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Hideyの「蛍の光の下で」

帰国に伴い長い間ご愛読いただいたこの日記を終了させていただきます。
もうこのサイトに文章を綴ることはありませんが
もしこの先もおつきあいいただけるようであれば
メールをいただければ幸甚です。
皆様、本当にありがとうございました。お元気で。

絵日記

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2002-09-15 ふたつの顔 1
2002-09-07 Hit the Screen 2
2002-09-07 Hit the Screen 1
2002-09-03 USオープン・テニス観戦 4
2002-09-03 USオープン・テニス観戦 3
2002-09-03 USオープン・テニス観戦 2
2002-09-03 USオープン・テニス観戦 1
2002-08-31 アマデウスの愛した街 2
2002-08-31 アマデウスの愛した街 1
2002-08-27 旅と文学 2


2002-09-15 ふたつの顔 1

9月4日から実質的な二年生の授業が始まった。一年生ではアカウンティング、ファイナンス、マーケティング、リーダーシップ、戦略論など経営学の根幹をなす必修科目を全員が履修したが、二年生になるとすべてが選択科目となる。多くのビジネススクールでは日本の大学の専攻に相当するメジャーを決定し、これを全うするために必要な科目を履修するという形を取る。しかしうちの学校にメジャーという制度はなく、アカウンティング、ビジネス・政治経済学、起業・サービスマネジメント、ファイナンス、ジェネラル・マネジメント、マーケティング、交渉術・組織とマーケット、組織行動、戦略論、生産管理という10の部門に分類された合計82の教科から好きなものを10教科選択できる。つまり他校ではファイナンス専攻を選んだら一年間ほとんどファイナンス関連の教科ばかり勉強するのに対し、当校では10の部門からそれぞれ教科をひとつずつ履修ということもできるのだ。もちろん他校同様ある部門に集中することも可能だ。

とはいえ限られた定員に対し合計900人の二年生が登録するため抽選が発生する。システムは単純で、各自履修を希望する教科に優先順位をつけ、1位から20位くらいまでのランク表を作成して5月上旬までにオンラインで提出する。日本のプロ野球のドラフトとまったく同様、抽選によって900人の学生ひとりひとりに優先順位がつけられ、優先権第一位の学生から順に好きな教科をひとつずつ登録できる。900位まで登録が終わったら2順目は900位の学生から順に二教科目を登録できるというジグザグ方式だ。無論希望科目の定員が埋まってしまえば次に希望する科目を登録することになる。

僕の登録した教科をご紹介しよう。9月から12月までの秋学期は、 Building a Sustainably Successful Enterprise(持続的成功企業の構築)、Globalization and Strategy(グローバル戦略)、Management in Perspective(マネジメント展望)、Consumer Marketing(消費者マーケティング)、Business Marketing(ビジネス・マーケティング)の5教科、1月から5月までの冬学期はBusiness Leadership in Social Sector(非営利部門におけるビジネス・リーダーシップ)、Marketing of Innovations(イノベーション・マーケティング)、Managing for Creativity(創造性マネジメント)、Corporate Strategy(企業戦略)、Managing across Cultures(異文化間マネジメント)、Leading Teams(チーム・リーディング)の6教科となっている。冬学期ではLeading TeamsとManaging for Creativityがそれぞれ他教科の半分の単位にしか相当しないため6教科となった。部門の別で言えばマーケティングが3教科、ジェネラル・マネジメントが3教科、戦略論が2教科、起業・サービスマネジメントが2教科、組織行動が1教科ということになる。本来は戦略を70%、マーケティングを30%程度のバランスにしたかったのだが、定員、週の前後半の教科のバランスなどの制約もあり、またコースの内容を吟味した結果このような比率になった。

(つづく)

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2002-09-07 Hit the Screen 2

また期末試験もノン・ネイティブ学生にとっては大いなるハンディキャップになる。15ページ程度にわたるケースを与えられて5時間で2000ワード程度の論文を書くという出題形式が多いのだが、バイリンガルでない日本人の場合は15ページの高度な内容の英文を読むのに2時間前後を要すると思う。アメリカ人は半分の1時間程度でこれを読み、1時間ほど設問と格闘し文章の構成を考えて2時間〜2時間半ほどで書き上げ、残りの時間を推敲に充てるというのが標準のようだ。日本人の場合英文を書くのにもアメリカ人の2倍近くの時間がかかることを考えると、どうしても設問について考える時間を削るか、文章を短くまとめるか、その両方ということになってしまう。推敲などする余裕はない。嵐のように5時間が過ぎ、後からゆっくり考えれば他の学生に劣らない色々な視点が湧き出てくるのだが、悔しいので考えないようにしている。

こんな調子なので、そして先述のとおり相対評価なので、多少手ごたえのある文章を書いたと思っても他の学生が何を書いたのか分からない以上、最後まで成績に関し自信が持てないのだ。どれだけ努力しても進級できるレベルにあるかどうかは確信が得られない。

夏休みで日本に帰国中の6月11日(アメリカ時間6月10日)、友人と飲んで実家に帰宅した僕は酔った頭でパソコンに向かい、オンラインで発表される成績をおずおずと調べた。結果は良好。「Hit the Screen」することなく無事に二年生に進級することができた。急に酔いが覚めてへらへらしてしまった。後期の後半はJapan Trek準備のため勉強もそっちのけの日が続いていたので本当にほっとした。結構苦労したNegotiationの評価がTだったのも嬉しかった。そんなわけでこの9月3日は晴れ晴れと始業式に臨むことができたのだ。

最後に全然関係ない話。

「小泉首相が日米首脳会談で訪米する際ボストンをも訪れ、うちの大学で講演を行った後日本人学生を交えて懇親会を開く予定。確率は低いがビジネススクールからも懇親会に何人か参加させてもらえるかもしれないので希望者を募る」

こんな主旨のメールが廻ったのが先月末のことだった。せっかくの機会なので参加希望の返事を出していたが、実は講演自体が誤報だったと今日連絡があった。多忙につき講演は見送ると外務省から通知が入っていたという。しかしうちの大学の政治学研究所主催により行政大学院に通う日本人学生との懇親会を行うのは事実のようだ。もう数人に招待状が届いているとのこと。結局ビジネススクールの学生は誰も招待されなかった。それにしても小泉さん、講演もしないのに何ゆえ食事会だけのためにやってくるのだろう?逆なら納得できるのだけど。

