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Hideyの「蛍の光の下で」

帰国に伴い長い間ご愛読いただいたこの日記を終了させていただきます。
もうこのサイトに文章を綴ることはありませんが
もしこの先もおつきあいいただけるようであれば
メールをいただければ幸甚です。
皆様、本当にありがとうございました。お元気で。

絵日記

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2002-09-29 AIBOの真実 1
2002-09-27 イノベーターの条件 2
2002-09-27 イノベーターの条件 1
2002-09-15 ふたつの顔 2
2002-09-15 ふたつの顔 1
2002-09-07 Hit the Screen 2
2002-09-07 Hit the Screen 1
2002-09-03 USオープン・テニス観戦 4
2002-09-03 USオープン・テニス観戦 3
2002-09-03 USオープン・テニス観戦 2


2002-09-29 AIBOの真実 1

BSSE(Building a Sustainably Successful Enterprise)の授業が面白いと書いたが、二年生秋学期の本命は実はConsumer Marketing(消費者マーケティング)だ。昨年何度か書いた韓国出身の女性教授の質の高い授業に惚れ込み、彼女がはじめて二年生で専門科目を教えるということで第一希望教科として登録した授業なのだ。

最初の授業で彼女は、「一年生の必修科目のマーケティングでは教科書的な概念に即したケースの取り上げ方、教え方に徹したが、二年生のこの授業では教科書的なフレームでは捉えきれない、より現実的なマーケティングを徹底的に掘り下げる。よくも悪くも私の主観的な考察や信念を散りばめて教えていくことになるが、それを受け入れるか否かはあなた方の自由だ。いずれにしても私はマーケティングに関して私が知るすべてをあなた方とシェアしたい」と話した。すでに7つのケースをこなしてきたが、彼女の溺愛する子供に関する笑い話から始まり、80人の学生たちとの掛け合い漫才がいつしか真剣な議論に変わり、最後には彼女の十八番である芸術的な解説と洞察で授業を決めるという独特のスタイルは健在である。

どの授業もここでご紹介したいところだが、今日は取りあえず彼女が自ら執筆したソニーのAIBOのケースについて書く。

AIBO。言わずと知れたソニーの最先端のAI技術を搭載した初期定価25万円のロボット犬だ。1999年6月にインターネットで申し込みの受付を開始した際、この破格の値段にも関わらず3000体のAIBOが20分で完売したのは周知の事実である。実は時を同じくしてアメリカでも2000体のAIBOを売り出したのだが、怒涛の申し込みによりサーバーがクラッシュしたという。

ソニーは消費者の悲鳴にも似た追加販売の要求に応え、同じ年の11月に1万体のAIBOを日米共通で追加販売。数日の間に13万5000もの申し込みが殺到した。翌2月の3万体の最追加販売もあっという間に売り切れたという。

これ以上ない市場導入であったが、ソニーには懸念材料があった。11月の追加販売での13万5000の申し込みはその98%が日本からのものであり、翌2月に発売された3万体のAIBOもその90%が国内への出荷であった。そして購入者のプロフィールを調べたところ、日米の購入者特性の違いにソニーは愕然とした。6月の初期販売においてこそ日米とも新しい物好き、メカ好きが集中したのだが、その後日本では極めて一般的な中年男性や主婦、OLなどによる購入が顕著に増えたのに対し、アメリカの購入者は相変わらずハイテクおたくのような連中ばかりだった。

(つづく)

先頭 表紙

おとじろうさん、実はケースをそのまま訳したわけではないのですが、あとからケースを見てみると"a bunch of techies"と書いてありました。まあそのまんまですね。 / Hidey ( 2002-10-04 15:42 )
りさ子さん、それは知りませんでした。となるとりさ子さん必携アイテムですね!今度の小熊のようなAIBOはちょっといただけないけど。 / Hidey ( 2002-10-04 15:31 )
りぃなさん、なぜツボをつかれる(笑)!?いずれにしても寝不足はよくないよ。寝たほうがいいね。 / Hidey@全然人のこと言えない ( 2002-10-04 15:30 )
教授がどのような文章を書いたのかはわかりませんが、「ハイテクおたくのような連中ばかり」はいい訳ですね。 / おとじろう ( 2002-09-30 09:46 )
初代アイボはスヌーピーがモデルなんですってネ / りさ子 ( 2002-09-29 21:26 )
明け方に読み直して、ハイテクおたくのような連中ばかり、に、なんだかツボをつかれてしまいました。寝た方がいいですね。 / りぃな@徹夜禁止令 ( 2002-09-29 20:10 )

2002-09-27 イノベーターの条件 2

日本にも典型的なイノベーターが存在した。織田信長その人である。

自ら考案した三段構えの鉄砲隊により無敵の武田騎馬軍団を殲滅した長篠の合戦はあまりにも有名だ。弾の充填に10秒以上かかり有効射程距離も100メートルほどという火縄銃はそれまで戦場においてはせいぜい威嚇程度の役にしか立たなかった。それを馬防柵によって騎馬隊を足止めすることで安全かつ有効な距離を保ち、鉄砲隊を三段構えにすることで一段目が撃ち終わればすぐに二段目、三段目が続けて撃ち、その間に一段目が充填を完了するという斬新な戦術によって、信長は鉄砲の価値を極大化したのだ。これは当時世界的にも前例のない革命的な戦術だった。スコットによる砲術の革新に極めて酷似している。

実は僕が古今東西もっとも尊敬する人物は織田信長である。うちの学校を受験する際に提出した五つの小論文のひとつの設問が「あなたが尊敬するヒーロー、リーダー、手本とすべき人物は誰か。その人物はあなたの成長にどのような影響を与えたか」というようなものだったのだが、僕は迷わず織田信長について書いた。

好むと好まざるとに関わらず異国の文化を事実として受け止め、西洋からもたらされた地球儀を見ては地球が丸いのだと納得した最初の日本人。俗悪で権威主義的な当時の仏教を弾圧し比叡山を焼き払った神仏をも恐れぬ男。戦の勝敗は七割方その準備において決するのだと嘯き、近代的情報戦の基礎をつくった。家臣たちを敢えて挑発し殊勲を競わせつつ知の共有を促し全軍のコンピタンスを高めた。楽市楽座の導入により政治と経済をより緊密にしたのも彼だった。そして冷徹なほどに感情を排除し真理を求めつづけた男。

先述のイノベーターの条件は信長にそのまま当てはまる。彼は戦に明け暮れた当時の日本を平定することにより政治経済的に稼働率が高く無駄のない国家の建設を目論む、変革の精神の持ち主だった。そんな頃種子島に最初の鉄砲が伝来し、先見の明をもってこれを熱心に買い漁ったのは信長だけだった。信長は鉄砲という新しい技術に酔いしれることなく、これをいかに用いるかに英知を集中させた。そして信長の天下統一の最大の敵は朝廷や仏門という旧態依然とした「体制」だった。

不況にあえぐ現代の日本を顧みると否応なしに信長が出現する直前の室町末期が重なって見える。高度成長期の原動力となったものの今や足かせに過ぎない硬直化した企業構造。変革の重要性を認識しつつも波風を立てず任期を全うすることしか考えない経営者。そして揺らぎつつある大企業の傘や幻想と化した終身雇用制度にいつまでもしがみつく甘えた社員たち。時代は本物の英雄を求めている。

持続的成長(sustainable growth)という言葉が合言葉のように使われているが、そのためには大鉈を振るうイノベーターの存在が極めて重要であることを痛感させられる授業だった。古きを温ね新しきを知る姿勢はまだまだ必要なのだ。

