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Hideyの「蛍の光の下で」

帰国に伴い長い間ご愛読いただいたこの日記を終了させていただきます。
もうこのサイトに文章を綴ることはありませんが
もしこの先もおつきあいいただけるようであれば
メールをいただければ幸甚です。
皆様、本当にありがとうございました。お元気で。

絵日記

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2003-05-24 ジャック・ウェルチのコーポレート戦略 6
2003-05-24 ジャック・ウェルチのコーポレート戦略 5
2003-05-24 ジャック・ウェルチのコーポレート戦略 4
2003-05-24 ジャック・ウェルチのコーポレート戦略 3
2003-05-24 ジャック・ウェルチのコーポレート戦略 2
2003-05-24 ジャック・ウェルチのコーポレート戦略 1
2003-05-22 チャンピオンズ・オン・アイス
2003-05-21 レッドソックスvs.ヤンキース観戦 2
2003-05-21 レッドソックスvs.ヤンキース観戦 1
2003-05-20 ムービング・セール


2003-05-24 ジャック・ウェルチのコーポレート戦略 6

そして1995年、ウェルチは最後の重要なコーポレート・ストラテジーを講じた。あのシックス・シグマである。シックス・シグマとはもとはモトローラで開発されアライドシグナルというウェルチの旧友が営む企業で大いに威力を発揮した品質管理システムである。実はそのモトローラも1980年代に日本のポケベル市場に参入しようとしたときに品質の悪さから失敗したことを教訓にしてこのシステムを構築したのだ。シックス・シグマとは文字通りの意味としては100万個生産して3.4個の欠陥率を目指すという意味である。シグマとは統計学でいう標準偏差のことである。

ウェルチはこの純粋に生産管理的なコンセプトを経営コンセプトにまで昇華させた。目標設定、目標達成のための人材管理、経営目標への組み込みを行い、さらにベスト・プラクティス・プログラムとの融合を図った。特に人材管理においては「グリーンベルト」、「ブラックベルト」、「マスターブラックベルト」という三つの等級を設けてこれらの資格を希望する何千もの社員に所定の訓練を施し、資格取得者はボーナスによって報酬を得た。今やシックス・シグマといえばモトローラのものというより「GEの」「ジャック・ウェルチの」と枕詞がつくほどである。当然このストラテジーも全事業分野に及ぶ付加価値をもたらした。

こうしてジャック・ウェルチの21年間にわたる統治における数多のコーポレート戦略は様々な効果を生み、それは経営指標にも反映された。1998年のROE(株主資本に対してどれだけの利益が得られたかという指標)は、前任の伝説的CEOジョーンズの時代をはるかに凌駕する25.4%にも達した。ウェルチが20世紀最高の経営者と呼ばれる所以である。

GEのケースは言ってみれば、ともすると官僚主義と非効率を生みがちのコングロマリットが、天才経営者ジャック・ウェルチという経営資源によってコングロマリット特有の危険性から脱し、さらにコングロマリットの最大の資産である規模と多様性といういわば量的優位を質的優位に転換した最たる例なのだ。ジャック・ウェルチの講じたコーポレート・ストラテジーが機能した結果だが、ジャック・ウェルチという人間のカリスマによるところも非常に大きい。

そのカリスマの語り口を直接聞く機会を得たことは2001年10月29日の日記に書いた。この頃はまだジャック・ウェルチの改革については形骸的事実しか認識していなかったので彼の傍若無人な態度ばかりが目についたし彼の言わんとしている事の本質もよく分かっていなかった。今日の日記はCorporate StrategyのGEのケースのほかに登録を希望したものの抽選に落ちて取れなかったGeneral Management: Process and Actionという授業のお試し期間に使ったケースを元にした。どちらかというとそちらのケースの方がジャック・ウェルチの生の言葉の引用に終始しており、このケースを読んだことによってウェルチの戦略と人間の本質を知り得た。二年近く前に自分で書いた日記の意味がようやく今になって分かるとは皮肉なものだ。

先頭 表紙

ぶちょー、ほんとにおっしゃる通り。シンプルな思考がアメリカビジネスの強みであり限界でもありますね。強みの部分は日本人もおおいに参考にしてほしい。うちの会社でももっとパッケージ化された知的資産をふやせば、もっと仕事ができる人が増えそうなものなのに。サラ金学、成功されてもあまり参考にしないようにします(笑)。 / Hidey ( 2003-05-27 23:21 )
アメリカ人というのはこういったものを体系的に整理して知的資産にするのが上手いですね。日本のその手はどうも苦労話と根性論になっちゃうもんな。知的欲求をすぐに学問にしていくリベラルさは学ぶべきだろうな。俺もサラ金学でも立ち上げようかと思いました。おっと、まだ成功してないや。 / ぶちょー ( 2003-05-27 11:38 )
チチローさん、こんな自分のための覚書のような長ったらしい文章をお読みいただいてありがとうございます。その本については僕も聞いたことはありますが、同じく手がまわらないうえにアクセスもありません。ウェルチの本くらいはこれからじっくり読みたいと思いますが。 / Hidey ( 2003-05-25 23:29 )
確か、割と最近、長年秘書を務めた女性が本を書いたんですよね。面白そうですが、そこまで手が回りません。 / チチロー ( 2003-05-25 00:41 )

2003-05-24 ジャック・ウェルチのコーポレート戦略 5

ベスト・プラクティスについては、ウェルチ自身がGEよりも生産性の高い他のいくつかの企業に注目し、何が違うのかを自問した結果、分からないのなら彼らから直接学ぼうと思いついたのがその起源である。それらの企業に社員を派遣しその成功の秘密を探らせてもらう代わりに同じことを先方企業にも認めた。こうしてGEが学びを交換し合った企業にはフォード、ヒューレット・パッカード、ゼロックス、東芝などが含まれていた。驚いたことに彼らの成功の秘密には共通性があった。それはこれらの企業が個々の部署の成果を上げることよりも部署間の連携をいかに高めるかに注目したり、在庫管理を効率化したりと、何をどれだけ生み出すかよりもどのように生産工程を管理するかを重視しているということであった。ウェルチは学びをここで終わらせることなく、企業内学習センターの一コースに仕立て上げ、全社員による知の共有を図った。

