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ナライフの「怒涛の映画&サッカー日記」

サッカーも映画も前世紀に大いなる飛躍を遂げました。さて、この新世紀、この2つはどう進んでいくのでしょうか?誰も分かりません。でも好きなんです。

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2001-12-28 ヘイズ・コードの産物〜スクリューボール・コメディ〜 A
2001-12-28 ヘイズ・コードの産物〜スクリューボール・コメディ〜 @
2001-12-19 表現の規制と表現の豊かさについて その2
2001-12-19 表現の規制と表現の豊かさについて
2001-12-13 VALEROSSO誕生 未来のJリーグへデビュー
2001-12-05 雨、風、吹雪!
2001-12-03 悲喜こもごもの週末
2001-11-06 「物語」という「制度」の弊害について 〜その3〜
2001-11-02 「物語」という「制度」の弊害について 〜その2〜
2001-11-02 「物語」という「制度」の弊害について 〜その1〜


2001-12-28 ヘイズ・コードの産物〜スクリューボール・コメディ〜 A

 この作品が、喜劇では今でも珍しいが、その年のアカデミー賞に選ばれるなど、高い評価を得、こうした類の作品が次々と生まれる。当代きっての美男美女俳優が演じ、簡潔な物語、シンプルでスピーディな演出で質の高いコメディ映画が沢山作られていくのだ。基本的には「略奪愛」の世界なのだが、それが何とも見ていて幸せな気持ちになるコメディになっているのは、「アメリカ映画」=楽天的という「物語」で収まりのつかない「ヘイズ・コード」の存在によるところが大きい。

 さてこの「スクリューボール・コメディ」、コメディというジャンルに対しての偏見が原因なのか、なかなか日本では知られていない。かく言う私もまだまだとは思うが、私が見た限りでお薦めのものを以下列挙する。ただ本当に面白さは保証します。
 『赤ちゃん教育』(1935) 監督ハワード・ホークス 主演ケイリー・グラント,キャサリン・ヘップバーン
 『生活の設計』(1933) 監督エルンスト・ルビッチ 主演ゲイリー・クーパー、ミリアム・ホプキンス
 『レディ・イヴ』(1944) 監督プレストン・スタージェス 主演ヘンリー・フォンダ、バーバラ・スタンウィック
 『フィラデルフィア物語』(1940) 監督ジョージ・キューカー 主演C・グラント,K・ヘップバーン
 『生きるべきか死ぬべきか』(1942) 監督エルンスト・ルビッチ 主演キャロル・ロンバード
 『教授と美女』(1941) 監督ハワード・ホークス 主演ゲイリー・クーパー、バーバラ・スタンウィック
 『ヒズ・ガール・フライデー』(1940) 監督ハワード・ホークス 主演ケイリー・グラント,ロザリンド・ラッセル
 『天使』(1937) 監督エルンスト・ルビッチ 主演マレーネ・ディートリッヒ,ハーバート・マーシャル
 『パームビーチ・ストーリー』(1940) 監督プレストン・スタージェス 主演クローデット・コルベール
上記の映画群、知名度はそんなに高くないとは思うが、「名作」とか「傑作」なんていうレッテルが貼られている数多の古典映画が吹っ飛ぶほどの面白さ。正月にビデオででもどうぞ、と言いたいところだが、果たしてビデオ屋さんにあるかどうか…(どれもビデオにはなっているが。)

 上記、どれも映画作家たちにはインパクトが強いようで、何がしかリメイクされていたり、「引用」されていたりする。そういう意味でも映画史的には大きな影響力を持っているのだが、一般的な認知、特に日本での認知のされ方は非常に低い。けったいなことである。

先頭 表紙

はじめまして、さくらもち様。アメリカ映画に関しては一部例外を除けば明らかに衰退してますよね。それにしてもジーン・ティアニーが出てくるとは嬉しい!!一番好きな女優の5指に入ります。『天国は待ってくれる』を上記挙げたかったんですが、スクリューボールコメディという枠からは外れそうなのでやめたのです。「ついでに」の続き、待ってます。 / ナライフ ( 2002-01-10 16:22 )
はじめまして、よこ!さま経由で参りました。スクリーボール・コメディはNHKBSやWOWOWでつかまえた分くらいしか見てないんですけど、この時代にこんなに洗練されたオトナの映画があったのかーとショックなくらい。文化って衰退してるんでしょうかねえ。好きな女優はジーン・ティアニーです、ついでに / さくらもち ( 2002-01-10 09:15 )
Hiroko様、明けましておめでとうございます。ケイリー・グラント、いいですよねえ。こういったコメディをやらせたら彼の右に出る男優は居ないと思います。 / ナライフ ( 2002-01-09 09:28 )
ブルー様、あけましておめでとうございます。そう、フロリダのパームビーチです。冒頭のタイトルクレジットからラストまで息もつかせぬ面白さですよ。 / ナライフ ( 2002-01-09 09:26 )
明けましておめでとうございます!  本年もどうぞよろしくお願い申し上げます!  「ケイリー・グラント」渋い。。。。♪ / Hiroko ( 2002-01-09 03:14 )
明けましておめでとうございます。どれも見た事ないのですが、パームビーチストーリーなんて面白そう。フロリダの、パームビーチよね。 / プルー ( 2002-01-08 22:22 )
ぽん様、そう、確かに「上流社会」の方がメジャーですよね。僕も先に「上流社会」を観て、後から「フィラデルフィア物語」を見ました。「フィラデルフィア物語」は無駄が無くシャープで粋な演出ですよ。 / ナライフ ( 2002-01-07 17:16 )
ガス欠コイン様、お忙しい中のつっこみ有難うございます。今ごろは撮影でしょうか?頑張って下さい。 / ナライフ ( 2002-01-07 17:14 )
しまお様、そうですね、入ると思います。この2作の監督、ビリー・ワイルダーは、ルビッチという監督のお弟子さんなんです。ですからまさにスクリューボールコメディーの系譜を受け継いでいると思います。ただ若干田舎臭くなってしまっている印象がありますが... / ナライフ ( 2002-01-07 17:12 )
フィー子さま、ディートリッヒの顔いいですよね。百万ドルの脚線美と言われた脚もいいですが、あの瞳が大好きです。決して好みのタイプではないのですが、映画の中では大好きです。 / ナライフ ( 2002-01-07 17:08 )
Hidey様、原語タイトルは、順番にBringing Up Baby,Design for Living,Lady Eve,The Philadelphia Story,To Be Or Not To Be,The Ball of Fire,His Girl Friday,Angel,The Palm Beach Storyです。勉強の合間に赤ワインと共に... / ナライフ ( 2002-01-07 17:06 )
「フィラデルフィア物語」のリメイク、「上流社会」しか見たことないなー。レンタルで探してみますっ。 / ぽん ( 2001-12-30 23:16 )
僕も全然知りませんでした。スクリューボール・コメディっていうネーミングがまたいい。とにかく個人的にはゆっくり出来る時間が欲しいです。今年は31日まで(終わらないかも)、残務整理。年明け早々、撮影。とても正月気分ではないのです。関係ない話しでごめんなさい。 / ガス欠コイン ( 2001-12-29 23:51 )
ジャック・レモンのものなんかも、入るのかしら?「お熱いのがお好き」とか「アパートの鍵貸します」とか。大好きだったなぁ。それにしても昔の映画に駄作がないのは、こんな理由もあったんだなーと思いました。お正月ビデオ三昧もいいですよね。 / しまお ( 2001-12-29 13:51 )
マレーネ・ディートリッヒなんて顔を見てるだけでもいいってくらい美しくて好きです。幾つか見たような気がするけれど、題名などを覚えないのでいけませんね。古い映画が見たくなっちゃったなあ。うずうず。 / フィー子 ( 2001-12-29 00:08 )
正直この年代の映画はそれほど知らないので、貴重な情報に感謝です。こちらのビデオレンタルは、アメリカ映画であれば古いものもたくさんあるので、是非観てみたいと思います。モノクロ映画にはなぜか赤ワインがよくあうんですよね。ゴックン。 / Hidey ( 2001-12-28 19:15 )

