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口車大王「旅のおもひで」

 
口車大王の、旅行で遭遇したことなどを。。。

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目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2002-08-03 [会津]街道を行く その2
2002-08-03 [会津]街道を行く その1
2002-07-30 [会津]強清水の千本蕎麦
2002-07-29 [会津]梅雨の晴れ間の青空
2002-07-22 [大阪]ディープサウス−食い倒れ 朝から焼き鳥で一杯
2002-07-21 [大阪]ディープサウス−通天閣と猫
2002-07-20 [大阪]ディープサウス−阪堺電軌 世界の車窓から
2002-07-12 [大阪]ディープサウス−浜寺公園駅
2002-07-08 [大阪]ディープサウス−思い出の場所 口車大王誕生す
2002-07-07 [韓国昔話]キムチ先生と北緯38度線


2002-08-03 [会津]街道を行く その2


 会津若松から宇都宮に抜ける会津西街道国道121号線沿いに,大内宿があります。ここは瓦葺きやトタン葺きにした家を茅葺きに戻し,集落の中の道も舗装を歯がしてしまって,江戸時代の雰囲気を復元した集落です。

 大内宿は明治初頭まで駅,すなわち馬の乗り継ぎで繁盛していたのですが,明治初期にバイパス(現在の国道121号線の原形)ができてしまい,衰退してしまいました。そこで,関東一円に茅葺き職人として出稼ぎで収入を得ていましたが,茅葺きの家も減り,昭和40年代には集落も衰退しかけます。ところが,昭和50年代に入って古い町並みに対する日本の社会の評価が変わり,街道からはずれてしまっておいてきぼりを食ったことが幸いし,江戸時代の町並みがほとんどそっくり残った大内宿は,一躍観光資源を手にすることになります。

 集落を歩いてみると,今や有名な観光地ですから表面的には俗化しています。しかし,それも集落の人たちが食っていくためには仕方ないでしょう。考えてみれば,かつて宿場町として栄えたときもこんな雰囲気だったかもしれません。でも,感心するのは彼らは魂まで売っていないということです。お店の人と仲よくなるとみなさん純朴ですし,集落の入口のおじいさんとおばあさんなんか,商売っ気なんてありはしません。

 観光地とはどうあるべきか,非常に良いお手本でしょう。

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そうそう,野岩鉄道が開通して東武鉄道とJR会津線がつながり,その後会津線が第三セクターになって会津田島まで電化し,浅草から会津田島まで乗り換えなしで行けるようになったことが大きいですね。観光地化してしまいましたけれど,土地の人は十分素朴です。しかし,自分たちが住んでいるところが観光地というのも,結構つらいだろうなぁ。 / 口車大王2号 ( 2002-08-03 21:43 )
15年ぐらい前に行きました.会津鉄道が開通したとき.最近は観光地化されているんですね. / 八百八六助 ( 2002-08-03 18:35 )

2002-08-03 [会津]街道を行く その1


 会津は,街道筋に江戸時代からの町並みが残っているところがたくさんあります。国道294号線茨城街道も,白河から強清水までの間に御代,福良,赤津と三つの宿場があり,かつての宿場町の雰囲気がそのまま残っています。左上の写真は猪苗代湖西岸の,原の部落で見つけたお社。茨城街道沿いです。

 残りの写真は喜多方市の西に位置する蕎麦の町山都の駅と中心街。ここも越後と喜多方を結ぶ街道沿いの宿場町で,駅周辺にはやはり当時の雰囲気が残っています。

 こんな町並みが至る所にあるのが会津です。いずれも,築後100年から200年が経過しています。知り合いの会津人の,「家は百年以上持って初めて家と言うんだ。」という言葉が,会津の人たちの家に対する思いが伝わってきます。

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2002-07-30 [会津]強清水の千本蕎麦


 国道294号線茨城街道を,猪苗代湖の西岸に沿って北上していくと,国道49号線にぶつかります。この辺りを強清水(こわしみず)と呼びます。この一角に,そば屋さんが固まってあります。元祖清水屋から始まり、今回立ち寄った千本蕎麦を含め,現在は4軒あります。

