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揚水の「人生薔薇色計画」

僕のハンドルは「ようすい」ではなく「あげみ」と読みます。表記はaghemiとしています。

妻の海月は「くらげ」と読みます。



ふりぃのかうんた

yesterday ふりぃのかうんた today ふりぃのかうんた


自分が何者であるか今よりももっとわからず身悶えしていた学生の頃、何をしたらいいのかについて友達と話しに話した。
結論は出なかった。どころか何をしてもいいんだということにすらなった。
ただし、本当に何をしてもいいというのではなかった。
一つだけ基準がある。
それは俺の、俺たちの、ひいてはほかの人たちの人生を薔薇色にするか、その一点。
時々それを思い出しては行動する。
それが僕たちの人生薔薇色計画。



    よそいき仕事日記   

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2004-07-06 愛犬家に告ぐ
2004-06-26 不自由落下?
2004-06-11 それは早過ぎる
2004-05-22 歯車(ギア)はひとりぼっち
2004-05-21 矛盾
2004-04-19 命の軽さを数えてみる
2004-03-20 しあわせのかたち
2004-03-14 貝割れ大根
2004-02-25 わたし、生きてます
2004-01-10 けして模範解答というのではなく


2004-07-06 愛犬家に告ぐ

犬の飼い主の方へ

犬の糞の不始末で憤慨している方が大勢みえます。
紛争にならないよう、分別のある飼い主になってください。



こんな立て看板を見ました。

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うーむ、それは豪放ライラックなお邸ですことよなあ(詠嘆)。 / 揚水 ( 2004-07-07 19:12 )
うちの近所には「人の玄関にクソさせるな」とハッキリクッキリ書いてある豪邸が・・・ / kotarou子 ( 2004-07-07 01:32 )

2004-06-26 不自由落下?

曇天。

仕事中ある駐車場に何をするでなく上司に待たされて立っていた。
頭にポトリ、という感触。

とうとう落ちてきたか、
と思ったものの、雨の降ってくる様子はない。

気のせいか。

数分後その場にそのまま立っていてふと下を見た拍子に、件の感触の元が地面に落ちた。

9ミリくらいの蟻だった。

上を見ると、ちょうど僕の頭上に電柱と電柱をつなぐワイヤーが張られていた。

おお。
ひょっとしてあそこから落ちてきたのか? そうなんだろうな。

あそこまで登り、渡っていたのは大自然のなせる本能という蟻自身の意思だとして、その後落ちてきたのは自由意志によるものか、不本意な落下なのか?

どっちなのだろう。

先頭 表紙

2004-06-11 それは早過ぎる

野村万之丞さんが昨日亡くなりました。

かつて市民参加の狂言で指導していただいたことがあります。
実際体や顔や実績やもろもろ大きいのですが、それそのものずばり、とも何か少し異なって、なにがどう、とはうまく言えないのですが、「大きいな」という印象の方でした。

あんなに大きい方がこんなにも早く亡くなってしまった。

享年44歳、早過ぎます。

先頭 表紙

ご教授ありがとうございます。そりゃ面白そうですねえ、残念。 / 揚水 ( 2004-06-26 20:53 )
NHKのラジオの教養講座みたいな番組で連続してやってたの。確か仮面ロードっておっしゃってた。ホラ!シルクロードみないに仮面(ペルソナ)もヨーロッパからアジアを伝わって日本の仮面文化とつながっているというようなお話でした。まさかこんなに早くお亡くなりになるとは思わなかったので、また近いうちにそのお話しの続きが聞けるものと楽しみにしていたのです。 / おけい@テキストバックナンバーあるかも ( 2004-06-22 17:30 )
ほんの少ししか関わらなかった方ですがとても残念です。ところで僕は仮面ロードというものを知りません。どんなものでしょうか? / 揚水 ( 2004-06-21 22:44 )
舞台も観たし、ラジオで聞いてた仮面ロードの話もすっごく面白くて・・・、亡くなったというニュース見たとき一瞬息、が止まった。 / おけい ( 2004-06-12 12:05 )

2004-05-22 歯車(ギア)はひとりぼっち

俺は社会の歯車になんかなりたくない、などと社会に組み込まれるという一面だけを嫌って社会の一員になろうとしないまま大人になった者は、実際歯車にすらなれない。
自給自足にただ憧れるだけの、自分一人でなにごとも出来ると思い込む者には自給自足など絶対に出来ない。
理由は簡単、幼稚だからだ。