こうしてジャック・ウェルチは80年代の前半にコングロマリットにおいては往々にしてバラバラになりがちの企業文化を統一しながらコングロマリットの最大の弱点である官僚主義を排除し、80年代終わりにはワークアウトとベスト・プラクティスによってこの俊敏で筋肉質な企業文化をさらに全社員レベルにまで直接的に浸透させつつ、同時にコングロマリット内のすべての事業分野に共通する業務効率化という付加価値を経営側が付与するきっかけをつくった。本格的なコーポレートストラテジーの萌芽である。そして90年代、ウェルチはさらにコーポレートの機能を充実させることにより、コングロマリットに否定的なアナリストたちの主張に対し大きな一石を投じた。

1990年のGEのアニュアルレポートにてウェルチは次のように述べている。

「バウンダリレス(boundary-less:境界のない)な企業では事業部間の境界、国内・海外作業の境界などが存在しない。そこには経営者、給与労働者、時間給労働者という、共同作業の障害になるような区別もない」

ウェルチはこのように定義したバウンダリレス企業において、最善のアイデア・知識・人材がどこからでも誰からでも自由に流れ、それを誰もが歓迎するという理想的な組織構造を志向した。従来は個人が頭脳の中に明文化しないまま囲い込んでいた暗黙知を明文化・データ化して形式知に転換しこれを企業内の誰もが共有することにより個人の知が結びつきあってさらに高度な知として企業に蓄積されるという、今でいうナレッジ・マネジメントの重要性をウェルチは逸早く見抜いたのだ。しかもそれを実践する際の最大の障壁も知っていた。

「バウンダリレスでない者には辞めてもらう。縄張り意識が強かったり、自己中心的だったり、他人と知識を共有するのを拒んだり、他人の知識を求めないような者にはここには居場所はない」

こうして彼は個人による知の共有の拒否という最大の障害を人事政策によって除外した。逆に知を共有、または積極的に模索した者が報いられるようにボーナスとストックオプションの基準を改定した。

「我々はすぐに互いから学ぶことを覚えた。GEライティングからは生産性について、GEアプライアンスシズからはクイック・リスポンス(大量生産と受注生産の融合の方法論)について、GEキャピタルからは資産の取引における効率化について、GEエアクラフトエンジンズからはコスト削減のテクニックについて、GEプラスチックスからはグローバルアカウント管理について、他事業部が学ぶようになった」

(つづく)

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2003-05-24 ジャック・ウェルチのコーポレート戦略 4

「おそらく我々が事業部長たちに確約しなければならない最も大事なことは素早いアクションだ。我々役員の仕事は、彼らが仕事をし易くするために全社的な交渉をしてやること、彼らが必要とする企業買収や提携を取りつけてやることだ。彼らが我々を求めるとき、彼らは学問的な見解を求めているのではない。明快な答えを求めているのだ」

そしてウェルチはこのような組織に必要な人材を育てるために能力に応じて高額の報酬を保証した。

「平等主義的な報酬は漸進主義の源だ。我々は成果を上げた者に高い報酬で報いるが、大きな成功を求めて失敗した者を罰したりはしない。失敗を責めることは間違いなく冒険心をくじく」

1989年、ウェルチはより実践的に彼が理想とする文化を根づかせるための二つの具体的な仕組みを創り上げた。それらは実践的な分実際の業務効率化のプロセスとしても機能することとなった。有名なワークアウトとベスト・プラクティスである。

ワークアウトとは経営陣が選んだ40から100人程度のあらゆるレベルの社員をホテルや会議場などの非日常的な空間にに集めて行う三日間のセッションである。はじめに彼らの上司にあたる人間が議題を説明し、上司は部屋を去る。残された社員たちは五つか六つのチームに分かれ、外部の進行役に助けられながら一日半かけて議題について討議をし解決方法を模索し、最終日のプレゼンテーションの準備をする。三日目がワークアウトのハイライトで、何が話し合われたかまったく知らされないまま上司が入室し、部下達に対面する。上司のさらに上司である役員たちも出席することが多く、彼らは上司の後ろ側に座る。チームの代表者がひとつずつ提案事項を読み上げる。上司には三通りの回答しか許されない。その場で同意するか、その場で否定するか、または判断材料を得るため数日検討するか―その場合は約束の日までに回答することが義務づけられる。往々にして100を超える質問が浴びせられ、上司は役員たちの目の前で即決を求められる。上司が役員の顔色を窺おうとすると、彼は部下たちに背を向けて役員にすがるかのような情けない姿を晒さなくてはならない。

ウェルチによるとワークアウトの狙いは三つある。

「実際的な目的はGE創立以来積み上げられてきた悪癖を一掃することだ。」

「二番目に教育的見地から、事業部長たちを年に8から10回ほど100人程度の部下の前に座らせ、部下が常々会社についてどう思っているのか、彼らが業務や評価システム、時間の使い方などについて何を好み何を嫌っているかを分からせるという意味がある」

「究極的には上司と部下の関係を定義し直すことを意図している。部下たちが日々上司に挑戦するという状況が望ましいのだ」

ウェルチは「社の文化は斯くあるべし」といったお題目を文章にするだけで終わってしまう変革などには興味はなく、あくまで実際に社員にこれを強いて体験・実感させてある結果を導き、それによって彼らが本当に文化を変えるべきだと悟らせる手法をとったのだ。ワークアウトは新しい文化を体感するだけでなく現実に迅速な意思決定や大胆な戦略の転換を生み、業務の効率化に多大なる貢献をした。

(つづく)

先頭 表紙

2003-05-24 ジャック・ウェルチのコーポレート戦略 3

「巨大な組織が機能するにはシンプルさが必要だ。巨大な組織がシンプルになるためには社員が自信に充ち溢れ知的な自負心を抱いていなければならない。自信のない経営者こそが複雑な仕組みを創り出すのだ。臆病で神経質になった経営者に限って、子供の頃から分かっているような当たり前のことばかり書いてある分厚く複雑怪奇な戦略シートやプレゼンテーション資料などを重宝するのだ」

