himajin top
hamamamaの「コトバの棲家」

コトバは毒を持っている。人を傷つけることもわかってる。
だからこそ、捜したい。言葉の可能性。
あるがまま、感じるままを語る「コトバの棲家」へようこそ。

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2001-11-13 世界との接続の仕方。つながり方。音楽のバアイ。
2001-11-12 世界の遮蔽と接続。「サラウンド」に聴く。世界と音楽。
2001-11-06 クラムボンのアルバム、『ドラマチック』を聴いて。
2001-10-20 人称味あふれるお話。
2001-10-07 御札申し上げます。
2001-10-01 コールドスープ→クリームシチュー
2001-09-23 批評の参上。
2001-09-22 「アレ」に関するちょっと「アレ」な話
2001-08-12 <特別企画・夏休み絵日記?>野外彫刻が野外彫刻であるユエン。そもそも そんなものが あるのか。
2001-08-08 <特別企画・夏休み絵日記?>彫刻を見る。


2001-11-13 世界との接続の仕方。つながり方。音楽のバアイ。

さて。前回の続きを。
前回はヘッドフォンについて、僕が感じる否定的イメージみたいなのを
書かせてもらいました。
で、ポイントは、その否定的イメージが肯定的イメージ
どのように転じるかというところですね。
それを前回に挙げた詞を見ながら、考えていこうと思います。

何か物事が上手く行っていなくて、
人に対して、閉鎖的になる時があります。
そんな時は、例えば何かの中に逃避することを選んだりもするでしょう。
何かが上手く行かない、「なにかちがうんだ」、
でも何が違うのかはわからない、
そういうモヤモヤして漠然とした気持ちを抱えながら。
その世界からの逃避・閉鎖手段として、
僕はヘッドフォンというものを(大きく考えれば、音楽の一面を)
考えていたわけです。

ヘッドフォンをつけることによって、
外界からの刺激から身を守っている人に対して(これは僕のイメージですけど)、
ぐちるのなら 買いたての自慢の ヘッドフォンから
 わきでる音にしみこむ音に 背中おされまちへでかけよう

とクラムボンのヴォーカルは歌いかけます。
ここでポイントなのは、ヘッドフォンをつけたまま、
街に行っていいんだ、ってことかな。

そして。一度外界から閉じこもり、閉鎖するきっかけだったはずの、
音楽が、聴いている人を今度は外へ出るように誘惑するわけです。
右から左から」「サラウンド」に聴こえてくる音響によって。

もちろん、ここには不思議な力が働いていて。
まちへでかけよう」と呼びかける、
このクラムボンの「サラウンド」の曲自体が、
音楽の集合に含まれているのです。
別に、外界を遮断している人を外へと誘い出すのは、
クラムボンの、この曲「サラウンド」である必要はなくて。
他の誰の曲でも良いのですが。
この歌自身を聞いて、何らかのことを感じて、
外界へと出ようと思った人はいるんじゃないかなあ、と思います。
(例えば、「あ、クラムボンのライブ、久しぶりに見たいなあ、
行きたいなあ」と僕はこの曲を聴いて思いました)
僕も、別に外界に出ようと思ったわけじゃないですが、
新しいものの見方を学んだ(ような気がする)わけで。

ここまでの暫定的なまとめとしては。
音楽が世界からの閉じこもるきっかけであると同時に、
音が聴く人を誘う事によって
世界へと出て行くきっかけにもなるということ。

これが僕の感じたことですかね。
まあ、「音楽が閉じこもるきっかけ」っていう表現は、
余りにも消極的過ぎる表現なので、
「それは違うんじゃない?」って批判が来るかもしれませんけど。