先頭 表紙

ガス欠コインさん、ありがとうございます。第一関門が実は一番厳しいといわれるものだったのでちょっとほっとしているのは事実です。でもあらためて気を引き締めないと。これからの一年は学校との勝負ではなくて今後の僕の人生との勝負のようなものなので。これまで12年間真剣に仕事をしていたのと同じ感覚でなんとかやっていきたいとおもいます。実際のところこれからの一年は仕事なのです。 / Hidey ( 2002-09-15 15:00 )
たらママさん!出張お疲れ様でした。色々大変だったようですね(笑)。日本でも進級が厳しい大学があるのですか。たらママさんはいつも自らを厳しい位置に置かれて鍛えられているというイメージがあります。これからの一年の抱負は次の日記に色々書きましたのでよろしければご覧ください。 / Hidey ( 2002-09-15 14:57 )
Hirokoさん、お久しぶり!PCはともかくHirokoさんはお元気でしたか?相変わらず拙い日記ですがゆっくり読んでやってください。ドイツ、今回は残念ながら優先順位下位に回ったとともに17日間の旅行の一番最後だったので満喫はできませんでした。好きな国なのでもっと色々見たかったのですが。 / Hidey ( 2002-09-15 14:55 )
ウサ子さん、充分目が回ってますよー。でもどっかでバランスを保ってなんとかギリギリのところで正しい努力をしないと本当に振り落とされてしまいそうになるカリキュラムであることは事実です。もうしばらく試験のことは考えたくないです。 / Hidey ( 2002-09-15 14:53 )
ナライフさん、いえいえ、こちらにいると自分のもらっている給料に何も貢献していないという肩身の狭さを感じます。今はナライフさんに食わしてもらっている状態。ほんとすみません。真面目な話、不況の中最前線で少しでも業績を保とうと努力されている皆さんには頭が下がる思いです。これだけ遊ばせてもらったのだからその分貢献していかないとね。プレッシャーです。 / Hidey ( 2002-09-15 14:51 )
misatoさん、ありがとうございます。余裕が感じられるのはなぜか…それはこの下の日記までは3ヵ月半に渡る遊びの記録だったからだと思います(笑)。もう当分余裕のない生活が続きそうです。misatoさんこそいつも余裕を愉しんでらっしゃる生活が浮かんできますが。。。 / Hidey ( 2002-09-15 14:48 )
りぃなさん、続きです。ちょっとプレゼントしたい言葉があったので。うちの会社のカリスマ四代目社長の十訓の中に素晴らしい言葉があります。「計画を持て、長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる」。その通りだと思います。 / Hidey ( 2002-09-15 14:46 )
りぃなさん、ありがとうございます。かなり(とても)スパルタな学校なんです。英語のために休学はもったいないよ。意識さえ保てば日常生活の中でいくらでもピックアップできるはずだから。本当に辛いようならベルリッツのようなところに通うのもいいかもしれませんね。冒険できるのは若さの強み。計画性は大事だけど計画にない学びも引き続き大事にされていいと思いますよ。頑張ってね。 / Hidey ( 2002-09-15 14:43 )
のだくん、びっくりです!読んでくれてたのですね。ご活躍は聞いてました。確かに目的意識を持って選択した授業はpassiveに受けていた授業と比べると遥かに面白いですね。でも実は一年生でも教授に恵まれていたこともありMarketing、Strategy、BGIEなどはとても楽しめました。そうですね。勉強も大事だけど人生でもこんな経験は今年が最後だからより多くの人と有意義な時間を過ごしたいと思っています。拙い日記ですがこれからもちょっと懐かしくなるような話もあるかと思うので読んでいただければ嬉しいです。今度是非会って飲もう! / Hidey ( 2002-09-15 14:39 )
lim.さん、神経すり減りますよ〜。lim.さんも教える立場にまわってもきっと同じ苦労はついてまわるんでしょうね。僕にとっていつまでたっても英語の壁は高く大きいのです。ああ・・・ / Hidey ( 2002-09-15 14:28 )
スーパーしえろさん、最近日本もビジネススクール盛んですね。古くは慶應ビジネススクールがうちと提携したような形でうちのケースを邦訳して使っていると聞いています。国内の状況は分からないので安易には書けませんが、こちらで授業に加わっているとまず驚くのが教授の職人芸です。80人の雑多な学生達の予想不可能な発言を瞬時にしてまとめていくオーケストレーション、芸術的なサマリー。あれはちょっと真似できないです。日本では研究者はいても教育者は少ないのではないかと思います。もっと競争主義を徹底してほしいですね。 / Hidey ( 2002-09-15 14:25 )
しゃどうさん、日記にも書いてらっしゃいましたね。僕なんかより余程大変な状況じゃないですか!でも真剣に人生と勝負するってなかなかない機会ですからね。お互いしゃどう猫くんに学んで体だけは大切にしましょう。そちらも頑張って! / Hidey ( 2002-09-15 14:19 )
パンドラさん、そうでしたね。あのときはまだ成績が発表になっていなかったので正直まだぎこちない気持ちでいたのは事実です。あのあと本当に夏休みを満喫できました(笑)。授業が始まってめっきりお酒が飲めなくなりましたがこの週末は日本と同じく三連休。いまハイネケンで一杯やってます。カンパイ! / Hidey ( 2002-09-15 14:16 )
トモコさん、ありがとうございます。音大は音大の辛さがあるんでしょうけど。。。でも確かに言葉では通じなくても万国共通の音で伝えられるというのは少し羨ましい気がします。海外で孤軍奮闘するロールモデルとして常に見続けてきた中田英寿にしても言葉でなくプレイで表現できるというのはやはり少し羨ましかったりします。ま、泣き言は言わず前進あるのみです。お互い頑張りましょう。 / Hidey ( 2002-09-15 14:14 )
夢樂堂さん、小泉さんの件、あとで聞いたところだと食事会ではなくうちの総長と日本関連の教授陣、そして上記の日本人学生たちが集まって彼を向かえたたった20分程度のレセプションだったそうです。首相は30秒程度のスピーチをして、あとはNFLの開幕戦に駆けつけたそうです。まあ国内で忙しくしてそのあと日米及び日朝首脳会談とストレスが多い中で少しリラックスしたかったのかもしれませんね。一国の首相のストレスは大変でしょうから。 / Hidey ( 2002-09-15 14:11 )
Ecruさん、ありがとうございます。そうですね外国で学ぶ厳しさに尽きると思います。ネイティブに取っては正直楽な学習方式だと思うのです。英文15ページ程度のケースを毎日二つ三つ予習して、80分の授業の中で一度くらい気の利いたことを言えばいいだけなのですから(笑)。日本語ならどんなに楽だろうと思います。 / Hidey ( 2002-09-15 14:06 )
akemiさん、ありがとうございます。僕も勉強ということはひいては仕事を全うすること、生きることには変わりないので見ているものはakemiさんと一緒だと思います。その辺の話はこれからアップする日記に書かせていただきます。 / Hidey ( 2002-09-15 14:04 )
PAOさん、ありがとうございます。というか皆さんからお祝いの言葉をいただいてしまいましたが進級するという言わば当たり前のことを祝っていただくのは正直かなり恥ずかしいです(笑)。自分にとってはおおごとでしたが。確かに日本の学校、特に大学は大きく変わる必要がありますね。これだけ不況が続いて学生も真剣に自衛手段を考え始めているのだから、より実践的で学びのある環境作りをこの機会に学校側が推進すればいいと思うのですが。。。 / Hidey ( 2002-09-15 14:01 )
何はともあれ、おめでとうございます。タイトルでは、最初何のことかと思いましたが、とりあえず第一関門、突破ですね。 / ガス欠コイン ( 2002-09-14 18:55 )
進級が厳しい大学だったので、進級者発表日の緊張は今でも覚えております。事前に教授に進級できたかどうか探りを入れに行ったものでした。 / たらママ ( 2002-09-14 07:58 )
進級おめでとうございます! 久し振りに来るとやっぱりとっても読み応えのある内容ですね! もったいないから時間のあるときに読もうと思っているうちにどんどん新しくなっていって、もっともったいないことをしているかも。/ お祝いメッセージ有難うございました。PCクラッシュの為、お礼が遅くなってすみません! / Hiroko ( 2002-09-13 00:16 )
おめでとうございますー。にしても大変な試験ですね。私なら目が回ってしまいます(^^; / ウサ子 ( 2002-09-10 20:55 )
おめでとうございます!!一応「同じ釜の飯を食う」間柄なのでしょうが、その環境の違い、負荷の違いに唖然としつつ畏怖の念を覚えます。引き続き頑張って下さいね。 / ナライフ ( 2002-09-10 15:40 )
おめでとうございます!Hideyさん、こんな厳しい環境にいらっしゃるのにどこか余裕が感じられるのはなぜなんでしょう・・。ミサトだったら、勉強以前にプレッシャーに押しつぶされそう・・! / misato ( 2002-09-10 11:37 )
進級おめでとうございます!そして誤報、残念でしたね。ちょっと(!?)スパルタな学校なんですね。愛情を感じる・・・どころじゃないかしらん? 私も、いい加減、Hit the Screenになるのが怖いです。というのも、英語力。休学して、じっくりやり直したいと思うのですが、卒業を遅らせすぎるのも、と、色々悩みはつきません。冒険するのはいいけど、失敗してばかり。Hideyさんを見習って、腰をすえてやらないと。 / りぃな ( 2002-09-09 18:16 )
Hidey、二年生への進級、心からお祝い申し上げます。二年生の授業は一年目とは比較にならぬほど面白いです。勉強以外のことも含めて、時間・体力・気力の許す限り、あらゆるものを吸収して経験していってください。健闘をお祈りいたします。 / のだ ( 2002-09-09 15:40 )
ひゃ〜。凄い試験ですね。外国語の論文を試験で読むのは本当に神経をすり減らす作業ですよね。もう二度としたくないです。英作文は致命的に苦手だし・・・。ああ・・・ / lim. ( 2002-09-09 13:36 )
Hideyさまの日記を読むと、「本当の勉強」とは何か、ということをつくづく考えさせられます。日本にもビジネススクールができていますが、形だけの「まねっこ」じゃだめだよね。 / スーパーしえろ ( 2002-09-08 23:38 )
ん・・・、あんまり他人事とは思えない、わたしも引き締めていかないと。今年の終わり頃から、落ちたら退学になっちゃう系統の試験、をいっぱい受けることになります。ぐすっ。Hidey様、厳しいカリキュラムの中、進級おめでとうございます。その調子で、後半も突っ走っていっちゃってください。でも、体にはくれぐれも気をつけて。 / しゃどう@健康管理は猫を見習うべし? ( 2002-09-08 14:20 )
をを、おめでとう!!! あの6月の、はじめましての乾杯が、今、おめでとうの前祝のカンパイに変わったよ! さすがだね、ホントにうれしいよ。 Hideyさまの新しい9月にカンパイ!^^ / パンドラ ( 2002-09-08 08:22 )
おめでとうございます!常々「ネイティヴと同じこと要求されたってできないー!」などと大変がっていた私ですが、拝読して、つくづく音大ってなんて楽なんだろうと反省してしまいました。。。Hideyさんのこと、見習わなきゃ。 / トモコ ( 2002-09-07 21:26 )
また新しい始まり。それにしても、小泉首相、食事会だけなんて無粋だぜ。 / 夢樂堂 ( 2002-09-07 20:11 )
いよいよ始まったんですね。まずは、二年生おめでとうございます。外国で学ぶ厳しさというのが、あるんですね。そんな中で良好な結果とは、素晴らしいです。 / Ecru ( 2002-09-07 19:06 )
おめでとうございます。本当に一生懸命勉強をした記憶がないあたしは、お祝いの言葉以外申し上げることはありません。「生きて行くこと」については毎日、必死ですけれど… ^^; あたしは実家でただ働きしてまかないも食わずに帰ることがしばしばですが?>小泉首相。 / akemi ( 2002-09-07 18:47 )
おめでとうございます。hideyさんのがんばりをこの日記で読んでいただけに、次のステップへ進めるようになったと知ってとても嬉しいです。本来学業というものはこういった厳しさを伴っていたものなんでしょうね。とくに現在の日本の場合、本来の意味での学問の環境がほとんど失われているということは非常に残念です。 / 走る酔人(PAO) ( 2002-09-07 18:31 )