「何万人にも及ぶ社員たちは細かい注釈文がくっついてくるようなややこしいビジョンには応えてはくれない。シンプルでなければ疾くなれない。疾くなれなければ勝つことはできない」

そしてウェルチはこれらの文化を組織の編成に直接反映した。

「事業部、SBU、セクターなど、細部まで正確に計算された意思決定をスムーズに伝達するためのシステムは非常によく機能した。ただしそれは70年代の話であって、80年代にはそれらは重荷になり90年代には墓場行きの切符と化した。だからそんなものは一切捨てた。ついでに大量のレポートや会議や社の上層部から溶岩のように延々と垂れ流される書類なども捨てた。捨ててしまった後にはようやく社員たちが―勤務時間の半分はそのシステムに身を尽くし残りの半分はそのシステムに抗ってきた社員たちが―突然生き生きとしはじめ、かつては山のような書類がたらいまわしになって意思決定に何ヶ月もかかっていたような事柄を、相手のいる目の前で即決するようになったのだ」

「ある事業分野では、かつてトップから底辺の間に九つの階層があったのが今は既に四つに減っている。これが究極的な目標だ」

「階層は弱点を見えなくするには格好の道具だ。階層は凡庸な才能を隠し切ってしまう。過度に負荷がかかり張り詰めた状態の方が役員は最高の能力を発揮するものと私は確信している。その方が部下につまらない干渉をしたり些事にこだわったり部下を困らせたりするような暇を与えないからだ。マネジャーはせいぜい6、7人の部下を抱えるのが精一杯という説があったが、私に言わせれば10人、15人でもいけるはずだ」

「コーポレート部門も人員削減をした。本部なんてものは企業に破滅をもたらしかねない。ビジネスチャンスを握りつぶし、詰まらせ、遅らせ、不自由を生じさせる。現場をシンプルにしたければ本部もシンプルでなければ駄目だ。」

「今ではCEOと14の事業部のリーダーが直接コミュニケーションをとり、意志決定のサイクルは短縮されてコーポレート部門による邪魔もない。かつては決定に一年もかかっていた大きな投資案件もほんの数日で決済が降りるようになった」

「皆やたらとビジネスを複雑なものにしたがるが、われわれはロケット科学をやってるわけじゃないんだ」

「100人くらいのトップの役員を集めた1986年の役員会では14の事業部長にそれぞれの事業分野での競合状況について簡単にレポートさせた。どうやったかって?各事業部長に五つの質問に対して合計一ページ以内で回答させたんだ。国際競合環境はどうなっていてこれから数年どのエリアをねらうか?この三年間競合他社はどんな戦略をとってそれが競合環境にどう影響したか?この三年事業部はそれにどう対応してきたか?これから三年間競合他社が取りうる中でもっとも我々に不利な戦略は?競合環境にもっとも望ましい結果をもたらすには何をするのが最も有効か?」

(つづく)

先頭 表紙

2003-05-24 ジャック・ウェルチのコーポレート戦略 2

そんな中で1981年、次代のGEを任されたのは44歳の若さにも関わらずごぼう抜きで会長兼CEOに抜擢されたジャック・ウェルチだった。歯に衣着せず、口論を愛し、常にオープンであることを大切にするウェルチは、兼ねてからGEのコーポレート部門は非常に官僚主義的であり、いずれこの企業は大きな壁に当たると考えていた。非のうちどころのない経営数字に誰もそのような疑問など持たない中ウェルチだけがGEの潜在的危機を洞察し、世界を揺るがすような経営改革を実践していったのだ。

最初にウェルチが行ったことは「危機意識」を喚起することだった。のちに彼は語った。

「GEはより厳しいより競争的な環境に置かれていることをそしてその尖兵が日本であることを全社が理解する必要があった」

そして彼はどの事業分野においてもGEは一位か二位でなくてはならない、さもなくば撤退すると宣言した。GEのように事業が多岐にわたる企業において単一の戦略を掲げるのは非現実的であり、むしろ「一位か二位」という目標値によってGEの事業を再定義したのだ。

「私にとっては質の高さや卓越とはベストな状態よりもさらにベターであることだ。(中略)もしそうなれないのなら我々は大いなる意志をもって、ベストよりベターになれない分野からは撤退すべきだ」

よくも悪くも企業文化ができあがっており社員がそこにとどまって変わる意志がない場合、経営改革の常套手段は敢えて危機を創り出すことである。ウェルチはそれを実践しGEをカオスに陥れた。そしてカオスから新たな方向へ向かうための秩序をつくるには人事政策によって必要な人材を保ちまたは補い、不必要な人材を切るというのが定石だ。しかもGEの組織は贅肉が多く機敏さに欠けていた。ウェルチは前代未聞の規模と決断力で人員削減を実施し、最初の四年間で72,000人の社員を解雇したのだ。

人的環境を整えたのちウェルチはGEの文化のあるべき姿を全社に向かって説きはじめた。

「漸進主義(徐々に積み重ねて前進すること)は捨てろ。多くの官僚的組織は(中略)内向きに思考するから漸進主義に陥るのだ。(中略)飛躍的な変化を志向するには、今自分はどれだけ速く動いているか、一、二年前に比べてどれだけよくやっているかを自問するのではなく、外の世界と比べてどれだけ早く、どれだけよく動いているかを問うべきだ」

「文化を変えるにはまず姿勢からだ。それもトップ―組織を率いるCEOや取締役会などのトップから変わるべきなのだ」

「優秀なビジネスリーダーはビジョンを創造し、明確に定義し、情熱的にこれを信奉し、容赦なく実現させるものだ。しかし何より大事なのは優秀なリーダーはオープンであるということだ。(中略)彼らは形式にこだわらず他人に対し率直だ。宗教的なまでに近づきやすく、飽くことなく理想を語れるものだ」

「市場の変化は恐れるべきものではない。それはカードを切って手札を替え新しいゲームを始めるための大きなチャンスなのだ。よき経営者―またはリーダー―は、そのような変化を率直に認めることによって社が脆くもダメージを受けるなどとは考えないものだ。彼らは部下に真実を話す。なぜなら社員たちはとうに真実を知っていることを彼らはよく知っているからだ」

(つづく)