先頭 表紙

トモコさん、あらためてありがとうございます。僕こそトモコさんの日記はこれからもずっと楽しみにしています。ところで弟さんの具合はいかがですか?ちょっと心配しています。 / Hidey ( 2002-10-04 15:29 )
りぃなさん、まさに今は応用編を楽しんでいます。今のところ順調にやっていますが、これから一年生の頃にはなかったペーパー(いわゆる研究論文)が三つもあるからなー。まあ、頑張りましょう。 / Hidey ( 2002-10-04 15:27 )
りぃなさん、遣隋使は言い得てますね。僕もその意識は日増しに強くなっています。国のためと言うよりは社のためですが、こちらでかつての日本企業の強大さをまざまざと知るにつれ、うちの会社もそんな風になれたらと考えてしまいます。 / Hidey ( 2002-10-04 15:26 )
スーパーしえろさん、「ひょっこりひょうたん島」は子供の頃のかすかな記憶にありますが、ドンガバチョはよく知りません。今度調べてみます。 / Hidey ( 2002-10-04 15:23 )
七面倒くさいなんてとんでもない!無駄なモノが少しもなくて、興味深いお話ばかりでした。時には何故かうるうるしちゃったりして・・・。うー、私も頑張ろうっと。 / トモコ ( 2002-09-29 20:29 )
一つ前の話題になるんですが・・・。基礎が終わって、それからの応用やら、発展のクラスが楽しいんですよね。わくわくしてはりますか?苦しい波も、多く寄せてくるかもしれませんが、お互い楽しんで、波に乗るように学んでいきたいですね♪ / りぃな ( 2002-09-29 16:42 )
こちらに出発する前、ある方から「君は昔で言う、遣随使のアメリカ版だよ。しっかり勉強して、吸収した知識を、国の為に役立てるんだよ」という言葉を戴きました。留学生も、きっとイノベーターになる要素があるはず。あちこちで眠っているイノベーターの卵が、早く目覚めますように☆ / りぃな ( 2002-09-29 16:39 )
ひょっこりひょうたん島(NHKテレビで昔やってた)に出てくるドンガバチョという自称政治家の自称フルネームです。ごめんね、ふと、思い出してしまっただけで・・・ / スーパーしえろ ( 2002-09-29 16:13 )
トモコさん、こーんな七面倒くさい日記を最初から全部読んでくれたなんて、正直恥ずかしいとともに畏れ多いです。その反面それなりにベストを尽くして文章を書いている者としてはこんなに嬉しくて光栄なお言葉はありません。でも真面目な話、僕こそトモコさんの飾らない真摯な文章に心酔しています。お互い似たような立場で努力するもの同士励ましあえればいいですね。今後ともよろしくお願いします。 / Hidey ( 2002-09-29 15:56 )
スーパーしえろさん、ドンガバチョゴム長?なにそれ? / Hidey ( 2002-09-29 15:51 )
スーパーしえろさん、鋭い!それはありますよね。誰をも必要としない才能とカリスマを持ち合わせているが故に周囲の人間は居場所を見出せず、それが組織としての脆さを生むことは大いにありえると思います。部下としても上司を補う居場所があればこそ有効に機能するもの。でも僕としてはあの絶対的な強さに憧れてしまうのです。 / Hidey ( 2002-09-29 15:51 )
たらママさん、おっしゃる通りですね。言わば現代は群雄割拠の戦国時代なので、この逆境にもまれながら本物の経営者があちらこちらで誕生しているのだと思います。未曾有の不況が逆に長期的な日本の活力を生み出すことを切に願うとともに自分も主体的に努力しなくてはと戒めている次第です。 / Hidey ( 2002-09-29 15:48 )
ガス欠コインさん、よくも悪くも日本には徳川家康タイプが多いですね。意図的に彼を敬愛してそのようにある人が多いのでしょうか?360年間の安定した世を築いたと言ってもそれは鎖国という異常な管理方法による(これは家光ですが)ものだったのに。後の世の大きな足かせを作ったということでは徳川幕府は戦後日本と非常に似ている感じがします。信長よ、再び! / Hidey ( 2002-09-29 15:45 )
akemiさん、ほんとに今の世にあって斬新さを感じさせるキャラクターですよね。それだけ今いないキャラなんですね。超現代的なキャラなのに。 / Hidey ( 2002-09-29 15:40 )
Hideyさんの過去日記、たった今ようやく全部読み終えました。私の知識欲をくすぐる文章ばかりで、ただただ感動。怠け心が顔を出したら、また最初から読み直させてくださいね。これからも楽しみにしてます! / トモコ@本文と関係なくてごめんなさい! ( 2002-09-29 07:41 )
すみません、すごく馬鹿なつっこみをしてもいいですか。摂政関白太政大臣藤原のドンガバチョゴム長。を思い出しました。(赤面) / スーパーしえろ ( 2002-09-28 22:25 )
織田信長のカリスマ性に興味あり。先見の明と柔軟な頭脳にカリスマ性がプラスされると、最強のようで、もろい気がする。リーダーって少人数のチームであることが必要なのではないかしら。 / スーパーしえろ ( 2002-09-28 19:15 )
個別でみると、独自の戦略で不況期でも成功している企業はありますね。既成の枠内での発想しかできないと成長が止まるんでしょうね。 / たらママ ( 2002-09-27 23:07 )
織田信長、僕も好きでした。先見の明と柔軟な頭脳。残念ながら、今の日本には両方とも欠けていることが多いように思われます。 / ガス欠コイン ( 2002-09-27 16:16 )
単純に「斬新で潔くてかっこいい!」と思っていました。>織田信長 / akemi ( 2002-09-27 15:50 )

2002-09-27 イノベーターの条件 1

「Building a Sustainably Successful Enterprise(持続的成功企業の構築)」という授業が面白い。この授業では企業が持続的な成功を収めるために必要な組織のあり方、競争力の高い製品・サービスを生むための戦略とそれに応じたリソース配分、新機軸製品が既存製品を駆逐する条件とパターンなどを学ぶ。この授業で一番初めに学んだのがインベンターとイノベーターの違いは何かということだった。

非常にクラシックな事例として多くのビジネススクールで採用されている「Gunfire at Sea(海上砲火)」というケースを取り上げた。19世紀末のイギリス海軍の話。当時の戦艦に搭載された銃砲の精度は極めて低いものであった。砲撃手はまず標準的な射程距離にあわせて小さなハンドルで銃砲の上下角を調整する。そして谷照門(銃砲に取りつけられている、谷型に窪んだ照準器)を通して敵を睨み、艦を揺らす波の加減によってぴたりと照準があうタイミングをうまく計って発射する。銃砲には望遠機能のついた照準器も取りつけられていたが、発射の反動によって前後に動く銃身部分に固定されていたため照準器が目に食い込んでしまい、現実的には誰もこれを使用しなかった。発射までに時間がかかる上に、艦の揺れを予測、脳が発射の指令を出す瞬間から実際に手が発射ボタンを押す瞬間までのタイムラグを計算して撃つなど、ほとんど職人芸というべき作業だった。しかし職人的な砲撃手をもってしても、25分にわたる砲撃テストにおいて1600ヤード離れた標的にたった2発しか命中しないほどの頼りない武器に過ぎなかった。

ある日イギリス海軍のスコット提督は砲撃テストにおいて一人の砲撃手が他の者に比べ著しく高い確率で的を捉える様を驚いて眺めた。見るとその砲撃手は無意識に銃砲を上下させて波による艦の揺れを中和し、不完全ながらある程度の成果を得ていた。スコットは「一人の男が無意識に部分的ながら成功を収められるのなら、意識的にこれを行う努力をすれば誰もがより完全な成功を収めることができるだろう」と考えた。そして彼は銃砲を上下させる装置のギア比を変えることでよりスムーズに銃砲を動かせるようにし、照準器を銃身でなく発射の反動が影響しない銃筒の部分に取り付けた。そしてクランクで上下に動かせる小さな標的を銃口の先の部分に取り付けて、簡単に波の動きをシミュレーションする仕組みを開発した。これによってスコットの艦隊の砲撃の精度は驚くほどに高まり、あるテストにおいては1分間に15回1600ヤード先の標的を射抜いたほどであった。「連続照準発射法」の誕生である。

技術的な才能により銃砲を創り出した者がインベンター(発明者)だとすれば、それを戦術的に活用し効果を高めたのがイノベーター(革新者)であるスコットであった。銃砲やそれを上下させる装置や照準器自体は何も新しくない、数十年も前から存在していたものだった。しかしそれらが真価を発揮するにはスコットの出現を待たなくてはならなかったのだ。ケースによればイノベーター出現の典型的な条件は以下の通りである。

1. 革新的な発想は往々にして偶然の力に左右されつつも、変革に必要な諸条件が整っている環境と変革の可能性を認識する用意のある柔軟な頭脳に訪れる。

2. 革新に必要な素材(銃砲、照準器等)はその設計にのみ興味を持つ者によって用意されるが、革新をもたらす者は素材自体に興味はなく、それによって何を成すかにこそ興味を持つ。

