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口車版「雑学の泉」

 
なんで,こんなにいろいろなどーでもよいこと,知っているのでしょうかねぇ。



口車筆無精乃介、IT業界を語る  口車大王「旅のおもひで」

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目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2001-02-17 [人物]緒方貞子さんを知っていますか?
2001-02-10 [人物]杉原千畝に見る信念とは
2001-02-07 [人物]杉原千畝という人を知っていますか
2001-01-31 [昔話]口車、ポーランドにてローマ法王に遭遇する
2001-01-28 [近況]口車家の雪景色
2001-01-27 [旅行記]帰ってまいりました日本へ、日本と言ったらやっぱ富士山
2001-01-26 [雑感]口車、JAVA携帯電話にがっくりする
2001-01-25 [旅行記]機内食、それは謎のカップラーメン
2001-01-22 [旅行記]続 口車、「そこ」について語る その2 アンネ・フランクの家2
2001-01-21 [旅行記]続 口車、「そこ」について語る その1 アンネ・フランクの家1


2001-02-17 [人物]緒方貞子さんを知っていますか?

 杉浦千畝氏に続いて。

 緒方貞子さんを知っていますか?

先頭 表紙

お姉様か妹様か忘れましたけど、当地にいらっしゃいます。 / りり ( 2001-03-01 00:42 )
国連高等難民弁務官という、難しそうな仕事をされた方ですね。危険も伴う仕事を、愛情を込めながら淡々とこなされていたのは、すばらしいと思いました。ああいう人に、ノーベル平和賞を。 / 綾丸 ( 2001-02-19 17:23 )
中学のときの社会の資料集で、迷彩のベスト着て、まわりにごっつい?兄さん達に囲まれてどっかの視察とか見学にいってる写真があった。小柄な白髪の綺麗なマダムだと思った。>ちくわぶ情報!!1本170円は高いか、安いか? / 撫子 ( 2001-02-19 04:06 )
存じません…。間違えました。自分の日記…。8.51で不安定だったので、8.6を入れてもらった…でした。失礼しました。おかげさまで…です。これからもどうぞよろしく。(*^.^*) / akemi ( 2001-02-18 20:08 )
ちくわぶだけ煮って寂しい〜?まあ人参とか入れるけど。>撫子ちゃん ところでうちの子は白目をむいてへんな顔をします。違う貞子に似ています・・・。 / それってリング@お腹いっぱい さえこ ( 2001-02-17 22:36 )
ん〜、TAKEさんと同じです。 / 夢楽堂 ( 2001-02-17 10:27 )
今回はぼくも国連関連の方ということしか知らないっす。 / TAKE ( 2001-02-17 02:37 )
うぅん、口車様今度竹輪麩指南を!撫は関西女なので、よくわからんのです。でも竹輪麩だけを煮て食べるのはさみしいということがわかりました。ハイ。 / 撫子 ( 2001-02-17 00:35 )
をををを!速攻2分後の突っ込み。そんだけで大したもんだ。 / 口車大王 ( 2001-02-17 00:24 )
知ってる!ダチ!>すすすすすいません、たいそれたことを!国連の方では?えらいんですよねぇ、確か。あ〜学のないのがバレバレですねぇ。いやもともとないけど。 / 撫子 ( 2001-02-17 00:13 )

2001-02-10 [人物]杉原千畝に見る信念とは

 前回の日記では、これまで日記の中でいろいろ書きすぎるから皆さんに突っ込んでいただけないのではないかという反省により、簡潔に書いてみた。などということではなく、単なる手抜き日記だったのだが、予想を上回って皆さんに突っ込んでいただきました。

 さて、杉原千畝について書くことは、ぽたさま2000年9月2日の日記以来の宿題であったのだが、やっとその一部を果たせることとなりました。杉原千畝というひとがどういう人であるか、ロダンさまの日記に詳しい。さらに詳しくは、こちらを見ていただきたい。

 当時、外務省の訓令を無視し、しかも迫害を続けているドイツに隣り合わせたリトアニアにおいて、日本の通過ビザを発給するということは、いったいどれだけのプレッシャーがあったでしょうか。しかも、事務員として雇っていたドイツ人のグッジェは、ドイツのスパイであったといいます。自身の、外交官としての職を失うどころか、まさに命がけのことだったのです。しかもそれは本人だけではなく、その家族にまで害が及ぶ可能性がありました。そのような状況で、彼は1940年7月29日、ユダヤ人に対して領事館の門を開きます。それから9月5日まで、彼はビザを発給し続けます。7月18日にユダヤ人が日本領事館に押し掛けてきてから、50日間のできごとでした。杉原一家はリトアニア領事館を退去した後ベルリンに向かっています。この車中、一家はどのような心境であったか、察するにあまりあります。

 彼を突き動かしたものは、周囲の状況に動じない、確固たる信念でした。このような強い信念は、どこから出ずるものなのでしょうか。彼を突き動かしたのは、長期的視野に立った日本の国益であり、ユダヤ人を助けるという人道的、博愛的行為が、長い目で見れば日本の国益につながると、彼は考えたわけです。こういう書き方をするとものすごく打算的なようですが、打算だけでは自分には直接はね返らない日本の国益のために、命を賭けるということはないでしょう。そういうことは、後からついてくることです。