2001-12-28 ヘイズ・コードの産物〜スクリューボール・コメディ〜 @

 前回触れたヘイズ・コードが成立していた時期にのみ隆盛を極め、ヘイズ・コード消滅と同時に衰退していったジャンルがある。それが「スクリューボール・コメディ」と言われるジャンルの映画だ。大雑把に定義すると、「男女間の恋物語、そのすったもんだを面白おかしく語った喜劇」とでも言おうか。この「スクリューボール・コメディ」、サイレント映画時代の喜劇と違うのは、およそコメディをやりそうないない2枚目スターが主役を張り、チャップリンやキートンのようなアクロバットな演技は皆無。即ち身体の動きで笑わせるのでなくシチュエーションで笑わせる。従って脚本に負う所が大きいのだが、だいたいどれもストーリーは決まっていて、主な登場人物は3人。女1人と男2人かその逆。前者であれば1人の女性を巡って2人の男が争い、最後はどちらかと結ばれハッピーエンド。さらに最も多いパターンが、婚約が成立していた2人の間に突如邪魔者の第3者が現れ、その駆け引きというかドタバタを抱腹絶倒の笑いの中で邪魔者の第3者が花嫁(あるいは花婿)を奪ってめでたしめでたし...という話なのだ。

 ここまでで気付かれた方もいらっしゃるかと思うが、喜劇の体裁をとっていようがいまいが、おおよそ恋愛を描いた全ての映画の原点と言ってもいい。今年の夏の『パールハーバー』も『タイタニック』も映画史的には1930年代に成立した「スクリューボールコメディ」が原点と言ってよい(らしい)。

 性のあからさまな描写を禁じたヘイズ・コードの下、ハリウッドの監督たちの発想はいたって大胆だ。このジャンルの始まりを告げた記念碑的作品と言われるフランク・キャプラ監督の『在る夜の出来事』(1934年)。大富豪同士で成立していた婚約だが、金持ち社会のつまらない日々にうんざりのヒロインは、抜け出す。そこに新聞記者(クラーク・ゲーブル)が現れる。記者はこれはニュースになる!と思い、彼女を追いかける...2人は喧嘩しながらも徐々に惹かれていくのだが、途中2人が安宿に泊らざるを得ない場面になるのだが、この部屋に置かれたツインベッドの間に、ゲーブルは「ジェリコの壁」と称して大きなタオルを掛けて仕切を作るのである。こういう伏線が途中であり、ラストでは結婚式当日にヒロインが教会から抜け出し、ゲーブルの下へ駆けつける。ラストのラスト、また同じ宿の部屋で、その「ジェリコの壁」たる仕切がパッと外される、という象徴的なシーンで「The End」となるのである。男女が同じベッドに寝てはならぬ、というコードを逆手に取って、まさにそこにドラマのキーを集約させた発想だ。

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2001-12-19 表現の規制と表現の豊かさについて その2

 性の扱いもまた然りである。今でこそ女優はその裸体を露わにし、ベッドシーンがない映画を探すのが大変なくらいだが、当時のハリウッド映画は、ラブロマンスを描いたものでも、キスシーン留まりである。ヒッチコックの『汚名』では、イングリッド・バーグマンとケイリー・グラントが「映画史上最も長いキス・シーン」を演ずるが、これなどは規制ギリギリのところを追及したものだろう。あるいは、『北北西に進路を取れ』のラスト、寝台列車の中でケイリー・グラントがエバ・マリー・セイントの手を取り寝台に引き寄せるところまででカットが変わり、いきなり次のカットでは、その列車がトンネルに入っていくところで映画は終わる。意味深というか、明らかというか、ま、そういうことだ。

 規制が無くなった後にも勿論素晴らしい映画はあるし、暴力や性を直接あからさまに描いたものでも好きな映画もある。ただ、明らかなのは、「いかにして見せないで語るか」を追及したかつてのハリウッド映画は、その結果、シンプルで経済的な語り口な映画であり、題材の陳腐さとは裏腹にその語り口は徹底して経済的(つまり無駄がない)なのに対し、70年代以降のハリウッド映画は、語ることより見せることに重きが置かれ、画面は語りに奉仕せずに肥大化していった。「語り」から「見世物」へ変貌していったのである。
 
 今は亡き淀川長治さんがいみじくも言っていた言葉が全てを表している。「今の映画が10カットくらいかけて描く場面をジョン・フォードやヒッチコックやったら1カットで語っちゃうの。そのくらい粋なの。」

