番分かち合える連中だから。そして情報技術のお陰もあって僕たちは同じようにつかず離れずの関係を容易に維持していくことができるだろう。もともと地理的なアイデンティティに依存しない間柄なのだから。

先頭 表紙

可哀想かどうかなんて他人が判断できることではないですね。サバイバル生活を楽しんでらっしゃるやっちーさんのお姿がいつも日記から伝わってきます。日本人学校で働いていらしたら色々と思うところはおありでしょうね。香港の学校は大きいだろうな。カラチは小中学校合わせて40人弱でした。 / Hidey ( 2003-05-28 22:40 )
あ、切れちゃいました:という環境で、日本人会にも入っていないし、大学はもちろん一人だし。日本人が少ないので、日本の友達は私をかわいそうって言いますが、逆にいろいろな人と友達になれるし、淋しいときもありますが、しがらみがなくて自由で、私はいいかなと。香港では日本人学校で働いていたので、狭くて閉鎖的な日本人社会の怖さ、よーく知ってます。Hideyさんがパキスタンの学校で経験したこと、よくわかります。 / やっちー ( 2003-05-28 22:30 )
私ジンバの田舎に住んでいるので、ムタレには日本人は私入れて一般人4人、協力隊2人 / やっちー ( 2003-05-28 22:18 )
コインさん、これだけ国籍・人種が多様なのが当たり前の環境でしかもITによるバーチャルなコミュニケーションが多いと、あまり地理的要素が重要でなくなります。最後は思いっきり暴れます。ありがとうございます。 / Hidey ( 2003-05-27 23:32 )
マイケルさん、企業でそういう理想的な関係というのはなかなかないですね。社風にもよるのでしょうね。僕が中学時代を過ごしたパキスタンでは子供の中にも勘違いしている奴がいましたから。うちのパパは領事館だからみたいな。でもいつも彼らが惜しげもなく弁当に日本米を詰めてきていたのは羨ましかったです(笑)。 / Hidey ( 2003-05-27 23:31 )
akemiさん、ところによっては奥様方にまでヒエラルキーがあるそうですからね。会社の格や亭主の上下関係なんかで。あーばかばかしい。でも学校関係ではまったくないかというとそうでもなくて、僕の行っている学校の建築関係の大学院の日本人コミュニティではばっちりそういうのがあるらしいですから、結局はメンツ次第ですね。 / Hidey ( 2003-05-27 23:28 )
みほちゃん、僕も高校の留学では1000人を越える学校で唯一の日本人でした。あれは本当によかった。カラオケってまだ最近もはやってんの? / Hidey ( 2003-05-27 23:25 )
チチローさん、そうでしたか。このところランキング常時トップのあの学校ですか。僕はEssayの問題の相性があまりよくなさそうだったので受験もしませんでした。それにしても60人はすごいですね。時代という意味で言えば、銀行もないしメーカーもありません。自動車メーカー出身の者は二人ともデトロイトでアメリカのメーカーで働いていたので。 / Hidey ( 2003-05-27 23:24 )
地理的なアイデンティティに依存しない。いい空間ですね。最後はぱあっとやってください。それぞれの道を祝福しながら。 / ガス欠コイン ( 2003-05-26 23:23 )
僕がアメリカに赴任していた時も日本人は7人(全社で90人くらい)でしかも上下関係がなかったので、すごくすごしやすかった。独身で、ゴルフをやらなかった、というのも日本人コミュニティにどっぷりつからなくて済んだ要因だたかも... / マイケル ( 2003-05-26 17:17 )
わ〜いい感じぃ〜海外に転勤とかして、そういうのでウザい思いしたって話、よく聞くし。 あたしの地元では3校からの小学校から集まってる中学校で、あるひとつの小学校の母親たちがいっつも群れてて・・ほんと見苦しい。その群れの中の知り合いに注意(集まりのときなど一箇所にまとまって座り、先生の話が聞こえないくらい私語が多いので)したこともあるんだけどね。ダメだね、まったく。。レベル低いんだよね。そういう人って。 / akemi ( 2003-05-26 11:37 )
日本人学生がいない私の学年は超楽です。そういえば上の学年に二人日本人学生がいますけど片方はNZに居すぎて日本語あんまり喋れない(・・・。)でも要は相性の問題ですけね。・・・しかしカラオケいきてー。 / みほ ( 2003-05-26 01:45 )
金融機関の人がいない様子ですが、今という時代を感じさせます。私が経験したのは、700人中に日本人が60人という環境で、恐らく、学校や年次を通じて史上最高の比率。そういう時代もあったということですね。同じリーグの中で最も南にあって、Wのつく学校でした。仕事がそっち関係なので。野茂が渡米するよりも前の話ですが(笑)。時代と言えば、当時はまだ、インターネットもメールも使ってませんでした。Windows 3.1(だったかな)の時代です。 / チチロー ( 2003-05-26 00:24 )