 彼は、どんな苦境に立たされても、それを自分で乗り越えていける自身があったのだとも思います。自分をいかに保てるか、結局は自分に対する自身なのでしょうか。

 それにしても、日本の戦後の急速な経済成長は、ユダヤ人のおかげではないかと口車は考えています。

先頭 表紙

私も、シンドラーのリストが公開されたちょっと後に知りました。あと、最初に入社した会社で「ユダヤの商法」を読まされました・・。 / あやや ( 2001-02-17 00:02 )
そうなんです。外交官は国益を常に考えなければならない。だから、大きな特権を与えられているんです。体制に揺るがない信念と世界観、その資質がない人が仕事をしている外交官が多いことは日本という国の損失といわざるを得ません。 / 夢楽堂 ( 2001-02-10 11:00 )
ほう、昨年9月2日には、まだ「ひま顔」がなかったのですなあ。 / こすもぽたりん ( 2001-02-10 01:48 )

2001-02-07 [人物]杉原千畝という人を知っていますか

 ひまじんに集まる皆さんは、杉原千畝という人を知っているでしょうか。今日のNHK「その時歴史が動いた」で紹介されていたので、思わず書いてみました。

先頭 表紙

前に滝田栄さんが千畝さん役でドラマでやってました。たしか。。 / いまごろめごめんさなさい@彼方 ( 2001-03-14 19:47 )
ほ肝さま、私信の意味わかりました。おめっとうございます。 / 口車大王 ( 2001-02-09 23:34 )
私信になりますが・・いつもありがとうございます。今日は感謝の気持ちでいっぱいです / ほたての肝 ( 2001-02-09 17:18 )
私も「知ってるつもり」でしりました。感動しました / きりり ( 2001-02-09 09:33 )
外務省も、ああいう先輩の使命感を見習ってほしい。 / 綾丸 ( 2001-02-08 21:41 )
本は、確か『6千人の命』とか『6千人のビザ』などというタイトルではなかったでしょうか。 / おとじろう ( 2001-02-08 17:24 )
もちろんです。大学の国際関係論で、当時ロンドン駐在の毎日新聞記者だった講師から聞きました。その日の講義は感動的でした。 / おとじろう ( 2001-02-08 17:20 )
ここには書ききれないので、自分の日記に書きます。 / ロダン ( 2001-02-08 15:51 )
確か依然’知ってるつもり’でやったような気が・・・ / かよちゃん ( 2001-02-08 15:42 )
チョビッと知っています。。。信念の人って感想を持っています。 / peach ( 2001-02-08 11:50 )
外務省を辞めさせられたり、お金をもらってやったんじゃないかとか非難をあびたり、名誉が回復されたのはごく最近のことだそうですね。 / むきこ ( 2001-02-08 11:33 )
あのような時代に、あのようなことをできた杉原千畝。まさに男だと思います。外交官は日本、そのもの、そんな自覚を持って欲しい。 / 夢楽堂 ( 2001-02-08 04:53 )
本とか出ていたら読みたいです。 / さえこ ( 2001-02-08 00:55 )
私も国名は忘れましたが、TAKE様のおっしゃったような方で、後々ユダヤ社会から感謝されていましたね。以前「知ってるつもり」か何かの番組で特集があったような。。。 / たらママ ( 2001-02-08 00:27 )
リトアニア...でしたっけ? 確かワシントンDCのホロコースト・ミュージアムでもちょこっとですが紹介されていたと思います。 / マイケル ( 2001-02-08 00:19 )
最近、有名ですよね。「シンドラーのリスト」公開のあたりに話題になっていました / ゝ゜))))彡 ( 2001-02-08 00:14 )
…で確か当時、東欧の小さな国(国名は忘れました)の大使さんだった気が…。 / TAKE ( 2001-02-08 00:12 )
確か大戦中、ユダヤ難民に独断で日本行きのビザを発行された方でしたっけ…。違ってたらすみません! / TAKE ( 2001-02-08 00:05 )

2001-01-31 [昔話]口車、ポーランドにてローマ法王に遭遇する


 ストックホルム旅行でそのまま中断しておりましたが、昨年9月以来のポーランド昔話でございます。

 さて、1978年10月16日17時15分、バチカンにおいてポーランド出身、1920年生まれのの Karol Josef Wojtyla が、2回目のコンクラーベの結果新法王に選出されました。8月26日に選出されたものの、9月28日に就任後わずか33日間で亡くなったヨハネパウロ1世の後任を決めるもので、ヨハネパウロ2世と称することとなります。バチカン史上初めて、イタリア人以外のポーランド人がローマ法王になった瞬間でした。そしてその翌年1979年、2月の就任式(というのかな)を経て1979年6月2日、ローマ法王となったヨハネパウロ2世は、ポーランド全土の熱狂的な歓迎の中、ワルシャワに凱旋します。