2002-09-07 Hit the Screen 1

9月3日はビジネススクール二年生の初日だった。当たり前のように講堂で学長のスピーチを聞きながらも、正式に二年生への進級が決まった日の感慨を少し思い出していた。

うちの学校は昔からアメリカのビジネススクールの中でももっとも学業に関し厳しいと評判の学校だ。勉強しなければ卒業できないアメリカの学校制度は日本でも最近よく知られるところだが、うちの学校の場合は二年生になるのにある基準を充たさなければ退学処分ということもあるのだ。そして退学処分者は毎年ちゃんと存在する。

「Hit the Screen」という忌まわしい言葉がある。screenとは「ふるい」を意味する言葉で、これをヒットするということはつまり進級させるか否かの基準に引っかかり審議の対象になることを指す。一年生は前期に22単位、後期に18単位、計40単位を取得しなくてはならない。通常一教科を履修すれば4単位が取得できるのだが、その際の成績が問題になる。成績はTからWと「不可」に相当するNがあるのだが、V以下の教科が合計18単位を超えると「Hit the Screen」ということになり、進級の可否を「Academic Performance Committee(学業成績委員会)」が判断するということになるのだ。審議の結果、今後改善の望みがない者は退学になり、望みはあるが現状のままでは周囲のペースを乱すと判断される者は一年間休学させ、その間みっちり再学習を課すことになる。進級はさせても復習の義務などの条件つきという場合もある。

ものの本によれば1952年にうちの学校に留学した5人の日本人のうち二年生に進級できたのはたった一人だったそうだ。その頃の日本人留学生の一人は厳しさに絶えられず寮で自殺したとのことだ。日本再興という壮大な気宇を抱いていた彼らの挫折感は相当だったろう。僕にしても二年で卒業できる見込みがないことが分かれば会社の援助は打ち切られ、強制的に帰国させられて屈辱の中で働かなくてはならなくなるのである程度気持ちは分かる。その後も80年代前半にかけては日本人に限らず、少なからず自殺者が出ていたのは事実のようだ。そんな経緯もあって多少基準が緩くなってきたようだが、恐ろしい制度であることに変わりはない。

この恐怖の成績はどのように採点されるのか。大前提として、うちの学校はアメリカの通例と異なり日本でお馴染みの相対評価を採用している。その評価基準は教授によって多少異なるものの、ほとんどの場合期末試験が最終評価の40%、中間試験が10%、授業中の発言によるクラスへの貢献度が50%に相当する。

これはノン・ネイティブの学生にとっては大変厳しい評価方式だ。以前にも何度か書いたとおり、うちの学校はケースメソッドを採用していることもあり、学生達は授業中怒涛のように発言をする。成績がかかっているだけに尚更だ。ネイティブの学生がここぞとばかりに早口で高度な発言を連発する中で、ある程度内容のある発言をしなくてはならない。発言は授業の進行に応じて右に左に流れていくので、事前に言おうと思って準備していたことも言えずじまいというのは日常茶飯事だ。他人の発言を常に聴き取りながら、臨機応変に個性ある発言をすることが求められる。80人の学生が80分の授業でひとり数分にわたる発言をするため、手を挙げつづけても一度も指してもらえないこともある。一番悔しいのは、授業の最後に教授が要約するケースのポイントをうまく事前に解き明かしても(ケースを“crack”すると表現する)、最後まで発言の機会を得られない場合だ。

(つづく)