 ここの蕎麦屋の名物は,にしん,するめ,納豆,まんじゅうの天ぷら。これがうまいんです。なんとも言えず素朴。そして蕎麦。会津は蕎麦の名所でもあります。今回は身欠きにしんの蕎麦を頼みましたが,酸味を聞かせなんとも形容しがたいおいしさ。にしんもするめも保存食ですが,内陸部の会津の地でも昔から食されていたようです。にしん蕎麦というと京都が有名ですが,ここ強清水もなかなかです。会津藩の最後の藩主松平容保は京都守護職として京都に赴きましたが,この関係で味の影響があったかもしれません。

強清水元祖清水屋  TEL0242(94)2008
もろはく屋菅井商店 TEL0242(94)2411
やまぐち屋     TEL0242(94)2428
千本蕎麦      TEL0242(94)2051

追記(2004.6.13)
 会津出身の方から、千本蕎麦は最も新しくできた店であるという指摘を受けました。かつて強清水のそば屋のことを教えてくれた人は千本蕎麦が古くて美味しいと言っていたのですが、間違って教えられたようです。

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千本蕎麦のにしん蕎麦,ほんとーーーーに絶品です。 / 口車大王 ( 2002-07-31 23:51 )
ニシンそば、好物だったりします。食いに行きたいぞ。 / 夢樂堂 ( 2002-07-31 14:22 )

2002-07-29 [会津]梅雨の晴れ間の青空


 6月に会津まで行ってきました。え,またワールドじゃないのにって?だって,会津に行くには白河の関を通らないと行けないではありませんか。

 写真は,猪苗代湖の西岸,白河から国道4号線を左折して,国道294号線茨城街道を北上してくるとここにたどり着きます。途中の茨城街道はすばらしい景観の道で,御代,福良,赤津の3つの宿場町があります。かつては豪壮な茅葺き屋根の建物が道の両側に並んでいたのですが,さすがにほとんどが茅葺きでなくなってしまいました。ちょっと残念。それでも,築100年以上の建物はほとんどそのままです。日本の,隠れた景勝地ですね。

 それにしても,梅雨の真ん中にこの青空。林の向こう側は猪苗代湖です。

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水田の緑,空の青,そしてこの構図。思わず車を止めて写真を取ってしまいました。鶴ケ岡茶寮はこちらですな。これは知らんかった。ここから西若松の駅のご近所に行くと,ラーメンのうまい店があります。 / 口車大王 ( 2002-07-30 19:59 )
会津も好きな場所、確か鶴ヶ岡茶寮という店だったと思うけれど、昼飯は最高だった。 / 夢樂堂 ( 2002-07-30 16:24 )

2002-07-22 [大阪]ディープサウス−食い倒れ 朝から焼き鳥で一杯


 写真は、道頓堀沿い、食い倒れの焼鳥屋である(真ん中奥、茶色の店)。機会があれば、立ち寄るようにしている。昨年7月もすぐ近くに宿を取ったので立ち寄れた。この写真の雰囲気から時刻がわかるであろうか。そう、朝なのである。しかも、日曜日である。この焼鳥屋、すぐ近所の場外馬券売り場が開いているときは営業しているのである。すなわち、朝の8時半から焼き鳥片手に酒が飲める。

 なんて、ナイスなお店だ!