ここからもう少し、他の詞の箇所も参照しながら、
話を続けたいと思います。続く。

つっこみ 先頭 表紙

2001-11-12 世界の遮蔽と接続。「サラウンド」に聴く。世界と音楽。

前回に引き続き。
クラムボンのアルバム『ドラマチック』の感想です。
今日は一番好きな「サラウンド」という曲について。
初めて聴いた時は、なぜか涙が出そうになったのですが。
魂が震えるっていうのかな(それは言いすぎ)。
とにかく、しばらくは その理由が分からなくて。
1か月くらい なぜかな なぜかな って考えていて、
最近になって、やっと納得が行く考え方ができるようになりました。
拙いですけど、それをここに文章化したいと思います。

歌詞を引用するのって全面的に駄目ですかね?
「研究その他の引用」に当たるから、大丈夫とは思うのですけど……。
======================================

「なにかちがうんだ ぐちるのなら 買いたての自慢の ヘッドフォンから
 わきでる音にしみこむ音に 背中おされまちへでかけよう
 
 わらってごらんよ あるいてごらんよ 右から左から誘われるサラウンド
 上昇気流に飛び乗っていこうよ あなただってわたしだってどこへだっていけるよ

 きっと」
(「サラウンド」 作詞:原田郁子 作曲:ミト 編曲:クラムボン/亀田誠治」)

======================================

「サラウンド」の一節です。
まずは僕が感じていた、準備というか予備というか、どうでもいい感想を。

それはヘッドフォンやウォークマン(これって商標かな?)で
音楽を聴くことについてです。
ヘッドフォンとかで音楽を聴きながら、別の作業をするということ。
これには二つの意味があると僕は思っていました。

1.世界から発せられる音を遮断して、別の音を聞く。
(例えば、授業中にCDを聴くとか。嫌な時に多いかな?)
2.お気に入りの音楽を、今見ている世界の風景や状況に重ねる。
(ランニングとかしてるときとか。洗濯とか掃除をしながらとかも?)

とりあえずは、こんなイメージを持ってました。
僕が感じていたのは、視ている世界と聴いている世界が分離する
いうようなことだと思います。
元の世界と 音楽をかけることによって作られる世界 でもいいのかな。
普通に(イヤホンをせずに)音楽を聴いてても、
厳密に言えば、世界から発せられる音と、流れている音楽は別物なのでしょうけど。
イヤホンをつけたりとかすると、遮蔽率がものすごくアップするような気がします。
イヤホンをしている人に、(世界の側から)僕が声をかけても
すぐに気が付いてもらえないことも多いですし。

1と2の特徴を考えると、
世界(の音)を遮断すること。
音がなくなった世界に別の世界(の音)を上にかけるということ。

こういった特徴からすると、なんというか、
世界から少し身を引いているように思えるんですよね。
イヤホンをすることによって、別の世界に入るというか。
だからか、例えばイヤホンしたり耳栓をしたりすることに対して、
否定的なイメージを抱いていたんですよね。
(人々との・世界との・外界との)交渉を拒否しているというか。
閉鎖的な感じ。

……そんな感じで、ヘッドフォンをすることに対して、
ちょっと否定的なイメージをもっていた僕だったんですけど。
「サラウンド」を聴くことによって、
全然違う観点を持つことができました。
それが良いものなのか、悪いものなのかは、わかりませんが。

それはどのようなものなのか。僕なりの解釈をしたいと思います。
異常に長くなってきたので、続く。

つっこみ 先頭 表紙

文章長すぎですね。最初は長すぎて、入力拒否されてしまいました(笑)。 / hamamama ( 2001-11-12 04:03 )

2001-11-06 クラムボンのアルバム、『ドラマチック』を聴いて。

えっと、何日ぶりの更新でしょうか。
もう、かなり久しぶりですね。
どれくらいの方がこの文章を見てらっしゃるのか、
全く分かりませんが。
とりあえず、自分の心の中で感じたことを
外部に出しておくということで。
また、ここに文章を書いておきたいと。

さて。今回はクラムボンというグループの
アルバムCDを聴いた感想です。
一ヶ月くらい遅い反応ではあるのですが。
まあ、音楽を聴いて感じたことを
こうやって文章化するという手法自体が
怪しいものかもしれません。
でも、とりあえず、僕にはこうやって言語化するくらいしか
表現する手段はないわけで。