2003-05-24 ジャック・ウェルチのコーポレート戦略 6

そして1995年、ウェルチは最後の重要なコーポレート・ストラテジーを講じた。あのシックス・シグマである。シックス・シグマとはもとはモトローラで開発されアライドシグナルというウェルチの旧友が営む企業で大いに威力を発揮した品質管理システムである。実はそのモトローラも1980年代に日本のポケベル市場に参入しようとしたときに品質の悪さから失敗したことを教訓にしてこのシステムを構築したのだ。シックス・シグマとは文字通りの意味としては100万個生産して3.4個の欠陥率を目指すという意味である。シグマとは統計学でいう標準偏差のことである。

ウェルチはこの純粋に生産管理的なコンセプトを経営コンセプトにまで昇華させた。目標設定、目標達成のための人材管理、経営目標への組み込みを行い、さらにベスト・プラクティス・プログラムとの融合を図った。特に人材管理においては「グリーンベルト」、「ブラックベルト」、「マスターブラックベルト」という三つの等級を設けてこれらの資格を希望する何千もの社員に所定の訓練を施し、資格取得者はボーナスによって報酬を得た。今やシックス・シグマといえばモトローラのものというより「GEの」「ジャック・ウェルチの」と枕詞がつくほどである。当然このストラテジーも全事業分野に及ぶ付加価値をもたらした。

こうしてジャック・ウェルチの21年間にわたる統治における数多のコーポレート戦略は様々な効果を生み、それは経営指標にも反映された。1998年のROE(株主資本に対してどれだけの利益が得られたかという指標)は、前任の伝説的CEOジョーンズの時代をはるかに凌駕する25.4%にも達した。ウェルチが20世紀最高の経営者と呼ばれる所以である。

GEのケースは言ってみれば、ともすると官僚主義と非効率を生みがちのコングロマリットが、天才経営者ジャック・ウェルチという経営資源によってコングロマリット特有の危険性から脱し、さらにコングロマリットの最大の資産である規模と多様性といういわば量的優位を質的優位に転換した最たる例なのだ。ジャック・ウェルチの講じたコーポレート・ストラテジーが機能した結果だが、ジャック・ウェルチという人間のカリスマによるところも非常に大きい。

そのカリスマの語り口を直接聞く機会を得たことは2001年10月29日の日記に書いた。この頃はまだジャック・ウェルチの改革については形骸的事実しか認識していなかったので彼の傍若無人な態度ばかりが目についたし彼の言わんとしている事の本質もよく分かっていなかった。今日の日記はCorporate StrategyのGEのケースのほかに登録を希望したものの抽選に落ちて取れなかったGeneral Management: Process and Actionという授業のお試し期間に使ったケースを元にした。どちらかというとそちらのケースの方がジャック・ウェルチの生の言葉の引用に終始しており、このケースを読んだことによってウェルチの戦略と人間の本質を知り得た。二年近く前に自分で書いた日記の意味がようやく今になって分かるとは皮肉なものだ。

先頭 表紙

ぶちょー、ほんとにおっしゃる通り。シンプルな思考がアメリカビジネスの強みであり限界でもありますね。強みの部分は日本人もおおいに参考にしてほしい。うちの会社でももっとパッケージ化された知的資産をふやせば、もっと仕事ができる人が増えそうなものなのに。サラ金学、成功されてもあまり参考にしないようにします(笑)。 / Hidey ( 2003-05-27 23:21 )
アメリカ人というのはこういったものを体系的に整理して知的資産にするのが上手いですね。日本のその手はどうも苦労話と根性論になっちゃうもんな。知的欲求をすぐに学問にしていくリベラルさは学ぶべきだろうな。俺もサラ金学でも立ち上げようかと思いました。おっと、まだ成功してないや。 / ぶちょー ( 2003-05-27 11:38 )
チチローさん、こんな自分のための覚書のような長ったらしい文章をお読みいただいてありがとうございます。その本については僕も聞いたことはありますが、同じく手がまわらないうえにアクセスもありません。ウェルチの本くらいはこれからじっくり読みたいと思いますが。 / Hidey ( 2003-05-25 23:29 )
確か、割と最近、長年秘書を務めた女性が本を書いたんですよね。面白そうですが、そこまで手が回りません。 / チチロー ( 2003-05-25 00:41 )

2003-05-24 ジャック・ウェルチのコーポレート戦略 5

ベスト・プラクティスについては、ウェルチ自身がGEよりも生産性の高い他のいくつかの企業に注目し、何が違うのかを自問した結果、分からないのなら彼らから直接学ぼうと思いついたのがその起源である。それらの企業に社員を派遣しその成功の秘密を探らせてもらう代わりに同じことを先方企業にも認めた。こうしてGEが学びを交換し合った企業にはフォード、ヒューレット・パッカード、ゼロックス、東芝などが含まれていた。驚いたことに彼らの成功の秘密には共通性があった。それはこれらの企業が個々の部署の成果を上げることよりも部署間の連携をいかに高めるかに注目したり、在庫管理を効率化したりと、何をどれだけ生み出すかよりもどのように生産工程を管理するかを重視しているということであった。ウェルチは学びをここで終わらせることなく、企業内学習センターの一コースに仕立て上げ、全社員による知の共有を図った。