先頭 表紙

2003-05-24 ジャック・ウェルチのコーポレート戦略 1

これから記す長い文章を書く理由は二つある。一つは今学期僕にとって将来を展望するうえで最も重要な授業となったCorporate Strategyのエッセンスをおさらいするため。もう一つは、これから僕がビジネス上のいくつかの岐路において迷いが生じたときに指針を求めてここに立ち戻って来られるように、経営の神様ジャック・ウェルチの言葉の数々をここに書き残しておきたかったためである。Corporate Strategyなんて七面倒くさい話題はパスという方も、ジャック・ウェルチの簡潔で歯切れのよい名言だけは読まれることをお勧めしたい。ご自分の働いている会社の経営者が本当は何をすべきか、ヒントが得られるはずだ。

Corporate Strategyとは一企業の多岐にわたるビジネス部門の上に立つ経営者が全社的戦略によってどのような付加価値を創造し得るかを学ぶ授業である。真っ先に思い浮かぶのは、仕入先企業や生産者、また販売先の卸や小売などを買収して自社グループ内流通経路を確立する垂直統合、直接のライバル企業または既存の自社ビジネスと関連する他業種の企業を買収して規模や範囲の経済性を活かそうとする水平統合という戦略だ。ありがちな議論はそのような企業統合には資産や顧客などの共有による相乗効果がなくてはならないというものだ。しかし実は相乗効果さえあれば企業は統合すべきとは限らない。相乗効果を得るためには資本のやり取りを伴わない企業間の契約でこと足りるかもしれないし市場が充分に発達していれば適正なプレーヤーと取引する方が割安かもしれない。これらの選択肢があるのなら企業統合は足かせにしかならないという場合もある。

逆にコングロマリット(多角経営企業)ではそれぞれの事業分野に関連性がないため資産の共有などが図られず、同じ経営のもとに多事業が共存するのは無意味だという指摘も一般的だ。企業が肥大化すると組織は官僚主義的になり意志決定も遅くなる。戦略上の矛盾も生じやすくなる。したがってコングロマリットは時代遅れでスピンオフ(分社化)こそが現代的スピード経営の常套手段だというのが通説である。しかしこの授業はその説にも単純に賛同はしない。コングロマリットにおいてもコーポレート部門がなんらかの付加価値を加えることによりそれぞれの事業が別々の企業して存在するよりも効率的な経営ができる可能性があるのではないかとしている。その典型的な成功例として取りあげたのがGE(ゼネラル・エレクトリック)のケースである。

以下、GEのコーポレート戦略を、その源となったカリスマ経営者ジャック・ウェルチの生の言葉を多く交えながら紐解いていく。それらの言葉はうちの学校独自のリソースによる貴重な発言録からのものであることを申し添えておく。

GEは1878年にトーマス・エジソンによって設立され、当初は発電及び電力供給、電気機器の製造販売を行っていたが、次第に事業の幅が広がり、100年後には航空機エンジンや医療機器、建設業までも手がけるようになっていた。レグ・ジョーンズという伝説的なCEOが就任した1973年当時には既に10の部門、46の事業部、190の部が存在する巨大組織であった。ジョーンズはより戦略的な見地から組織を再編成し43のSBU(戦略事業単位)に集約し機動性を高めた。しかしGEはさらに肥大化を続け、SBUごとの経営管理すら煩雑になった経営陣はSBUを束ねて六つの「セクター」に統合した。SBUやセクターという方法論は世界中の企業によって模倣された。GEはジョーンズの経営手腕によりこれまでに増して成長を遂げた。

(つづく)

先頭 表紙

2003-05-22 チャンピオンズ・オン・アイス

4月12日に遡るが妻と妻の姉と一緒にチャンピオンズ・オン・アイスというフィギュア・スケートのイベントを観てきた。近年のメダリストがずらりと揃うエキシビションである。結論から言うと非常に楽しい夜になった。

なにしろ豪華絢爛、百花繚乱なのだ。オープニングはフラッシュダンス、フットルースなど今は亡きダンスミュージカル映画の音楽にあわせて鮮やかな照明の中を次から次へと有名選手が登場してそれぞれの持ち味を散りばめたスケーティングを披露する。ミシェル・クワンが芸術的なスパイラルで観客を魅了する真横でエフゲニー・プルシェンコが豪快なジャンプを決めるという具合だ。16人と6組の世界的なスケーターがフリートセンターの氷上に集結した。

オープニングのあとは個人演技が続いた。比較的格下のスケーターから始まるのは演技を見れば分かる。ちゃんとジャンプが成功すると安心して拍手を送るという感じだが、ようやくその実力に対して正当な拍手喝采を得たのは日本の村主章枝だった。

僕はロシアの男子選手プルシェンコの滑りが好きだ。偏見以外の何物でもないのだが旧東側諸国以外には金メダルはあげちゃいけないと思う。国家の威信をかけて科学的トレーニングによって研ぎ澄ました技の上に選手個人の悲哀が込められた究極の演技―ただの偏見だ。でも僕は昔からフィギュアスケートの華やかさとは裏腹なそんなもの悲しさを個人的に堪能してきた。西側諸国の肉付きのよい選手たちと違って折れそうに細い体をあの時代錯誤の王子様のようなふわふわしたコスチュームに包む姿がなんとも言えずもの悲しくていい。プルシェンコの何を考えているかよく分からない三白眼も味を添える。だから今回観に行って一番の収穫は彼を間近に観られたことだった。

女子はその意味では近年不作続きと言ってよい。銀盤の女王カタリナ・ヴィット以来唸らせるような選手はいない。94年のリレハンメルで28歳でアマチュア復帰し、派手な技はもうないもののプロで鍛えた表現力で世界中を魅了した姿も既に懐かしい。あの詫び寂びに比べればどんなにミシェル・クワンにキャーキャー声援が集まろうとそれほど感じ入ったりはしない。イリーナ・スルツカヤも嫌いではないけれどやはり力不足だった。