あ、クラムボンさんの公式サイトはこちらです。

器楽じゃなくて、歌唱音楽っていうのは、
(そもそもこういうジャンル分けでいいのかどうかわかりませんけど)
歌詞、アーティストの声質、
メロディーのライン、リズムとか速さ、
音の肌理、
そのほか、うーん、なんだろう演奏(録音)状況とか?
そういった色々なものの複合体だと思うのですけど。
(なんか色々と言い漏らしている気がする……)
僕が注目してしまうのは、やっぱり歌詞なわけで。
それが、音楽の良さの一部しか見ていないというのは
わかるのですけど。
少なくとも、邦楽を聴くときは歌詞もじっくり聴いちゃいますね。

それは例えば、クラムボンのアルバム、『ドラマチック』2曲目。
「ジョージ(作詞:原田郁子 作曲:ミト 編曲:クラムボン/亀田誠治)」
を聞く時にも感じるわけで。

「愛知ってる? ねぇ愛知ってるの? 愛知ってる? ねぇ愛知ってる? ほんとに?」
(歌詞カード4行目など)

という歌詞があるのですけど。(僕は)どう聴いても

「愛してる? ねぇ愛してるの? 愛してる? ねぇ愛してる? ほんとに?」

と聴こえるんですね。
日本語の歌を聴く時、
こういう聞き間違え(もしくは、聞き間違えを誘発させるような歌詞配置)に
最近は注目しています。この「ジョージ」の場合は
たぶん意図的な歌詞配置だと思うんですけどね。
それとも、単に聞く側の深読みしすぎでしょうか。

その他にも、「ジョージ」にはイメージを膨らませるようなこんな歌詞も。

「みにくいこと まるごと見たい 今日もだれか瞳にうつる
きれい それはみにくいこと 私にひそむモンスターへ(歌詞カード5〜6行目)」

という部分では、音だけ聴いてても「みにくい」としか聴こえないのですけど、
歌詞においては「見難い」と「醜い」という意味にわけて取れるような
歌詞配置になっているんですよね。
この「みにくい」は「見たい」や「きれい」、
そして「モンスター」という語と
お互いに共鳴し合って、
なんというか、心の中にふんわりとしたイメージを残します。
(自分で書いていても意味不明な文章だ……)

とここまで書いていて。
実はもともと「見難い」から「醜い」、
「醜い」から「見難い」のではないか、ということを思いました。
どういうことかというと、これら両方の語はもともと同語源なのかも……。
同語源じゃなくても、関連があるのかもしれませんね。

さあ、今回いつにもまして、よみにくい 文章になってしまいました(笑)。
まあ、リハビリということで。クラムボンの曲に関しては、
もう少し書いてみようかな、と思っています。 

つっこみ 先頭 表紙

2001-10-20 人称味あふれるお話。

【前回までのあらすじ】
万年更新停滞病にかかっていたhamamamaは、
アレな事情によって、スープを作るのに失敗し、
誕生日を迎える。もらったプレゼントは御札。

――そんな誕生日の日に、
ある人から「一人称が俺から僕に変わったね」と指摘される。

この物語はフィクションです。

===================

さてさて。今日は人称に関するお話を。
なんでそんな話をしようと思ったかと言うと。

1.久しぶりに会った人に、「一人称、『俺』より『僕』っていう回数が多くなったね」
 と言われたから。

2.ネット上の友達とチャットしてる時に、「本当にhamamamaさん?」と
 疑われたから。どうやら、それは僕の人称の用法が時々変わるから、らしい。
 (俺って言ったり、僕って言ったり、自分って言ったり、私って言ったりするから)