3. イノベーターは往々にして反体制的な思想の持ち主である(スコットは権威主義的で硬直化したイギリス海軍に常々憤りを感じていた)。

(つづく)

先頭 表紙

2002-09-15 ふたつの顔 2

二年生になると目に映る風景もがらりと変わった。一年生のときは全学生が毎日同じ教科で同じケースを学んでいたため、朝の始業前に自主的にスタディ・グループを組んで意見を交換していたが、二年生では一人ひとりカリキュラムが異なるためスタディ・グループは存在しない。一年生のときは同じセクション(学級)の学生80人は毎日同じ教室に集まり、教授がそこへ代わる代わるやってくるという日本の中学・高校方式だったのに対し、二年生は授業ごとに所定の教室へ移動し、集まる顔ぶれは当然授業ごとに異なる。慌しくて知らない顔が多いので、一年生のときのように皆で和気藹々というのとは少し変わってくる。

二年生になると授業の日数がかなり減るうえに成績の基準も少しだけ甘くなり、学生の競争意識も和らいできて授業でもかつてのように誰もが一斉に手を上げるといった感じではなくなる。一応好きな教科を選択して取れることもあって全般的にストレスはぐっと減ると言われている。

でもそれに甘えず今年はさらに主体的に勉強しようと思っている。僕がここに来た理由はクライアント志向の営業職からより自社のことを考える企業戦略的な職種への転向であり、それに必要なリソースは二年生の授業に集中しているからだ。

次第に帰国後のことを考える機会が多くなった。この海外派遣制度で学んだ人たちは経験的に皆希望する部署への配属が許されている。社の目的であるコンピタンスの向上と、自分がやりたいこと、そして自分がこの二年間で学ぶことを一致させられれば、この留学は誰にとっても価値のあるものになる。そのためには社が現在どのような課題を抱えているかをより正確に把握し、それらの課題を常に頭の隅に置きながらそれぞれの授業に臨み、社は今後何をすべきか、自分はそこで何ができるかを考えていくことが肝要だ。

幸いなことにいくつかの授業では任意の題材に取り組んで研究成果を「ペーパー(いわゆる論文)」という形で提出することになっている。許されるならうちの会社が現在抱えている国際化、ナレッジ構築などの課題を取り上げて、問題点の究明と解決策の提示を教授の指導のもとに行い、その成果物をもって来年の6月から僕が取り組むべきことを決めたいと思っている。夢物語のようだけどその成果物が全社的な変革のためのプロジェクトにつながれば嬉しい。

大仰で偉そうな夢を語ってしまったが理想は高いに越したことはない。あとは僕が努力をするかしないか、自分に資質があるかないかというだけのことだ。久しぶりに学生らしい空気を満喫した昨年度と違い、学生と企業人というふたつの顔を持ってこれからの一年を前向きに過ごしていこうと思っている。

先頭 表紙

今さらですが、企業という枠がない中でご自分を管理されて歩を止めることなく進まれるフリーランスの方々には深い敬意を表します。僕なんて元来怠け者なんでだめですね、追い立ててくれる人がいないと。プロジェクトの話ですが、ガス欠コインさんもよくご存知のうちの会社がこちらの学問に照らしてどのように斬られるか、楽しみにしていてください(笑)。そのうちご報告いたします。 / Hidey ( 2002-09-29 15:39 )
いよいよ2年目ですか。高い理想を持ち続けて頑張ってください。僕も歩を止めることなく、やっていくつもりです。実在する企業の問題を鑑みての学習、これはもう学習というより、一種のシュミレーションのようになっていくのでしょうか。 / ガス欠コイン ( 2002-09-27 16:25 )
ボストニアンさん、はじめまして。ご想像にお任せいたします。 / Hidey ( 2002-09-27 14:59 )
しゃどう猫くん、一言一言、納得して読ませていただきました。本当におっしゃるとおりです。すべて自分次第ですね。しゃどう猫くんは充実してますか? / Hidey ( 2002-09-27 14:58 )
Hirokoさん、あの、えらーいえらーい人には逆立ちしてもなれませんから(笑)。それは諦めて。そうね、産むにも努力が必要ですね(笑)。がんばって。 / Hidey ( 2002-09-27 14:57 )
lim.さん、このところ楽しい話題ばかりだと思っていたらようやく休みも終わりなのですね。とても自主性が求められる環境のようですが目的意識の強いlim.さんならまったく心配ないでしょう。こちらも遠い空の下lim.さんのご努力を想って負けずに頑張ります。うお〜。 / Hidey ( 2002-09-27 14:55 )
Ecruさん、阿修羅男爵(古い!)のようですが、頑張ります。今のところやる気を維持して結構真剣に勉強していますが、この学校は持久力も大事なんですよねー。せいぜい息切れしないよう努力します。 / Hidey ( 2002-09-27 14:53 )
reiさん、こちらこそ遅くなってしまいましたがありがとうございます。このところ真面目に勉強しているのに加えて来客が多くて。。。こちらこそreiさんからは学ぶことばかりだよ、本当に。仕事に打ち込む麗しいお姿を読ませていただいていると、早く僕も何かの役に立ちたいと少々焦ってしまいます。まあ今はじっくり勉強です。 / Hidey ( 2002-09-27 14:51 )
ウサ子さん、同じ状況なのですね。節目ってありますよね。僕はこのところ4年くらい続けて毎年節目なので少々疲れてますが(笑)。 / Hidey ( 2002-09-27 14:49 )
プルーさん、その通りなんです!Global Strategyの教授には既にうちの会社の国際戦略について書くことについて了解をもらいました。現金なもので自分の会社を改善する方策を考えるというのはやはり血がうずきますね。楽しみ楽しみ。Management across Culturesは一年生の一番はじめのFoundationsという基礎学習のときに企業倫理を教わった非常に評価の高い女性教授で、これも楽しみです。 / Hidey ( 2002-09-27 14:46 )
夢樂堂さん、そうですね、二年生というステップは「カスタマイズ」という言葉に象徴されるようです。就職し直す連中がほとんどので、みなとても真剣。個人差とというよりは着実に未来の彼らを彷彿とさせるそれぞれに異なる顔ができあがりつつあるようです。 / Hidey ( 2002-09-27 14:39 )
KATSUMIさん、そうなんです。冬休みには来年以降の身の振り方を考えるため、かつその元になるプロジェクトのための情報収集をしに日本に一時帰ると思います。計画的にやっていかないと、ここに来た意味がなくなっちゃいますからね。お仕事の件、何もできないかもしれませんがいつでもどうぞ! / Hidey ( 2002-09-27 14:35 )
たらママさん、数字からは逃げました(笑)。ま、それもあるとしても、人生でおそらく最後に集中的に勉強できる機会において、本当に自分に必要なものを考えたらこんな選択になりました。ファイナンスは先日立派な参考書も買ったので折に触れて読んでいけばいいかと思います。確かに、うちの会社がこれらの知識を活かしてくれるかどうかはまた別問題です。期待したいところです。 / Hidey ( 2002-09-27 14:33 )
フィー子さん、いや、一応政治経済学部だったんですけど。。。それと英語ゆえできるってよりは英語ゆえ辛いのですが。いろーんな顔、持とうと思います。フィー子さんも、妻と、母と、それから。。。 / Hidey ( 2002-09-27 14:30 )
ボストンというとハーバードですか〜? / ボストニアン ( 2002-09-25 03:55 )
吸収したものも、活かしてこそ、学んだ時間の価値が生まれるんだと思う。時間に余裕ができれば、知識と経験を繋ぎあわせて、いろんな発想や成果を生み出すことができる。更に充実した年になりそうですね。 / しゃどう猫 ( 2002-09-24 18:08 )
進級おめでとうございます! いつか日本中の人達がみんな知っているようなえらーいえらーい人になって下さい。 いつか子供に「お母さん、昔あの人に会ったんだよー♪ 素敵な人だったんだよー♪」って自慢したいです。/その前に産まなきゃ(笑) / Hiroko ( 2002-09-24 00:22 )
私も漸く長過ぎる夏休みが終わろうとしていて、来週から集中講議です。新学期に入っても、ドクタかつ指導教官が留学した私には授業がありません。気合いを入れないと一年何もせずに終わります。それは困るので私も遠い空の下がんばります。うお〜(気合い)。 / lim. ( 2002-09-19 14:46 )
夢としっかりした目的をもって学ばれてるんですね。ふたつの顔大事にしてください。新たなスタート、やる気があふれてるのが伝わってきました。よい結果につながりますように。 / Ecru ( 2002-09-18 22:42 )
遅くなってしまいましたが、進級おめでとうございます。日記を読むたびいつもHideyさんの姿勢を見習わなきゃ、とお尻をたたかれる気分になります。ありがとう。充実した一年になるといいね。 / rei ( 2002-09-18 00:47 )
私もこの夏ずいぶん先のことを考えました。そろそろ極めないといけないことも多くって・・・。 / ウサ子 ( 2002-09-17 17:33 )
プロジェクトで、自社のことを取り上げたいなんて、勉学、実務一石二鳥ですね。そのプロジェクトが実績に繋がれば、素晴らしいです。下の科目、マネジングアクロスかるチュアに興味あります。最近、暇人よんでると日本にひとたちが、外国を(特にアメリカが多いけど)どう考えているか興味深いので。 / プルー ( 2002-09-17 00:06 )
ステップ・バイ・ステップなんですね。自主性が求められる分、個人差が出るということでもあるわけですね。 / 夢樂堂 ( 2002-09-16 20:06 )
もう帰国後のことを考えているんですね。きっと何処かでお力を借りることがありそうです。よろしくお願いします! / KATSUMI@活動再開 ( 2002-09-16 03:15 )
アカウンティングとファイナンスの授業はもうないんですね。マネジメントや企業戦略の視野を深めるには最高の環境なのでは。会社によって違うのでしょうが、Bスクールで得られた知識やスキルを企業に戻ってから活かしきれず失望して転職する人の例もかなりありますね。企業にとってもったいない話です。 / たらママ ( 2002-09-16 01:28 )
なるほど、ふたつの顔ってそういう意味でしたか。それにしてもとても文学的・文化的なHideyがこれだけ経済の勉強にまみれるのも大変でしょうねえ。英語ゆえ、できるっていうのはあるかもしれないけれど。今後もいろーんな顔をもって、がんばってください。 / フィー子 ( 2002-09-15 17:44 )

