夜。桃の皮を剥きながら思った。
今年はもう、あの桃が食べられない・・・。
1週間前に伯母は亡くなった。
寂しいお通夜だった。
伯母には4人の子供と4人の孫がいるのに、出席していたのは、その中の3人の子供だけ。孫は一人も来なかった。
母は「ちゃんと子供を育てなかった報い。」だと言う。
伯母は若い頃に放蕩三昧をした人だった。
娘盛りに親を亡くし、気に染まない相手との結婚を余儀なくされて、その鬱憤をはらすかのように夫の稼いで来たお金を湯水のように使いまくった。
毎月のように着物を新調し、宝石を集めた。
芝居を見に出かけたり、美味しいものにも目がなかった。
ちゃきっちゃきの江戸っ子の伯母から見たら、「田舎から出てきた野暮な男」にしか見えなかった男だったけど、目端が利く働き者だった伯父は一代で巨万の財を稼ぎ出した。脳溢血で倒れるまでは。
半身不随になってからも伯父は、年下で、生活能力のない伯母が一生路頭に迷わないようにと伯母名義でアパートを二棟も残した。
伯父の死後、お人よしの伯母は知り合いの借金の連帯保証人になって、それまでも取り上げられてしまったのだけど。
ここまでは母から聞いていた話。
私の知っているのはこのあとの伯母で。
子供だった私が焼いたお菓子を「美味しい、美味しい」と言って食べてくれたり。
編み物に凝っていた私に「バッグを編んでくれ」とリクエスト。一所懸命作ってプレゼントしたらとても喜んでくれたりして。
いい加減だったけど、面白くて、可愛くて。そして無邪気な伯母が私は大好きだった。
伯母は母の作った簡素なワンピースをとっかえひっかえ着ていた。
それはとても似合っていたのだけど、母に言わせれば「服を買うお金もなかった」らしい。2DKの狭い団地に住んでた伯母を、母はいつも「惨めだ、馬鹿だ。」と怒っていた。
伯母がもう少し目端が利いていたら、人並み以上の暮らしはできていたのにと、母は悔しくてたまらなかったに違いない。
大人になってからも私は伯母の生き方を否定はしてなかった。
女ざかりの20代、30代、40代にいいものを身につけて、遊び歩いて、やりたいことをやって。女としての華を咲かせてきたんだから今、お金がなくてもいいじゃないかと。
そんな伯母が唯一残していた贅沢が「桃」だった。
毎年、夏になると特別なルートから最上の桃を仕入れて親戚中にお中元として桃を配る。その美味しさと言ったら・・・。
ツワリの苦しい時期でもその桃だけは何個でも口にできた。
その桃の季節を直前にして伯母は逝ってしまった。
伯母がなくなる日の朝。
玄関を開けたらカタツムリがいた。
娘がつまんで飼育かごに入れたのだけど。
お通夜の前の晩。
そのかごの中のカタツムリが這いよってきて。
目をぐーんと伸ばして。
私を長い間じっと見続けた。
なんだか。
不思議と目が反らせなくて。
伯母が別れの挨拶を言いにきたのかなと。思った。
「ねえさんが死んでも私は悲しくない。」と、かつて言ってた母は。
親代わりに育ててくれた伯母を亡くした今、酷く体調を崩している。
伯母は母にだけは厳しかった。
同じように自分の子供たちも厳しくしつければよかったのに。そう母は今でも嘆く。
確かに。あの寂しいお通夜とお葬式は私もかなり堪えた。
お通夜はうちの子達がいたけれど。
お葬式は私を除けば。年寄りばかりだった・・・。
※2歳児@美容院にて。 |