 で、、、

 このとき、口車はワルシャワから西北へヴィスワ川を下ること100キロ、古都プウォックにいたのでした。6月2日は土曜日、お仕事はお休みでしたが、前日の金曜日からワルシャワ市内へは車の通行止め。ワルシャワへ行くことはできません。そこで、列車に乗って1時間、逆方向のトルンの街へ、仕事仲間と1泊で遊びに行くことにしました。このトルンというのはコペルニクスが生まれた街で、ここも美しい街並みがあります。

 駅で列車を待っていると、なんと、やって来たのは蒸気機関車!かつて鉄ちゃんだった口車、思わず昔とったきねづかとばかり、写真を撮りまくりました。そしたら、車掌がやってきて、「写真撮っちゃダメなんだよ!」とかなんとか言っている。しかしながら、ポーランドにやって来てまだ3週間、何言っているのか良くわからず、またわからないふりをして、特におとがめなし。まあ、その場に警察官がいたら、かなりやばかったでしょうね。

 このローマ法王がやってきた6月2日と3日の週末、実はこの年の夏、ポーランドで30度を越えて32度まで気温が上がった、たったの2日間でした。すなわち、いくらポーランドでもくそ暑い。ところがですよ、危険防止のため、ローマ法王の滞在中、アルコール類の販売は禁止、したがってビールを売っていない。さらにですよ、なぜかペプシコーラも販売禁止。なんでぢゃーー。共産主義にとって諸悪の根源、宗教と米資本主義を結びつけたのでしょうか。いや、ほんとにまいりました。と、思ったら。。。

 トルンについてホテルにチェックインし、市の中心の市庁舎前広場に出てみると、広場の片隅にテントが張ってあって長蛇の列。何の列かなんとか聞きだしてみると、なんと!ビールを売っているではありませんか!あれ?ビール売っちゃいけないんじゃなかったの?それを、堂々と売っているではありませんか。やったーとばかり、仕事の相方と待ち行列の最後尾についたのでした。

 そして、徐々に列は短くなっていきます。テントはだんだん目の前に近づいてきます。あと5人、4人、3人。ここで口車の右手はポケットに入り、財布を握りしめます。あと2人、って、あれ?えっ?売り切れ?そそ、そんなぁー。

 何と、口車の前の前の人のところで、大量にあったビールはすべて売り切れたのでした。くっそーーーー。おかげで、この日を境に、ポーランドのビールを本当に美味しいと思って飲めるようになったのでした。これもローマ法王様のおかげです。

 ところで写真ですが、ローマ法王のこの6月2日の凱旋を記念して作られた銀メダルの写真です。ワルシャワ旧市街の琥珀屋さんで買い求めました。裏には見にくいですが、日付が入っています。

先頭 表紙

おそらく、ヨハネ・パウロ2世は、今後聖人として列せられるのではないかと思われるくらい、ものすごいことをいろいろやっています。昨年なんか、カトリックの過去の過ちすべて懺悔してしまいましたし。 / 口車大王 ( 2001-02-07 14:32 )
国民のほとんどがカトリック教徒のポーランド人にとって、ローマ法皇にポーランド人がなったということは、それはそれは大変なことです。しかも、ソ連と支配者である社会主義統一労働者党に対する反発という政治的なものがからんで、あの時、ポーランド政府はほんとにぴりぴりしていました。事実、ヨハネ・パウロ2世の就任が、後の共産圏の崩壊につながっていくわけですけれど。 / 口車大王 ( 2001-02-07 14:30 )
ローマ法王といったら、やっぱ生き神様みたいな感覚があるのでしょうか。夢楽堂の出身高校は多摩御陵のそばだったんで皇室関係者がくると結構大変だったことを覚えています。 / 夢楽堂 ( 2001-02-07 12:01 )
あ、名前忘れた。しっぽなさまですよ。 / 口車大王 ( 2001-02-07 00:45 )
あ、あまりお気になさらずにー。邪魔になっているのならいただきますという程度のものですから。 / 口車大王 ( 2001-02-07 00:45 )
大王様、いつぞやの椅子、オクラに入れてたはずなのに、見あたりません。。。もしかしたら、私の不在の間に義母がどうにかしたのかも、と。義姉のところかもしれません。詳細をたずねておきたいと思いますので。 / しっぽな ( 2001-02-06 12:23 )
さえこさま、えー、軍事機密に属するみたいなのですよ。テロとかやるときの、攻撃対象になるでしょ。なんたって、当時は冷戦時代で、「仮想敵国」ですから。 / 口車大王 ( 2001-02-06 01:32 )
汽車の写真撮っちゃダメなんですねー。なんでかな?そんなめずらしいのに・・・。 / さえこ ( 2001-02-05 22:55 )
そして、迷ったと思ったら、まめに道を聞くことです。 / 口車大王 ( 2001-02-03 11:57 )
方向音痴になる人、ほとんど例外なく目的地のことしか頭にありません。だから、出発点からの自分の位置がわからなくなって迷ってしまう。 / 口車大王 ( 2001-02-03 11:57 )
をを、ヴァニラ様だ。いなくなってしまうの、残念でございます。方向音痴を直す方法前にも書きましたが、基本は、まずスタート地点での回りの風景を覚えること、そして風景からどっちに向かって立っているか自覚すること。できれば、方位を自覚できると最高です。で、歩き始めたら、スタート時点は以下の地点からどっちなのか常に意識すること、今見ている風景を逆に見るとどうなるかを意識すること、すなわち、たまにふり返ってみること、こんなところでしょうか。 / 口車大王 ( 2001-02-03 11:55 )
大王さま、いつもありがとうございました。方向音痴が治る方法ってありますか?まあ、いいっか。どうぞお元気で。 / ヴァニラ ( 2001-02-03 04:36 )
口車様に撫子の恥ずかしいチャットのつっこみ見られてしまいましたぁ^^ / 撫子 ( 2001-02-03 00:41 )
窓だけね。まー、どーしましょ。 / む゛らくどう ( 2001-02-02 08:42 )
あややんも「いつも法王さまが顔を出される窓」だけ見ました・・・。(ムナシイ) / あやや ( 2001-02-01 23:49 )
ヨハネパウロ2世について詳しくは、こちらをどうぞ。なお、ポーランド語ではヤン・パヴェウ・ドゥヴァとなります。 / 口車大王 ( 2001-01-31 22:09 )