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ごめんなさい、<桟敷席>ですよね(笑)。 目で演技できる役者も、演せる演出家も少ないですよね。 目で演せられる方がいろんな解釈してみたり、想像力を掻き立てられるのに・・・。 / Hiroko ( 2001-12-28 14:04 )
はじめまして!!そのN○Kのドラマは見ていないですが、見たいですね。映画もそうですがテレビドラマはひどいと常々思っていたので・・・ / ナライフ ( 2001-12-28 11:57 )
はじめまして! お座席おめでとうございます! 「いかにして見せないで語るか」これって登場人物の心境などの想像を掻き立てられますよね。 最近の映画やドラマはどうもセリフとかオーバーアクションで成り立っているようで面白さに欠けます。 N○Kの最近のドラマで「ある日嵐のように」と「もう一度キス」はなかなか演出の趣味もよく、好きでした。 / Hiroko ( 2001-12-28 01:21 )
たらママ様、どうも。多分その飢餓感ゆえ、規制撤廃後の「見世物」的映画に注目が集まり、現在までその傾向が続いてしまっているかも知れませんね。 / ナライフ ( 2001-12-25 11:44 )
Hidey様、言われて気付きました。桟敷席に何故いるのかよく分かりませんが、「つっこみ」が増えそうで怖いですね。いやあ参った。 / ナライフ ( 2001-12-25 11:42 )
オーテマチエンヌさん、そうですね、楽しめますよね。少なくとも小説をまんまなぞって映画化したもので面白いものはまずない、と思います。 / ナライフ ( 2001-12-25 11:40 )
Hidey様、そうなんです、広告の世界で時折見かける一部のわがままなクリエーターに教えてやりたくなるときがあります。クライアントのわがまま、要求の中での創造性にこそやりがいがあると思っているので。 / ナライフ ( 2001-12-25 11:37 )
フィー子様、そうか、文学も、ね。確かに読み物の方の『風と共に去りぬ』なんて、だらだらしていたしなあ、と思いました。 / ナライフ ( 2001-12-25 11:32 )
さなえもん様、有難うございます。ダイレクトに視覚に訴えるものでいいなあ、と思うものもありますが、「粋」という点では、ね。 / ナライフ ( 2001-12-25 11:28 )
こちらでは初めまして。桟敷席ご登場おめでとうございます。規制があって飢餓感を煽られた方がありがたみがあったりしますね。 / たらママ ( 2001-12-24 18:06 )
たしかにロコツに描かれてるものを見るよりも、見せないで語っている映画のほうが、こちらの想像もふくらませることができるのでより楽しめますよね。(とくにこれを感じるのは、小説の原作が映画化されたとき。小説のほうが想像力が発揮できて楽しかった〜、って思うことが多いのですもん。) / オーテマチエンヌ ( 2001-12-24 00:53 )
桟敷席登場おめでとうございます。バトンタッチの相手がナライフさんというのはとても嬉しいことです。お仕事で更新もなかなか難しいかと思いますが、これからも質の高い文章を楽しみにしています。いずれ東京で飲みましょう。 / Hidey ( 2001-12-24 00:50 )
ヘイズ・コード知っていました。それにしても想像力をかきたてる面白い話しですね。言葉を書く時もね、何か制約をつくられた方がうまくいく場合もあります、確かに。次元はだいぶ違うような気がするけど。うまく言えないけれど、何か見る側に余白を残してくれる映画、僕も好きです。 / ガス欠コイン ( 2001-12-23 13:10 )
大変興味深いお話をありがとうございます。俳句や短歌にしてもそうだけど、確かに規律の中で追求する美というのは、心に染みるものがありますね。広告もそんなものかもしれません。 / Hidey ( 2001-12-22 22:48 )
ヘイズ・コードというのは知りませんでした。私も凝縮したものから自由に想像できるものが好きです。映画も文学も。 / フィー子 ( 2001-12-22 17:49 )
視覚にダイレクトに訴えるよりも絶対に心に来るよね。 見ながら想像の羽根を伸ばせる感じ。 受け取り方も多様化するよね。 私もそっちの方が好き。 / さなえもん ( 2001-12-22 02:12 )
りゃん様はじめまして。確かにN○Kは硬派ですが、つまらないですよね。硬派だろうが軟派になろうが永久につまらなそうな… / ナライフ ( 2001-12-21 20:58 )
日本のN○Kは相変わらず”硬派路線”ですよね。最近は少し柔らかくなってきて”キスシ−ン”位は放映してますよね / りゃん@はじめまして ( 2001-12-21 20:51 )
yutan37様、フェイドアウトもいいですよね。あからさまに見せないアメリカの人として稀有なのは、ジム・ジャームッシュとクリント・イーストウッド監督を思い浮かべます。2人ともフェイドアウトがとても効果的だと思います。 / ナライフ ( 2001-12-21 09:29 )
夢樂堂様、細切れと言えば、MTVの影響も大きいんでしょうね。『ムーラン・ルージュ』って、そんな感じでしたよ。 / ナライフ ( 2001-12-21 09:22 )
ベットシーンでも、フェードアウトしてくれた方が色々考えさせられていいと思うね。一人だけの演技「老人と海」長時間観客を惹きつけた作品が忘れられない。 / yutan37 ( 2001-12-20 18:41 )
そうだよね。今の映画、細切れが多過ぎる。風景も人も余り動かない映画を見たいぞ。そのほうが主人公の葛藤が楽しめるような気がする。 / 夢樂堂 ( 2001-12-20 14:09 )
そーですよね。今はベッドシーンが物語とは別の見せ場になっちゃってますもんね。エバ・マリー・セイント良かったですね〜☆この人も好き。 / ぽん ( 2001-12-20 11:54 )
仙川様、各々へのつっこみ有難うございます。ま、確かに今のSF映画の大半は特撮・CGを見せることに目的を置いてますよね。でもそれって、技術の進歩と共に確実に古くなってしまいますよね〜。いいんでしょうか。いいんでしょうねえ。 / ナライフ ( 2001-12-20 10:57 )
昔の映画は〜今のSFと違い〜リアルな表現と〜怖さを追求している気がします〜♪ / 仙川亭おき楽 ( 2001-12-19 23:39 )

2001-12-19 表現の規制と表現の豊かさについて

 1930年代初頭から1960年代半ばまでハリウッド映画に「ヘイズ・コード」という規制があったのをご存知の方はどれくらいいらっしゃるだろうか?学生時代にこのことを知った僕は、強い興味を覚え、関連文献と実際の映画を見てきたので、ちょっとご紹介しようと思う。

 この「ヘイズ・コード」、簡単に言うと、当時娯楽の王様だった映画が、アメリカ国民に悪影響を与えてはならん、という高邁な思想の下、映画の中での悪質な暴力、吹き出る血、男女の交わり、不道徳・乱暴な俗語、犯罪の手口を見せること、魅力的な悪、等々を描いてはいけません、という自主規制なのである。手元に資料がないので、そっくりそのままここでご紹介できないが、まあ、そんな類いのことを明文化したもので、「男女は同じベッドに寝てはいけない」などといった、かなり具体的な描写にまで踏込んで規制しており、発想の根本は悪くはないかも知れないが、表現者の立場から見れば「表現の自由」の侵害も甚だしい産物なのだ。