私が思うに、
自分を指す表現って、結構頻繁に変動すると思うんですけど。
みんなは違うのかな。
1の指摘は容易に変動することを示す、いい例だと思います。
今自分が主に属している環境は、結構年齢層の幅が広いし、年上の人も多いです。
(なんか表現は変ですけど、なんとなくニュアンスは伝わるかな)
だから、俺って使う回数よりも、僕って使う回数のほうが
多くなったんじゃないかなあ、と。

感覚としては、人称っていうのは、
自分と相手の関係の中で、
どれを使用するかが決定されるって感じでしょうか。

まあ、一人称が本当にそうやって流動的に変化するのかどうか、
変化することが、その人にどのような影響を及ぼすのかとか、
立ち入ったことは、僕にはわかりませんけど。
僕が感じる範囲で。

そういった意味で、2のような疑問を持つ人に対しては、
「そんなに一人称って固定して使用するものなの?」
更に、これは文字文化(ネットとか手紙ですか)に限ってかもしれないけど、
「人称の用法によって、人格を同定するの?」って思いますね。
僕だったら、1つ目の問いに対しては「別に固定して使う必要はないんじゃないかな」
2つ目の問いに対しては、「とりあえずは、そうするしかないんだろうけど、
なんか違う気がするな……」って答えるかな。

人称を含む、文体とか文法から、
これはhamamamaの書いた文章だ、とか、これはそうではない、とか判断できるのかなあ。
意図的に文体を変えたり、人称を変えたとしても、
背後に滲み出る著者性(たとえばhamamama性)はあるのだろうか?
そして、これはどういう分野の受け持ちなのだろう?
言語学かな? 文法学とか文体学みたいなのがあるのかな。

なんか、かなり話が流れていますけど。

たぶん、一人称は状況に応じて、使い分けることはできると思うんですよね。
独断かな。
問題は、無意識のとき、通常時に、
どのように人称を使用しているかじゃないかな、と思います。

……人称の用法に意識を向けてしまったら。
足の運び方を意識して、歩けなくなってしまった むかでのように
なってしまうかもしれませんが。

つっこみ 先頭 表紙

アナイスさま。 どうもありがとうございます〜。まったく脈絡のない粗筋で、粗筋にもなっていませんけど(笑)。 / hamamama ( 2001-11-12 04:10 )
「あらすじ」の3行、すごくセンスいい〜  / アナイス ( 2001-11-09 23:01 )
ここまで書いて思ったのですが。外国語の多くは、そもそも こういうことを考える必要がないのかもしれませんね。 / hamamama ( 2001-10-20 00:45 )

2001-10-07 御札申し上げます。

誕生日の突っ込みを入れてくださった皆様、
どうもありがとうございました。
御礼申し上げます。

自分自身「ひまじん」に登録した時、
誕生日を入力してたことを 完全に忘れてました。
だから、僕自身は誕生日当日に
「hamamamaさん、お誕生日おめでとう!」みたいな文を
ここで見られませんでした(笑)。

これも、毎日「ひまじん」を訪れてないせいでしょうか……。
更新ペースはこんな感じで遅いですが、
これからも よろしくお願い致します。

どうでも良いんですが、御礼って書くとなぜか

御札(おふだ)

に見えてしまいます(笑)。
日頃、人にあんまり感謝していないから、
御礼という字を見慣れていないのでしょうか。
それとも何か呪われているのでしょうか。
謎です。

様々な原因に基づいた見間違い、勘違いみたいなものって 時々ありますよね?
などと話題を振ったまま、この文章は幕を閉じ。

つっこみ 先頭 表紙

2001-10-01 コールドスープ→クリームシチュー

例えば。
コールドスープ(名称はこれで正しいのかはわかりませんが、
冷たいスープのことだと思っていただければ幸いです)を作ろうと思っていて。
とりあえず、おぼろげなレシピを思い出しながら、食材を煮込んでいると、
完成した物体のその外見が、どう見てもクリームシチューとしか思えない時。