2001-01-28 [近況]口車家の雪景色


 口車家から見た本日(27日)の雪景色です。東京も、こんな風景になっております。

先頭 表紙

ようぽんさま、この写真はデジカメで撮って、デジカメについてきた簡単な画像処理ソフトでぼかしを入れてみました。PhotoShopを使わなくても、もっと安い画像処理ソフトでこの程度のことはできます。3月のヨーロッパなら、南の方が良いですよ。スキーやるのなら別ですけれど。マルタ島なんてオススメ。ここ、口車一家にとっていろいろ縁があるところでして、そのあたりはおいおい。。。。 / 口車大王 ( 2001-01-31 16:13 )
とっても綺麗なお写真ですね!これはデジカメで撮られたのでしょうか?それと、ご旅行記、すごく興味があります。私も3月にヨーロッパのどこかに行こうと計画しているので。あとでじっくりと読ませて頂きます。 / ようぽん ( 2001-01-31 16:08 )
口車様、一番乗りでどうもありがとうございました。この写真、美しい…。東京は本当にさむそうですね。 / 美奈子 ( 2001-01-31 07:08 )
この日、私はドンキホーテまでお使いに行かされました。(涙)強風にあおられて、立ってもいられず、電信柱につかまってきゃーきゃー言ってました。いやだよう、雪の中のお使い物は。 / さえこ ( 2001-01-31 00:29 )
大王さま、いつも色々、勉強させていただいております。ありがとうございます。(*^.^*) / akemi ( 2001-01-30 21:23 )
やっぱ、体力勝負。 / 口車大王 ( 2001-01-29 22:11 )
ほんとに雪はすごかったですね。今年は雪が多いなあ。子どもは喜んでいるけど、相手させられるお父さんは大変。 / 綾丸 ( 2001-01-29 19:08 )
お取り込み中お気遣いいただき、恐縮至極でござる。ソニーファミリークラブでも構わぬでござる。ここのところ、極貧を極めているので差し当たってお礼はできぬが、無理せずお頼み申し上げる。見つかったらまたご連絡まで。 / 口車大王 ( 2001-01-29 01:59 )
口車様、例の物、私の勘違いで、通販生活のではなく、ソニーファミリークラブのでした。どうしましょ!すみません。。お蔵を開けて探してみますね。いろいろあって返信遅くなりました。 / しっぽな ( 2001-01-29 01:36 )
んで、ぼかしかましてみました。しかし、あったかいというレベルが違うぞ。札幌で年越ししたことがあるから、わかるけれど。 / 口車大王 ( 2001-01-28 22:40 )
なんか、向こうに露天風呂が・・・。あっ、これだとデバガメね。 / 夢楽堂 ( 2001-01-28 22:28 )
をを、突っ込みありがとうござんす。デジカメで撮った画像にぼかしを入れたり、細工してみました。 / 口車大王 ( 2001-01-28 21:04 )
おお。美しい。山水画のようです。こちら札幌も今日は暖かく、0度でした。雪まつり部隊は苦労してるだろうなぁ。 / okka ( 2001-01-28 17:51 )
今日はなんてあったかいんだ、快晴だし。 / 口車大王 ( 2001-01-28 15:57 )

2001-01-27 [旅行記]帰ってまいりました日本へ、日本と言ったらやっぱ富士山


 2000年9月25日月曜日。

 さて、ストックホルムとアムステルダムの旅から日本に帰ってまいりました。今回フライトが取れず、帰りは関西空港経由。思わず初めての関空滞在となってしまいました。しかしまあ、9月がこんなに混んでいるなんて。

 関空、最近はやりのデザインですが、なんか解放感が中途半端。外観は良いんですがね。解放感ではストックホルムアーランダと、札幌新千歳が秀逸。

 口車、7年ぶりのヨーロッパ旅行だったのですが、この7年間で大きく変わったことは、VAT(付加価値税)のrefund(払い戻し)が、空港で即金でして貰えるようになったこと。お店によって異なりますが、"TAX FREE"というマークのあるお店で買い物をすると、このサービスが受けられます。出国の時に空港の税関で確認を受けるのは変わらないですけれどね。これまで、カードの口座への払い戻しでないと、送金手数料でほとんどゼロになってしまっていましたから、それよりはるかに少ない手数料でなかなか良いサービスです。関空では、なんかいのサービスカウンタに窓口があります。もちろん成田にもありますよ。