 これによって当時のアメリカ映画は、当然題材としてかなりの制限を受けることとなる。そして僕が最も興味を持っているのは、この規制によって、むしろ映画が魅力的になったということなのだ。「表現の自由」の妨げがむしろ表現を豊かにした、という稀有な事象なのだ。

 例えばサスペンスの神様と言われるヒッチコック。彼の映画では、当然の事ながら殺人の場面が多く現れるが、血が吹き出るとかいった場面はまず無い。(『サイコ』だけ例外かも知れないが、あえてモノクロにし、規定ギリギリを狙ったようだ。)ところが、そのヒッチコックに憧れているという、ブライアン・デ・パルマ監督の作品となると、『アンタッチャブル』のショーン・コネリーは血みどろになって息絶えるし、ロバート・デ・ニーロ扮するアル・カポネは仲間の頭を叩き割ってその血は机を覆い、駅の階段でのギャング同士の抗争シーンは、銃の撃ち合いをスロー・モーションで暴力そのものを見せる。

 この規制が無くなった67年に制作された映画が、かの名高い『俺たちに明日はない』であり、ラストシーンに象徴されるように、暴力をあからさまに描いてよくなったのである。実はこの映画、『暗黒街の弾痕』という1937年の映画のリメイクなのだが、両者を見比べればラストでその違いは明らか。リメイクでは100発以上の銃弾を身体にぶち込まれて死んでいく2人を10秒以上あろうかというスローモーションで見せるが、オリジナルでは、その2人に銃が向けられ、照準が2人にピタッと合う瞬間まで2人を遠景で追い、1発のみの銃声の瞬間はカットが変わり、エンドマークが出る、という具合だ。好みの問題はあろうが、僕がどちらを好きかは察していただけると思う。

 「ハリウッド黄金期」と呼ばれ、確かに質・量共に充実していた30〜50年代のハリウッドは、しかし、その名前から連想されがちな単純で楽天的な世界だったわけではなく、屈折した規制にがんじがらめになりながらも、逆にその規制を逆手に取って豊かな世界を築いていったようなのだ。

 このことを意識しているかどうか定かではないが、2年ほど前に『ライフ・イズ・ビューティフル』というイタリア映画があったが、あれは主人公が銃弾で倒れる場面を音声だけで処理するなど、アメリカ映画ではないが近作では稀な「見せない」映画であり、題名とおり「美しい」映画だったと思う。アカデミー賞が外国語映画賞を授与したのは何とも皮肉に思えた。

先頭 表紙

そうなんだなあ、大技乱発、せからしい蹴り…なんかじゃなく、オーラと一撃必殺のフィニッシュホールドで魅せてくれた名レスラー…ってとこですかね?(笑) / akemi ( 2001-12-26 17:52 )
ぽん様、似ているとは思いませんが、映画ファンならヒッチコック好きでしょう、ぐらいなことですかねえ。それにしても思い切った割り切りですよね。 / ナライフ ( 2001-12-21 09:14 )
1930〜50年代の米映画大好き。そんな規制があったとは知りませんでした。ただ、ほのぼのしてるなー・安心感があるなーと思ってました。ところでこの間ある人に三隅研次と市川崑のファンだと言ったら、「じゃあ、ヒッチコックも全部見てるのねっ!」と言われたんですけど…似てるんですかね?あんまり意識したことなかったんで… / ぽん ( 2001-12-20 11:49 )
仙川様、ヒッチコックのお茶目な1シーン、そう言えばお茶目ですよね。 / ナライフ ( 2001-12-20 10:54 )
ヒッチコック劇場は〜映画の何かを〜し〜っかり教えてくれる者ばかり〜♪ 本人の〜お茶目な一面も〜わんシ〜ンで〜♪ / 仙川亭おき楽 ( 2001-12-19 23:37 )

2001-12-13 VALEROSSO誕生 未来のJリーグへデビュー

びっくりしたことがあったので、ご報告。
私の中学・高校の母校のサッカー部がクラブ名をつけたのである。
ま、それ自体は大したことではないが、その理念をWEB上で知って、ようやるわ、という驚きを禁じえなかった。以下、我が母校のサッカー部ホームページからの引用である。

****************************************                                        
部活 VALEROSO(バレロッソ)
チーム名が「VALEROSO(バレロッソ)」と決定しました。
VALEROSO(バレロッソ)とは○○サッカー部の勇敢な試合ぶりをイメージしたスペイン語で、「勇敢な、勇気のある、力強い」などの意味です。西英辞典では、「valiant,brave,strong,powerful」
とあります。英語科久保野先生が命名に協力して下さいました。
VALEROSOは
 中学部がジュニア
 高校部がユース
 卒業後のチームがトップ
 OBはシニア
 関連の家族はファミリー
 海外チームはワールド(Valeroso NewYork や Valeroso Londonなど)
に発展します。クラブはヨーロッパの総合型スポーツクラブをめざし、会員はスポーツを通じて、人生を豊かに送ることをめざします。目標は、30年後にトップチームがJリーグに参入。40年後に日本チャンピオン。50年後に世界チャンピオンです。10年以内に、○○の地にクラブハウスを設置します。

****************************************
                                         というものなのである。○○の部分は、一応校名を明らかにしないためにぼかしました。

 理念はとても好きだ。気に入った。そりゃま、「目標」が達成するかどうかは別として。とにかく顧問の教師が、静岡出身の勿論サッカー好きで、情熱に満ちた人なので、「なろほど、あの先生ならやりかねないなあ・・・」と、今は若干冷静に思えるのだが、恐らくこの先生は冗談ではなく、マジなのだと思う。本気でやり遂げようとしているに違いないのが怖い。

 少なくとも、母校は、帝京などに代表されるようなサッカー名門校ではない。地区予選は通過して都大会には出場するが、ベスト8とかに残るような歴史は刻んでいない。それに私立ではないので、サッカーが上手い、ということだけで入学させる、というやり方はありえない。したがって、その道のりは99%不可能に近い世界ではある。

 しかし、あっぱれである。別に母校を自画自賛するつもりはないが、今日何となく母校サッカー部のホームページを開いて、まずは驚き、半ばあきれ、そしてくすっと笑いつつも、嬉しくなってしまった。正月にOB会があるので、詳しく聞いてみようと思う。

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頑張ってほしいですね / うにゃ ( 2001-12-26 10:24 )
ガス欠コインさん、チームいいですねえ。チーム名、そのまま「ひまじんチーム」だったら相当弱そうですよね。 / ナライフ ( 2001-12-14 09:50 )
フィー子さん、そう、なんかシニアっていうネーミングは何か年老いているみたいでどうも、ね。ま、実際老いているんですが・・・ / ナライフ ( 2001-12-14 09:31 )
本気でしょう、もちろん。志しに敬意を表します。そのうち、ひまじんチーム作りませんか。 / ガス欠コイン ( 2001-12-14 00:57 )
シニアとしてがんばってください!! / フィー子 ( 2001-12-13 18:04 )

2001-12-05 雨、風、吹雪!