2002-09-15 ふたつの顔 1

9月4日から実質的な二年生の授業が始まった。一年生ではアカウンティング、ファイナンス、マーケティング、リーダーシップ、戦略論など経営学の根幹をなす必修科目を全員が履修したが、二年生になるとすべてが選択科目となる。多くのビジネススクールでは日本の大学の専攻に相当するメジャーを決定し、これを全うするために必要な科目を履修するという形を取る。しかしうちの学校にメジャーという制度はなく、アカウンティング、ビジネス・政治経済学、起業・サービスマネジメント、ファイナンス、ジェネラル・マネジメント、マーケティング、交渉術・組織とマーケット、組織行動、戦略論、生産管理という10の部門に分類された合計82の教科から好きなものを10教科選択できる。つまり他校ではファイナンス専攻を選んだら一年間ほとんどファイナンス関連の教科ばかり勉強するのに対し、当校では10の部門からそれぞれ教科をひとつずつ履修ということもできるのだ。もちろん他校同様ある部門に集中することも可能だ。

とはいえ限られた定員に対し合計900人の二年生が登録するため抽選が発生する。システムは単純で、各自履修を希望する教科に優先順位をつけ、1位から20位くらいまでのランク表を作成して5月上旬までにオンラインで提出する。日本のプロ野球のドラフトとまったく同様、抽選によって900人の学生ひとりひとりに優先順位がつけられ、優先権第一位の学生から順に好きな教科をひとつずつ登録できる。900位まで登録が終わったら2順目は900位の学生から順に二教科目を登録できるというジグザグ方式だ。無論希望科目の定員が埋まってしまえば次に希望する科目を登録することになる。

僕の登録した教科をご紹介しよう。9月から12月までの秋学期は、 Building a Sustainably Successful Enterprise(持続的成功企業の構築)、Globalization and Strategy(グローバル戦略)、Management in Perspective(マネジメント展望)、Consumer Marketing(消費者マーケティング)、Business Marketing(ビジネス・マーケティング)の5教科、1月から5月までの冬学期はBusiness Leadership in Social Sector(非営利部門におけるビジネス・リーダーシップ)、Marketing of Innovations(イノベーション・マーケティング)、Managing for Creativity(創造性マネジメント)、Corporate Strategy(企業戦略)、Managing across Cultures(異文化間マネジメント)、Leading Teams(チーム・リーディング)の6教科となっている。冬学期ではLeading TeamsとManaging for Creativityがそれぞれ他教科の半分の単位にしか相当しないため6教科となった。部門の別で言えばマーケティングが3教科、ジェネラル・マネジメントが3教科、戦略論が2教科、起業・サービスマネジメントが2教科、組織行動が1教科ということになる。本来は戦略を70%、マーケティングを30%程度のバランスにしたかったのだが、定員、週の前後半の教科のバランスなどの制約もあり、またコースの内容を吟味した結果このような比率になった。

(つづく)

先頭 表紙

2002-09-07 Hit the Screen 2

また期末試験もノン・ネイティブ学生にとっては大いなるハンディキャップになる。15ページ程度にわたるケースを与えられて5時間で2000ワード程度の論文を書くという出題形式が多いのだが、バイリンガルでない日本人の場合は15ページの高度な内容の英文を読むのに2時間前後を要すると思う。アメリカ人は半分の1時間程度でこれを読み、1時間ほど設問と格闘し文章の構成を考えて2時間〜2時間半ほどで書き上げ、残りの時間を推敲に充てるというのが標準のようだ。日本人の場合英文を書くのにもアメリカ人の2倍近くの時間がかかることを考えると、どうしても設問について考える時間を削るか、文章を短くまとめるか、その両方ということになってしまう。推敲などする余裕はない。嵐のように5時間が過ぎ、後からゆっくり考えれば他の学生に劣らない色々な視点が湧き出てくるのだが、悔しいので考えないようにしている。

こんな調子なので、そして先述のとおり相対評価なので、多少手ごたえのある文章を書いたと思っても他の学生が何を書いたのか分からない以上、最後まで成績に関し自信が持てないのだ。どれだけ努力しても進級できるレベルにあるかどうかは確信が得られない。

夏休みで日本に帰国中の6月11日(アメリカ時間6月10日)、友人と飲んで実家に帰宅した僕は酔った頭でパソコンに向かい、オンラインで発表される成績をおずおずと調べた。結果は良好。「Hit the Screen」することなく無事に二年生に進級することができた。急に酔いが覚めてへらへらしてしまった。後期の後半はJapan Trek準備のため勉強もそっちのけの日が続いていたので本当にほっとした。結構苦労したNegotiationの評価がTだったのも嬉しかった。そんなわけでこの9月3日は晴れ晴れと始業式に臨むことができたのだ。

最後に全然関係ない話。

「小泉首相が日米首脳会談で訪米する際ボストンをも訪れ、うちの大学で講演を行った後日本人学生を交えて懇親会を開く予定。確率は低いがビジネススクールからも懇親会に何人か参加させてもらえるかもしれないので希望者を募る」

こんな主旨のメールが廻ったのが先月末のことだった。せっかくの機会なので参加希望の返事を出していたが、実は講演自体が誤報だったと今日連絡があった。多忙につき講演は見送ると外務省から通知が入っていたという。しかしうちの大学の政治学研究所主催により行政大学院に通う日本人学生との懇親会を行うのは事実のようだ。もう数人に招待状が届いているとのこと。結局ビジネススクールの学生は誰も招待されなかった。それにしても小泉さん、講演もしないのに何ゆえ食事会だけのためにやってくるのだろう?逆なら納得できるのだけど。