 関空から羽田へはJASの国内線のフライト。同じ機内でも、ストックホルムからの飛行機との雰囲気とはなんか違う。やはりここは日本ですね。

 本当に今回の旅行は、最後まで天候に恵まれました。窓から外を見れば、なんと富士山が翼の先に!夏の富士山、当然だけれど黒かったです。

おしまい

先頭 表紙

え゛っ、ずっとお風呂に入っていない。。。えんがちょ。 / 口車大王 ( 2001-01-28 22:42 )
ずっと海外に入ってないな。最近はずっと日本探訪だ。 / 夢楽堂 ( 2001-01-28 07:59 )
だってー、スッチーが入っていないと絵になんないざんしょ。 / 口車大王 ( 2001-01-27 17:13 )
大王様〜この写真は「スッチ〜」目当てのショットすか?それとも「Mr・ブーの後ろ姿」 / ムッシュ ( 2001-01-27 15:14 )

2001-01-26 [雑感]口車、JAVA携帯電話にがっくりする

 旅行記はまだつづいておりますが、その合間に口車にとってあまりにも衝撃的だったので書いてしまいました。

 本日(2001年1月26日)付けの日刊工業新聞に、JAVA携帯電話の仕様が出ていたのですが、メモリの容量を見て愕然としました。なんと、メモリが10キロバイトですと!

 なんだそれっぽっちとお思いのあなた、口車もあまりの少なさに愕然としたと思ったでしょ。ところが違うんですね。携帯電話のあの大きさに主記憶が10キロバイトもついているということにがっくりきたのです。口車の、あの昔の努力はなんだったのと。まあ、最近スマートメディアとか出ているので、当たり前といえば当たり前なのですが、こういう形で見せられるとねぇ。

 学生時代、口車が研究に使ったミニコンピュータ、そうですミニコンピュータですよ、これは大型冷蔵庫並のサイズがあった。その巨大な図体に、CPUは8ビット、主記憶のメモリサイズは16KB(途中で100万円かけてメモリが32KBになってみんなで大喜び)、ハードディスクは1メガバイトで直径50センチはあるかという円盤、しかも標準の入出力装置は画面ではなくてテレタイプで、コマンドを打つとプリンタに答えが返ってくる。しかも、プログラムは紙テープに打ち込んで読み込ませてという、そういうものだったのですよ。

 ちなみに当時の口車、紙テープのパンチ穴で文字が読めました。なお、今は読めませんので試してみようなどと思わないように。ピンで紙テープに穴あけたり紙を貼って切り貼りしたり、プログラム修正作業、当時は文字通り「バグつぶし」だったのですよ。

 それがですよ、ポケットに収まる携帯電話になってしまったのね。がくっ。しかも、本体だけで500万円近くしていたのが、今や1万円でおつり。そういや、ハードディスクだって今や1ギガバイト1万円台ですもんね。当時、メガと聞くだけで「をを、すごい!」となっていたのに、今やギガの上を行くテラを見据える時代。ふゎー。18年前、口車がタイの工事現場で使ったコンピュータのハードディスクも、袖机サイズに27メガバイトで400万円だったっけ!

 おそろしい世の中です。

 でも、最近のメモリのむだ遣いの使えねーアプリケーションだらけの風潮の中で、こういう小さいところにプログラムを収めなければならないということがまた要求されるようになったわけで、ま、当分口車の出番がなくなるなんてぇことはないわけで、祝着至極でございます。

先頭 表紙

失礼しました、紙テープでした...ところでメガバイトの話。4〜5年前にニューヨークのインターネットカフェに行った時にそこでサンドイッチ(その店ではメガバイトと言う名前だった)というのを頼んだら、想像以上に小さいものが出てきて、「う〜むやはり時代はギガなのか?」と思ったことがあります。 / 突っ込む視点が間違っているような(笑) ( 2001-01-26 22:10 )
えー、パンチカードも使いましたが、この場合はテレタイプの紙テープです。昨年のアメリカ大統領選、もめたマイアミの選挙でそのパンチカードを使っているのを見て、「ほっほぉ。」と思ってしまいました。 / 口車大王 ( 2001-01-26 21:40 )
パンチカードっていうと、良く子供向けSFとかで、コンピュータが吐き出すやつを博士がフムフムと読んで「地球の危機じゃ!」とか言っていたのを思い出します。 / マイケル ( 2001-01-26 20:49 )

2001-01-25 [旅行記]機内食、それは謎のカップラーメン


 2000年9月24日日曜日、午前中アンネ・フランクの家を訪れた口車は時間の経つのも忘れ、資料を読んだりしておりました。

 ナチスは、ユダヤ人のみならず、いわゆるジプシー、ドイツ人の身体障害者、同性愛者、共産党員等の政敵、ポーランドやロシアといった周辺諸国民も虐殺しています。いったい「人種的優位性を持った完ぺきなるアーリア人」とはいったいなんなのでしょうか。身体障害者を殺して、殺した当事者が身体障害者になったら自分たちを抹殺するのでしょうか。ヒステリックのストレスだらけの社会となって、結局滅亡へとひた走ることになります。人種浄化、それが現在も繰り広げられていることに、怒りと悲しみを感じます。