 およそサッカーには興味がなく、ただいつも一つ屋根の下で一緒に暮らす相方が、やれ今夜は大事な試合があるとか明け方にどうしても起きなくてはいけないから今日は早めに寝るぞ、などと言っては無茶な睡眠時間を自らに強いている姿を見ているだけに、何だかんだと言いながら興味ないにしては知識だけは豊富になってしまっている私の妻が、いつも過去のワールドカップの映像を見て「凄いわねえ」と呟くのが、78年アルゼンチン大会でのあの紙吹雪であり、74年大会決勝でスタジアム全体で揺れていたフラッグである。

 確かに、アルゼンチン名物のあの紙吹雪は、誰が見てもただごとではない。スタジアムの全員が持って振っているのではないかと思われるくらいのあの揺れるドイツ国旗も、旧ソビエトや中国の式典かと見紛う程なのだが、観客各自の意思が産み出した光景とはにわかに信じがたい。

 あの紙吹雪と揺れる旗が見る者の心を動かすのは、まさに映像というものが動く画の集体であるという本質を突いており、そこに深層心理だとか背景とかを表象することなくアクションとしての面白さのみで画面に露呈しているからに違いない。思えば、黒澤明の『七人の侍』の素晴らしさは、武士に対する農民の勝利とかいった説話レベルにあるのではなく、まさに黒澤明特有の、あのどしゃぶりの雨と強風に揺れる旗にあったのではないかと思う。リメイク版である『荒野の七人』が、オリジナルと決定的に違ったのは、このアクションを画面に定着させ得てない点にあると思うのだが、もちろん舞台をメキシコ国境近くのアメリカ西部に置いた以上、雨を降らせられないのは仕方がないとしても、であれば、かつてジョン・フォード監督が数多くの西部劇でその画面に定着させたように、灼熱の太陽光線であるとか、吹き荒れる風であるとかいった先人達の成果から活用することはできなかったのであろうか、とついつい思ってしまう。

 と言っても殊更「昔の方が良かった」などという紋切り型を演じてみせようと思っているのではなく、近作であればクリント・イーストウッドの『マジソン郡の橋』ラスト近くの、車のフロントガラス(あれはクリンビューとかしてなくて弾かないのがいい!)に流れ落ちる雫とともに描いた雨とか、相米慎二監督の遺作『風花』の冒頭での微風に揺られながら舞い降りる桜の花びらやラスト近くの雪とか、現在公開中の『ブリジットジョーンズの日記』のラストの雪とかも見事であり、映画がムービー、即ち「動く画」であることを思い起こさせる「アクション映画」になっていると思う。

 新聞の夕刊によく出る映画の時評とか、TBSの夜のニュースでの筑紫哲也の新作映画へのコメントとかは、えてして説話上の抽象的な話に終始し、そこから読み取れる「物語」だったり「訓話じみた主張」だったりして、画面には全く表われない不可視なことを、これまた映画そのものとは全く関係の無い、社会、文化、精神といった更に抽象的な衣装を纏わせてこれみよがしなロジックで分析したりするが、あれこそは映画をネタに別の事を話しているのであって、映画を語ってはいない。

 もっと素直に、「ああ、あの紙吹雪!」、「凄い雨!」、「なんてきれいな雪!」という見てそのままの感動を言語化したい。常々そう思う。

先頭 表紙

Hidey様、「トリコロール」は未見なので、何とも言えませんが、ジュリー・デルピーは確かに端正ですよね。結構好きです。 / ナライフ ( 2001-12-10 21:40 )
雪の映画をちょっと思い出そうとしたのですが、キエシロフスキーの「トリコロール」の「白の愛」くらいしか思い出せませんでした。きっと他にもいっぱいあるはずなのに。「白」については、ジュリー・デルピーの端正な顔が白い雪ととてもマッチしていたラストシーンが印象的です。 / Hidey ( 2001-12-08 16:45 )
ぽん様、「黄色い大地」は凄い!あれこそただものではないですよね。あれと自作の「大閲兵」の2作はチェン・カイコーの頂点ではないかと思います。チャン・イーモウの撮影はほんとさすがですよね。 / ナライフ ( 2001-12-07 12:09 )
フィー子様、というか、ただのこじつけですよね、これ。お付き合い下さり、有難うございます。 / ナライフ ( 2001-12-07 12:03 )
ガス欠コイン様、あのオランダのシュート、確かに入っていたら…とよく思います。そうか、紙吹雪が邪魔したのか・・・ / ナライフ ( 2001-12-07 12:02 )
仙川様、仙川様のつっこみは、いつでも素直ですよね〜。いいなあ、と思います。 / ナライフ ( 2001-12-07 12:01 )
TAKE様、そうなんですよね、ただそれだけで涙が出てしまうこと、ありますよね。嬉しいです。 / ナライフ ( 2001-12-07 12:00 )
これはすごい、と思った映像は最近ではチェン・カイコ−監督「黄色い大地」ですね。(やっぱりチャン・イーモウの撮影は素晴らしい。)あの黄河と果てしない大地!圧倒されました。あと、この間BSでソ連の「戦争と平和」を見ましたが、すごい数のエキストラ、広い平原…びっくりでした。 / ぽん ( 2001-12-06 13:29 )
筆者ナライフ様ならではの文章ですね!あっぱれです。映画とサッカー、やはり根本的には相容れているのでは? / フィー子 ( 2001-12-06 11:23 )
厳しい指摘ですね。僕もそう思います。アルゼンチンの紙吹雪かあ。あれが、オランダの終了間際のシュートをポストで跳ね返したんだと、何の論理も根拠もなく思いました。 / ガス欠コイン ( 2001-12-06 06:02 )
素直な感想〜ちゃ〜んと言えるようになりたいですね〜♪ 素直に〜♪ / 仙川亭おき楽 ( 2001-12-06 00:58 )
ああ、今回もいい話ですね。僕もただ「紙吹雪」「雨」「雪」「桜吹雪」「大群衆」とかだけでも涙が出たりするクチなので、凄くわかる気がします^^ / TAKE ( 2001-12-05 13:20 )