 口車は、東京生まれの東京育ちであるが、大阪が大好きである。まあ、たまにはうっとうしいこともあるが、本音で突っ込んでくるのが心地よい。言うことに裏表がないのが良い。もちろん、いやなやつもいるが、そんなのはどこにでもいる。いや、むしろ東京の方が多いか。

 そんな大阪だから、まずはお客のことを考える。お客もシビアだからお店を選別する。そうして大阪の店は鍛えられていく。そうすると、こういう、日曜日の朝から営業する焼鳥屋なんてのが登場する。

 聞くところによると、東京にも朝からやっている焼鳥屋があるそうである。場所は下町。共通するのは飾りっけのなさである。お客に喜んでもらえて自分たちも儲かる。商売の原点である。そういう商売に対する考え方は、やはり大阪に軍配が上がる。

 そんな大阪も、最近やたら東京の、しかもいやなところを真似しようとする傾向が強い。食い倒れでも、「おおだこ」なんていう、水っぽい冷凍のタコを使ってまだ冷たいようなたこ焼きを、観光客相手に平気で出すよう店も登場している。店の作りはかっこよいが、味は三流なんて言う、東京だったらそこら中にあるような店が増えている。

 大阪は大阪。その泥臭いど根性と誠実さが魅力なのである。東京を表面的に真似して、自分たちのアイデンティティをなくすことはないではないか。

 この焼鳥屋で飲んでいると、そんな思いを忘れさせてくれる。店主と常連の心地よい競馬談義。ここは、まぎれもなく大阪である。

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うちの旦那も数年前、単身赴任していた大阪を懐かしがっています。 / スーパーしえろ ( 2002-08-04 12:07 )
さにゃえもんどの,大阪はいいですよ。 / 口車大王 ( 2002-07-29 13:41 )
何だか楽しそうだなあ。 慣れてる人から教えてもらって行きたい町だね。 いいなあ大阪。 / さにゃえもん ( 2002-07-27 02:06 )
よく見たら、反対側の手前の焼鳥屋も営業中のようですな。 / 口車大王2号 ( 2002-07-22 10:41 )

2002-07-21 [大阪]ディープサウス−通天閣と猫


 阪堺電軌鉄道阪堺線の始発駅、恵美須町駅は通天閣の真下にある。まるで、大阪ディープサウスへのゲートウェイのようだ。昨年7月に、初めて訪れてみた。

 別にどこにでもある展望台ではあるが、通天閣は通天閣だけで成り立っているのではないことが、地下鉄の出口を出て新世界の通りを歩いていて良くわかる。新世界の通りは今風にきれいになってはいるが、街の醸し出す、なんとも言えない泥臭い雰囲気までは変わっていない。この泥臭さこそ、通天閣の通天閣たる所以である。だれが何と言っても通天閣なのである。

 いよいよい通天閣に登ってみる。エレベータは新しくなって最新型のものがついているが、やはり通天閣のにおいがする。なんとも言えないこの泥臭さが最高である。

 そして、通天閣と言ったら、これ、ビリケンである。もともとアメリカのものであるのに、ここまでこの通天閣の風景に合ってしまうとは。。。おそるべし、大阪である。

 さらに、もうひとつ通天閣名物を見つけた。そう、猫達である。なんとも言えない愛嬌で、お客を迎えてくれる。

 夢樂堂様、おひとついかがですか?

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よしのさま,通天閣のビリケンさんは,なんというか不思議な存在感があります。 / 口車大王2号 ( 2002-07-24 19:26 )
夢樂堂様,ビリケンはじめてみましたが,メリケン人なんですな。 / 口車大王2号 ( 2002-07-24 19:22 )
失礼・ビリケンときいて飛んできましたが、あたしのはほっぺのふくらみもかわゆい色白のQPさんみたいなオチビちゃんなんですが。目を閉じて後ろに手を組んで威張ってはいますが・ / よしの ( 2002-07-22 18:16 )
これだこれだ。家にあるはずのビリケン像、どこにあるんだ。 / 夢樂堂 ( 2002-07-22 15:54 )

2002-07-20 [大阪]ディープサウス−阪堺電軌 世界の車窓から


 昨年7月に浜寺公園まで行ったときは、南海本線ではなく、通天閣の真下の恵美須町駅から阪堺電軌鉄道阪堺線に乗って行った。終点の浜寺駅前駅まで29駅、普通の人はこんなことやらんですな。

 ひまじん日記に路面電車を登場させるのは、ストックホルムオスロに続いて、三度目である(ほら、ワールドでしょ!)。路面電車の走る街はどこも例外なく風景がやさしい。乗務員もなんとなくのんびりしているし、お客さんもあくせくしていない。