 さて、そんなこんなしているうちにもうお昼。正午までにホテルに戻ってチェックアウトしなければなりません。慌ててアンネ・フランクの家で軽食をとり、いざホテルへ。

 長いような短いような旅もいよいよおしまいです。しかしそれにしても、スキポールはほんとーーーーーに広い。よりによって日本への飛行機はターミナルの一番端。出発カウンタからどれくらい歩いたでしょうか。軽く10分は歩いたような。

 いざ、KLMの機上へ。考えてみれば、ヨーロッパとの往復でKLMを一番使っています。比較的安いし機内食もまあまあ。今回のフライトでこれまでと違ったことと言ったら、途中やたら水やソフトドリンクを持ってきてくれたことでしょう。最近、エコノミー症候群なんて騒がれていますからね。

 それから、本日のタイトルなんですが、KLM、最近のフライトでは、軽食にカップヌードルかお菓子を配ります。行きはミニカップだったのですが、帰りはフル。で、すっちーがトレーに載せて配っている中に、なんか色違いのが一個混じっている。よく見れば、日清食品製ではあるが、なんとタイ語で書いてあるではありませんか!!!思わず、見慣れたカップヌードルには見向きもせず、この赤いやつを取ってしまいました。

 味は、、、

 見事にタイ人好みの辛め。タイに1年半住んでいた口車には、とってもなつかしい味でした。しかし、なんで日本向けのフライトでタイのカップラーメンが紛れ込んだんだろ。

 なんか、得した気分であった。

先頭 表紙

はい、日本向けのより全体的に赤く、ぴりっとしています。でも、激辛ではありません。 / 口車大王 ( 2001-01-26 08:45 )
口車大王さま。はじめまして。タイのカップヌードルって、やっぱり香辛料とかで味付けが辛いのですか? / hamamama ( 2001-01-26 07:03 )
ヴァニラ様、謎は解けましたでしょうか。コーンウォールの先のポーツマス、イギリス海軍の軍港なんですが、口車祖父、今から84年前に立ち寄っているんですわ。デヴォンシャーからコーンウォール、風光明媚なところです。 / 口車大王 ( 2001-01-26 00:11 )
おとさま、そうそう、通販でも売っていたような。 / 口車大王 ( 2001-01-26 00:09 )
綾丸様、そのカップヌードルははるか彼方M80星雲からやって来たのですが、途中、だれも取りませんでした。 / 口車大王 ( 2001-01-26 00:08 )
大王さま、どうもありがとう。クリームを求めて。イギリス最端の地、いつか行ってみたいです。 / ヴァニラ ( 2001-01-25 23:45 )
JALの機内食のカップモノは、「そばですかい(sky)」と「うどんですかい」という名前で最近スーパーでも売ってますね。 / おとじろう ( 2001-01-25 21:35 )
ほんとに得した気分ですね。その昔、ヨーロッパ便がアンカレッジ経由だった頃、アンカレッジ空港で食べたカップうどんもうまかった。 / 綾丸 ( 2001-01-25 20:36 )

2001-01-22 [旅行記]続 口車、「そこ」について語る その2 アンネ・フランクの家2


 2000年9月24日、日曜日、快晴。隠れ家の人達が拉致されたときも、こんな天気だったのでしょうか。ホテルを早めに出て9時過ぎにはアンネ・フランクの家にたどり着きます。昨日とは逆に、西教会の前から向かっています。

 以前は隠れ家の正面から入るようになっていましたが、最近隠れ家の右隣が建て直され、そちらが入口になっています。中に入ると隠れ家に至る前に展示があり、気分は一気に沈んでいきます。

 そこには、ナチスに圧迫されながらもまだ平穏無事に暮らしていたころのフランク一家の写真が展示されています。ユダヤ人であるということだけで脅かされる理不尽。偏狭な民族主義は周囲に害毒を流すばかりか、自分たち自身も滅亡へと導いてしまいます。それは、日本も例外ではありません。

 隠れ家の入口は本棚で隠されています。その本棚をかいくぐるように見学順路は狭い階段を上って、隠れ家へと至ります。この階段の下で待っているときの、上の階の見学者の靴音のやかましいこと。隠れ家の住人が昼間どのような生活をしていたか、そんなことからも想像できます。ただでさえ狭いところに生活しているのに、靴音さえ忍ばせなければならない。そんな生活を2年も続けたのです。そしてその苦労も報われずに。。。


ペーター・ファン・ペルス(ペルス夫妻の長男)
 ナチスのアウシュビッツ撤収に伴うオーストリア・マウトハウゼン収容所への長く過酷な死の行進を強いられ、1945年5月5日、マウトハウゼンで死亡。解放のわずか3日前でした。