そしてただ歯車としてなにものかに組み込まれかつその自覚もない者と付き合うのは、これまた実につまらない。
わたしって俺って変わってるでしょ、変わってるだろ、という輩で変わってるなあと思える人間にお目に掛かったことがない。
本当にエキセントリックな人間は存外自分のことを普通だと思っているものだ。余程自称変人よりも社会に組み込まれていることを意識している。
社会に組み込まれるということを自覚して生きることは、自身が他人に拠って生かされていることを知ることだ。
人は人に生かされている。
そして人は人を生かしている。そのことを知っている知っていないに関わらず。

だから自分も他人にとって拠って立つものとなっていると自信を持つことでもある。けして慢心ではなく。

人は一人では生きられない。

自分がどんなに強く一人であるといきがっても、たった一人で生きている者など一人もいない。
自分がどんなに淋しい人間で独りぼっちだと拗ねて見せても、人は決して一人ではない。

要はそれを知ることだ。

悪意を持って自分に害為す人間まで、自分を生かしてくれているなどとおめでたい感謝なぞはさらさら必要ない。
そこまで慈愛と欺瞞に浸る必要はない。
身の周りから、自分の愛するもの、愛してくれるものを見つけていけばいい。
どうしても出来ないと言うのなら、いやしかしやはりそれはどこかに慢心や卑下の臭いがする。

自分はこうだから、こういう人間だから、自分のやることはこれだから、出来ることはこれだから、そうしてそれらに関係ないこととは関わらない。
そういう風に視野を狭くして自分を型にはめる。

自分のやるべき事を知っている「専門バカ」なら大いに結構だが、自分から狭い殻に閉じこもって少し変わった自分、というものを愛するような専門「バカ」ばかりが、住む社会に溢れると生きにくい。

自身がどこかに組み込まれた歯車であることを知らずにいる歯車は、いつまでも孤独だ。

先頭 表紙

ほいほいわかりました、ってこれがレスじゃん(笑)。 / 揚水 ( 2004-06-21 22:45 )
“僕にはそれは「よしとする」べきことであるように感じられます。”う〜〜〜ん、、成程。深いな。。あ。特にレスはなくてもいいですよ〜。(^^) / ふむふむちづぞー。 ( 2004-06-12 11:55 )
いやあ、それがしげさん、そう自然とも触れ合っていないのですよ。むしろあなたと同じ会社にいた頃よりも重たい人間関係があるくらいで(笑)。殴られ蹴られ、仕事が出来ないと怒鳴られながら、毎日朝6時半から夜11時12時まで働いている有り様です。ここではそうした事にあまり触れないようにしていますが。なんだかほんの少しだけ強くなりました。哲学的なこと(笑)、は、今も昔もぐじぐじ考えてますね。 / 揚水 ( 2004-06-12 01:58 )
ええ、と。さにゃさんにも…(以下略、笑)。それは当然財産でしょうともさ。 / 揚水 ( 2004-06-12 01:52 )
ええ、と。ねんねこさんにも似たようなことになってしまうかもしれないですね。自らすすんで他者との関わりを絶つというのであれば、それは僕が揶揄した「歯車」とは異なりますから。お久し振りです。 / 揚水 ( 2004-06-12 01:50 )
どこかに嵌め込まれていることをごくごく単純に無自覚に「否」とすることを、僕はよしとしないのです。嵌め込まれていない、と感じるのであればそれは自身の自覚ですから。 / 揚水 ( 2004-06-12 01:47 )
ううむ、どうも誤読を呼び寄せているようです。僕に言わせればちづぞーさんは「セカイと手を繋げない」という自身の位置を自身なりに自覚しているので、僕の言うところの「孤独な歯車」とは正反対の位置にいる歯車だと思えるのですが。自身の位置を自身なりに自覚している。それがご自身にとって「負」であるのならば他人がどうこう言うようなことではなく重たいことなのでしょうが、僕にはそれは「よしとする」べきことであるように感じられます。 / 揚水 ( 2004-06-12 01:47 )
自然とのふれあいを取り戻してから、哲学的に生活してますね / しげさん ( 2004-06-06 06:30 )
私はチビッコ時代から『強すぎる人』と見られ、また事実だったから集団行動より1人が楽なんだな。 だからきつくても自営業してます。 人と違う事を自覚してるから人と違う道を気楽に歩いてるよ。 1人では生きられないけど自分の意思で歩いて行きたいね。孤独を楽しめる部分を持てた事が私の財産っす。 / さにゃえもん ( 2004-05-26 23:14 )
あ。ネット以外ということで・・・ レジの人とか集金とかは「おつきあい」の範疇ではありません。 / ねんねこ先生 ( 2004-05-23 19:29 )
コチラに2年間島流しになりました。家人以外の人間とお付き合いを拒んで、どの位もつものか実践中です。 / ねんねこ先生 ( 2004-05-23 19:27 )
わたしは、まさに揚水さんのおっしゃるところの、孤独な歯車です。 / ちづぞー。、セカイと手を繋げない。。 ( 2004-05-22 04:06 )

2004-05-21 矛盾

生と性は同一だと考える僕が避妊をするという自己同一性の乏しさに、その自分である僕が自分を嗤う。

で?