こうしてジャック・ウェルチは80年代の前半にコングロマリットにおいては往々にしてバラバラになりがちの企業文化を統一しながらコングロマリットの最大の弱点である官僚主義を排除し、80年代終わりにはワークアウトとベスト・プラクティスによってこの俊敏で筋肉質な企業文化をさらに全社員レベルにまで直接的に浸透させつつ、同時にコングロマリット内のすべての事業分野に共通する業務効率化という付加価値を経営側が付与するきっかけをつくった。本格的なコーポレートストラテジーの萌芽である。そして90年代、ウェルチはさらにコーポレートの機能を充実させることにより、コングロマリットに否定的なアナリストたちの主張に対し大きな一石を投じた。

1990年のGEのアニュアルレポートにてウェルチは次のように述べている。

「バウンダリレス(boundary-less:境界のない)な企業では事業部間の境界、国内・海外作業の境界などが存在しない。そこには経営者、給与労働者、時間給労働者という、共同作業の障害になるような区別もない」

ウェルチはこのように定義したバウンダリレス企業において、最善のアイデア・知識・人材がどこからでも誰からでも自由に流れ、それを誰もが歓迎するという理想的な組織構造を志向した。従来は個人が頭脳の中に明文化しないまま囲い込んでいた暗黙知を明文化・データ化して形式知に転換しこれを企業内の誰もが共有することにより個人の知が結びつきあってさらに高度な知として企業に蓄積されるという、今でいうナレッジ・マネジメントの重要性をウェルチは逸早く見抜いたのだ。しかもそれを実践する際の最大の障壁も知っていた。

「バウンダリレスでない者には辞めてもらう。縄張り意識が強かったり、自己中心的だったり、他人と知識を共有するのを拒んだり、他人の知識を求めないような者にはここには居場所はない」

こうして彼は個人による知の共有の拒否という最大の障害を人事政策によって除外した。逆に知を共有、または積極的に模索した者が報いられるようにボーナスとストックオプションの基準を改定した。

「我々はすぐに互いから学ぶことを覚えた。GEライティングからは生産性について、GEアプライアンスシズからはクイック・リスポンス(大量生産と受注生産の融合の方法論)について、GEキャピタルからは資産の取引における効率化について、GEエアクラフトエンジンズからはコスト削減のテクニックについて、GEプラスチックスからはグローバルアカウント管理について、他事業部が学ぶようになった」

(つづく)

先頭 表紙

2003-05-24 ジャック・ウェルチのコーポレート戦略 4

「おそらく我々が事業部長たちに確約しなければならない最も大事なことは素早いアクションだ。我々役員の仕事は、彼らが仕事をし易くするために全社的な交渉をしてやること、彼らが必要とする企業買収や提携を取りつけてやることだ。彼らが我々を求めるとき、彼らは学問的な見解を求めているのではない。明快な答えを求めているのだ」

そしてウェルチはこのような組織に必要な人材を育てるために能力に応じて高額の報酬を保証した。

「平等主義的な報酬は漸進主義の源だ。我々は成果を上げた者に高い報酬で報いるが、大きな成功を求めて失敗した者を罰したりはしない。失敗を責めることは間違いなく冒険心をくじく」

1989年、ウェルチはより実践的に彼が理想とする文化を根づかせるための二つの具体的な仕組みを創り上げた。それらは実践的な分実際の業務効率化のプロセスとしても機能することとなった。有名なワークアウトとベスト・プラクティスである。

ワークアウトとは経営陣が選んだ40から100人程度のあらゆるレベルの社員をホテルや会議場などの非日常的な空間にに集めて行う三日間のセッションである。はじめに彼らの上司にあたる人間が議題を説明し、上司は部屋を去る。残された社員たちは五つか六つのチームに分かれ、外部の進行役に助けられながら一日半かけて議題について討議をし解決方法を模索し、最終日のプレゼンテーションの準備をする。三日目がワークアウトのハイライトで、何が話し合われたかまったく知らされないまま上司が入室し、部下達に対面する。上司のさらに上司である役員たちも出席することが多く、彼らは上司の後ろ側に座る。チームの代表者がひとつずつ提案事項を読み上げる。上司には三通りの回答しか許されない。その場で同意するか、その場で否定するか、または判断材料を得るため数日検討するか―その場合は約束の日までに回答することが義務づけられる。往々にして100を超える質問が浴びせられ、上司は役員たちの目の前で即決を求められる。上司が役員の顔色を窺おうとすると、彼は部下たちに背を向けて役員にすがるかのような情けない姿を晒さなくてはならない。

ウェルチによるとワークアウトの狙いは三つある。

「実際的な目的はGE創立以来積み上げられてきた悪癖を一掃することだ。」

「二番目に教育的見地から、事業部長たちを年に8から10回ほど100人程度の部下の前に座らせ、部下が常々会社についてどう思っているのか、彼らが業務や評価システム、時間の使い方などについて何を好み何を嫌っているかを分からせるという意味がある」