 大阪市と堺市をわける市境に大和川がある。路面電車は鉄橋への上り勾配をあえぐように駆け登り、大阪市から堺市、すなわち、ディープサウスへと突入する。同じ大阪でも、大和川を堺になんとなく雰囲気が変わるから不思議だ。

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2002-07-12 [大阪]ディープサウス−浜寺公園駅


 その頃、湊臨海ホテルから泉北コンビナートの工事現場の通勤経路は、南海本線湊駅まで歩いていき、そこから普通電車で浜寺公園駅まで、石津川、諏訪ノ森と、3駅乗る。そして駅からまた国道まで歩き、右手に路面電車の阪堺線浜寺駅前駅を見て、左手の歩道橋の下に置いてあるチャリに乗る。そこから約10分、チャリをこいで工場正門の守衛所を通り、現場事務所のプレハブにたどり着く。

 帰りは逆のコースをたどる。チャリを歩道橋の下に置いて、浜寺公園の駅から電車に乗る。隣の羽衣駅まで行けば、コンビナートまでの連絡バスがあるが、帰りのことを考えるとこのコースがもっとも効率的である。

 昨年の7月8日、通天閣の足下の恵美須町から阪堺線に乗って浜寺駅前まで来てみた。停車場は昔のまま、国道の反対側の浜寺公園も当時のままである。浜寺公園は、シンクロナイズドスイミングの日本のメッカでもある。そして、あの歩道橋の下は、なんと有料の駐輪場になっているではないか!なんとなく、余裕のなさを感じてしまう。当時、すでに高度経済成長の終焉を迎えつつあったころだが、それでも、今よりはるかにゆとりがあったのだなと改めて感じさせられる。

 そして、浜寺公園駅も当時そのまま風格のあるたたずまいを見せていた。南海本線浜寺公園駅は明治40年建築の駅舎で、建築当時とほとんどそのまま同じ駅舎が現在も使われている。設計は東京駅を設計した辰野金吾博士。幸いにして、1998年4月には国の登録文化財建造物に指定された。すなわち、この駅舎は今後保存されていくことになる。

 かつて、埋め立てで泉北コンビナートができるまで、この辺り一帯は遠浅の美しい海水浴場だった。ここへ海水浴に来る人々を出迎えたのが浜寺公園の駅舎だった。当時の痕跡を唯一残す駅舎が保存される。環境破壊をしてしまったところに仕事で来ていた後ろめたさが常につきまとっていたが、国の登録文化財建造物に指定された碑文を見つけて、ほっとしたような気分になった。

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北ですか、南ですか、東ですか?西は、、、ないな。。。 / 口車大王 ( 2002-07-14 00:26 )
うちの住んでるとこまで、そこらへんから車で高速使って約30分です♪お次は温泉に入っていって下さいねん。 / りぃな ( 2002-07-13 02:20 )

2002-07-08 [大阪]ディープサウス−思い出の場所 口車大王誕生す


 え?なんで、大阪なのにワールドなんだって?だって、東京から大阪に行くには、パスポートがいるではありませんか。

 うぞ。。。。

 ということで、時間が経つのは早いものである。ちょうど一年前の七夕、大阪は鶴橋で「ひまじん大阪オフラインミーティング カラオケ&焼肉編
」なるものが、挙行されていた。

 道頓堀で一泊し、次の日口車は大阪はディープサウスの思い出の場所を目指して行ってみることにした。

 新入社員だったころ、入社して3か月目の6月から約3か月、口車はこの写真の「湊臨海ホテル」に滞在していた。当時の建物の面影は、そのまま残っていた。

 南海本線に乗って湊の駅で降りると、かつての面影は全くなかった。当時は平面の駅だったのが、今は高架上の駅になっている。駅周辺の雰囲気はまるで変わってしまっている。しかし、駅から国道に向けて歩いていくうちに、右手に黒板塀が見えてくる。これは、その頃のままだ。ここは堺、泉州ど真ん中である。もうちょっと南に下れば、そこはだんじりで有名な岸和田である。