嗤わば嗤え。

先頭 表紙

ラジャ。 / 揚水@お久し振りです ( 2004-06-12 01:59 )
妊娠してもいい情況のSEXなんて人生に数回です。ひたすらガードして下さい。ホントは望んでいなかった子どもというのも哀れなモノです。 / ねんねこ先生@お久〜 ( 2004-05-23 19:25 )
マナーなのでしょうかね、そうかもしれないですね。決まったパートナーであれそうでないのであれ、お互い妊娠を望んでセックスするのでないのであれば、避妊は面倒臭がらずに習い性にしてしまえばいいんですよね。自己同一性の欠如はわざと大袈裟に言いすぎです。なにも産むことばかりが「生」でないのはわかりきったことですから。 / 揚水 ( 2004-05-22 01:08 )
自己同一性はともかくとして、避妊はことに臨むさいのマナーであるとおもいます。 / ちづぞー。(´ー`)y─┛・・・  ( 2004-05-21 03:50 )

2004-04-19 命の軽さを数えてみる

馬刺し100gは馬一頭の屍体の何分の一だろう?
シラス干し100gは何匹の魚の屍体の集まりだろう?

久しく自国で戦争を知らない国で例えば車にはねられて死ぬ命と、戦禍や大国の暴略に晒された場所で例えばたった一つの爆弾であまりに無造作に奪われる命とでは、その重さに違いはあるのだろうか?

例えば一人の交通事故死の親族や友人は寄り集まった葬儀の席で故人を偲ぶ。
例えば爆死した大勢の故人の友人親族は無論悲しみ怒るがただ悲しみにくれるだけでなくそのうちの幾人かは新たな争いに巻き込まれ、あるいはすすんで身を投じる。

言い方は悪くおかしいかもしれないけれど、じっくりと悼まれる死。
悼まれる暇(いとま)もなく繰り返される報復の連鎖に飲み込まれる死。

命に軽重はないと単簡に言うことが出来るのであれば、その扱いの違いはなんだろう?

どこかで誰かが食べ終わったラーメン鉢の底にはりついて残された胡麻を思って、そう考える。

先頭 表紙

どうにも答えの出る設問ではありませんね。命に軽重はある、とも言えるし、ない、とも言えますし。ものの言い様でなんとでも言えます。状況によっても語る人によっても変わる。なかなか。 / 揚水 ( 2004-05-04 00:25 )
「死」に重さがあるとすれば、個人を偲ぶ人間に掛かっているのかも知れませんね。。どんな死に方でも、「死」という現実。此れを超える事はむずかしそうですから。 / ちづぞー ( 2004-04-27 21:39 )

2004-03-20 しあわせのかたち

目に見える、感じられる幸せの形というものは、あります。
確かにある。
誰も何も言わないかもしれませんが、誰がなんと言おうと、ある。

さしずめ今の僕で言えば。

今晩は海月がうちに来ています。

そんだけのことです。

先頭 表紙

幸せは柔らかな形。いいなあその表現。なんか淫靡で。 / 揚水@すんません遅レスです ( 2004-04-19 01:04 )
どういたしまして。 / 揚水@すんません遅レスです ( 2004-04-19 01:01 )
はい、おひさしぶりでございます。わたしも、生きてます。(笑)イイですねぇ〜。彼女さんといっしょ。。ああ。ときめきが欲しいきょうこのごろ(爆) / ちづぞー。幸せは柔らかな形をしていると。 ( 2004-04-02 07:53 )
それだけのことなのに、まるごとしあわせ。  おすそわけ、ありがとう。 / パンドラ ( 2004-03-28 08:58 )

2004-03-14 貝割れ大根

頭の中で歌が流れて離れないことというのはよくあることだと思います。
一昨日僕の頭の中では中島みゆきさんが「黄砂にー吹かれてー彷徨うー…」と唄っておられました。何度も何度も。

他の人がどうなのかまでは知りませんが、僕は、同じように瞼の裏あるいは眼の前に映像が浮かんで消えないことがあります。
眼の前、というのは目を開いていても眼前の景色より浮かんで消えない映像の方が強いことすらあるからです。