「究極的には上司と部下の関係を定義し直すことを意図している。部下たちが日々上司に挑戦するという状況が望ましいのだ」

ウェルチは「社の文化は斯くあるべし」といったお題目を文章にするだけで終わってしまう変革などには興味はなく、あくまで実際に社員にこれを強いて体験・実感させてある結果を導き、それによって彼らが本当に文化を変えるべきだと悟らせる手法をとったのだ。ワークアウトは新しい文化を体感するだけでなく現実に迅速な意思決定や大胆な戦略の転換を生み、業務の効率化に多大なる貢献をした。

(つづく)

先頭 表紙

2003-05-24 ジャック・ウェルチのコーポレート戦略 3

「巨大な組織が機能するにはシンプルさが必要だ。巨大な組織がシンプルになるためには社員が自信に充ち溢れ知的な自負心を抱いていなければならない。自信のない経営者こそが複雑な仕組みを創り出すのだ。臆病で神経質になった経営者に限って、子供の頃から分かっているような当たり前のことばかり書いてある分厚く複雑怪奇な戦略シートやプレゼンテーション資料などを重宝するのだ」

「何万人にも及ぶ社員たちは細かい注釈文がくっついてくるようなややこしいビジョンには応えてはくれない。シンプルでなければ疾くなれない。疾くなれなければ勝つことはできない」

そしてウェルチはこれらの文化を組織の編成に直接反映した。

「事業部、SBU、セクターなど、細部まで正確に計算された意思決定をスムーズに伝達するためのシステムは非常によく機能した。ただしそれは70年代の話であって、80年代にはそれらは重荷になり90年代には墓場行きの切符と化した。だからそんなものは一切捨てた。ついでに大量のレポートや会議や社の上層部から溶岩のように延々と垂れ流される書類なども捨てた。捨ててしまった後にはようやく社員たちが―勤務時間の半分はそのシステムに身を尽くし残りの半分はそのシステムに抗ってきた社員たちが―突然生き生きとしはじめ、かつては山のような書類がたらいまわしになって意思決定に何ヶ月もかかっていたような事柄を、相手のいる目の前で即決するようになったのだ」

「ある事業分野では、かつてトップから底辺の間に九つの階層があったのが今は既に四つに減っている。これが究極的な目標だ」

「階層は弱点を見えなくするには格好の道具だ。階層は凡庸な才能を隠し切ってしまう。過度に負荷がかかり張り詰めた状態の方が役員は最高の能力を発揮するものと私は確信している。その方が部下につまらない干渉をしたり些事にこだわったり部下を困らせたりするような暇を与えないからだ。マネジャーはせいぜい6、7人の部下を抱えるのが精一杯という説があったが、私に言わせれば10人、15人でもいけるはずだ」

「コーポレート部門も人員削減をした。本部なんてものは企業に破滅をもたらしかねない。ビジネスチャンスを握りつぶし、詰まらせ、遅らせ、不自由を生じさせる。現場をシンプルにしたければ本部もシンプルでなければ駄目だ。」

「今ではCEOと14の事業部のリーダーが直接コミュニケーションをとり、意志決定のサイクルは短縮されてコーポレート部門による邪魔もない。かつては決定に一年もかかっていた大きな投資案件もほんの数日で決済が降りるようになった」

「皆やたらとビジネスを複雑なものにしたがるが、われわれはロケット科学をやってるわけじゃないんだ」

「100人くらいのトップの役員を集めた1986年の役員会では14の事業部長にそれぞれの事業分野での競合状況について簡単にレポートさせた。どうやったかって?各事業部長に五つの質問に対して合計一ページ以内で回答させたんだ。国際競合環境はどうなっていてこれから数年どのエリアをねらうか?この三年間競合他社はどんな戦略をとってそれが競合環境にどう影響したか?この三年事業部はそれにどう対応してきたか?これから三年間競合他社が取りうる中でもっとも我々に不利な戦略は?競合環境にもっとも望ましい結果をもたらすには何をするのが最も有効か?」

(つづく)

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2003-05-24 ジャック・ウェルチのコーポレート戦略 2

そんな中で1981年、次代のGEを任されたのは44歳の若さにも関わらずごぼう抜きで会長兼CEOに抜擢されたジャック・ウェルチだった。歯に衣着せず、口論を愛し、常にオープンであることを大切にするウェルチは、兼ねてからGEのコーポレート部門は非常に官僚主義的であり、いずれこの企業は大きな壁に当たると考えていた。非のうちどころのない経営数字に誰もそのような疑問など持たない中ウェルチだけがGEの潜在的危機を洞察し、世界を揺るがすような経営改革を実践していったのだ。

最初にウェルチが行ったことは「危機意識」を喚起することだった。のちに彼は語った。

「GEはより厳しいより競争的な環境に置かれていることをそしてその尖兵が日本であることを全社が理解する必要があった」

そして彼はどの事業分野においてもGEは一位か二位でなくてはならない、さもなくば撤退すると宣言した。GEのように事業が多岐にわたる企業において単一の戦略を掲げるのは非現実的であり、むしろ「一位か二位」という目標値によってGEの事業を再定義したのだ。