先頭 表紙

ガス欠コインさん、ありがとうございます。第一関門が実は一番厳しいといわれるものだったのでちょっとほっとしているのは事実です。でもあらためて気を引き締めないと。これからの一年は学校との勝負ではなくて今後の僕の人生との勝負のようなものなので。これまで12年間真剣に仕事をしていたのと同じ感覚でなんとかやっていきたいとおもいます。実際のところこれからの一年は仕事なのです。 / Hidey ( 2002-09-15 15:00 )
たらママさん!出張お疲れ様でした。色々大変だったようですね(笑)。日本でも進級が厳しい大学があるのですか。たらママさんはいつも自らを厳しい位置に置かれて鍛えられているというイメージがあります。これからの一年の抱負は次の日記に色々書きましたのでよろしければご覧ください。 / Hidey ( 2002-09-15 14:57 )
Hirokoさん、お久しぶり!PCはともかくHirokoさんはお元気でしたか?相変わらず拙い日記ですがゆっくり読んでやってください。ドイツ、今回は残念ながら優先順位下位に回ったとともに17日間の旅行の一番最後だったので満喫はできませんでした。好きな国なのでもっと色々見たかったのですが。 / Hidey ( 2002-09-15 14:55 )
ウサ子さん、充分目が回ってますよー。でもどっかでバランスを保ってなんとかギリギリのところで正しい努力をしないと本当に振り落とされてしまいそうになるカリキュラムであることは事実です。もうしばらく試験のことは考えたくないです。 / Hidey ( 2002-09-15 14:53 )
ナライフさん、いえいえ、こちらにいると自分のもらっている給料に何も貢献していないという肩身の狭さを感じます。今はナライフさんに食わしてもらっている状態。ほんとすみません。真面目な話、不況の中最前線で少しでも業績を保とうと努力されている皆さんには頭が下がる思いです。これだけ遊ばせてもらったのだからその分貢献していかないとね。プレッシャーです。 / Hidey ( 2002-09-15 14:51 )
misatoさん、ありがとうございます。余裕が感じられるのはなぜか…それはこの下の日記までは3ヵ月半に渡る遊びの記録だったからだと思います(笑)。もう当分余裕のない生活が続きそうです。misatoさんこそいつも余裕を愉しんでらっしゃる生活が浮かんできますが。。。 / Hidey ( 2002-09-15 14:48 )
りぃなさん、続きです。ちょっとプレゼントしたい言葉があったので。うちの会社のカリスマ四代目社長の十訓の中に素晴らしい言葉があります。「計画を持て、長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる」。その通りだと思います。 / Hidey ( 2002-09-15 14:46 )
りぃなさん、ありがとうございます。かなり(とても)スパルタな学校なんです。英語のために休学はもったいないよ。意識さえ保てば日常生活の中でいくらでもピックアップできるはずだから。本当に辛いようならベルリッツのようなところに通うのもいいかもしれませんね。冒険できるのは若さの強み。計画性は大事だけど計画にない学びも引き続き大事にされていいと思いますよ。頑張ってね。 / Hidey ( 2002-09-15 14:43 )
のだくん、びっくりです!読んでくれてたのですね。ご活躍は聞いてました。確かに目的意識を持って選択した授業はpassiveに受けていた授業と比べると遥かに面白いですね。でも実は一年生でも教授に恵まれていたこともありMarketing、Strategy、BGIEなどはとても楽しめました。そうですね。勉強も大事だけど人生でもこんな経験は今年が最後だからより多くの人と有意義な時間を過ごしたいと思っています。拙い日記ですがこれからもちょっと懐かしくなるような話もあるかと思うので読んでいただければ嬉しいです。今度是非会って飲もう! / Hidey ( 2002-09-15 14:39 )
lim.さん、神経すり減りますよ〜。lim.さんも教える立場にまわってもきっと同じ苦労はついてまわるんでしょうね。僕にとっていつまでたっても英語の壁は高く大きいのです。ああ・・・ / Hidey ( 2002-09-15 14:28 )
スーパーしえろさん、最近日本もビジネススクール盛んですね。古くは慶應ビジネススクールがうちと提携したような形でうちのケースを邦訳して使っていると聞いています。国内の状況は分からないので安易には書けませんが、こちらで授業に加わっているとまず驚くのが教授の職人芸です。80人の雑多な学生達の予想不可能な発言を瞬時にしてまとめていくオーケストレーション、芸術的なサマリー。あれはちょっと真似できないです。日本では研究者はいても教育者は少ないのではないかと思います。もっと競争主義を徹底してほしいですね。 / Hidey ( 2002-09-15 14:25 )
しゃどうさん、日記にも書いてらっしゃいましたね。僕なんかより余程大変な状況じゃないですか!でも真剣に人生と勝負するってなかなかない機会ですからね。お互いしゃどう猫くんに学んで体だけは大切にしましょう。そちらも頑張って! / Hidey ( 2002-09-15 14:19 )
パンドラさん、そうでしたね。あのときはまだ成績が発表になっていなかったので正直まだぎこちない気持ちでいたのは事実です。あのあと本当に夏休みを満喫できました(笑)。授業が始まってめっきりお酒が飲めなくなりましたがこの週末は日本と同じく三連休。いまハイネケンで一杯やってます。カンパイ! / Hidey ( 2002-09-15 14:16 )
トモコさん、ありがとうございます。音大は音大の辛さがあるんでしょうけど。。。でも確かに言葉では通じなくても万国共通の音で伝えられるというのは少し羨ましい気がします。海外で孤軍奮闘するロールモデルとして常に見続けてきた中田英寿にしても言葉でなくプレイで表現できるというのはやはり少し羨ましかったりします。ま、泣き言は言わず前進あるのみです。お互い頑張りましょう。 / Hidey ( 2002-09-15 14:14 )
夢樂堂さん、小泉さんの件、あとで聞いたところだと食事会ではなくうちの総長と日本関連の教授陣、そして上記の日本人学生たちが集まって彼を向かえたたった20分程度のレセプションだったそうです。首相は30秒程度のスピーチをして、あとはNFLの開幕戦に駆けつけたそうです。まあ国内で忙しくしてそのあと日米及び日朝首脳会談とストレスが多い中で少しリラックスしたかったのかもしれませんね。一国の首相のストレスは大変でしょうから。 / Hidey ( 2002-09-15 14:11 )
Ecruさん、ありがとうございます。そうですね外国で学ぶ厳しさに尽きると思います。ネイティブに取っては正直楽な学習方式だと思うのです。英文15ページ程度のケースを毎日二つ三つ予習して、80分の授業の中で一度くらい気の利いたことを言えばいいだけなのですから(笑)。日本語ならどんなに楽だろうと思います。 / Hidey ( 2002-09-15 14:06 )
akemiさん、ありがとうございます。僕も勉強ということはひいては仕事を全うすること、生きることには変わりないので見ているものはakemiさんと一緒だと思います。その辺の話はこれからアップする日記に書かせていただきます。 / Hidey ( 2002-09-15 14:04 )
PAOさん、ありがとうございます。というか皆さんからお祝いの言葉をいただいてしまいましたが進級するという言わば当たり前のことを祝っていただくのは正直かなり恥ずかしいです(笑)。自分にとってはおおごとでしたが。確かに日本の学校、特に大学は大きく変わる必要がありますね。これだけ不況が続いて学生も真剣に自衛手段を考え始めているのだから、より実践的で学びのある環境作りをこの機会に学校側が推進すればいいと思うのですが。。。 / Hidey ( 2002-09-15 14:01 )
何はともあれ、おめでとうございます。タイトルでは、最初何のことかと思いましたが、とりあえず第一関門、突破ですね。 / ガス欠コイン ( 2002-09-14 18:55 )
進級が厳しい大学だったので、進級者発表日の緊張は今でも覚えております。事前に教授に進級できたかどうか探りを入れに行ったものでした。 / たらママ ( 2002-09-14 07:58 )
進級おめでとうございます! 久し振りに来るとやっぱりとっても読み応えのある内容ですね! もったいないから時間のあるときに読もうと思っているうちにどんどん新しくなっていって、もっともったいないことをしているかも。/ お祝いメッセージ有難うございました。PCクラッシュの為、お礼が遅くなってすみません! / Hiroko ( 2002-09-13 00:16 )
おめでとうございますー。にしても大変な試験ですね。私なら目が回ってしまいます(^^; / ウサ子 ( 2002-09-10 20:55 )
おめでとうございます!!一応「同じ釜の飯を食う」間柄なのでしょうが、その環境の違い、負荷の違いに唖然としつつ畏怖の念を覚えます。引き続き頑張って下さいね。 / ナライフ ( 2002-09-10 15:40 )
おめでとうございます!Hideyさん、こんな厳しい環境にいらっしゃるのにどこか余裕が感じられるのはなぜなんでしょう・・。ミサトだったら、勉強以前にプレッシャーに押しつぶされそう・・! / misato ( 2002-09-10 11:37 )
進級おめでとうございます!そして誤報、残念でしたね。ちょっと(!?)スパルタな学校なんですね。愛情を感じる・・・どころじゃないかしらん? 私も、いい加減、Hit the Screenになるのが怖いです。というのも、英語力。休学して、じっくりやり直したいと思うのですが、卒業を遅らせすぎるのも、と、色々悩みはつきません。冒険するのはいいけど、失敗してばかり。Hideyさんを見習って、腰をすえてやらないと。 / りぃな ( 2002-09-09 18:16 )
Hidey、二年生への進級、心からお祝い申し上げます。二年生の授業は一年目とは比較にならぬほど面白いです。勉強以外のことも含めて、時間・体力・気力の許す限り、あらゆるものを吸収して経験していってください。健闘をお祈りいたします。 / のだ ( 2002-09-09 15:40 )
ひゃ〜。凄い試験ですね。外国語の論文を試験で読むのは本当に神経をすり減らす作業ですよね。もう二度としたくないです。英作文は致命的に苦手だし・・・。ああ・・・ / lim. ( 2002-09-09 13:36 )
Hideyさまの日記を読むと、「本当の勉強」とは何か、ということをつくづく考えさせられます。日本にもビジネススクールができていますが、形だけの「まねっこ」じゃだめだよね。 / スーパーしえろ ( 2002-09-08 23:38 )
ん・・・、あんまり他人事とは思えない、わたしも引き締めていかないと。今年の終わり頃から、落ちたら退学になっちゃう系統の試験、をいっぱい受けることになります。ぐすっ。Hidey様、厳しいカリキュラムの中、進級おめでとうございます。その調子で、後半も突っ走っていっちゃってください。でも、体にはくれぐれも気をつけて。 / しゃどう@健康管理は猫を見習うべし? ( 2002-09-08 14:20 )
をを、おめでとう!!! あの6月の、はじめましての乾杯が、今、おめでとうの前祝のカンパイに変わったよ! さすがだね、ホントにうれしいよ。 Hideyさまの新しい9月にカンパイ!^^ / パンドラ ( 2002-09-08 08:22 )
おめでとうございます!常々「ネイティヴと同じこと要求されたってできないー!」などと大変がっていた私ですが、拝読して、つくづく音大ってなんて楽なんだろうと反省してしまいました。。。Hideyさんのこと、見習わなきゃ。 / トモコ ( 2002-09-07 21:26 )
また新しい始まり。それにしても、小泉首相、食事会だけなんて無粋だぜ。 / 夢樂堂 ( 2002-09-07 20:11 )
いよいよ始まったんですね。まずは、二年生おめでとうございます。外国で学ぶ厳しさというのが、あるんですね。そんな中で良好な結果とは、素晴らしいです。 / Ecru ( 2002-09-07 19:06 )
おめでとうございます。本当に一生懸命勉強をした記憶がないあたしは、お祝いの言葉以外申し上げることはありません。「生きて行くこと」については毎日、必死ですけれど… ^^; あたしは実家でただ働きしてまかないも食わずに帰ることがしばしばですが?>小泉首相。 / akemi ( 2002-09-07 18:47 )
おめでとうございます。hideyさんのがんばりをこの日記で読んでいただけに、次のステップへ進めるようになったと知ってとても嬉しいです。本来学業というものはこういった厳しさを伴っていたものなんでしょうね。とくに現在の日本の場合、本来の意味での学問の環境がほとんど失われているということは非常に残念です。 / 走る酔人(PAO) ( 2002-09-07 18:31 )