先頭 表紙

2002-09-03 USオープン・テニス観戦 4

アガシの試合の途中席を立った僕は向かいから歩いてきた日本人の女性客と顔を合わせた。よく見るとそれは伊達公子さんだった。僕が運営に関わった大会に出場した頃の彼女は日本のホープとしてようやく頭角を現しはじめたばかりだった。確か二回戦あたりで敗れた彼女が僕の手から受け取った賞金は300〜400ドル程度だったと思う。プロの厳しさを痛感したものだが、それから5年後に彼女は世界ランク4位にまで登りつめ、その翌年にはフェドカップで憧れのグラフを破った。プレイだけでなく人格も立派な女性だった。色々なことが瞬時にして思い出されたが、無論声はかけなかった。杉山愛対エイミー・フレイジャーの試合が行われていた10番コートでもう一度伊達さんを見かけた。6-4、6-2でフレイジャーが勝った試合だったが、試合後他の客が席を立つ中、スタンドの端っこに座っていた伊達さんは声をかけるでもなく杉山選手をいつまでも見つめていた。

ルイ・アームストロング・スタジアムではちょうどマルティナ・ヒンギスの試合が始まるところだった。世界ランクトップをウィリアムズ姉妹に譲り、左足の故障で一時は引退の危機に瀕したが、辛い手術を重ねてコートに戻ってきた。グラフ引退の年のフレンチ・オープンの決勝で、癇癪を起こしつづけた挙句マッチポイントを迎えたグラフに失礼とも受け取れるアンダーハンド・サーブを放ち観客の大ブーイングを浴びた頃の彼女はもういなかった。この数年の努力は観客を彼女の味方につけていた。足の調子を見ながらも徐々に彼女らしく狡猾に相手を前後左右に揺さぶりはじめた。相手を動かしつつ相手の返球を巧みに読むことで彼女は自分の動きを最小限にとどめた。一時間足らずで彼女は三回戦に駒を進めた。

試合としてもっとも圧巻だったのはモニカ・セレス対バーバラ・シュウォルツ戦だった。セレスもまた狂信的なグラフファンに試合中背中を刺され世界のトップから転落したというあの忌まわしい事件以来、観衆の判官びいきを得ることが多くなった選手だ。1994年にユーゴスラビアからアメリカに帰化したことを知らずに「同胞」に声援を送るアメリカ人もいるのではないかと思う。セレスが第1セットを落とし第2セットもタイブレークになると彼女への声援は最高潮に達する。午後10時をまわり小雨が降り始めた肌寒い夜空に、彼女がワンポイント取るたび「Yeah!」「All right!」という絶叫がこだました。見上げるとすぐ隣のルイ・アームストロング・スタジアムの最上階にも人が鈴なりになってこの日一番の熱戦を見守っていた。昔から感じていたウィンブルドンとは違うUSオープンの空気感をはじめて生で味わった。声援に押されたセレスはタイブレークを制し、第3セットを6-2でもぎ取って勝利を決めた。時刻は午後11時になっていた。

朝からの大雨で翌日のチケットを取り直し再び3時間半かけてニューヨークに出てくることも一時は覚悟していたが、結果的にはテニスのテーマパークのようなこのUSオープンを心ゆくまで愉しむことができた。新旧の様々な顔ぶれに出会い、僕にとってそれはまるで同窓会のようだった。いつかもう一度だけ同窓会に出席しよう。次の行き先はもちろんイギリスだ。そんなことを思いながら僕は深夜のルート95をボストンへ向かった。

先頭 表紙

jさん、ありがとうございました。ほっとしました。ボストンの初雪は早いですよ(笑)。ゆっくりお待ちしています。 / Hidey ( 2002-09-27 14:27 )
突然、ごめんなさい。ちょっとお休みします。初雪の頃戻ってくるので、見つけてください。こちらこそ、ありがとう。 / j ( 2002-09-17 15:38 )
わかな、そうだったんだ!一緒に見られたらよかったのにね。どの日に行ったのか今度教えてください。わかながテニスをやってたなんて全然知りませんでした。そうだね、音楽の趣味も一緒だしね。ほんと近いうち家に遊びに来てね。 / Hidey ( 2002-09-15 13:58 )
PAOさん、熱血テニス青年だったのですね。僕は高校時代かな。留学試験を受けるためテニス部をやめてしまいましたがテニスへの思いは捨てられず毎日早起きして学校に来て壁打ちをしたりしていました。 / Hidey ( 2002-09-15 13:56 )
邪夢猫さん!お別れの言葉もなくいなくなるなんて寂しすぎます。クリックしてびっくり。何か心境の変化があったのですか?とにかくこれからもお元気でいらっしゃることをそしていつか再会が叶うことを心からお祈りいたします。ありがとうございました。 / Hidey ( 2002-09-15 13:54 )
Hidey, 実は私もUSOpen行ってました!私はジュニアの頃からテニスをやっていたので、思い入れも強いです。なんだか、いろいろなところでHideyと趣味が似てますね・・・。 / わかな ( 2002-09-12 11:10 )
もう10年ほど前私は会社のコートで毎朝同僚と二人で汗を流していました。シャワーを浴びても朝礼の円陣の中で二人だけ頭から湯気が上がっていたのを思い出します。 / 走る酔人(PAO) ( 2002-09-07 18:20 )
シニアはちらっと中継をやっていたみたいで、夫がTV見ていました。あの人は好きな選手が山のようにいるんで追っかけが大変なんですよ(笑)。 / 邪夢猫 ( 2002-09-07 15:20 )
りぃなさん、あ、あの大学だったんですね。大学がトーナメントをやっちゃったということで話題になってましたね。それはいい経験になったね。確か優勝したセレスも僕の運営した大会でカプリアティ、ナブラチロワと一緒にエージェントを通じて呼びました。払ったお金は合計xx万ドル(笑)。でももちろん選手が欲しいのはお金ではなくてツアーポイントなんだけどね。 / Hidey ( 2002-09-07 14:48 )
邪夢猫さん、伊達さんはメディアの攻勢に苦しみながらも凛とした日本の誇れる女性でしたね。常に潔さがありました。確かにヒンギスはいつまでも子供だからなー。ところでこのUSオープンでは2週目のシニアの部で懐かしい人がいっぱい出ています。下にも書いたハナちゃんとか、大御所ジョン・ニューカム、バージニア・ウェイドなど!ちょっと観てみたかったです。 / Hidey ( 2002-09-07 14:45 )
ガス欠コインさん、小学校から硬式ってすごいですね!アーロン・クリックスティン、懐かしいですね。たしか日本人に通ずるそれほど背の高くない選手ではなかったでしたっけ?僕はあと気まぐれハナちゃんことハナ・マンドリコワの、実はナブラチロワやエバートを上回る天賦の才も好きでした。 / Hidey ( 2002-09-07 14:42 )
プルーさん、昨年プルーさんも観に行かれたとおっしゃっていたのもちょっと引き金になったのです。お陰さまで本当にいい経験になりました。また今度もウィリアムズ姉妹の対決ですね。がっかり。男子はサンプラス、アガシ、ヒューイットが順当に残って面白いけど。あとなんと明日はexhibitionでマッケンロー対ベッカーというのがあるようですね。観たい! / Hidey ( 2002-09-07 14:39 )
みなみさん、あのウィンブルドンの魅力をここまで的確に表現されたみなみさんにこそ僕は感動しました。ほんと、そうだったよね。あの逆光気味に光る芝生が眩しいんです。一番すごかったのは82年のコナーズ対マッケンローのフルセットの試合かな。高校二年の期末試験直前でしたが朝3時まで親父と一緒に観てたのが懐かしい。 / Hidey ( 2002-09-07 14:32 )
世界トップの集まる試合は感動が詰まってますよね。オクラホマの、うちの大学でも、去年の春辺りに、女子テニスのインドアの試合があったんですよ。杉山選手はじめ、この日記でも出てきたセレス、カプリアティ、クッツァーも出ていました。世界レベルの試合を見たのは、あれが初めてだったので、息をつく暇もなく見ていたのを思い出します。 / りぃな ( 2002-09-07 04:20 )
伊達さんは見る見るうちにほんとうに素敵な女性になりましたよね。中身が詰まっているのがよくわかります。日本人の特色でもあるかなぁ。ヒンギスとかを見ていてもあまり感じないことなのだけれど。というか、ヒンギスはしょっちゅうゴシップ記事を地元新聞で見ているからかもしれない。 / 邪夢猫 ( 2002-09-04 15:42 )
僕自身、レベルは話しになりませんが、小学生の時から、硬式テニスを始めましたね。単に、家の近くに区営の安いコートがあったのがきっかけだったのですが。確かに、あれだけ、ノータッチ・エースが決まるとなあ。自然とテレビや会場でテニスを見る機会は減りましたね。メジャーどころでは、コナーズ、マイナーどころ?では、クリック・ステインが好きでしたね。 / ガス欠コイン ( 2002-09-04 00:04 )
USオープン、見に行かれたんですね。この夏4回目のNYかしら(笑)。 今年はかなり雨にたたられて。月曜の夜なんて、スケジュール調整のためか、アガシ、サンプラス、ローディアックと、試合がめじろ押し。アガシの調子がいいので、嬉しい。日曜の夜は、去年のサンプラスとアガシの試合を放映してましたね。アガシが負けたのは残念だったけれど、あれはとてもいい試合でした。今年、どこまで行けるかしら、わくわくしてます。女性は、セレスとヒンギスです、よね、面白い組み合わせで、楽しみです。 / プルー ( 2002-09-03 23:55 )
USオープン、さすが観客席まで顔ぶれが豪華なんですね。わたしはテニスをしたことはないけれど、ウインブルドンはいつか観戦しに行ってみたいと憧れていました。深夜のテレビに映るあの芝と、目の眩むような日差しと、ギリギリした雰囲気が剥き出しになったプレイヤー達の印象が強烈で。自分とちょうど同年代くらいのカプリアティが荒れていた時には、彼女は大丈夫かしらねと友達と心配したものです……。高校生だった……。 / みなみ ( 2002-09-03 23:42 )