 しかし、国道まで出てみてがっかりしてしまう。炎天下、排気ガスにあえぎながら右に行ってみる。当時なじみにしていた立ち飲み屋もすし屋も、全く影も形もない。歳月の残酷なことよ。すし屋はすぐ近所に店があったので、ひょっとしたらそこに移転したのかもしれない。しかし、個人営業だったのがチェーン店のようだったので、どうも違うようだ。大阪では珍しい江戸前のすし屋で、安くておいしかったのだが。立ち飲み屋の主も、当時すでにいい歳だったからなぁ。残る臨海ホテルもなくなってしまったのだろうか。

 しかし、折り返して国道を左手に歩いていくと、昔のたたずまいを残したまま臨海ホテルはあった。当時は、国道から目立つところに縱に白い看板が立っていたが、それがなくなってしまっていたので見逃すところだった。

 臨海ホテルは、いかに当時とは言え、一泊二食付、1,200円という破格の安さだった。ビジネスホテルで6,000円とか7,000円とかしていた頃である。ホテルというよりは簡易宿舎といった方が良いであろう。口車の上司が宿泊費を浮かして飲み代に回すためにここを選択し、つきあったのである。もともとはボーリング場であった建物を改装したものである。ボーリングブームが去った後の、無残な名残であろうか。

 さすがに、当時のようにボーリング場であったという痕跡はすっかり無くなっていた。別に高級ホテルでも、名所があるわけでもない。目の前の、コンビナートに仕事をしに来る人たちのための、何の変哲もない安宿である。しかし、ここはまぎれもなく、口車が大学を卒業して、社会人としての第一歩を記した場所である。

 もうあの頃はもどってこない。しかし、かつて自分が確かに暮らした痕跡を、ふっと訪ねてみたくなるものである。

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夢樂堂さま、さすがに衰退はしていなかったのですが、なじみの店がすべてなくなってしまったというのは、やはり悲しいです。相変わらずの、ほこりっぽい場所でした。 / 口車大王2号 ( 2002-07-09 15:19 )
数年ぶりに地方都市に行くと、その衰退ぶりに驚かされることがあります。地方が元気でないと日本が活性化しない。 / 夢樂堂 ( 2002-07-09 10:48 )

2002-07-07 [韓国昔話]キムチ先生と北緯38度線

 今回はキムチ病院食で登場した診療所の先生の再登場。

 我々がお世話になっていた麗水の街の診療所の先生は、かなりのご年配である。当然、日本の教育を受けているから日本語も上手。「日本人はキムチ食べないからだめなのよ。」と、なかなかひょうきんな先生でもある。検診なんかで伺うと、必ず「まあ、お茶でも飲んでけ。」と世間話と相成る。

 あるとき、先生とお話ししていて、何かの弾みに朝鮮戦争の話になってしまった。そして、北朝鮮軍のことになると、あの冗舌な先生が怒りに顔を真っ赤にし、ぶるぶる震えだして絶句してしまった。

 本当に先生は怒っている。ここまで興奮している先生を見たのは、後にも先にもこのときだけである。

 これは、我々日本人には絶対理解できない感覚である。日本も、近代において戊辰戦争や西南戦争という内戦を経験しているが、無差別の殺戮ではない。武士という階級だけで基本的に戦争を行っている。ところが、朝鮮戦争では同じ民族同士、無差別の殺戮を行ったのである。

 朝鮮戦争では一時期、釜山周辺を除いて北朝鮮に占領された。当然麗水も北朝鮮に占拠されている。おそらく、想像するに、戦闘以外に粛清の名の元、地方自治体の責任者や警官、教師といった人たちが殺されたことも想像される。だから、先生の怒りは尋常ではない。

 第二次大戦後の冷戦の綱引きは、日本ではなく朝鮮半島を舞台に行われてしまった。その悲劇を、目の当たりにした瞬間であった。

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