アウグステ・ファン・ペルス
 戦局の悪化に伴い、1944年10月にマルゴーとアンネ姉妹とともにベルゲン=ベルゼンに移送され、1945年春にブーヘンヴァルト経由でチェコのテレジエンシュタットに送られ、死亡。

ヘルマン・ファン・ペルス
 オットーと息子のペーターの前を連れていかれ、アウシュビッツのガス室で抹殺。抹殺後、トラックに乗せられたヘルマンの服だけが彼らの前を通り過ぎていく。

フリッツ・フェファー
 アウシュビッツからノイエンガンメに移送され、1944年12月20日死亡。

エーディト・フランク(マルゴーとアンネの母)
 マルゴーとアンネと別れ別れになり、そのままアウシュビッツに残される。1945年1月6日死亡。アウシュビッツは1945年1月17日に撤収され、1月27日にソ連赤軍によって解放。

マルゴー・フランク
 1944年10月、アウシュビッツからベルゲン=ベルゼンに移送され、1945年3月末チフスで死亡。

アンネ・フランク
 姉のマルゴーとともにベルゲン=ベルゼンに移送され、姉の死の数日後、死亡。なお、ベルゲン=ベルゼンは、姉妹の死後1か月足らずのうちに解放される。

オットー・フランク
 アウシュビッツでの過酷な日々を生き延び、1945年1月17日の撤収時に病院で隠れていて難を逃れる。1月27日、ソ連赤軍の解放によって救出される。その後4か月かかってアムステルダムにたどり着く。

協力者達
ビクトル・クーフレルとベップ・フォスキュイルは収容所に送られるが、4人全員生き延びて終戦を迎える。


リンク
Anne Frank House
しののめ教会
ホロコースト教育資料センター

先頭 表紙

そうなんです。口車も彼らがどうなったかという地を見てきていますから、たまりませんでした。しかも、この日記にあるように、無理矢理家族を離散させているのですね。肉体的な暴力だけでなく、精神的な暴力まで徹底的にやったのです、ナチスは。しかし、ユダヤ人に対する差別は、ドイツ人だけではないのですね。 / 口車大王 ( 2001-01-25 20:27 )
そういえば、たらママ様は行ってらしたのですよね。 / おとじろう ( 2001-01-25 13:30 )
アウシュビッツ=ビルケナウをこの眼で見てきましたので、アンネのお家なんか見ると、この後の彼らの人生の悲惨さを思い、たまらない気持ちになります。 / たらママ ( 2001-01-25 13:17 )
何十年ぶりにアンネの日記を再び読んでみたくなりました。 / かよちゃん ( 2001-01-25 01:07 )
うう〜〜ん。。そうなんですか・・・。しょうもない質問してすいません。でも、なんもわかんない人への対策(笑)なので、問題なさそうなんです。ありがとうございました。フリーソフトを探してみます。パスかけるタイプのがいいかな。。 / akemi ( 2001-01-24 20:12 )
akemi様、ResEdit以外にも売り物ソフトとかフリーソフトでありますが、一番てっとり早くできてただなのはResEditです。ファイルを見えないようにするだけなら、とても簡単です。ただし、ファイルを隠してしまうと、自分も何もできなくなってしまいますよ。もっとも、ResEdit使ってもとに戻せばよいのですが。それから、隠すのが目的だったら、ResEdit使っていることがわかったら、簡単にばれます。 / 口車大王 ( 2001-01-24 18:54 )
口車ファンのさえこ様、アンネの日記のバージョンについては、アンネの家に行くと詳しく説明があります。 / 口車大王 ( 2001-01-24 18:51 )
大王さま、Macな質問いいですか?隠しファイルを作るのって、どうすればいいんでしょう?ResEditを使う以外に方法はありますか?日記の内容につっこめなくってごめんなさい。 / akemi@ネスケでは勝手にログアウトさせられてる。 ( 2001-01-24 01:08 )
アンネが収容所でなくなったことは知っていましたが、一緒にいた人たちの運命までは知りませんでした。到底信じられないような、ひどいことが実際にあったんですよね。 / 綾丸 ( 2001-01-23 16:46 )
そうだったんですね。んも〜博学!!どうしてそんなにいろいろ知っているの?先生みたいです、口車さまは。スゴイ! / 口車さま ファンより ( 2001-01-22 23:37 )
教科書で学ぶ歴史もいいけど、日記はその時の状態を素直に映している。アンネの日記もその一つですね。 / 夢楽堂 ( 2001-01-22 20:01 )
私もここ行きました。ドイツ人は未だにヨーロッパ内で自分はドイツ人だと大きな声でいえないそうですね。フランス人からはドイツ人は日本人は似てると言われました。アンネの家、本で読んでだいたいわかってたつもりでも実際見るとショックですね。特にアンネの部屋から(だったかな?)見える西教会の鐘… / yaco ( 2001-01-22 18:59 )
オットーの死後、アンネン本人が書き直したもの、最初の個人的なもの、すべてが出版されています。世の中で広く知られている日記は、1947年のものです。 / 口車大王 ( 2001-01-22 01:10 )
まず、アンネ本人が完全に個人の日記としてつけたものがあります。そして、1944年3月29日、イギリスからのラジオ放送で、戦争が終わったら人々の日記を集めて公開するという発表を聞き、アンネ本人が書き直したものがあります。そして1947年、父親オットーの手によって日記が出版されますが、これは書き直した日記を元にプライバシーに関わる部分を削除したものです。 / 口車大王 ( 2001-01-22 01:09 )
アンネの日記は手直しされていて、本当のものがあるって聞いたことがあるんですが・・・。 / そのままじゃなんかまずかったの?さえこ ( 2001-01-22 01:04 )