「私にとっては質の高さや卓越とはベストな状態よりもさらにベターであることだ。(中略)もしそうなれないのなら我々は大いなる意志をもって、ベストよりベターになれない分野からは撤退すべきだ」

よくも悪くも企業文化ができあがっており社員がそこにとどまって変わる意志がない場合、経営改革の常套手段は敢えて危機を創り出すことである。ウェルチはそれを実践しGEをカオスに陥れた。そしてカオスから新たな方向へ向かうための秩序をつくるには人事政策によって必要な人材を保ちまたは補い、不必要な人材を切るというのが定石だ。しかもGEの組織は贅肉が多く機敏さに欠けていた。ウェルチは前代未聞の規模と決断力で人員削減を実施し、最初の四年間で72,000人の社員を解雇したのだ。

人的環境を整えたのちウェルチはGEの文化のあるべき姿を全社に向かって説きはじめた。

「漸進主義(徐々に積み重ねて前進すること)は捨てろ。多くの官僚的組織は(中略)内向きに思考するから漸進主義に陥るのだ。(中略)飛躍的な変化を志向するには、今自分はどれだけ速く動いているか、一、二年前に比べてどれだけよくやっているかを自問するのではなく、外の世界と比べてどれだけ早く、どれだけよく動いているかを問うべきだ」

「文化を変えるにはまず姿勢からだ。それもトップ―組織を率いるCEOや取締役会などのトップから変わるべきなのだ」

「優秀なビジネスリーダーはビジョンを創造し、明確に定義し、情熱的にこれを信奉し、容赦なく実現させるものだ。しかし何より大事なのは優秀なリーダーはオープンであるということだ。(中略)彼らは形式にこだわらず他人に対し率直だ。宗教的なまでに近づきやすく、飽くことなく理想を語れるものだ」

「市場の変化は恐れるべきものではない。それはカードを切って手札を替え新しいゲームを始めるための大きなチャンスなのだ。よき経営者―またはリーダー―は、そのような変化を率直に認めることによって社が脆くもダメージを受けるなどとは考えないものだ。彼らは部下に真実を話す。なぜなら社員たちはとうに真実を知っていることを彼らはよく知っているからだ」

(つづく)

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2003-05-24 ジャック・ウェルチのコーポレート戦略 1

これから記す長い文章を書く理由は二つある。一つは今学期僕にとって将来を展望するうえで最も重要な授業となったCorporate Strategyのエッセンスをおさらいするため。もう一つは、これから僕がビジネス上のいくつかの岐路において迷いが生じたときに指針を求めてここに立ち戻って来られるように、経営の神様ジャック・ウェルチの言葉の数々をここに書き残しておきたかったためである。Corporate Strategyなんて七面倒くさい話題はパスという方も、ジャック・ウェルチの簡潔で歯切れのよい名言だけは読まれることをお勧めしたい。ご自分の働いている会社の経営者が本当は何をすべきか、ヒントが得られるはずだ。

Corporate Strategyとは一企業の多岐にわたるビジネス部門の上に立つ経営者が全社的戦略によってどのような付加価値を創造し得るかを学ぶ授業である。真っ先に思い浮かぶのは、仕入先企業や生産者、また販売先の卸や小売などを買収して自社グループ内流通経路を確立する垂直統合、直接のライバル企業または既存の自社ビジネスと関連する他業種の企業を買収して規模や範囲の経済性を活かそうとする水平統合という戦略だ。ありがちな議論はそのような企業統合には資産や顧客などの共有による相乗効果がなくてはならないというものだ。しかし実は相乗効果さえあれば企業は統合すべきとは限らない。相乗効果を得るためには資本のやり取りを伴わない企業間の契約でこと足りるかもしれないし市場が充分に発達していれば適正なプレーヤーと取引する方が割安かもしれない。これらの選択肢があるのなら企業統合は足かせにしかならないという場合もある。

逆にコングロマリット(多角経営企業)ではそれぞれの事業分野に関連性がないため資産の共有などが図られず、同じ経営のもとに多事業が共存するのは無意味だという指摘も一般的だ。企業が肥大化すると組織は官僚主義的になり意志決定も遅くなる。戦略上の矛盾も生じやすくなる。したがってコングロマリットは時代遅れでスピンオフ(分社化)こそが現代的スピード経営の常套手段だというのが通説である。しかしこの授業はその説にも単純に賛同はしない。コングロマリットにおいてもコーポレート部門がなんらかの付加価値を加えることによりそれぞれの事業が別々の企業して存在するよりも効率的な経営ができる可能性があるのではないかとしている。その典型的な成功例として取りあげたのがGE(ゼネラル・エレクトリック)のケースである。

以下、GEのコーポレート戦略を、その源となったカリスマ経営者ジャック・ウェルチの生の言葉を多く交えながら紐解いていく。それらの言葉はうちの学校独自のリソースによる貴重な発言録からのものであることを申し添えておく。