2002-09-03 USオープン・テニス観戦 3

ふと気づくと雨がやんでいた。コートの四隅からトンボ(水を掃く道具)を携えた係員が大挙して登場し、会場に大きな拍手が沸きあがった。巨大なドライヤーも現れ、彼らの秩序だった動きはハード・コートをみるみる乾かしていった。

午後3時半、いまやアメリカのテニスファンの誰もが愛してやまないジェニファー・カプリアティが対戦相手のティナ・ピズニックを従えて登場した。もはや僕を惹きつける選手はいないと書いたが、カプリアティは辛うじて思い入れのある選手だ。というのも件の女子テニス・トーナメントを運営したとき、まだプロとしてプレイし始めたばかりの彼女を僕が日本でデビューさせたからだ。当時彼女は13歳でプロ最年少デビューを果たしたばかり。その更に半年近く前から僕は海外のテニス雑誌で天才少女現るとの記事を読んで彼女のことを知っていた。彼女がフロリダのトーナメントでデビューしいきなり決勝に進出、ガブリエラ・サバティーニと接戦の末準優勝したときのビデオは今でも家にある。日本ではまだほぼ知名度がなかった彼女を初来日させるためにエージェントと交渉を行った。

彼女は有名なステージ・パパにスポイルされつつも、とても朗らかで天真爛漫な少女だった。しかし思春期に絶頂を味わった者の常として燃え尽き症候群に苛まれ、万引き、薬物所持など自らを傷つける十代を過ごした。どん底から這い上がった彼女は唯一の心の支えであるテニスを再度見つめ直し、徐々に天才少女と言われた頃のキレを取り戻す。そして昨年の全豪オープンで念願のグランド・スラム・イベント初優勝。続く全仏オープンも制し、一躍現代の病んだアメリカ社会の希望の象徴となった。

試合は、度重なるダブル・フォルトに悩まされながらも、地力に勝るカプリアティが6-4、6-2で勝利を収めた。持ち前の豪快なストロークとネットに詰めたピズニックの頭上を抜いた鮮やかなトップスピン・ロブが印象的だった。

続くアーサー・アッシュ・スタジアムの第二試合ではアンドレ・アガシが登場。安定したストロークでジメルストーブをストレートで下した。アガシももちろん大人気だが、テレビの解説ブースに現れたジョン・マッケンローもいまだに高い人気を誇り、会場のあちこちから「Johnny Mac!」と歓声が上がっていた。独特のサーブ・フォーム、滑るようなアプローチ、そして天才という言葉しか浮かばないしなやかなボレー。その彼もコナーズにはしばしば信じられないようなコースのパッシング・ショットを決められた。

しばしば語られるとおり男子テニスはつまらなくなった。高速サーブが決まればほとんどそれでポイントが決まるという単調なテニスになったからだ。思うにそれは選手が悪いのではなくてテニスというスポーツに限界があったということだ。野球で言えばストライク3つに対してボールは4つ、また4つのベースに対して3つのアウトというルールが、どんなに選手の身体能力が向上しても絶妙なバランスを保ちつづけているのに対し、テニスのエンターテインメント性はプレイの進化やそれに応じた選手の肉体の発達に置き去りにされたのだ。そして確かにカリスマ性のある選手が今はもういない。

(つづく)

先頭 表紙

そうですね、あの全豪オープンは僕も久しぶりに感動しました。先日USオープンの昔の映像(1991年)を流していたのですが、デビューして1年半のジェニーちゃんはまだ細くて可愛らしい女の子でした。イタリア系の独特の可愛さがありました。まあ今くらいのほうが体重の載ったショットが打てるのかもしれないけど。 / Hidey ( 2002-09-07 14:29 )
私もカプリアティの復帰には感動しました。すごいですよね。えーっ、ウソでしょ?って夫に言ったくらいですもの(笑)。 / 邪夢猫 ( 2002-09-04 15:40 )

2002-09-03 USオープン・テニス観戦 2

8月29日、当日。朝からボストンは大雨だった。ニューヨークも一日雨との予報。キャンセルのポリシーによると、一試合でも成立すればチケットの払い戻しはないとのこと。とにかくニューヨークまで行ってみるしかない。午前6時に小さなシビックにのって危険な雨のハイウェイをぶっとばした。

フラッシング・メドウのナショナル・テニス・センターにはメイン会場のアーサー・アッシュ・スタジアムと、サブ会場のルイ・アームストロング・スタジアム及びそれに併設されているグランド・スタンド、そして15のグラウンド・コートがある。二つのスタジアムで観戦するにはそれぞれ別のチケットが必要で、それらがあればグラウンド・コートの試合は無料で観られる。まだ一週目の平日ということで、両スタジアムともコートサイドのいい席が取れた。アーサー・アッシュは200ドル、ルイ・アームストロングは100ドルだった。

第一試合開始予定時刻の11時に間に合って着いたものの雨脚は一向に弱まらない。チケットの払い戻しや全部で900試合以上もあるトーナメントの進行を考えると主催者側としては何とか粘りたいところだろうが今日はさすがに無理そうだ。それでも正式な中止のアナウンスがないので食事をしたり土産屋をのぞいたりして時間を潰した。