2002-09-07 Hit the Screen 1

9月3日はビジネススクール二年生の初日だった。当たり前のように講堂で学長のスピーチを聞きながらも、正式に二年生への進級が決まった日の感慨を少し思い出していた。

うちの学校は昔からアメリカのビジネススクールの中でももっとも学業に関し厳しいと評判の学校だ。勉強しなければ卒業できないアメリカの学校制度は日本でも最近よく知られるところだが、うちの学校の場合は二年生になるのにある基準を充たさなければ退学処分ということもあるのだ。そして退学処分者は毎年ちゃんと存在する。

「Hit the Screen」という忌まわしい言葉がある。screenとは「ふるい」を意味する言葉で、これをヒットするということはつまり進級させるか否かの基準に引っかかり審議の対象になることを指す。一年生は前期に22単位、後期に18単位、計40単位を取得しなくてはならない。通常一教科を履修すれば4単位が取得できるのだが、その際の成績が問題になる。成績はTからWと「不可」に相当するNがあるのだが、V以下の教科が合計18単位を超えると「Hit the Screen」ということになり、進級の可否を「Academic Performance Committee(学業成績委員会)」が判断するということになるのだ。審議の結果、今後改善の望みがない者は退学になり、望みはあるが現状のままでは周囲のペースを乱すと判断される者は一年間休学させ、その間みっちり再学習を課すことになる。進級はさせても復習の義務などの条件つきという場合もある。

ものの本によれば1952年にうちの学校に留学した5人の日本人のうち二年生に進級できたのはたった一人だったそうだ。その頃の日本人留学生の一人は厳しさに絶えられず寮で自殺したとのことだ。日本再興という壮大な気宇を抱いていた彼らの挫折感は相当だったろう。僕にしても二年で卒業できる見込みがないことが分かれば会社の援助は打ち切られ、強制的に帰国させられて屈辱の中で働かなくてはならなくなるのである程度気持ちは分かる。その後も80年代前半にかけては日本人に限らず、少なからず自殺者が出ていたのは事実のようだ。そんな経緯もあって多少基準が緩くなってきたようだが、恐ろしい制度であることに変わりはない。

この恐怖の成績はどのように採点されるのか。大前提として、うちの学校はアメリカの通例と異なり日本でお馴染みの相対評価を採用している。その評価基準は教授によって多少異なるものの、ほとんどの場合期末試験が最終評価の40%、中間試験が10%、授業中の発言によるクラスへの貢献度が50%に相当する。

これはノン・ネイティブの学生にとっては大変厳しい評価方式だ。以前にも何度か書いたとおり、うちの学校はケースメソッドを採用していることもあり、学生達は授業中怒涛のように発言をする。成績がかかっているだけに尚更だ。ネイティブの学生がここぞとばかりに早口で高度な発言を連発する中で、ある程度内容のある発言をしなくてはならない。発言は授業の進行に応じて右に左に流れていくので、事前に言おうと思って準備していたことも言えずじまいというのは日常茶飯事だ。他人の発言を常に聴き取りながら、臨機応変に個性ある発言をすることが求められる。80人の学生が80分の授業でひとり数分にわたる発言をするため、手を挙げつづけても一度も指してもらえないこともある。一番悔しいのは、授業の最後に教授が要約するケースのポイントをうまく事前に解き明かしても(ケースを“crack”すると表現する)、最後まで発言の機会を得られない場合だ。

(つづく)

先頭 表紙

2002-09-03 USオープン・テニス観戦 4

アガシの試合の途中席を立った僕は向かいから歩いてきた日本人の女性客と顔を合わせた。よく見るとそれは伊達公子さんだった。僕が運営に関わった大会に出場した頃の彼女は日本のホープとしてようやく頭角を現しはじめたばかりだった。確か二回戦あたりで敗れた彼女が僕の手から受け取った賞金は300〜400ドル程度だったと思う。プロの厳しさを痛感したものだが、それから5年後に彼女は世界ランク4位にまで登りつめ、その翌年にはフェドカップで憧れのグラフを破った。プレイだけでなく人格も立派な女性だった。色々なことが瞬時にして思い出されたが、無論声はかけなかった。杉山愛対エイミー・フレイジャーの試合が行われていた10番コートでもう一度伊達さんを見かけた。6-4、6-2でフレイジャーが勝った試合だったが、試合後他の客が席を立つ中、スタンドの端っこに座っていた伊達さんは声をかけるでもなく杉山選手をいつまでも見つめていた。