GEは1878年にトーマス・エジソンによって設立され、当初は発電及び電力供給、電気機器の製造販売を行っていたが、次第に事業の幅が広がり、100年後には航空機エンジンや医療機器、建設業までも手がけるようになっていた。レグ・ジョーンズという伝説的なCEOが就任した1973年当時には既に10の部門、46の事業部、190の部が存在する巨大組織であった。ジョーンズはより戦略的な見地から組織を再編成し43のSBU(戦略事業単位)に集約し機動性を高めた。しかしGEはさらに肥大化を続け、SBUごとの経営管理すら煩雑になった経営陣はSBUを束ねて六つの「セクター」に統合した。SBUやセクターという方法論は世界中の企業によって模倣された。GEはジョーンズの経営手腕によりこれまでに増して成長を遂げた。

(つづく)

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2003-05-22 チャンピオンズ・オン・アイス

4月12日に遡るが妻と妻の姉と一緒にチャンピオンズ・オン・アイスというフィギュア・スケートのイベントを観てきた。近年のメダリストがずらりと揃うエキシビションである。結論から言うと非常に楽しい夜になった。

なにしろ豪華絢爛、百花繚乱なのだ。オープニングはフラッシュダンス、フットルースなど今は亡きダンスミュージカル映画の音楽にあわせて鮮やかな照明の中を次から次へと有名選手が登場してそれぞれの持ち味を散りばめたスケーティングを披露する。ミシェル・クワンが芸術的なスパイラルで観客を魅了する真横でエフゲニー・プルシェンコが豪快なジャンプを決めるという具合だ。16人と6組の世界的なスケーターがフリートセンターの氷上に集結した。

オープニングのあとは個人演技が続いた。比較的格下のスケーターから始まるのは演技を見れば分かる。ちゃんとジャンプが成功すると安心して拍手を送るという感じだが、ようやくその実力に対して正当な拍手喝采を得たのは日本の村主章枝だった。

僕はロシアの男子選手プルシェンコの滑りが好きだ。偏見以外の何物でもないのだが旧東側諸国以外には金メダルはあげちゃいけないと思う。国家の威信をかけて科学的トレーニングによって研ぎ澄ました技の上に選手個人の悲哀が込められた究極の演技―ただの偏見だ。でも僕は昔からフィギュアスケートの華やかさとは裏腹なそんなもの悲しさを個人的に堪能してきた。西側諸国の肉付きのよい選手たちと違って折れそうに細い体をあの時代錯誤の王子様のようなふわふわしたコスチュームに包む姿がなんとも言えずもの悲しくていい。プルシェンコの何を考えているかよく分からない三白眼も味を添える。だから今回観に行って一番の収穫は彼を間近に観られたことだった。

女子はその意味では近年不作続きと言ってよい。銀盤の女王カタリナ・ヴィット以来唸らせるような選手はいない。94年のリレハンメルで28歳でアマチュア復帰し、派手な技はもうないもののプロで鍛えた表現力で世界中を魅了した姿も既に懐かしい。あの詫び寂びに比べればどんなにミシェル・クワンにキャーキャー声援が集まろうとそれほど感じ入ったりはしない。イリーナ・スルツカヤも嫌いではないけれどやはり力不足だった。

妻が「だいっ嫌い」と公言するエルビス・ストイコは、名前のわりには顔の大きさと暑苦しさはむしろブルース・スプリングスティーンのようだった。しかしやることはエルビス並の自己陶酔で面白い。それこそかつてのジョン・トラボルタのような踊りを見せるのだがまったく様にならないところがいい。女性ファンを意識して何度もスライディングしちゃうのもバカみたいで面白い。妻はキャンデローロが大好きで、僕から見たら彼らのやっていることはほとんど同じなのだが、どうも違うらしい。

そのキャンデローロが最も大きな拍手を集めた。それもそのはず。珍しくスローな曲だなと思っていたら、よく聴いてみると歌詞がアメリカ賛歌のような曲で、クライマックスで上衣を脱ぎ捨てたフィリップ様の右腕には星条旗がくくりつけられていた。その腕を思い切り伸ばし星条旗をはためかせ彼は情熱的に滑った。時まさにイラク戦争勃発直後。アメリカを公然と批判したフランスからやってきた陽気なスケーターがアメリカに心からの賛辞を送っているのだ。会場は演技の途中からずっとスタンディング・オベーション状態。「阿りやがって」と僕は軽く呟いてみたけど大声援に軽く掻き消された。

なんにしても試験前のよい息抜きになった。忙しいと言うわりには結構遊んでた?