2001-12-03 悲喜こもごもの週末

 またまたご無沙汰してしまいました。フィー子さんのつっこみも当らずとも遠からずで、上海やらパリやらに出張が続き、さぽってしまいました。ガス欠コインさんやHideyさんのように、多忙を極めながらも頻繁にアップしていくのは傍から見ていてもあっぱれです。のんびり屋の私はまあ、こんなもんです。「怒涛の」という形容詞は今や死んでいます。
 前回までのお話は小休止にして、今回はどうしてもこの週末にあったこと2つお話したいと思います。実はこの話題、ガス欠コインさんに先を越されました。ジョージ・ハリソンの逝去とワールドカップ抽選会のことです。
 ジョージ・ハリソンの死は、ある程度予想されていたこととは言え、未だに僕はしっかりと受けとめることができていません。僕はビートルズを生で聴いた世代ではなく、また、ジョンならともかくジョージに対しての思い入れがそんなに深くないはずなので、実を言うと、受け止めきれない自分にさらにショックを受けています。もちろん、ビートルズに対しての僕の思いは相当なものがあるので、それがベースにあるとは思いますが。やはりエリック・クラプトンと来日した際に観客席から見かけた彼の姿が、最期となってしまいました。合掌。
 という暗く落ち込むことがあったかと思うと、雅子さんが出産されたり、という明るいニュースもあったりして、激しい週末だったが、やはり、フィー子さんではないが、まさか抽選会の放送番組が、出産お祝い番組で飛んだりしないだろうな、と半ば不安に思いながら土曜夜を迎えた。杞憂に終わって良かった。
 さてその抽選会だが、やはり実際にカードが決まっていくのはこの上なくスリリングで面白かった。ペレはまあともかくとして、クライフの姿を拝めたのも(これも予定されていたこととは言え)興奮モノだった。
 希望と勘に重きを置いた予想をここで。コメントなしです。
グループA 1位フランス 2位セネガル  グループB 1位スペイン 2位パラグアイ  グループC 1位ブラジル 2位トルコ   グループD 1位ポルトガル 2位韓国    グループE 1位カメルーン 2位アイルランド  グループF 1位アルゼンチン 2位イングランド    グループG 1位イタリア 2位エクアドル   グループH 1位日本 2位ロシア    優勝ポルトガル 準優勝アルゼンチン 3位スペイン 4位ブラジル  

先頭 表紙

フィー子様、有難うございます。早速ヤフーのページを見ました。僕も早速ナライフの名で登録しました。 / ナライフ ( 2001-12-07 12:11 )
ほんとに書こうと思いつつあっという間に数日経ってしまって話題が古いかな、とか思いますよね(笑)。ヤフーでワールドカップのHPがあって、そこで勝敗予想ゲームがあるので参加してみたらどうでしょうか?私もフィー子の名前で登録だけはしました。優勝者には決勝戦ペアチケット&ホテルですよ! / フィー子 ( 2001-12-06 11:18 )
ガス欠コインさん、事前情報がなかったら結構ショックでしたでしょうね。僕は覚悟はしていたのですが、それでも辛いです。 / ナライフ ( 2001-12-04 11:34 )
TAKEさん、じわーっと悲しみ、つのりますね。それから、サッカーですが、ま、なんか好みとかが出ていて偏ってますよね。 / ナライフ ( 2001-12-04 11:31 )
先を越してしまいました。僕は病気であることさえ知らなかったので、ショックは大きかったです。そんなにすぐに受け止められなくてもいいんじゃないでしょうか。面白い予想ですね。 / ガス欠コイン ( 2001-12-04 08:36 )
予想の方は、ポルトガルの決勝進出、日本の一位通過、ドイツの予選リーグ不通過がミソでしょうか^^; ナライフさんが、どんなフットボールを見たいか、お気持ちが伝わってきます。多分ポルトガルは決勝まで来ないと日本では見れないんですよね。僕も「頑張れポルトガル!」と念じています(笑) / TAKE ( 2001-12-03 19:25 )
僕もナライフさんと同じくクラプトンとのコンサートが最後になってしましました。衝撃的であったジョンの時とは違って、なんか、じわ〜っと悲しみがつのってくるのも一緒です。。。 / TAKE ( 2001-12-03 19:20 )

2001-11-06 「物語」という「制度」の弊害について 〜その3〜

 さらに映画にも目を向けてみよう。日本が世界に誇る巨匠と言うとだいたい紋切り型で出てくる名前が、小津、溝口、黒澤だが、その誰もが「物語」に粉飾されてしまっている。

 例えば小津。小津と言えば、これもまた紋切り型に「日本的」、「禅」、「もののあわれ」といった形容詞が並ぶ。個人的な感想ならともかく、一体画面のどこを見ればそういった文脈が成立するのだろうか。見方、感じ方は人それぞれなので、小津映画を観ての印象として上記の形容詞が並ぶことに異論を唱えるつもりはないのだが、問題だと思うのは、そういった形容詞が紋切り型として並ぶことが観る者の感性を貧しくしてしまうという由々しき状況である。「僕は小津の映画が好きです。」と発言した時、小津を知らない人を別とすると、大抵、「ああいう映画が好きなんですね。」という反応が来るのだが、こういった反応を自然なものとしているのが、「小津の映画は斯く斯く云々である、という一元論的な定義付けによって理解した気になっていること」がベースとしてあるのは明らかで、それこそが僕が思う「物語」が「制度化」してしまったことの「弊害」なのだ。言い換えると「感性の制度化」ということだろうか。見えないファシズム。

 こういった「感性の制度化」は、スポーツや映画の世界のみならず至るところで起きていることなのだが、同時に豊かな感性の持ち主や思いがけない状況によってその「制度化された感性」を解放してくれるという事態もやはりある。

 音楽で言えば、例えば、モーツァルトの全シンフォニーを当時の楽器で当時のオケ編成で当時のテンポで再現して録音及び公演を行なった、ホグウッド指揮による演奏。19世紀ロマン派と呼ばれるブラームスやワーグナーやマーラーが主流となり、その主流となった肥大化した様式での演奏に「制度化」されてしまっていた私たちの耳には、ホグウッドの演奏によるモーツァルトは、画期的だった。以降、ベルリンフィルとかウィーンフィルとかいった19世紀ロマン派の流れを汲む「定番オーケストラ」によるモーツァルトの演奏も、ホグウッドらの原点回帰組とでも言うべき演奏群に触発、解放されてきていると思う。アバドが演奏したベルリンフィルによる最近のモーツァルトと、カラヤンが演奏した同じベルリンフィルによるモーツァルトは、大きく違う。恐らくオケの人数をアバドの場合はより小人数にし、テンポをインテンポで速め、余計なビブラートはかけず、また大袈裟にテンポを動かさず、…といった感じだ。アバドかカラヤンかという問題ではないし、僕もどちらも好きな演奏ではあるのだが、明らかなのは、30年前と違って私たちはモーツァルトにより開かれた感性を持って接することが出来るようになった、ということではないだろうか。