2001-01-21 [旅行記]続 口車、「そこ」について語る その1 アンネ・フランクの家1


 また、「そこ」について語るときがやってまいりました。

 皆さんご存知のことと思いますが、アムステルダムにはアンネ・フランクの家があります。かつて、「そこ」を訪ねたことのある口車としては、訪問しないわけにはいきません。

 2000年9月23日午後7時過ぎ。

 ダム広場からアンネ・フランクの家に向かって歩きます。夕闇の中に西教会が見え、いくつか運河を越えると隠れ家の前の道に出ます。周辺の静かなたたずまいは、本当に美しい。しかし、1940年5月16日、この西教会周辺には、アムステルダムに進駐するドイツ軍の軍靴の音が響きわたります。今こうして観光客として静かに石畳を歩いていると、平和の意味を噛みしめさせられます。

 アンネ・フランクの家は、西教会の隣のブロックにあります。家の前は、もうこんな時間だというのにまだ観光客が行き交っています。それにしても、アンネ・フランク達が隠れていた場所が、中央駅から1キロも離れていないこんなに市街のど真ん中だったとは。実際に来てみないとわからないことです。

 アンネ・フランクは、オットー・フランクとエーディト・フランク=ホレンダーの次女として、1929年6月12日にフランクフルト・アム・マインで生まれます。両親の一族とも代々ドイツに住んでおり、父のオットーは第一次世界大戦にドイツ軍人として従軍しています。また彼は銀行勤めで、比較的裕福な家庭でした。しかし、全国社会主義ドイツ労働党すなわちナチス・ドイツが政権を握りユダヤ人への圧迫が強まると、1933年にフランク一家はアムステルダムへ逃れます。そしてオットーはオペクタ商会という食品会社を設立します。しかし、アムステルダムも、フランク一家にとって安住の地ではありませんでした。

 1942年7月5日、アンネの姉マルゴーにSS(親衛隊)への呼び出し状が届きます。これを機に、オットーは隠れ家での生活を始めることを決意します。1941年の春頃からこのような事態に備えて、自分の会社の裏の倉庫スペースを秘密の隠れ家とすべく準備していましたが、いよいよ移ることになったのです。隠れ家に住むことになったのは、後から加わった一人を含め、3家族8人、そして彼らを支えたのは、オットーの会社のごく親しい従業員の4人でした。特にオットーの秘書のミープ・ヒース女史は食料の買い出し等、危険を顧みず中心的役割を担いました。また彼女は、後日アンネの日記を世に送り出す、重要な役割を果たします。おそらく、彼女はまだ健在なはずで、アンネ・フランクの家の展示のビデオの中にも登場します。

 そして、1944年8月4日、美しく晴れ渡った夏空の下、密告によって彼らが連行されるまでの2年間、隠れ家での生活は続きます。いったい誰が密告したのか、今でもわかっていません。彼らが連れ去られすべての家財道具が持ちだされた隠れ家に、数時間後ミープ・ヒース達がかけつけます。そしてミースとベップ・フォスキュイルによって、床に散乱したアンネの日記が拾い集められます。

 そして彼ら8人は1944年9月3日、オランダからアウシュビッツへ向かう最後の列車に乗せられたのでした。

隠れ家の住人達
オットー・フランク
エーディト・フランク
マルゴー・フランク
アンネ・フランク
ヘルマン・ファン・ペルス
アウグステ・ファン・ペルス
ペーター・ファン・ペルス
フリッツ・フェファー

協力者達
ミープ・ヒース
ヨハネス・クレイマン
ビクトル・クーフレル
ベップ・フォスキュイル

つづく

先頭 表紙

そうなんです。その場所に立つといろいろなものが見えてきます。アウシュビッツ=ビルケナウはそんなの通り越して、ぶん殴られたような思いでした。 / 口車大王 ( 2001-01-22 11:31 )
こんにちは。アンネ.フランクは本やテレビなどで、よく紹介されていますが、実際その地に立つといろいろなものが見えてくるのでしょうね / きりり ( 2001-01-22 10:21 )
うわー、8時間持たずに新着リストから消えている。 / 口車大王 ( 2001-01-22 00:23 )
さらにアウシュビッツへ行くと、本当にたまりません。つづきを乞うご期待。 / 口車大王 ( 2001-01-22 00:10 )
私もここ行きました。小学校の教科書で初めてアンネ・フランクのことを知り、アムステルダムに旅行に行く前に改めて読んでから行きました。よく出来ている秘密の本棚のドアや、連行された当時のままの屋根裏部屋などを実際に見るとなんとも言えない気持でいっぱいでした。 / おとじろう ( 2001-01-21 22:53 )

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