写真:http://www.ne.jp/asahi/lemonvodka/evgeny/


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みほちゃん、人がつっこみ返ししてる最中につっこんでくるし…。ロロ様については僕の日記よりもみなみちゃんの日記をよく探してごらんなさい。もっと羨ましがるはず。 / Hidey ( 2003-05-24 16:16 )
はらぽ〜ん!何やってたんだよう!こっちも連絡しなくて悪かったけど。元気?お子さんもすくすく育ってるかな?こちらは6月15日に東京着です。今度こそうっちゃんと三人で会いましょう!でも金沢かあ。 / Hidey ( 2003-05-24 16:15 )
ウサ子さん、ミュージカルにあわせて滑るというのもなんだか大変そうですね。こちらでは超メジャー歌手とスケートをセットにしたようなイベントもあるようです。 / Hidey ( 2003-05-24 16:13 )
マイケルさん、いろんなイベントがありますね。リピンスキーは当時はすごい人気だったでしょう?ハミルトンはすごい懐かしい。また機会があったら日本でも観てみたいです。 / Hidey ( 2003-05-24 16:12 )
Hirokoさん、僕は恋しているわけじゃないですがなんかいいんだよねえ。日記、そう言ってくださってありがたいのですが帰国したらもう書くことはないと思います。そのためにも今はせっせと書いてます。 / Hidey ( 2003-05-24 16:10 )
きゃーロロ様〜!・・・うらやましすぎる。 / みほ ( 2003-05-24 16:09 )
チチローさん、ちょうど同じ時期だったのですね。それにしてもよく日にちまで覚えてらっしゃいますね。リピンスキー、クーリックは今回いませんでした。まあそれ程興味はなかったけど。ボナリーは今回もバク転してくれましたよ!サラ・ヒューズがなぜか欠場していたのが残念でした。 / Hidey ( 2003-05-24 16:08 )
まゆみさん、はじめまして!わざわざ訪れていただき感激です。村主さんはとっても上達していますよね、このところ。僕は立つだけ立ったけど(だって見えないし)黙って腕組んでました。サイト、遊びにいかせていただきました。留学に対する真摯な姿勢に大変感激しました。これからもどうぞよろしく。 / Hidey ( 2003-05-24 16:06 )
久しぶりだね。外してるけどさ、卒業おめでとう。僕は、今金沢です。r at harara dot com にでもメールください。Hideyのメールわかんなくなっちゃって困ってました... / はらぽ〜ん ( 2003-05-23 23:13 )
ドイツでもミュージカルにあわせて滑るショーがあります。こちらはスケーターのレベルはわかりませんが、一緒に出る歌手がミュージカル第一線の役者でかなり豪華です。 / ウサ子 ( 2003-05-23 19:02 )
以前、「Stars on ice」 がマイアミの近くに来た時に見に行きました。感想はこちら。こちらはプロに転向した人のショー。技術的な大技よりも芸術性をフィーチャーしていました。 / マイケル ( 2003-05-23 11:34 )
私の友人もフィギュアスケート(確かプルシェンコ)にとってもハマッていて、同じようなことを言ってました。あの熱狂振りはまるで恋をしているかのようです。 / Hiroko@日記辞めないで下さいね ( 2003-05-23 02:02 )
Champions on Ice、懐かし過ぎです。98年の4月11日に、当時住んでいたワシントンで見ました(っていう類のつっこみばかりで済みません)。クワン、ストイコ、キャンデローロなどは、その時も出ていたので息が長いですね。タラ・リピンスキーとイリア・クーリックのように、直前の長野五輪の金メダリストとして出場した人は、逆に、転身してしまっているんですね。個人的には、スパイス・ガールズのアップテンポな曲に乗って見せる、ボナリーのバク転も忘れられません。 / チチロー ( 2003-05-23 00:50 )
はじめまして!ボストン近郊のカレッジに通っているものです。私も4月12日観に行ってました!私と同い年だし村主選手の演技がすごく好きなので今回すごく楽しかったです。話友達と日本の人どれくらい観に来ているのかなァなんてしてたんですが、まさかこんなところで出会うとは!キャンデロロ選手の時の観客の盛り上がり様はものすごかったですね。私と友達はじっと座って反抗してました。私もサイトを持っているのでよろしかったら遊びに来て下さい。http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/4623/です。長くなりましたがこの辺で。 / まゆみ ( 2003-05-23 00:08 )

2003-05-21 レッドソックスvs.ヤンキース観戦 2

そんなある日メジャーでの七回目のシーズンをボストンで迎えた野茂が初登板する試合が会社のテレビで流れていた。暇なうえにいい年こいてミーハーなオジサンの多いうちの会社ではよくある風景なのだ。僕は無視して忙しく仕事をしていたものの、なんだかテレビの前に人だかりができている。気になって覗いてみたら既に九回もツーアウトをとった野茂が打者に向かっていた。与えた点はゼロ。移籍後初勝利を完封で飾る瞬間だった。最後のピッチングにつまった打球はふらふらと舞い上がりレフトの選手のグローブに収まった。ガッツポーズをする選手たち、周囲のオジサンの「やった!」という声。何かがおかしい。聞いてみたらなんとメジャーで自ら二度目のノーヒットノーランの達成の瞬間だったのだ。

しばらくぼんやりと画面を見つめながら考えていた。野茂英雄は数少ない好きなスポーツ選手の一人だった。1995年に周囲の反対を押し切って単身ドジャーズに入団し13勝6敗で新人王と奪三振王を獲得。不言実行型。その彼もここ四年の間に五つの球団を転々としもう駄目かとも言われていた。しかし彼は日本へ戻るという選択肢には目もくれず、メジャーという最も厳しい環境で自らを追い込み奮い立たせ続けた。再起をかけた五つ目の球団レッドソックスでの初登板で彼は自分がまだ終わっていないことをこの偉大なる記録によって証明したのだ。立派な男の生き様だった。その夜に僕はボストンへ行くことに決めたと妻に告げた。