妻が「だいっ嫌い」と公言するエルビス・ストイコは、名前のわりには顔の大きさと暑苦しさはむしろブルース・スプリングスティーンのようだった。しかしやることはエルビス並の自己陶酔で面白い。それこそかつてのジョン・トラボルタのような踊りを見せるのだがまったく様にならないところがいい。女性ファンを意識して何度もスライディングしちゃうのもバカみたいで面白い。妻はキャンデローロが大好きで、僕から見たら彼らのやっていることはほとんど同じなのだが、どうも違うらしい。

そのキャンデローロが最も大きな拍手を集めた。それもそのはず。珍しくスローな曲だなと思っていたら、よく聴いてみると歌詞がアメリカ賛歌のような曲で、クライマックスで上衣を脱ぎ捨てたフィリップ様の右腕には星条旗がくくりつけられていた。その腕を思い切り伸ばし星条旗をはためかせ彼は情熱的に滑った。時まさにイラク戦争勃発直後。アメリカを公然と批判したフランスからやってきた陽気なスケーターがアメリカに心からの賛辞を送っているのだ。会場は演技の途中からずっとスタンディング・オベーション状態。「阿りやがって」と僕は軽く呟いてみたけど大声援に軽く掻き消された。

なんにしても試験前のよい息抜きになった。忙しいと言うわりには結構遊んでた?


写真:http://www.ne.jp/asahi/lemonvodka/evgeny/


先頭 表紙

みほちゃん、人がつっこみ返ししてる最中につっこんでくるし…。ロロ様については僕の日記よりもみなみちゃんの日記をよく探してごらんなさい。もっと羨ましがるはず。 / Hidey ( 2003-05-24 16:16 )
はらぽ〜ん!何やってたんだよう!こっちも連絡しなくて悪かったけど。元気?お子さんもすくすく育ってるかな?こちらは6月15日に東京着です。今度こそうっちゃんと三人で会いましょう!でも金沢かあ。 / Hidey ( 2003-05-24 16:15 )
ウサ子さん、ミュージカルにあわせて滑るというのもなんだか大変そうですね。こちらでは超メジャー歌手とスケートをセットにしたようなイベントもあるようです。 / Hidey ( 2003-05-24 16:13 )
マイケルさん、いろんなイベントがありますね。リピンスキーは当時はすごい人気だったでしょう?ハミルトンはすごい懐かしい。また機会があったら日本でも観てみたいです。 / Hidey ( 2003-05-24 16:12 )
Hirokoさん、僕は恋しているわけじゃないですがなんかいいんだよねえ。日記、そう言ってくださってありがたいのですが帰国したらもう書くことはないと思います。そのためにも今はせっせと書いてます。 / Hidey ( 2003-05-24 16:10 )
きゃーロロ様〜!・・・うらやましすぎる。 / みほ ( 2003-05-24 16:09 )
チチローさん、ちょうど同じ時期だったのですね。それにしてもよく日にちまで覚えてらっしゃいますね。リピンスキー、クーリックは今回いませんでした。まあそれ程興味はなかったけど。ボナリーは今回もバク転してくれましたよ!サラ・ヒューズがなぜか欠場していたのが残念でした。 / Hidey ( 2003-05-24 16:08 )
まゆみさん、はじめまして!わざわざ訪れていただき感激です。村主さんはとっても上達していますよね、このところ。僕は立つだけ立ったけど(だって見えないし)黙って腕組んでました。サイト、遊びにいかせていただきました。留学に対する真摯な姿勢に大変感激しました。これからもどうぞよろしく。 / Hidey ( 2003-05-24 16:06 )
久しぶりだね。外してるけどさ、卒業おめでとう。僕は、今金沢です。r at harara dot com にでもメールください。Hideyのメールわかんなくなっちゃって困ってました... / はらぽ〜ん ( 2003-05-23 23:13 )
ドイツでもミュージカルにあわせて滑るショーがあります。こちらはスケーターのレベルはわかりませんが、一緒に出る歌手がミュージカル第一線の役者でかなり豪華です。 / ウサ子 ( 2003-05-23 19:02 )
以前、「Stars on ice」 がマイアミの近くに来た時に見に行きました。感想はこちら。こちらはプロに転向した人のショー。技術的な大技よりも芸術性をフィーチャーしていました。 / マイケル ( 2003-05-23 11:34 )
私の友人もフィギュアスケート(確かプルシェンコ)にとってもハマッていて、同じようなことを言ってました。あの熱狂振りはまるで恋をしているかのようです。 / Hiroko@日記辞めないで下さいね ( 2003-05-23 02:02 )
Champions on Ice、懐かし過ぎです。98年の4月11日に、当時住んでいたワシントンで見ました(っていう類のつっこみばかりで済みません)。クワン、ストイコ、キャンデローロなどは、その時も出ていたので息が長いですね。タラ・リピンスキーとイリア・クーリックのように、直前の長野五輪の金メダリストとして出場した人は、逆に、転身してしまっているんですね。個人的には、スパイス・ガールズのアップテンポな曲に乗って見せる、ボナリーのバク転も忘れられません。 / チチロー ( 2003-05-23 00:50 )
はじめまして!ボストン近郊のカレッジに通っているものです。私も4月12日観に行ってました!私と同い年だし村主選手の演技がすごく好きなので今回すごく楽しかったです。話友達と日本の人どれくらい観に来ているのかなァなんてしてたんですが、まさかこんなところで出会うとは!キャンデロロ選手の時の観客の盛り上がり様はものすごかったですね。私と友達はじっと座って反抗してました。私もサイトを持っているのでよろしかったら遊びに来て下さい。http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/4623/です。長くなりましたがこの辺で。 / まゆみ ( 2003-05-23 00:08 )

2003-05-21 レッドソックスvs.ヤンキース観戦 2

そんなある日メジャーでの七回目のシーズンをボストンで迎えた野茂が初登板する試合が会社のテレビで流れていた。暇なうえにいい年こいてミーハーなオジサンの多いうちの会社ではよくある風景なのだ。僕は無視して忙しく仕事をしていたものの、なんだかテレビの前に人だかりができている。気になって覗いてみたら既に九回もツーアウトをとった野茂が打者に向かっていた。与えた点はゼロ。移籍後初勝利を完封で飾る瞬間だった。最後のピッチングにつまった打球はふらふらと舞い上がりレフトの選手のグローブに収まった。ガッツポーズをする選手たち、周囲のオジサンの「やった!」という声。何かがおかしい。聞いてみたらなんとメジャーで自ら二度目のノーヒットノーランの達成の瞬間だったのだ。