果たして、それはスープなのか。
それとも、クリームシチューなのか。

ささやかな識別法

1. 最初の選択された素材によって既に決まっている。
  だから、謎の料理はコールドスープ。

2. 料理をしている人が何をイメージして料理しているかによって決まる。
  よって、コールドスープ。

3. その料理の過程・手順によって決まる。
   スープかシチューか微妙。またはその間に位置する創作料理。

4. 色々ごちゃごちゃ言ってても、
   結局できたものは どう見てもクリームシチューじゃないか!
できあがったものが全て。最終的な外見によって決まる。
   そんなわけで、クリームシチュー。

5. 上がってるものはどれも正しくなくて、
   実は食べてスープと感じたらスープ。
   シチューと感じたらシチュー。
   外見も関係ない。食べてみてから考えよう。

他にも識別方法はあるかも。
とにかく、コールドスープやクリームシチューが
どういうものかということ、結局作られた料理がどちらなのかということ、は
何で決まるのでしょうか?
素材? 料理人のイメージ? 作り方? 見た目? 味?
これらの要素の複合とか、そういうので決まるのかな?
そんなよくわからないことを考えながら、謎の料理を食べました。
でも、味は良かったですよ(何のフォローにもなってない)。 

先頭 表紙

仙川亭おき楽様。 はじめまして。遅れてても、お祝いを言って頂けるだけでウレシイです〜。ありがとうございます。 / hamamama ( 2001-10-07 04:32 )
ホシノタカミ様。 ありがとうございます。うう、そもそも僕のコールドスープのイメージ自体が間違ってたんですね(笑)。……そうか、あれは作り始めからシチューだったのか(笑)。 / hamamama ( 2001-10-07 04:30 )
アナイス様。 ありがとうございます。うーん、正直な話、シチューだったような感じですね(笑)。やっぱり出来上がりが決め手なのでしょうか……。 / hamamama ( 2001-10-07 04:28 )
とんぼ様。 ありがとうございます&はじめましてです〜。こんな感じで日記書いてますので、よろしくお願いします。(というか週記くらいですけど……(涙)) / hamamama ( 2001-10-07 04:26 )
マッキ〜様。 ありがとうございます! 更新は遅いかもしれませんが(笑)、たまにでも見に来てやってくださいませ〜。 / hamamama ( 2001-10-07 04:21 )
はじめまして〜♪ お誕生日おめでとです〜♪ ちょ〜っと遅れちゃいました〜☆ / 仙川亭おき楽 ( 2001-10-05 02:50 )
お誕生日おめでとうございます。私は「つめたくて具の無いのがコールドスープ」(笑)だと思っていましたが…… / ホシノタカミ ( 2001-10-04 23:58 )
お誕生日おめでとうございます。おいしく出来あがってよかったね。それで、結局どっちだったの? / アナイス ( 2001-10-04 22:36 )
お誕生日おめでとうです。 / とんぼ@はじめまして。 ( 2001-10-04 17:24 )
お誕生日おめでとうございます。時々でも待ってますよ! / マッキ〜 ( 2001-10-04 16:50 )

2001-09-23 批評の参上。

ちょっとがんばって続けて更新してみたり。

少し前に『批評の事情』〔永江朗(ながえあきら) 原書房〕という本を読みました。
批評とか評論とかで90年代にブレイクした人44名を
永江朗氏がコメントすると言うものです。
そういったジャンルにあまり興味があるわけではないのですが。

それなのに買って読んだ理由としては

・装丁に引かれた
・永江朗さんが、本の雑誌「ダヴィンチ」で書評を書かれている
(→いつもダヴィンチを読んでるので親近感)
・論じられている44人のうちに知った名前が1割くらいあったから
・そもそも、批評とか評論というものが何か、知らなかったから

上でも述べたように、批評とか評論というジャンルに興味がなかったので、
リストアップされた44名にしても、1割はちょっと知っていて、
1割が名前だけ知っていて、あとの7割は全然知らない、
もう1割は読んだ後でも意味不明、といった感じで。
逆に、その人々をほとんど知らなかったので、
新鮮なキモチで様々な人の論調やスタイルの概略を読むことができました。
批評とか評論の分野を学ぶのに、
この本がテキストとして最適かどうかという問題は別にして、ですけど。