午後2時頃になってようやく雨脚が弱まり、来場者の不満を解消するためかスタジアムへの入場が可能になった。僕が一番夢中になっていた頃にUSオープンが開催されていたフォレスト・ヒルズのスタジアム・コートとは異なるが、確かにそれはアメリカにおけるテニスの聖地だった。四角いすり鉢のようなスタジアムの天辺に設置された巨大なスクリーンでは1989年のジミー・コナーズ対アンドレ・アガシ戦の映像を流していた。

ジミー・コナーズ。僕がもっとも好きだった男子選手だ。テニスにもファンタジスタという言葉があるとしたらそれは間違いなく彼のことだろう。ボール・コントロールがしやすいトップ・スピンが主流になる中、肩と手首で豪快に打ち込む彼のフラット・ショットは、頑ななまでにネットすれすれに一直線の軌跡を描く。スーパー・ランニング・ショットを決めたあと勢いあまって観客席につっこみ、そのまま観客が手に持っていたジュースをゴクゴク飲んでしまう。大事なポイントをもぎとれば両の拳を突き出して天に向かって雄叫びを上げる。昔はそんなプレイヤーがいたのだ。スタジアムにまばらに散る傘を差した観客たちはみな懐かしそうに目を細めてスクリーンを見上げていた。僕の隣にやってきた60歳過ぎくらいの女性は「あら、ジミーじゃない」と目じりに皺を寄せて微笑んでいた。

1989年のアンドレ・アガシは若く精悍でおまけに獅子の鬣のような髪の毛を生やしていた。そして今と変わらない鋭いリターンや安定したトップ・スピンを放っていた。この年のUSオープンは男子はボリス・ベッカーが、女子はステフィ・グラフが制した。ステフィは前年のゴールデン・スラム(四大大会に加えてソウル五輪でも優勝)に続く大会二連覇を達成し、まさに絶頂期にあった。その頃はアガシと結婚して一子をもうけるなど想像すらしなかっただろう。彼女は華麗なフットワークで強引に回り込んで強烈なフォアハンドを叩き込み、スピードとキレが絶妙にバランスされたバックハンド・スライスで対戦相手の胸元をえぐった。ドイツ的な美徳である強固な意志に制御された極限的にアスレティックな肉体がコートに躍動していた。

(つづく)

先頭 表紙

マッツ・ビランデル、これも懐かしい名前ですね。アガシの頃は正直既に男子テニスに興味を失っていたのですが、この年まで頑張っているのを見ると応援したくなっちゃいますね。毛もなくなっちゃったし(笑)。 / Hidey ( 2002-09-07 14:26 )
アガシの試合で一番好きなのは、仏オープンのビランデルとの試合です。若さと気迫が溢れていて、いかにも彗星のごとくだったから。 / 邪夢猫 ( 2002-09-04 15:45 )

2002-09-03 USオープン・テニス観戦 1

1983年9月3日、10ヶ月間の米国高校留学のため前夜ホームステイ先の家庭に到着した僕は、時差ぼけのため午後1時頃になってようやく目が覚め、誰もいない居間のテレビのスイッチをつけて唖然とした。昼間からUSオープンテニスを生中継している。それもまだ早いラウンドだというのに。当時日本では準決勝と決勝くらいしか中継しないというのが当たり前だった。当時熱狂的なテニスファンだった僕は震えるほど興奮しながら食い入るようにテレビを観た。

大学に入ってからもテニスへの情熱は募るばかりで、学生らしくアルバイトをするようになってからは東京で開催される国際トーナメントは欠かさず観に行った。いつしかそれらのトーナメントは広告代理店によって運営されているのだと知り、僕は代理店への就職を熱望するようになった。そして僕は今の会社に入った。

ヨーロッパへの卒業旅行ではロンドンの街を軽く無視してウィンブルドンへ直行。真冬ではあったが、せめてあの緑のスタジアムの外観だけでもこの目で見たかった。併設のテニス博物館があったので入ってみると「Way to the Centre Court」という表示があった。センター・コートでの名勝負にまつわる展示でもあるのかなと表示に従って進むとそれは正真正銘のセンター・コートへの入口で、僕は何の前触れもなく客席の一角につくられたバルコニーに立ち呆然とした。テニスの聖地には僕以外誰もいなかった。心臓が大きな音を立てるのが分かった。ふと何か自分の足跡を残したいという気持ちになって、馬鹿みたいな話だけどポケットの中にあった10円玉を緑の芝生めがけて放り投げた。

入社後は奇跡的に希望がかなってスポーツ事業部に配属。テニスが好きだと口にしつづけた結果、新しい女子の公式トーナメントの運営を先輩ともども任された。トーナメント開催の権利をアメリカから買って日本の放送局に売却し、その放送局からの発注で実運営を行った。会場を決定、冠スポンサーやサブスポンサーへのプロモートをし、チケット販売、会場設営を統率した。公式トーナメントとはいえ有名選手には金銭による出場交渉をしなくてはならなかった。

1999年、もっとも敬愛するステフィ・グラフが引退し、僕はテニスへの情熱を失った。結局テニスが好きだというよりは人が、その人のプレイが好きだったのだと思い知った。足掛け20年にわたる熱が冷めたのだが、ひとつだけ心残りがあった。いわゆる四大大会のどれかひとつでいいからこの目で観戦したいという夢は果たせないままだった。

そして2002年8月28日。もうほとんどテニスへの関心が失せていた僕は、ネットのニュースを読んでUSオープンが始まっていることにはじめて気づいた。昔ならありえないことだ。そしてふと思いついた。これが最後のチャンスかもしれない。もう誰一人として僕を惹きつける選手はいないものの、夢の名残のようなものは味わえるかもしれない。次の瞬間僕はUSオープンのサイトで現在のトーナメントの状況を調べ、翌日のチケットを購入していた。9月3日には学校が始まるので早めに行った方がいいし、その日はメジャーな選手が大勢出場する予定になっていた。思いついたらその翌日にUSオープンが観られる環境にいることに今さらながら感動した。急に忘れていた高揚感が胸に蘇り、僕はいそいそと車の道順などを調べ始めた。

(つづく)

先頭 表紙

りぃなさん、一応妻には断ってからだったけどね(笑)。「そんなことになるんじゃないかと思ってた」そうでした。さすが妻。 / Hidey ( 2002-09-07 14:24 )
邪夢猫さん、このつっこみを拝見すると邪夢猫さんもそうとうテニス今日のご様子(笑)。ウィブルドンで観戦なさったとは心の底から羨ましい。ああ、グラフが活躍している頃にいけなかったのは一生の心残り…(溜息)。 / Hidey ( 2002-09-07 14:23 )
思い立ったらスグ行動!・・羨ましいデス。 / りぃな ( 2002-09-07 04:10 )
私もテニス熱狂家の夫に連れられてはじめてウィンブルドンのセンターコートに(もちろん観客席ですが)足を踏み入れた時は震えるほど感動しました。あそこにはつわものどもの夢の跡が気配として漂っているのですよね。 / 邪夢猫 ( 2002-09-04 15:38 )

2002-08-31 アマデウスの愛した街 2

作品は素晴らしかった。少なくとも、オペラに関してはまったくの門外漢である僕を、これから是非定期的に観に行こうという気にさせるほど素晴らしかった。妻も大変感激していた。上から二番目のランクのバルコニー席だったのだが、物価が非常に安いため、一人1750コルナ(約6700円)と非常にリーズナブルだ。