しばらくぼんやりと画面を見つめながら考えていた。野茂英雄は数少ない好きなスポーツ選手の一人だった。1995年に周囲の反対を押し切って単身ドジャーズに入団し13勝6敗で新人王と奪三振王を獲得。不言実行型。その彼もここ四年の間に五つの球団を転々としもう駄目かとも言われていた。しかし彼は日本へ戻るという選択肢には目もくれず、メジャーという最も厳しい環境で自らを追い込み奮い立たせ続けた。再起をかけた五つ目の球団レッドソックスでの初登板で彼は自分がまだ終わっていないことをこの偉大なる記録によって証明したのだ。立派な男の生き様だった。その夜に僕はボストンへ行くことに決めたと妻に告げた。

そんなことを思い出しながらまた一人温室のような環境を捨てて過酷なフィールドに身を投じた日本人選手がフェンウェイパークに立つ姿を見ていた。この日の松井は四打数一安打。やっとセンターに打ち返したゴロ性の当たりが彼の現在の行き詰まりを物語っていた。テレビ中継では毎試合必ずといっていいほど彼をイチローと比較する解説者のコメントが入る。全身のいくつものポイントを調節してボールに対しかっちり面をつくるイチローに対し回転軸だけで勝負をする典型的なパワーヒッターのマツイ。しかしそのパワーはメジャーの投手には通じにくいため、彼のアイデンティティが定まらない、とそんな具合だ。思い切り苦労すればいい。それは幸せなことだから。

試合自体はこれ以上ない程にエキサイティングな展開だった。3対2とリードされていた4回、レッドソックスはヴァリテックの2ランホームランで逆転。さらに再び6対5とリードを許した7回、超人気選手ガルシアパーラのツーベースなどでノーアウト満塁のチャンスを築いたレッドソックスは、オルティズのツーベースで再度逆転。この回5点を取って一気に試合を決めた。点を取るたびに前に座っていたおじさんとハイタッチを繰り返した。やはり前列に座っていた男が僕の二人隣りのヤンキースファンの女の子をおちょくって「後ろから臭い息がかかるなあ」と言ったり売り子が彼女に投げてよこした食べ物を手を伸ばしてキャッチしてしまったりするのも面白かった。女の子なのでシャレで済んでいるがこれが男となるとそうはいかない。あちこちで観客が総立ちになって振り向くほどの騒動が起こり、その度に警察が何人かを連れ出していた。

ボストニアンだけに許されるこんな楽しみももうすぐ僕には許されなくなる。同じように6月に帰国する友人たちと一緒にさびしいねと話しながら球場をあとにした。人並みを掻き分けるようにゆっくりと走ってきた車が「パッパッパー!パッパッパー!」とクラクションを鳴らすと皆すぐに応じて「Yankees suck! Yankees suck!」と絶叫した。同じように叫ぶまなぶんのTシャツの胸にもしっかりYankees Suckの文字が躍っていた。


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マイケルさん、ああ、そんな球場もありましたね。フェンウェイは何度もなくなるという噂を聞くのでなんとかふんばってほしいものです。 / Hidey ( 2003-05-24 16:04 )
チチローさん、あの初対決を!たしかさすがのイチローも声を上げませんでしたっけ?そのあとヒットを打たれたんでしたっけ?こちらもticketmasterで楽勝で取れるのですがヤンキース戦だけは毎年駄目なのです。この日はペドロが投げるという噂があったのですが故障っぽいらしくて出てきませんでした。 / Hidey ( 2003-05-24 16:03 )
シカゴ・カブスのリグレーパークでしたっけ? レンガに蔦が絡まっていて、その蔦にボールがはまるとツーベースになるってのは。最近新球場ラッシュのようですが、歴史あるスタジアムはぜひ残して欲しいですね。 / マイケル ( 2003-05-23 16:34 )
↓もちろん、うちのイチロー(笑)が生まれる前の話なので、家内と二人です(笑)。 / チチロー ( 2003-05-22 23:53 )
2001年は、5月にイチローと野茂の初対決を、シアトルで見て感激しました。あのデッドボールは、硬球が背骨に当たるすごい音がしました。その頃は、日本からでもインターネットでTicketmasterのサイトに行って、楽勝でチケットがとれました。野茂の前の晩はペドロが投げて、これもすごい投手だと思いました。 / チチロー ( 2003-05-22 23:49 )
ガス欠コインさん、単純でしょう?でもお陰でいい決断でした。野茂様様です。彼がもう1シーズンでもいてくれてたらもっと楽しいボストン生活になってたのですが。 / Hidey ( 2003-05-22 23:37 )
みほちゃん、きみからそのつっこみが入ることはとうに予想していたよ。うちの会社に遊びに来たいんだったらミーハーなオニイサンと呼びなさい。こっちではビールにポップコーン、そしてホットドッグだよ。 / Hidey ( 2003-05-22 23:36 )
野茂は僕も最も好きなベースボールプレーヤーです。ボストン行きにそんな秘話があったとは。もはや離れ難いことでしょうね。ちなみにそのノーヒットノーランは、ボストンから駆けつけたらしいアメリカ人の小集団が大喜びしていた映像が記憶に残っています。 / ガス欠コイン ( 2003-05-22 18:13 )
暇なうえにいい年こいてミーハーなオジサン・・・あ、教授のことじゃなかったのか。野球と聞くとビールに枝豆って感じですけどアメリカだとそうもいかなそうだなぁ / みほ ( 2003-05-22 15:17 )

2003-05-21 レッドソックスvs.ヤンキース観戦 1

今年の3月にボストン・レッドソックスの今シーズンのチケットが発売になった。やはり目当てはイチローのいるマリナーズと松井のいるヤンキースとの試合。残念なことに6月の帰国までにはマリナーズ戦は予定されていなかった。ヤンキースとは5月19日から21日にボストン・フェンウェイパークで三連戦が組まれていた。インターネットでのチケット予約に僕は二台のパソコンを起動させて臨んだ。