それぞれの人が主張する内容には、
この本を読んだだけでは、ほとんど踏み込めないと思います。
もし、僕が反論や共感をしたとしても、
中途半端だったり、見当違いだったりする可能性が大きいような気が。
なぜなら、永江朗という人の観点を通して、他の人々の姿勢を学ぶわけで。
しかもその学んだものは、なんというか、おいしいとこどりって感じなのですよね。
別に原典至上主義ではないんですけど、
やっぱり本人の著作を読んでみることも大切だと思います。
解説本みたいなのだけに頼るのではなくて。
この件に関しては、また別の機会に取り上げられればなあ、と思います。

それでもとりあえず、タイトルについては言及できるかと。
僕が確認した限り、どこにも書いてないんですけど。
このタイトル『批評の事情』というのは、
韻を踏んでいるだけではなく(『ひひょうのじじょう』)。
批評の二乗という意味も含んでいると思うのですよね。
批評(する人)を永江氏が批評する、というように。
批評(する人)を批評するということを、批評×批評と表現するのが正しいのか、
批評+批評、批評÷批評ではだめなのか、
と言われればそれまでなんですけど(笑)。

そういうわけで、僕の今日の日記のタイトルは当然上のようになるわけで。
ちょっとタイトルについて深読み・誤読してみました。

先頭 表紙

2001-09-22 「アレ」に関するちょっと「アレ」な話

かなり長い夏休みを取ってました……。
1月半ほど更新を止めてました。
また、少しづつ書いていこうかなあ、と思ってます。

さて。今日はアレについてのお話。

「そう、アレですよ、アレ」
「ああ、アレの話ね」
「うん、そうそう。アレだよ」
「……わかってるんだけど、アレって何? いちおう確認しておこうと思って」
「え?! もしかしてアレ知らないんじゃない? やばいよ」

謎の会話ですけど。
上でも述べたとおり、今日は「アレ」について考えてみようかと。
「アレ」っていうのは会話の時に、
省略のために用いられる指示詞だと思われます。
例えば、次のような会話。収録場所は、あるコンビニにて。

「そろそろさあ、俺たちの今後のアレについて話し合わない?」

アレってなんだよ? って不思議に思いますよね。
この場合、たぶん身の振り方とか過ごし方とか、
そういうニュアンスの言葉が入ると思うのですけど。
そりゃあ、その時の会話の流れや、会話をしている人々が共有している情報などから、
「アレ」という表現が、何を指し示しているのか、わかるのかもしれません。
でも、傍から聞いているとサッパリです。

「アレ」という表現が出てくる要因としては、とりあえず次の2つが思いつきました。

1. その支持しているものの名前が単語として長い時。
「ゴールデンレトリバー、結局飼う事にしたの?」
「家が狭いからアレ2匹はつらいよ」

2. 話すスピードが思考のスピードについていかないとき。
「ごめん、アレしておいてくれるかな」
「うーん、アレなんだよね」

1は、なんというか言語の経済性みたいなのから
分からなくもないのですが(例えば、Dreams come true がドリカムになったり、DCTになったりするように)。
2の方は注意して聞いてると、かなり面白いです。

「アレがアレをアレしといてくれるかなあ」

僕の聞いた「アレ」の連続用法で、一番すごかったのはこの3重の用法でした(笑)。
もう主語も目的語も動詞も全て「アレ」です。
ほとんど勘とかクイズの世界ですね。
話してるほうは、言いたい事が先にあって、
それを言わずにはいられない、でも口で話して発音するまでには時間がかかる。
そんな観点から、「アレ」が多用されることもあるのではないかと思います。