                    〜書きたいことはまだあるので多分続く〜

先頭 表紙

フィー子さん、すいません。ま、長い目でおつきあい下さい。さて、イタリア戦で声を掛けたのはきっとT君ですね。聞いてます。「チケット手配したんですか?」と翌日尋ねられました。「それはフィー子さんに失礼だ」と言っておきました。 / ナライフ ( 2001-12-03 15:42 )
ガス欠コインさん、誉めていただいて恐縮です。でも続編でなくて、ガス欠コインさんと同じテーマになってしまいました。重ねて恐縮です。 / ナライフ ( 2001-12-03 15:36 )
しまお様、でも「ナンバー」の記事は面白いですよね。僕もいつも読んでます。 / ナライフ ( 2001-12-03 15:34 )
おーい、まさかまたハワイに行ってるわけではありませんよね?(笑)文章、楽しみにしていますよ〜。ところでイタリア戦で一番驚いたのは「フィー子さん!(原文ママ)」とスタジアムで声をかけられたことでした(ーー;)。 / フィー子 ( 2001-11-26 21:36 )
形容詞が感性を束縛している。これには僕も大賛成です。小津をどう好きになるかはその人の自由なのに、まるで「こう、好きになりなさい」と強要されてしまう。それにしても、本当に素晴らしい内容と文章です。僕のこれからの書き物にも大いに参考になりました。続編期待しています。ありがとうございました。 / ガス欠コイン ( 2001-11-21 22:11 )
そうですね〜。私もたとえば「ナンバー」の記事などはおもしろく読みますが、スポーツそのものを見てるときは、ただ目の前でおきてることに感動してるだけだもんなぁ。(あ、これ下の日記のほうのつっこみになってるかも。すみません) / しまお ( 2001-11-11 02:27 )
ぽんさん、三隅研次!いいですよね!!僕も大好きですよ。男っぽいと言われてもねえ、何なのでしょうかね。 / ナライフ ( 2001-11-08 15:09 )
フィー子さん、やはり疲れたので別の話題にします。ところでイタリア戦でフィー子さん目撃情報を得ました。ま、それだけですが。 / ナライフ ( 2001-11-08 15:01 )
ホントその通り!ですよね。わたしも時代劇、三隅研次ファンというだけでびっくりされたり、「男っぽい映画を見るんですね」と言われることは良くあります。…男っぽいとは?逆に女っぽいのはどんなの?と疑問に思うことしばしば。最近は映画を作る側にもそれがあって、『外人が喜ぶような日本らしさ』を意図して媚びてるような感じを受けることがよくあります。 / ぽん/長々とスミマセン ( 2001-11-07 11:39 )
多分ですか(笑)。お待ちしております。 / フィー子 ( 2001-11-07 09:22 )

2001-11-02 「物語」という「制度」の弊害について 〜その2〜

さて、この「物語」とやらは厄介な代物だ。スピードスケートのような一般的には馴染みの薄いものも、この「物語」が付与されることで、人々を分かった気にさせる、いわば「えせ理解」の促進剤のようなものである。人々は安心する。感動している自分に酔いさえする。「筋書きのないドラマ」という謳い文句とは裏腹の、予定調和の世界。

 ことはオリンピックだけではない。恐らく来年のワールドカップでは、そこかしこに多くの「物語」が語られ、捏造すらされるだろう。仮りに小野が大活躍したとすると、メディアはそこに「海外での挑戦」やら「結婚による妻の支え」やらといったお話を作るだろう。逆に大不振だった場合も「海外」やら「結婚」やらといった切り口でいくらでもお話を作れるだろう。刺激を欠いた予定調和の世界だ。川口も「物語」に装飾されがちな人物だ。楢崎とのレギュラー争い、挫折、移籍、等々。ロナウド、バッジオ、デルピエーロ、ベッカム等々、ネタは尽きない。確かに面白いし、それによってその選手や競技に興味を惹かれる場合もあるだろう。野次馬的にはむしろ僕もそういったお話を楽しんでいる面もある。また、それによって「応援」だったり「嫌悪」だったりといった感情を持つこともあるのだが、逆に純粋に対象物そのものと対峙したらどうだろう?

 昨年、仕事でシドニーオリンピックに行ったある知人が言っていた。仕事の合間に彼は陸上やら柔道やらの競技を観戦できたのだが、英語のアナウンスがあるのみの競技場での観戦は、彼にとってあまり面白くなかったようだ。いみじくも彼が言ったのが、「日本語の解説とかがないと何やっているのか良く分からないんだよなあ… 臨場感って言っても
遠い席だと選手の表情とかもわからんしなあ… テレビで見た方が結局面白いんだよ。」ということだった。非常によくわかる話だ。そして、思うに、私たちは、「物語」という余計な贅肉をつけることで、「分かった気」になっているのだ。

 恐らく、と言っても確信に近いのだが、中田もイチローも「物語」を好んでない。彼らが日々戦っているのは、そんな予定調和の世界を現出するようなやわな場でないからだろう。