しかしあっさりと敗退。なかなか繋がらなかったりやっと繋がったかと思うと申し込み手続き中になぜか回線が切れてしまう。さすがのブロードバンドもレッドソックス−ヤンキース戦にかけるボストニアンの情熱には形無しだった。それもそのはず、このカードは日本でいえば甲子園での巨人−阪神戦に匹敵するのだ。大リーグ一のメジャー球団ヤンキースと、その宿敵としていいところまで行くのに決して優勝できないレッドソックス。いつもいいところまで行くというのが阪神とはちょっと違う。

だが神は見捨てなかった。同じ学校の日本人学生まなぶんがチケットを四枚確保し、そのうちの二枚が余っているので誰かに譲るとメールを廻してくれた。僕を含め四人の学生が購入を希望したので、律儀なまなぶんは公平を期するために我々に番号を振り、5月7日の日経平均終値の少数第一位を四捨五入したものを応募者総数の4で割ったときの「余り」と同じ番号の人がチケット獲得という、世にも複雑怪奇なくじ引きを考えた。とにかく僕はまた負けた。

しかしまだまだ拾う神があって、くじの結果チケットを獲得したAsakoが一緒に行く相手を探しているという。この試合期間中妻が仕事で最後の一時帰国をするため僕はすかさず名乗りをあげて、結局まなぶん夫妻とAsakoと四人で試合を見にいくことになった。その試合というのが昨日のことだった。

フェンウェイでの野球観戦はこれで五回目になる。その間に野茂を二回、イチローを二回見た。一度は野茂対イチローという豪華対決で、それについては2001年8月16日の日記にも書いた。フェンウェイパークは1912年に最初のゲームを行ったアメリカ最古の球場で、古きよきアメリカがしのばれる名物球場だ。左右非対称、そしてその非対称な分異様に高く聳えるレフト後方の壁「グリーン・モンスター」など見どころは多い。夕陽に照らされたモスグリーンの球場が時間の経過とともに青みを帯びてゆくなか、そよ風に吹かれて地ビール「サミュエル・アダムズ」で喉を潤すその至福は筆舌に尽くしがたい。

なんて単純な奴と笑われそうな話だが、僕が留学先としてボストンを選択したのもレッドソックスの試合がきっかけだった。二年前の4月の段階で僕はニューヨークとシカゴとボストンの三つの学校から合格通知をもらっており、そのどれもが魅力的な学校だったのでなかなか心を決めかねていた。しかし今通っているボストンの学校は殺人的なスパルタ教育で知られ、学生も意地の悪い奴が多く留学生活を謳歌するという意味では不適当という話も聞いていた。結局僕はびびっていたのだ。98年にこの学校を卒業した前述の高校からの友人もそんな僕の心を見透かしたように「今のお前にはあの学校は難しいかもしれない」と敢えて挑発的なメールをよこした。

(つづく)

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2003-05-20 ムービング・セール

そろそろ帰国へのカウントダウンが始まり、エクセルで予定表をつくって計画的に行動するようになってきた。6月14日にボストンを発ち15日に東京に着く。やるべきことは山のようにあるけれど、最大の仕事はムービング・セールである。

学生の街ボストンでは卒業式の集中する6月近辺が一大セール時期で、スーパーマーケットなどの掲示板は「売りたい」情報でいっぱいになる。一説によるとボストン市の平均年齢は26歳といい、若い人たちが卒業して出て行ってはもっと若い人たちがそれを埋めるように入学するというパターンが繰り返されることを物語る。皆二年や四年というサイクルでここの生活を営むわけだから、それにあったレベルの家具や雑貨を効率よく購入するのだ。そんなわけでムービングセールは需要サイドも充実している。

二年前僕がボストンに来た頃はせいぜい売りたいアイテムと値段をずらりと並べて書き、その紙の下の部分に細かく切り込みをいれてそこに電話番号を書き、ちぎって連絡してもらえるようにするというのが一般的だった。気の利いた人はデジカメで取った写真をプリントしていた。それがいまや世の中はさらに便利になり、Yahoo!フォトなどのオープンなツールを使って撮った写真をネット上に綺麗に並べ、そのリンクをボストン情報サイトのセール情報ページに貼っておくという方法が主流だ。

僕も昨日、一昨日と家中の家具や雑貨、家電製品を片っ端から撮影。「絵日記」で鍛えた腕で色の補正をし、Yahoo!フォトに次々アップロードをしてボストン情報サイトにセール情報を出した。ついでに先日「絵日記」に載せたのと同じシビックの写真も貼っておいた。

二年という限られた時間とはいえ最低限の趣味は保ちたいという微妙なバランスを考えて購入したそれらの品は、ムービング・セール市場でははっきり言ってかなりハイエンドに位置している。すべて新品で購入したものだし極めて綺麗な使い方をしている。とはいえ14インチテレビ10ドルとか机5ドルとかが平気でずらりと並んでいるところへ(多分その人たちが買ったときから中古品だが)あまりに場違いな値づけもできないので、すべて購入価格の半額にしておいた。本当はもうちょっと価値があると思うのだけど、周囲とのバランスも重要だ。

自動車に関しては相場はもっとはっきりしていて、Kelly Blue Bookというサイトに行って車の種類、年式、マイル数、装備などを入力すれば、自動的に査定価格が出てくるのだ。僕の1995年式65000マイル走行のシビックは店頭中古価格は7060ドル、個人売買の相場は4900ドルということだった。僕は4800ドルで売りに出した。

便利なもので既に四人の方から車、ソファ、コンポ、テレビ、ゴミ箱を見たい、買いたいというeメールが入ってきている。しかし喜ぶのはまだ早くて、受け渡し時期や方法のつめ、実際に物を見せてのチェックなど道のりは長い。すでにソファに関しては「大人二人で楽に運べますよ」と教えてあげただけでちょっと重そうなのでやめますと返事が来た。

僕の愛用の品々をよろしかったらご覧ください。Yahoo!フォトへのリンクはこちら。(Yahoo! JAPANへのID登録が必要です)

本当はひまじんの方にも買っていただきたいところだがボストンではそれも無理だ。同じボストン在住のricaさん、なにか欲しいものありませんか?