僕自身もそうなんですけど、最終段階になると、
特に指示する対象がないにもかかわらず、
つい口癖で「アレ」っていってしまいます。枕詞みたいに。

「アレのことなんだけど」

……なんて言っておいて、
自分で「あれ? 『アレ』って何を指してるんだろう?」って
考えてしまうことも しばしばあるわけで(笑)。

そんなわけで。アレに関するちょっとアレな話。
アレにでもなると、少しアレですね。

先頭 表紙

マッキ〜さま。 やっぱり気をつけたほうがいいですよね〜。マッキ〜様の「話してるときは〜」っていうコメント、確かにそうだな、って納得してしまいました。話してるときはわかっても、書いたものの時はわかりにくいですか……。ふむふむ。確かにそうですよね。 / hamamama ( 2001-09-23 06:37 )
指示語は上手く使わないと、違うものを指してしまうことがあるから、日記を書くときは気をつけるようにしてます。話してるときはわかりやすくても、書いたものを読むとどれをさすか難しいときがありますからね。 / マッキ〜 ( 2001-09-22 10:33 )

2001-08-12 <特別企画・夏休み絵日記?>野外彫刻が野外彫刻であるユエン。そもそも そんなものが あるのか。

えっと、前回は僕が彫刻の特徴を
立体であること躍動感を持つことに見出した過程を書きました。
過程とはいえ、そんなに大したものではないのですが(笑)。
まあ、雑感というやつです。

今回は、彫刻の特殊なケースである野外彫刻について、考えてみようと思います。
前回の日記で書いたとおり、
野外彫刻を僕はこの夏休みに初めて見る機会があったわけですが。
野外に彫刻をおくことによって、何が起こるのだろう? というのが
彫刻群が展示されてる場所に行く前に感じた、素朴な問いでした。
彫刻を美術館ではなく、野外におくことによって、
何かが得られるからこそ、外に置くのでは? と僕は考えたわけです。
まあ、「〜のため」みたいな目的や意味を追求してしまうのは、
悪い癖かもしれませんが。
もしかしたら、どこにおいても良いから、とりあえず外に置いてみた、
といった考えから、野外彫刻は発生したのかもしれません。

外に置く必然性、ちょっとそれでは強いかもしれないので、
外に置く必要性があるとして、
これからの話は展開されるので、ちょっとあやふやですけど。

僕が感じたのは、自然の力を利用するためではないだろうかということです。
自然の力というのは、風化だったり、雨だったり、風だったり。
彫刻には詳しくないので、そういった一派があるのかわかりませんが。
たとえば、未完成の彫刻を外に放置し、雨風で削られるのをもって完成としたり。
彫刻に空洞が開いていて、そこを通る風の音を何かに見立てたり。
そういった自然の力との協力を作品に組み込むのを意図して、
彫刻作品を野外に置くというわけです。
この考えは、美術館の中では実現できないと思います。
機械とかを使えば、風化とか雨風もそりゃあ再現できるでしょうけど、
外に置くのが、最も手早く、安いコストで実現できるのではないでしょうか。

なんだかぐだぐだとしてて、わかりにくい文章になってしまいましたが。
僕が見た野外彫刻の中にも、上で書いたような考え方で見ると、
面白く見れる彫刻がいくつかありました。

たとえば、
鉄でできた車の彫刻。もちろん、雨風にさらされてるので、全体が錆びてます。
女神の顔の彫刻。繰り返される雨によって涙の後ができてます。
シーソーのような構造を持つ彫刻。風の力によって上下に動きます。

そんなの当たり前じゃん? って感じでしょうか。
彫刻についてなんて、あんまり考えたことなかったので、
僕の中では、彫刻が野外に置かれる理由なんて、皆目検討つかなかったのです(笑)。
一つだけでも統一的な見解を見出せたことがちょっとうれしくて。