気づいてみればこの街が今でもモーツァルトを愛しつづけていることは至る所に見て取れた。この公演と時を同じくしてプラハ名物のマリオネット・シアターでも「ドン・ジョヴァンニ」の人形劇が演じられていた。モーツァルトの恋人であったと言われソプラノ歌手でもあったデュセック夫人がプラハに滞在中のモーツァルトを住まわせたベルトラムカ荘は、現在モーツァルト博物館になっており、ここでも連夜モーツァルトの音楽が演奏されていた。コンサート・ホールを兼ねた国立美術館や市民会館でも彼の書いたオペラ、シンフォニー、ピアノ・コンチェルトなどが演目に上がっていた。

オペラ「ドン・ジョヴァンニ」のプログラムによれば、プラハで語られるモーツァルトは決して古びた書物の中の伝説ではなく、詩人や小説家、役者、そして普通の人々が鮮やかな言葉で語り継いできた生き生きとした人間なのだという。そして飾り気のないプラハの人たちは、貴族の館や音楽家の集まるサロンを敬遠してこの街のパブに出入りし、他の客とビリヤードをしたりコーヒーを飲んで語らったりしたモーツァルトを今も熱烈に愛しているのだという。

プラハがモーツァルトを語った近年の例としては1984年にアカデミー作品賞を受賞した映画「アマデウス」が挙げられる。監督のミロシュ・フォアマンはモーツァルトの時代の面影を残すロケ地を求めてウィーン、ザルツブルグ、ブダペストを廻ったが、それらの都市の建造物が比較的新しいものばかりだったことから、彼の祖国チェコのプラハに白羽の矢を立てたという。中世の佇まいをそのまま凍結したかのようなプラハの街並は360度カメラを回しても何も手を加えなくてよいほどだったそうである。そしてこの映画の中でウィーンの宮廷劇場という設定で撮影に使われたのがエステート劇場だった。同じ時代の劇場のほとんどが戦火で焼失した中(ウィーンのオペラ座も同様)この劇場だけは1783年に木造で建てられた当時のままの姿を残しているのである。そんなことはまったく想像できないほど劇場は美しく優雅だった。

ニューヨークのメトロポリタン・オペラの今シーズンのチケットが徐々に売りに出されはじめた。モーツァルトの作品で言えば12月からは「ドン・ジョヴァンニ」が、1月からは「後宮からの誘拐」が上演される。ネットで簡単にチケットが取れるし、ニューヨークらしくそれ程気取った格好で行く必要はないというので妻とも是非行ってみようと話している。今年は勉強もそこそこに芸術を愉しむ時間も去年に増してつくりたい。


*写真はエステート劇場


先頭 表紙

マイケルさん、それはおめでとうございました!いつか日記で読ませていただけると嬉しいです。 / Hidey ( 2002-09-07 14:21 )
あ、日記にはいつか書こうと思っていたのですが2000年の2月にリベンジしています。そうそう、良くも悪くも西欧化されていました。 / マイケル ( 2002-09-04 07:44 )
りりさん、僕もニュースで見て「あのプラハが…」と思って悲しくなりました。オペラ、いい作品があったら教えてくださいね。それからプラハは美食の国でもあるのでぜひ一度どうぞ。ドイツやウィーンよりは洗練された肉料理、そしてロブスターを、ピーチやアボカドを半分に割った上に載せて香味野菜をあしらったカクテルが絶品でした。ビールも世界で一番美味しいところのひとつですしね。 / Hidey ( 2002-09-03 23:19 )
りぃなさん、ボストンもすっかり秋だよー!もう結構肌寒いです。この冬はなんか寒そう。今日から新学期。といっても今日は午後3時からイベントだけだけど。ちょっとしばらく芸術の秋はお預けかな。まずはなまった脳みそを少し慣らさないとね。そちらもよい秋をお迎えください。 / Hidey ( 2002-09-03 23:16 )
おとじろうさん、僕も「アマデウス」は好きで何度か観ています。サリエリとの軋轢と匿名のレクイエム作曲の依頼という実話を創造的に組み合わせた設定が秀逸ですね。ほんとにプラハではモーツァルトの息吹を感じたような気がしました。 / Hidey ( 2002-09-03 23:13 )
ナライフさん、仕事とは言え2週間も滞在していたとは本当に羨ましい!クラシックは全然詳しくありませんが、色々な逸話を聞くにつけモーツァルトはどんどん好きになります。さっそく何枚かCDを買ってきてしまいました。もちろん交響曲38番「プラハ」も。しかし来日公演7万円とは!NYでは一番いい席でも200ドルくらいですよ。プロモーターだか代理店だか、暴利貪りすぎ(笑)。 / Hidey ( 2002-09-03 23:10 )
lim. さん、うっとりしていただけて僕も嬉しいです。劇場は中がまたとても美しかったので、今度チラシの写真をスキャンしてアップしておきます。メトロポリタンではまずカルメンを観ようと思っています。 / Hidey ( 2002-09-03 23:06 )
マイケルさんは確かプラハは少し残念な旅になってしまったんですよね?よくも悪くも今は西欧化していますので何の違和感もなく旅を楽しめると思います。ぜひリベンジをしてみてください。そもそもプラハの春に見られるように東欧圏の中でももっともリベラルな気質をもった国民なんですけどね。 / Hidey ( 2002-09-03 23:04 )
プルーさん、「行ってみたくなった」と言っていただけるのが一番嬉しいです。オペラ、お奨めの作品がありましたら改めて教えてください。またNYに行く回数が増えそうです。 / Hidey ( 2002-09-03 23:01 )
ガス欠コインさん、ご両親のお気持ち、すごく分かります。あの街はミーハー観光客からこだわりのある人まで誰でも楽しめるところです。あまり脚光を浴びていないのが不思議なくらい。でもその程度が嬉しいかな。とっちーさん、読んでくれているだけで嬉しいです! / Hidey ( 2002-09-03 23:00 )
Ecruさん、僕はテレビやCDですらほとんどオペラ鑑賞をしたことはありませんでした。クラシックも門外漢。でも歴史は好きなので、音楽家のエピソードなどを読むのは好きだったのです。今回はオペラだけでなくクラシック・コンサートも他に三つほど行って感激して帰ってきました。趣味の幅が広がって嬉しいです。 / Hidey ( 2002-09-03 22:58 )
夢樂堂さん、僕もオペラはなにか敷居が高いイメージがあったのですが、ウィーンのオペラ座の30分程度の見学ツアーに参加したところ、一番安い席は1000円もしない程度なのだそうです。日本は敢えて敷居を高く見せているようなところがあってちょっと嫌ですね。是非気軽に行ってみてください。 / Hidey ( 2002-09-03 22:56 )
PAOさん、まさにそのとおり!あの物価の安さには申し訳ないくらい感動しました。最高級ホテルに泊まってもそんなに高くないし美味しいレストランもせいぜい二人で3000円くらい。また行きたい街です。 / Hidey ( 2002-09-03 22:53 )
むらりょうさん、トルコも羨ましいけど、是非今度はプラハに行ってください!街はどこを歩いても風情があるし、郊外には温泉もあるし。お子さんにもきっといい影響を与えるでしょうね。 / Hidey ( 2002-09-03 22:52 )
彩霞さん、はじめまして。日記を読ませていただきましたが、以前僕もいくつか読ませていただいたことがあります。大変鋭い目をお持ちでいらっしゃいますね。プラハ、満喫できなかったとは残念でしたね。本当にあの街は宝石のように美しかった。でもそれだけでなく同時に芸術を心ゆくまで鑑賞することができたというのは大いなる付加価値でした。是非また行ってみてください。 / Hidey ( 2002-09-03 22:50 )
あややん、本当にすばらしかったです。まだオペラに関しては何も知らない僕ですが、徐々にその世界を覗いていきたいと思います。ヴェルディのお奨めありがとう。さっそくイタリア人化計画に組み込みたいと思います。 / Hidey ( 2002-09-03 22:47 )
これを読んでプラハに行ってみたくなりました。でも8月の水害がひどかったみたいですね…。復旧が上手く行っているといいのですが。オペラ、私も好きです。来週は蝶々夫人を観に行きます。 / りり ( 2002-09-03 15:19 )
こちらでは秋の気配が近づいていますが、ボストンはいかがですか?これから、まさに芸術の秋、本番ですね。良いお時間を過ごされますように☆ / りぃな ( 2002-09-03 14:55 )
映画「アマデウス」は好きな映画です。悲しい終わり方が印象的というか私の中で尾を引いてます。でも今でも人々や街の中でモーツァルトが生きていることを知りなんかうれしくなりました。 / おとじろう ( 2002-09-02 15:04 )
3年前に出張で2週間程プラハに滞在したことがあり、プラハは大好きな街です。そしてモーツァルトは、僕が最も愛してやまない音楽家であり、中でも彼のオペラは無人島に真っ先に持っていきたい宝です。オペラは日本だと異常に高価なのでなかなか行けませんが、プラハにしてもNYにしても羨ましいです。かつてメトロポリタンオペラの来日公演での「フィガロの結婚」」など、7万円くらいしましよ。 / ナライフ ( 2002-09-02 14:28 )
綺麗な建物ですね。こんな所でオペラを見ることができるなんて幸せですね。ドン・ジョバンニ、久しく見ていません。トリスタンとイゾルデも観たいなあ。うっとりうっとりです。 / lim. ( 2002-09-02 13:45 )
日没後にプラハの旧市街を歩いているとまるで中世にタイムスリップしたような錯覚に陥りますよね。 / マイケル ( 2002-09-02 09:58 )
モーツァルトのオペラ大好き、です。音楽と同様陽気で楽しくメルヘン。 ドンジョヴァンニも。CH13で時々放映されるライブのオペラ、ドンジョヴァンニやってた時思わず全部見てしまいました。TVだと迫力が足りないからあまり集中できないんですが。 / プラハに行ってみたくなりました@プルー ( 2002-09-02 04:17 )
そういえば、先週、とっちーさんと会いました。時々、読み逃げしているそうです(笑)。 / ガス欠コイン ( 2002-09-01 19:41 )
オペラは僕も生で観たことはありませんが、プラハはぜひ訪れたい街のひとつです。両親が行ったことがありますが、熱く語っていたような気がします。 / ガス欠コイン ( 2002-09-01 19:39 )
オペラ、ハイライトをCDでしかありません。絶対、一度は行きたいと思ってるのだけどね。丁度6歳のころ、モーツァルトの曲を練習していて、「神童」という言葉があるのを知りました。 / Ecru ( 2002-09-01 19:05 )
オペラはまだ生で一回も観たことがありません。いいオペラはチケットがすぐに売り切れてしまうしね。一度行きたいな。 / 夢樂堂 ( 2002-09-01 16:05 )
質の高い芸術を安く鑑賞できるということは、幸せなことです。そしておいしい食べ物を安くいただけるということも。 / 走る酔人(PAO) ( 2002-09-01 11:59 )
プラハは最後の最後まで新婚旅行の候補地でした。結局、まとまった休暇を有効に活かせる(広い)トルコ旅行にしてしまいましたが、今後、チビが旅行できる年齢になったら必ず行こうと思ってます。やはり、すばらしい街ですね。 / むらりょう ( 2002-09-01 10:24 )
私はモーツァルトやオペラはあまり聴くことはありませせんが、プラハは昔より憧れの街でしたが、いざ念願かなって訪問できた時は体調が悪く、ほとんど見どころもまわれませんでした。この写真のような雰囲気の建物が多かった、と記憶しております。 / 彩霞@初つっこみです ( 2002-08-31 23:44 )
予定に入っていなかったというのに、すばらしいものをご覧になったのね。その土地その土地で、見て楽しい作品が違いますものね。ミラノに妹さんがいらっしゃるのでしたら、機会があったらスカラで是非ヴェルディの作品をごらんになってください。「ナブッコ」の第三幕、イタリア人第2の国歌とも言われる"Va!Pensiero"のあと、イタリア人の狂喜喝采を聞くのは、きっとHidey夫婦のイタリア人計画にとって価値があるでしょう。 / あやや ( 2002-08-31 13:21 )