                                    〜続く〜 

先頭 表紙

う〜ん、僕はもしかして、この日記で「物語」を書いている方かと思いました。ほんとに僕のためにもなる話しです、ありがとう。確かに、ヒデもイチローも物語りを好んでいるとは思えません。 / ガス欠コイン ( 2001-11-21 22:04 )
ブルーさん、そう、ほんの一部分ですよね。というか、部分でもないのかも知れませんね。 / ナライフ ( 2001-11-08 15:10 )
物語にすると、一般受けするから、不特定多数の人達にも受け入れやすいから、物語にしてしまうのかしら。オリンピックでは、アメリカの放送でもストーリーが付いてくる、それを見て、理解した気分になる、でもそれは、一部分でしかないのよね。 / プルー ( 2001-11-05 10:31 )
フィー子さん、あの関口宏が司会やっている番組とかですかねえ?いい面もあるとは思いますが、僕も嫌いです。あと、フィー子さん、フィー子さんの書かれていることの「贅肉」部分、僕大好きですよ。要は「バランス」なのでしょうし、フィー子さんの場合、その「苦しい選択」の「葛藤」を経た言葉なので輝いているのではないでしょうか? / ナライフ ( 2001-11-05 09:37 )
Hidey様、突き詰めるとこの「物語」自体が問題なのではなく、それは一つの視点として成立しうるのでしょうが、それによって見えなくなる部分が出てくる、ということと、「物語」がないと観る事が出来ない・語ることが出来ない事態に陥っているという状況で、その状況を作り出しているのは「物語」は常にあるものだという前提になってしまっている「制度」だと思います。直感では日本人の場合は、元来農耕民族だったということと、儒教思想の影響?あたりなのですが。 / ナライフ ( 2001-11-05 09:27 )
歴史上の人物などをとりあげて最後にはお涙ちょうだいで締めくくる、1時間番組などがありますが、そういうの、大嫌いなんです(笑)。自分も見ると感動してしまうんだけど、それが許せない(^_^;)。サッカーライターを目指していますが、ナライフさんがここでおっしゃってることが最も自分にとって難しい部分で、目指すものは贅肉を取った部分を書けるライターなのですが、読者は贅肉を欲しがる。とても苦しい選択です。ナライフさんもお仕事上、日々その葛藤なのではないでしょうか。 / フィー子 ( 2001-11-03 15:19 )
メディアという「演出家」の話はおっしゃるとおりだとして、その根底にあるものってなんなのだろうと考えます。日本人は、という言葉は余り好きではないけど、日本人はスポーツ選手に人生を重ねてみることが多いのかな。それは武士道にまで遡る精神性?現代人の乾ききった日常?アメリカ人はスポーツをスポーツとして捕らえた上で熱狂しているように見えます。イタリア人はアイデンティティの確認かな。これらの違いはそれ自体どれも悪くないことだと思うのですが、メディアに増幅されたくはないですよね。 / Hidey ( 2001-11-03 06:01 )
404 Not Foundさん、はじめまして。まさにその「彼」は「篠原VSドゥイエ」を現場で観ていたそうです。帰国してから「そういうことだったの?」と思ったそうです。スポーツ観戦が謎解きになってしまってますよね。 / ナライフ ( 2001-11-02 18:22 )
去年のシドニーの柔道、「篠原vsドゥイエ」なんか日仏のメディア双方とも「物語」ぜめでしたね。「分かった気」は、スポーツだけではなく他の分野にも見られる構造だと思います。博物館・美術館で人の動きを観察すると解説のプレートを見ている時間のほうが「実物」を見ている時間より長いなんてことよくあります。目の前に存在するもの、起きていることに直接立ち向かう力が弱いといったらいいのか……。 / 404 Not Found@はじめまして ( 2001-11-02 17:54 )

2001-11-02 「物語」という「制度」の弊害について 〜その1〜

 「物語」というのがどうも嫌いだ。ものはスポーツでも映画でも小説でもいいのだが、その受止め方として「物語」は余計ではないかというのが、突き詰めた際の僕の考えだ。どういうことか。
 
 オリンピックの時に顕著になる、「スポーツ感動モノ」の「物語」。“親の死を受け止め克服した”金メダルを獲得したスピードスケートの清水選手。彼が金メダルを獲得したのは素晴らしいことなのだが、まずそこで我々が見るべきはそのレースそのものであり、彼の走りそのものではないだろうか。「親の死」自体が彼にとって大きい意味を持つものであったであろうことは間違いなかろうが、逆にそれは誰にとっても同じことだし、勿論それが彼の「スケート」に何がしかの影響を与えたのかも知れないが、あくまで可能性の話であり、憶測の域を出ない。私はスケートに詳しくないので、レースを見ても彼のスケートがどう優れているかは分からなかった。そして大方の視聴者もそうだろう。味気ないかも知れないが、それでもその結果が全てである。少なくとも「スピードスケートのレースを見る」という観点からは。

 ただ、これも推測だが、メディアは視聴者を惹き付けるため、そしてそれは同時に視聴者もそれを欲しているからだが、そこに「感動」という「物語」を探してきて付加する。これはしかし、「スポーツ」という健全なものには恐らくうってつけの材料なのだ。誰も悪くは思わない。日本人の快挙という誇らしい事態を更に誇らしくする「感動の物語」。
オリンピックが終わった後によくある「総集編」的な番組は、スポーツそのものを見せるというよりはその背後とかにある「物語」を見せる傾向にある。たいていこの手の番組の決り文句は「感動」だ。確かに感動的な話が多いし、かく言う自分もよく感動している。だが、それはやはり純粋なスポーツではないと思う。恐らくしまおさんの日記でのフィー子さんの「人間の批判とサッカーの批判」を「わけなければいけない」というつっこみはそのことを鋭く指摘されていると思う。


                                   〜続く〜

先頭 表紙

素晴らしい内容の文章だと思います。メディアは結果を出した者の物語を探すんですよ。モーグルの里谷多英ちゃん(大ファン)が、父親の死の話しを何度も質問され、泣いてしまった時は、本当に頭に来ました。 / ガス欠コイン ( 2001-11-21 21:57 )
最初にこの書き込みを見た時はてっきり今年のヤンキースの話しにつながるのかと思ってましたが、読みが浅かったですかね... / マイケル ( 2001-11-06 22:19 )
フィー子さん、そう、確かに偉そうなことを僕も言ってますが、そうは言ってもバランスだと思います。 / ナライフ ( 2001-11-05 09:07 )
書き出し部分から大きくうなずいてしまいました。確かに知らないスポーツを知るのに何かのプラスアルファは必要かもしれないですが、できるだけ、自分は純粋に、人ではなく、その人の技術そのものを見るように心がけてはいます。といっても世の中で生きていくためにはバランスが大切で、そのあたりが難しいなあと思う今日この頃です。 / フィー子 ( 2001-11-03 15:15 )
ぽんさん、そうですよね、同感です。24時間テレビなど、その「道しるべ」があまりにあざといので「ようやるよなあ…」と呆れてしまいます。 / ナライフ ( 2001-11-02 18:15 )
TAKEさん、そうなんです、僕も広告に携わってますが、良心の呵責を覚えることが多いです。 / ナライフ ( 2001-11-02 18:12 )
「ほれほれ、感動しなさい」って道しるべをたてられてる感じがしますよね。物事の本質へたどりつく道は自分の力で見つけた時の方が感動が大きいのに。 / ぽん ( 2001-11-02 14:25 )
「物語」については僕もいろいろ考えてしまうコトが良くあります。なんか日本人ってみんな「物語」というフォーマットに頼っている気がして・・・。また広告の仕事をしていると「物語」を弄んでいるような自分に、良心の呵責を覚えることもあります^^; / TAKE ( 2001-11-02 11:41 )
ウチの母親って、こちらが料理を食べる前に「美味しいでしょ」って来るんですが、マズイって言えないっすよね(笑) プロのキャスターが試合後「感動しましたねえ」って言うのも、それに近い強引さを感じてしまいます。プロなら「感動」という言葉を使わずに、感動を伝えて欲しいですよね。 / TAKE ( 2001-11-02 11:36 )

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