先頭 表紙

マイケルさん、そうでしたか!僕は下にも書きましたが選択肢がない中で仕方なく赤を選んでしまいました。でも綺麗にしているとわりといい色ですよね。ご心配なく。お陰さまで昨日車は売れました。一番大きな売り物がはけたのでちょっとほっとしています。 / Hidey ( 2003-05-22 23:34 )
赤のシビック! 僕のアメリカ赴任中と同じ! 日本ではシルバーメタリックな車ばかりだったけど、なぜか分からないけどディーラーで見て一目惚れしてしまいました。ちなみに僕はマイアミを発つ前日にCarMaxに買い取ってもらいました。予約なしでも簡単なテストドライブの後、1時間くらい後に小切手を受け取れます。新車で17,000ドルが2年後に11,000ドル。まぁ悪くないと思いましたけど。 / マイケル ( 2003-05-22 11:35 )
ミサトさん、ちょうど今日の日記を書き終えたところなのでアップする前につっこみ返しをしていたらミサトさんがつっこんでくれているところでした。こちらはこれから一日が始まります。おやすみなさい。 / Hidey ( 2003-05-21 23:47 )
ミサトさん、イメージどおりでしたか。赤の車は選択肢がなかったのです。一昨年の12月にすぐにでもほしいというタイミングでたまたま友人が売りたいと言ってたのでシビックだというだけで選んでしまいました。ほんとは僕も赤は選びません。今ならシルバー系にちょっと色が混ざった感じかな。 / Hidey ( 2003-05-21 23:46 )
akemiさん、産みの苦しみもまた楽しいものでは?素朴な家具ですが妻も気に入っているものが多いので連れて帰れないのは心残りです。日本にはワンセット揃ってますからね。ほんとに大事に使ってくれる人に買ってほしいです。 / Hidey ( 2003-05-21 23:44 )
フィー子さん、本当にそれだけが僕も心残り。うちに来るのもさることながら、緑と煉瓦の美しいこの街をフィー子さんに見せたかった! / Hidey ( 2003-05-21 23:42 )
azzurriさん、残念!せっかく需要と供給が一致しているのに。趣味のよさって言うより選択肢がこれくらいしかないんです、こっちだと。日本でいえば普通の若いカップルの使うような家具に過ぎません。恐ろしく趣味が悪い変わりに安いものか、恐ろしく高価だけどハイセンスな輸入イタリア家具かという感じで、中庸がないんです。ようやく探し当てた中庸を選んだら大体北欧製だったという感じです。テディベアは結婚のときのに人からもらったものです。 / Hidey ( 2003-05-21 23:41 )
あ!同じ時間に書いてる(笑)ミサトはこれからお風呂に入って寝ますー。おやすみなさーい! / misato ( 2003-05-21 23:38 )
タズラさん、アメリカで暮らされていらしたんですか。存じませんでした。いやー結局僕が我侭で気に入った環境でしか暮らせないので無駄な金を使ってしまったようなものです。お陰で最初の頃は毎月ピーピーでした。 / Hidey ( 2003-05-21 23:37 )
すべてHideyさんのイメージ通りの家具ですねー。素敵。あ、赤の車はちょっと意外だった!何となく白か紺のイメージだったの。緑の中に映える綺麗な赤のお車ですよね♪ / misato ( 2003-05-21 23:36 )
ricaさん、さっそくお答えいただきありがとうございます。一応順調にメールがきているしいくつかルートはあるので大丈夫そうです。調味料とか、本当にご希望でしたらたんまりさしあげます! / Hidey ( 2003-05-21 23:35 )
むらぱぱさん、おしゃれと言うほどではないです。しょせん二年間の仮の暮らし。そうなんです、あのデスクで僕のボストンにおける一番長い時間を過ごしてきました。そしてそこに立っているのがこの日記のタイトルの由来である蛍光灯のデスクランプです。仕事と勉強の両立大変ですが、心から応援しています。頑張ってください! / Hidey ( 2003-05-21 23:34 )
あたしも早く、片付けに取り掛かりたい。また、新しい生活が始まるのですね。大事にお使いになった家具たち・・・気に入った方に喜んで買っていってもらえるといいですね〜 / akemi ( 2003-05-21 16:49 )
家具の後ろにちらちら見えるお宅をじっくり見ちゃいました。白い壁、白いドア、素敵だなあ。日本とは違うね、何かが。あー今更ながら一度お伺いしたかったなあ。。。 / フィー子 ( 2003-05-21 16:16 )
ええっと、azzurriはフロアライトとソファとステンレスのゴミ箱と・・・え?違います?だって、今まさに必要なんですもーん!!Bostonじゃなければ・・・それにしても、Hideyさまの趣味の良さが伝わってきます〜♪確かに学生にしてはリッチな生活・・・働いてるのにpoorなazzurriとは大違い(号泣)。スティールラックの上にウェルカムベアを発見!かわいい♪ / azzurri ( 2003-05-21 09:10 )
本当に、めちゃめちゃお洒落でハイエンドなものばかりですね…。思い返すと、僕が米国赴任したとき買った家具はいい加減なものばかりだったなぁ… もうちょっと気合入れればよかった… / タズラ ( 2003-05-21 08:00 )
呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃーん、ricaでございます(バカ丸出し)。すごーい、ステキな物ばかり!いや、ここボストンで学生の身として生活されている方にしてはとってもお洒落な物ばかりですよ〜(普通もっとテキトウなものが多いですよね(笑))。残念ながら家具系などはすべてそろってしまっています・・・。日本にご帰国ギリギリ前にもし必要であれば、調味料とかその他消耗品等、あまっている物はすべて頂きに参りますよぉ(笑)。 / rica ( 2003-05-21 00:58 )
さすがオシャレな生活をしてますね。あのパソコンデスクでひまじんに書きこみ、あのデスクで日々勉強したんですね。今、日本時間は深夜0時ですが、私は今から1時間勉強したら寝ます。Hideyさんの足元にも及ばないけど、コツコツ積み重ねます。最近、仕事が忙しくて勉強を始める時間が遅くなって大変。会社で寝てます。(冗談です。) / むらぱぱ ( 2003-05-20 23:58 )

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