彫刻が野外に置かれる理由が何かあるのだろうか? 
彫刻家は何を狙ってそんなことしてるんだろう? 
なんて色々と考えながら歩いていると、
一緒に彫刻を見てた人が、ある彫刻の前で立ち止まって、
「この彫刻は青空がないとだめだね」と呟きました。
空間の開放性のことを言っているのでしょうか?
「どうして? 美術館の中にあったらだめ?」
「天井があったら、この彫刻カワイソウ。のびのびできないじゃん」

先頭 表紙

アナイスさま。 はい、わかりましたー / hamamama ( 2001-09-23 06:34 )
hamamamaさん 見つけたらでいいです。ありがと。 / アナイス ( 2001-09-23 01:58 )
アナイスさま。 夏休み終わりました……。「お気に入りの美術館」て言えるほど、あんまり美術館に通ってないんですよね……。スミマセン。 / hamamama ( 2001-09-22 04:26 )
夏休み、終わりましたか?お気に入りの美術館、教えてくださいね。 / アナイス ( 2001-09-18 08:54 )
のびのびしているように作品を見せる、というのも自然の持つ開放感を利用した手法なのかもしれませんね……。 / hamamama ( 2001-08-12 01:41 )

2001-08-08 <特別企画・夏休み絵日記?>彫刻を見る。

ああ、また更新が滞ってしまいました。忙しかったり、
遊びほうけたりしてました。
でもまあ、遊んでる中にも 考えさせられるようなことは あるわけで。
言葉というテーマとは全然関係ないのですけど、
ちょっと書いておこうかなあ、と思います。

ちょっと前に、多数の彫刻を見る機会があって。
それは、ただの美術館の中に展示されてる彫刻群ではなくて、
野外に展示されてる彫刻だったんですけど。

自分の人生で、彫刻を鑑賞するのが初めてだったので、
彫刻について色々と考えてしまいました。
芸術作品を鑑賞する際に、頭でつい考えてしまうことは 
やや問題があるかもしれませんが。
絵画とかは美術館とかで何度か見たことあるんですけどね……。

彫刻の特徴って何かなあ って思いながら、彫刻作品を見ていたんですけど。
やっぱり立体っていうのが大きな特徴だと思いました。
当たり前か(笑)。
立体じゃない彫刻とかもありそうだから、
あまり強気な発言は避けておこう(びびり)。
油絵とかも、近くに寄ってみると塗り重ねられた部分が隆起していたりして、
厚みみたいなものは感じますけど、
彫刻の持つ立体の意味は全くそれとは違うと思いました。

近くに寄って色々な角度から作品を眺められるのが、
彫刻の特徴の一つじゃないかなあ、と。
別にどっちが優れていて、どっちが劣っているというわけではないですけど、
絵画はある立体の側面を切り取って瞬間を保持するって感じですね。
彫刻は全体を一挙に出現させる感じ。
彫刻を見る時には、どこかの一方向からしか見られないのですけど。

それと彫刻作品は躍動感を表現するのに、
うってつけの媒体って気がします。
静止した、例えば立ち姿を表した彫刻像も もちろん良いのですけど、
動きのある彫刻の方が僕は好きですね。
ってここで僕の趣味を言っても仕方がないのですけど。

僕が見たのは、「弓を射るヘラクレス(あいまい)」みたいな
題名のついた彫刻だったのですが。
その彫刻のヘラクレスが構えてる弓には、弦がついてないのですね。
弦の張られていない弓をヘラクレスは構えてるわけです。
弦を引こうとする手はもちろんあります。
その彫刻の今にも動き出しそうな手が、弦を出現させるのです。
弓に弦を張るというか。
みんなが、みんなそんな感想を持つかどうかわかりませんけど、
少なくとも僕には、現実にはない弦が見えました。
その時、彫刻ってすごいなあ、って単純ですけど思いました。

もう少し、彫刻に関して感じたことを書き留めておこうと思います。
次回に続く。
 

先頭 表紙

相変わらず、文章なが!! 言いたいことをまとめる努力が必要ですね>hamamamaさん / hamamama ( 2001-08-08 19:57 )

[次の10件を表示] (総目次) [日付順全表示]