そんなことを思い出しながらまた一人温室のような環境を捨てて過酷なフィールドに身を投じた日本人選手がフェンウェイパークに立つ姿を見ていた。この日の松井は四打数一安打。やっとセンターに打ち返したゴロ性の当たりが彼の現在の行き詰まりを物語っていた。テレビ中継では毎試合必ずといっていいほど彼をイチローと比較する解説者のコメントが入る。全身のいくつものポイントを調節してボールに対しかっちり面をつくるイチローに対し回転軸だけで勝負をする典型的なパワーヒッターのマツイ。しかしそのパワーはメジャーの投手には通じにくいため、彼のアイデンティティが定まらない、とそんな具合だ。思い切り苦労すればいい。それは幸せなことだから。

試合自体はこれ以上ない程にエキサイティングな展開だった。3対2とリードされていた4回、レッドソックスはヴァリテックの2ランホームランで逆転。さらに再び6対5とリードを許した7回、超人気選手ガルシアパーラのツーベースなどでノーアウト満塁のチャンスを築いたレッドソックスは、オルティズのツーベースで再度逆転。この回5点を取って一気に試合を決めた。点を取るたびに前に座っていたおじさんとハイタッチを繰り返した。やはり前列に座っていた男が僕の二人隣りのヤンキースファンの女の子をおちょくって「後ろから臭い息がかかるなあ」と言ったり売り子が彼女に投げてよこした食べ物を手を伸ばしてキャッチしてしまったりするのも面白かった。女の子なのでシャレで済んでいるがこれが男となるとそうはいかない。あちこちで観客が総立ちになって振り向くほどの騒動が起こり、その度に警察が何人かを連れ出していた。

ボストニアンだけに許されるこんな楽しみももうすぐ僕には許されなくなる。同じように6月に帰国する友人たちと一緒にさびしいねと話しながら球場をあとにした。人並みを掻き分けるようにゆっくりと走ってきた車が「パッパッパー!パッパッパー!」とクラクションを鳴らすと皆すぐに応じて「Yankees suck! Yankees suck!」と絶叫した。同じように叫ぶまなぶんのTシャツの胸にもしっかりYankees Suckの文字が躍っていた。


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マイケルさん、ああ、そんな球場もありましたね。フェンウェイは何度もなくなるという噂を聞くのでなんとかふんばってほしいものです。 / Hidey ( 2003-05-24 16:04 )
チチローさん、あの初対決を!たしかさすがのイチローも声を上げませんでしたっけ?そのあとヒットを打たれたんでしたっけ?こちらもticketmasterで楽勝で取れるのですがヤンキース戦だけは毎年駄目なのです。この日はペドロが投げるという噂があったのですが故障っぽいらしくて出てきませんでした。 / Hidey ( 2003-05-24 16:03 )
シカゴ・カブスのリグレーパークでしたっけ? レンガに蔦が絡まっていて、その蔦にボールがはまるとツーベースになるってのは。最近新球場ラッシュのようですが、歴史あるスタジアムはぜひ残して欲しいですね。 / マイケル ( 2003-05-23 16:34 )
↓もちろん、うちのイチロー(笑)が生まれる前の話なので、家内と二人です(笑)。 / チチロー ( 2003-05-22 23:53 )
2001年は、5月にイチローと野茂の初対決を、シアトルで見て感激しました。あのデッドボールは、硬球が背骨に当たるすごい音がしました。その頃は、日本からでもインターネットでTicketmasterのサイトに行って、楽勝でチケットがとれました。野茂の前の晩はペドロが投げて、これもすごい投手だと思いました。 / チチロー ( 2003-05-22 23:49 )
ガス欠コインさん、単純でしょう?でもお陰でいい決断でした。野茂様様です。彼がもう1シーズンでもいてくれてたらもっと楽しいボストン生活になってたのですが。 / Hidey ( 2003-05-22 23:37 )
みほちゃん、きみからそのつっこみが入ることはとうに予想していたよ。うちの会社に遊びに来たいんだったらミーハーなオニイサンと呼びなさい。こっちではビールにポップコーン、そしてホットドッグだよ。 / Hidey ( 2003-05-22 23:36 )
野茂は僕も最も好きなベースボールプレーヤーです。ボストン行きにそんな秘話があったとは。もはや離れ難いことでしょうね。ちなみにそのノーヒットノーランは、ボストンから駆けつけたらしいアメリカ人の小集団が大喜びしていた映像が記憶に残っています。 / ガス欠コイン ( 2003-05-22 18:13 )
暇なうえにいい年こいてミーハーなオジサン・・・あ、教授のことじゃなかったのか。野球と聞くとビールに枝豆って感じですけどアメリカだとそうもいかなそうだなぁ / みほ ( 2003-05-22 15:17 )

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