ルイ・アームストロング・スタジアムではちょうどマルティナ・ヒンギスの試合が始まるところだった。世界ランクトップをウィリアムズ姉妹に譲り、左足の故障で一時は引退の危機に瀕したが、辛い手術を重ねてコートに戻ってきた。グラフ引退の年のフレンチ・オープンの決勝で、癇癪を起こしつづけた挙句マッチポイントを迎えたグラフに失礼とも受け取れるアンダーハンド・サーブを放ち観客の大ブーイングを浴びた頃の彼女はもういなかった。この数年の努力は観客を彼女の味方につけていた。足の調子を見ながらも徐々に彼女らしく狡猾に相手を前後左右に揺さぶりはじめた。相手を動かしつつ相手の返球を巧みに読むことで彼女は自分の動きを最小限にとどめた。一時間足らずで彼女は三回戦に駒を進めた。

試合としてもっとも圧巻だったのはモニカ・セレス対バーバラ・シュウォルツ戦だった。セレスもまた狂信的なグラフファンに試合中背中を刺され世界のトップから転落したというあの忌まわしい事件以来、観衆の判官びいきを得ることが多くなった選手だ。1994年にユーゴスラビアからアメリカに帰化したことを知らずに「同胞」に声援を送るアメリカ人もいるのではないかと思う。セレスが第1セットを落とし第2セットもタイブレークになると彼女への声援は最高潮に達する。午後10時をまわり小雨が降り始めた肌寒い夜空に、彼女がワンポイント取るたび「Yeah!」「All right!」という絶叫がこだました。見上げるとすぐ隣のルイ・アームストロング・スタジアムの最上階にも人が鈴なりになってこの日一番の熱戦を見守っていた。昔から感じていたウィンブルドンとは違うUSオープンの空気感をはじめて生で味わった。声援に押されたセレスはタイブレークを制し、第3セットを6-2でもぎ取って勝利を決めた。時刻は午後11時になっていた。

朝からの大雨で翌日のチケットを取り直し再び3時間半かけてニューヨークに出てくることも一時は覚悟していたが、結果的にはテニスのテーマパークのようなこのUSオープンを心ゆくまで愉しむことができた。新旧の様々な顔ぶれに出会い、僕にとってそれはまるで同窓会のようだった。いつかもう一度だけ同窓会に出席しよう。次の行き先はもちろんイギリスだ。そんなことを思いながら僕は深夜のルート95をボストンへ向かった。

先頭 表紙

jさん、ありがとうございました。ほっとしました。ボストンの初雪は早いですよ(笑)。ゆっくりお待ちしています。 / Hidey ( 2002-09-27 14:27 )
突然、ごめんなさい。ちょっとお休みします。初雪の頃戻ってくるので、見つけてください。こちらこそ、ありがとう。 / j ( 2002-09-17 15:38 )
わかな、そうだったんだ!一緒に見られたらよかったのにね。どの日に行ったのか今度教えてください。わかながテニスをやってたなんて全然知りませんでした。そうだね、音楽の趣味も一緒だしね。ほんと近いうち家に遊びに来てね。 / Hidey ( 2002-09-15 13:58 )
PAOさん、熱血テニス青年だったのですね。僕は高校時代かな。留学試験を受けるためテニス部をやめてしまいましたがテニスへの思いは捨てられず毎日早起きして学校に来て壁打ちをしたりしていました。 / Hidey ( 2002-09-15 13:56 )
邪夢猫さん!お別れの言葉もなくいなくなるなんて寂しすぎます。クリックしてびっくり。何か心境の変化があったのですか?とにかくこれからもお元気でいらっしゃることをそしていつか再会が叶うことを心からお祈りいたします。ありがとうございました。 / Hidey ( 2002-09-15 13:54 )
Hidey, 実は私もUSOpen行ってました!私はジュニアの頃からテニスをやっていたので、思い入れも強いです。なんだか、いろいろなところでHideyと趣味が似てますね・・・。 / わかな ( 2002-09-12 11:10 )
もう10年ほど前私は会社のコートで毎朝同僚と二人で汗を流していました。シャワーを浴びても朝礼の円陣の中で二人だけ頭から湯気が上がっていたのを思い出します。 / 走る酔人(PAO) ( 2002-09-07 18:20 )
シニアはちらっと中継をやっていたみたいで、夫がTV見ていました。あの人は好きな選手が山のようにいるんで追っかけが大変なんですよ(笑)。 / 邪夢猫 ( 2002-09-07 15:20 )
りぃなさん、あ、あの大学だったんですね。大学がトーナメントをやっちゃったということで話題になってましたね。それはいい経験になったね。確か優勝したセレスも僕の運営した大会でカプリアティ、ナブラチロワと一緒にエージェントを通じて呼びました。払ったお金は合計xx万ドル(笑)。でももちろん選手が欲しいのはお金ではなくてツアーポイントなんだけどね。 / Hidey ( 2002-09-07 14:48 )
邪夢猫さん、伊達さんはメディアの攻勢に苦しみながらも凛とした日本の誇れる女性でしたね。常に潔さがありました。確かにヒンギスはいつまでも子供だからなー。ところでこのUSオープンでは2週目のシニアの部で懐かしい人がいっぱい出ています。下にも書いたハナちゃんとか、大御所ジョン・ニューカム、バージニア・ウェイドなど!ちょっと観てみたかったです。 / Hidey ( 2002-09-07 14:45 )
ガス欠コインさん、小学校から硬式ってすごいですね!アーロン・クリックスティン、懐かしいですね。たしか日本人に通ずるそれほど背の高くない選手ではなかったでしたっけ?僕はあと気まぐれハナちゃんことハナ・マンドリコワの、実はナブラチロワやエバートを上回る天賦の才も好きでした。 / Hidey ( 2002-09-07 14:42 )
プルーさん、昨年プルーさんも観に行かれたとおっしゃっていたのもちょっと引き金になったのです。お陰さまで本当にいい経験になりました。また今度もウィリアムズ姉妹の対決ですね。がっかり。男子はサンプラス、アガシ、ヒューイットが順当に残って面白いけど。あとなんと明日はexhibitionでマッケンロー対ベッカーというのがあるようですね。観たい! / Hidey ( 2002-09-07 14:39 )
みなみさん、あのウィンブルドンの魅力をここまで的確に表現されたみなみさんにこそ僕は感動しました。ほんと、そうだったよね。あの逆光気味に光る芝生が眩しいんです。一番すごかったのは82年のコナーズ対マッケンローのフルセットの試合かな。高校二年の期末試験直前でしたが朝3時まで親父と一緒に観てたのが懐かしい。 / Hidey ( 2002-09-07 14:32 )
世界トップの集まる試合は感動が詰まってますよね。オクラホマの、うちの大学でも、去年の春辺りに、女子テニスのインドアの試合があったんですよ。杉山選手はじめ、この日記でも出てきたセレス、カプリアティ、クッツァーも出ていました。世界レベルの試合を見たのは、あれが初めてだったので、息をつく暇もなく見ていたのを思い出します。 / りぃな ( 2002-09-07 04:20 )
伊達さんは見る見るうちにほんとうに素敵な女性になりましたよね。中身が詰まっているのがよくわかります。日本人の特色でもあるかなぁ。ヒンギスとかを見ていてもあまり感じないことなのだけれど。というか、ヒンギスはしょっちゅうゴシップ記事を地元新聞で見ているからかもしれない。 / 邪夢猫 ( 2002-09-04 15:42 )
僕自身、レベルは話しになりませんが、小学生の時から、硬式テニスを始めましたね。単に、家の近くに区営の安いコートがあったのがきっかけだったのですが。確かに、あれだけ、ノータッチ・エースが決まるとなあ。自然とテレビや会場でテニスを見る機会は減りましたね。メジャーどころでは、コナーズ、マイナーどころ?では、クリック・ステインが好きでしたね。 / ガス欠コイン ( 2002-09-04 00:04 )
USオープン、見に行かれたんですね。この夏4回目のNYかしら(笑)。 今年はかなり雨にたたられて。月曜の夜なんて、スケジュール調整のためか、アガシ、サンプラス、ローディアックと、試合がめじろ押し。アガシの調子がいいので、嬉しい。日曜の夜は、去年のサンプラスとアガシの試合を放映してましたね。アガシが負けたのは残念だったけれど、あれはとてもいい試合でした。今年、どこまで行けるかしら、わくわくしてます。女性は、セレスとヒンギスです、よね、面白い組み合わせで、楽しみです。 / プルー ( 2002-09-03 23:55 )
USオープン、さすが観客席まで顔ぶれが豪華なんですね。わたしはテニスをしたことはないけれど、ウインブルドンはいつか観戦しに行ってみたいと憧れていました。深夜のテレビに映るあの芝と、目の眩むような日差しと、ギリギリした雰囲気が剥き出しになったプレイヤー達の印象が強烈で。自分とちょうど同年代くらいのカプリアティが荒れていた時には、彼女は大丈夫かしらねと友達と心配したものです……。高校生だった……。 / みなみ ( 2002-09-03 23:42 )