ついさっきまでその映像は薄く白いスポンジにびっしり生えた貝割れ大根を低い位置から見たパースペクティブな光景でした。

何考えてるんだろ、俺。

先頭 表紙

食品としては庶民的でも瞼に何の脈絡もなく浮かぶ光景としてはちとコワいかも、です。 / 揚水 ( 2004-03-18 23:52 )
庶民的な映像でほっとしたよーな?(揚水さん生きてて良かった♪) / そそそ@ご無沙汰してます ( 2004-03-17 19:54 )

2004-02-25 わたし、生きてます

ご無沙汰してます。

最近引っ越しました。
パソがまだ旧宅に置きっぱなしです。
引っ越す前からずいぶんとパソには触ってませんでしたっけかね。

みなさんお元気ですか?
僕は生きてますよ。

先頭 表紙

どーもどもどもども。 / 揚水 ( 2004-03-13 01:51 )
よかった〜♪   / 元ぷらら ( 2004-03-07 23:37 )

2004-01-10 けして模範解答というのではなく

設問一から六まではまじめに考えてくださっても割合すんなりと答えられると思いますが、設問七と八に関してはいわゆる学習的な「国語」の「考査」・「テスト」というものを皮肉っています。
まじめに考えてくださった方には申し訳ないと思います。
ですが大体会話でなくて書き言葉の場合、あまりに素っ頓狂な読み解きは無論論外ですが、誤解も含めて、人の書いたものを理解することはありだと思います。そこに正解不正解の区別は、ないといえばない。ですから皮肉、です。

得に設問八に関しては、なにごとか誰か人が文章を綴る際、「とどのつまり」、「要するに」ということであれば何も長々と文章を綴ることはないのではないか、と国語の問題を解きながらまだガキだった僕は思っていたのです。自分をそれになぞらえる訳ではありませんが、太宰然り、筒井康隆氏然り。要約不能だからこそ人は文章を綴るのです。何かが言いたければ一言警句で充分。それはもはやアフォリズムでしょう。

まともに答えるならば設問七の答えは、「巣を離れた一匹の蟻は、蟻という生き物から剥がれ落ちた、切片。生きてはいるが本来の形ではもはや生きてはいけない。それはただ、蟻の形をした一個の生命機械だ。死んでこそいないが生きてもいない。生から剥離した、切片。だがそれでもその蟻は生きている。」あるいはそれに、「巣を離れては、属する単位を離れて一匹では生きていけない。一匹一匹は気ままに動いているようでも、組み込まれたシステムやプログラムに知らず知らず従っている。」を付け足してもよいかもしれません。
また設問八の答えは、「人間は社会から、あるいは種を離れて一人で生きることは出来ない」とでもなるやもしれません。

国語の問題によく見られる「作者の言いたいことは何か。以下のうちから最も適したものを選びなさい」という類の設問で、僕は作者の意に適うだろうなと思われる文章にお目にかかったことはほとんどありません。皆無と言っていいでしょう。けれど僕は「最も適したもの」を選ぶことは得意でした。作者の意図とは違うであろうと思いながら、設問者の意図は問題用紙に透けて見えた。パズルを解くようなものです。
そうした訳で僕は国語の点数はよろしいガキだったのです。勉強が嫌いだったので暗記や努力の必要な古典漢文は芳しくなく、もっぱら現代文の読み取りに限られていましたが。

けれど国語の点数が良いからといって人は他人との意思の疎通がうまくいくとは限りません。僕はきちんと自分の考えをもってそれを人に語ること、人の意を汲むことはともにどちらかといえば下手、いえ、はっきり言ってど下手でした。今でも下手くそです。

読み取りに限って、というのは自分の意見を述べるのが苦手だからそう言うのです。もっと言えば僕はしっかりとした自分の考え、翻って自分というものを待たなかったのではないかと思います。

さらに、僕は他人を慮ることが出来ない。何気なく、逆に言えば何の気もないことそのものがミソなのですが、何気なく吐いた言葉で他人を傷つけたり怒らせたりしてきたように思います。気をつけなければきっとこの先も。

言葉を上手く操るということはなにも児童生徒学生時代、国語の成績がよかったということをあてに出来るようなシロモノではありません。

多分きっと。

先頭 表紙

「解答例」で「裏」を、「けして模範解答というのではなく」で「裏の裏」、というつもりでしたが、いかがだったでしょうか(笑)? / 揚水 ( 2004-01-18 19:57 )
裏の裏を読んで、表。と思って、正面から答えたのですが、揚水さんの狙いはシンプルに裏でしたか。うーん、見切れなかった、悔しい(笑) / みなみ ( 2004-01-14 00:17 )

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