2002-09-03 USオープン・テニス観戦 3

ふと気づくと雨がやんでいた。コートの四隅からトンボ(水を掃く道具)を携えた係員が大挙して登場し、会場に大きな拍手が沸きあがった。巨大なドライヤーも現れ、彼らの秩序だった動きはハード・コートをみるみる乾かしていった。

午後3時半、いまやアメリカのテニスファンの誰もが愛してやまないジェニファー・カプリアティが対戦相手のティナ・ピズニックを従えて登場した。もはや僕を惹きつける選手はいないと書いたが、カプリアティは辛うじて思い入れのある選手だ。というのも件の女子テニス・トーナメントを運営したとき、まだプロとしてプレイし始めたばかりの彼女を僕が日本でデビューさせたからだ。当時彼女は13歳でプロ最年少デビューを果たしたばかり。その更に半年近く前から僕は海外のテニス雑誌で天才少女現るとの記事を読んで彼女のことを知っていた。彼女がフロリダのトーナメントでデビューしいきなり決勝に進出、ガブリエラ・サバティーニと接戦の末準優勝したときのビデオは今でも家にある。日本ではまだほぼ知名度がなかった彼女を初来日させるためにエージェントと交渉を行った。

彼女は有名なステージ・パパにスポイルされつつも、とても朗らかで天真爛漫な少女だった。しかし思春期に絶頂を味わった者の常として燃え尽き症候群に苛まれ、万引き、薬物所持など自らを傷つける十代を過ごした。どん底から這い上がった彼女は唯一の心の支えであるテニスを再度見つめ直し、徐々に天才少女と言われた頃のキレを取り戻す。そして昨年の全豪オープンで念願のグランド・スラム・イベント初優勝。続く全仏オープンも制し、一躍現代の病んだアメリカ社会の希望の象徴となった。

試合は、度重なるダブル・フォルトに悩まされながらも、地力に勝るカプリアティが6-4、6-2で勝利を収めた。持ち前の豪快なストロークとネットに詰めたピズニックの頭上を抜いた鮮やかなトップスピン・ロブが印象的だった。

続くアーサー・アッシュ・スタジアムの第二試合ではアンドレ・アガシが登場。安定したストロークでジメルストーブをストレートで下した。アガシももちろん大人気だが、テレビの解説ブースに現れたジョン・マッケンローもいまだに高い人気を誇り、会場のあちこちから「Johnny Mac!」と歓声が上がっていた。独特のサーブ・フォーム、滑るようなアプローチ、そして天才という言葉しか浮かばないしなやかなボレー。その彼もコナーズにはしばしば信じられないようなコースのパッシング・ショットを決められた。

しばしば語られるとおり男子テニスはつまらなくなった。高速サーブが決まればほとんどそれでポイントが決まるという単調なテニスになったからだ。思うにそれは選手が悪いのではなくてテニスというスポーツに限界があったということだ。野球で言えばストライク3つに対してボールは4つ、また4つのベースに対して3つのアウトというルールが、どんなに選手の身体能力が向上しても絶妙なバランスを保ちつづけているのに対し、テニスのエンターテインメント性はプレイの進化やそれに応じた選手の肉体の発達に置き去りにされたのだ。そして確かにカリスマ性のある選手が今はもういない。

(つづく)

先頭 表紙

そうですね、あの全豪オープンは僕も久しぶりに感動しました。先日USオープンの昔の映像(1991年)を流していたのですが、デビューして1年半のジェニーちゃんはまだ細くて可愛らしい女の子でした。イタリア系の独特の可愛さがありました。まあ今くらいのほうが体重の載ったショットが打てるのかもしれないけど。 / Hidey ( 2002-09-07 14:29 )
私もカプリアティの復帰には感動しました。すごいですよね。えーっ、ウソでしょ?って夫に言ったくらいですもの(笑)。 / 邪夢猫 ( 2002-09-04 15:40 )

2002-09-03 USオープン・テニス観戦 2

8月29日、当日。朝からボストンは大雨だった。ニューヨークも一日雨との予報。キャンセルのポリシーによると、一試合でも成立すればチケットの払い戻しはないとのこと。とにかくニューヨークまで行ってみるしかない。午前6時に小さなシビックにのって危険な雨のハイウェイをぶっとばした。

フラッシング・メドウのナショナル・テニス・センターにはメイン会場のアーサー・アッシュ・スタジアムと、サブ会場のルイ・アームストロング・スタジアム及びそれに併設されているグランド・スタンド、そして15のグラウンド・コートがある。二つのスタジアムで観戦するにはそれぞれ別のチケットが必要で、それらがあればグラウンド・コートの試合は無料で観られる。まだ一週目の平日ということで、両スタジアムともコートサイドのいい席が取れた。アーサー・アッシュは200ドル、ルイ・アームストロングは100ドルだった。

第一試合開始予定時刻の11時に間に合って着いたものの雨脚は一向に弱まらない。チケットの払い戻しや全部で900試合以上もあるトーナメントの進行を考えると主催者側としては何とか粘りたいところだろうが今日はさすがに無理そうだ。それでも正式な中止のアナウンスがないので食事をしたり土産屋をのぞいたりして時間を潰した。

午後2時頃になってようやく雨脚が弱まり、来場者の不満を解消するためかスタジアムへの入場が可能になった。僕が一番夢中になっていた頃にUSオープンが開催されていたフォレスト・ヒルズのスタジアム・コートとは異なるが、確かにそれはアメリカにおけるテニスの聖地だった。四角いすり鉢のようなスタジアムの天辺に設置された巨大なスクリーンでは1989年のジミー・コナーズ対アンドレ・アガシ戦の映像を流していた。

ジミー・コナーズ。僕がもっとも好きだった男子選手だ。テニスにもファンタジスタという言葉があるとしたらそれは間違いなく彼のことだろう。ボール・コントロールがしやすいトップ・スピンが主流になる中、肩と手首で豪快に打ち込む彼のフラット・ショットは、頑ななまでにネットすれすれに一直線の軌跡を描く。スーパー・ランニング・ショットを決めたあと勢いあまって観客席につっこみ、そのまま観客が手に持っていたジュースをゴクゴク飲んでしまう。大事なポイントをもぎとれば両の拳を突き出して天に向かって雄叫びを上げる。昔はそんなプレイヤーがいたのだ。スタジアムにまばらに散る傘を差した観客たちはみな懐かしそうに目を細めてスクリーンを見上げていた。僕の隣にやってきた60歳過ぎくらいの女性は「あら、ジミーじゃない」と目じりに皺を寄せて微笑んでいた。

1989年のアンドレ・アガシは若く精悍でおまけに獅子の鬣のような髪の毛を生やしていた。そして今と変わらない鋭いリターンや安定したトップ・スピンを放っていた。この年のUSオープンは男子はボリス・ベッカーが、女子はステフィ・グラフが制した。ステフィは前年のゴールデン・スラム(四大大会に加えてソウル五輪でも優勝)に続く大会二連覇を達成し、まさに絶頂期にあった。その頃はアガシと結婚して一子をもうけるなど想像すらしなかっただろう。彼女は華麗なフットワークで強引に回り込んで強烈なフォアハンドを叩き込み、スピードとキレが絶妙にバランスされたバックハンド・スライスで対戦相手の胸元をえぐった。ドイツ的な美徳である強固な意志に制御された極限的にアスレティックな肉体がコートに躍動していた。

(つづく)

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マッツ・ビランデル、これも懐かしい名前ですね。アガシの頃は正直既に男子テニスに興味を失っていたのですが、この年まで頑張っているのを見ると応援したくなっちゃいますね。毛もなくなっちゃったし(笑)。 / Hidey ( 2002-09-07 14:26 )
アガシの試合で一番好きなのは、仏オープンのビランデルとの試合です。若さと気迫が溢れていて、いかにも彗星のごとくだったから。 / 邪夢猫 ( 2002-09-04 15:45 )

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