2002-08-31 アマデウスの愛した街 1

先日の日記に書いたチェコに長年住んでいた伯母の奨めもあり、今回の旅行でもっとも長い3泊4日をプラハ観光に充てた。大きな川を挟んで城の聳える丘と市街が向き合っているところがブタペストとそっくりで、最初はどちらの地図を見ているのか戸惑ったほどだ。ドナウ川の代わりにヴルタヴァ川が流れているのだが、もうひとつ大きく異なるのは、このプラハという街はモーツァルトを深く愛し、またモーツァルトもこの街を深く愛したという点だ。

ユーレイルパスが通用しない区間の列車に乗りブダペストから7時間かけてプラハの駅に着いた我々の目に最初に飛び込んできたのは、モーツァルトの肖像を大きく使った、オペラ「ドン・ジョヴァンニ」のポスターだった。オペラ鑑賞などまるで考えていなかったのだが「いいねえ、行ってみようか」と妻に話したところ妻もすぐに賛成。ホテルまでの道々何度も同じポスターや垂れ幕を目にした。どうやらこの夏プラハ一番のイベントであるようだ。ホテルに着くなりコンシェルジェで翌日の公演のチケットを予約してもらった。

このときは知る由もなかったのだが、この公演が行われたエステート劇場(チェコ語ではスタヴォフスケ劇場)こそ、モーツァルトが自らの指揮により「ドン・ジョヴァンニ」を初演した劇場だったのだ。

1787年1月にプラハを訪れたモーツァルトは、街中が彼の新しいオペラ「フィガロの結婚」に熱狂しているのを見て驚く。彼はそのときの印象をこう記している。「この街の誰もが私の作った『フィガロ』の曲をカドリール(フランスの舞踊)やドイツ舞踊にアレンジして踊っているのを、私は歓喜をもって眺めた。彼らが話すのは『フィガロ』のことばかり、彼らが口笛やトランペットで吹くのも『フィガロ』の音楽ばかりだ。皆『フィガロ』に何度も何度も足を運んで、それ以外のオペラはまったく観ようとしない。これは私にとって真の名誉だ」

彼の本来の活動の場ウィーンでは「フィガロ」はそれ程高い評価を得ていなかったため、モーツァルトの感激はひとしおだった。歓びのあまり彼はその10日後にエステート劇場で自ら「フィガロの結婚」を指揮した。エステート劇場の音楽監督のボンディーニは劇場の評判をさらに高めるためモーツァルトにオペラの新作を依頼する。当時の相場では決して高額とは言えない100ダカットでモーツァルトが請け負ったこの作品こそが「ドン・ジョヴァンニ」であった。

その荘厳な序曲にも有名な逸話がある。初演の前日、モーツァルトの親しい友人であるプラハの音楽家デュセックはモーツァルトがこのオペラの序曲をまだ仕上げていないことに気づく。デュセックはモーツァルトが以前彼に聴かせていた三つの序曲のことを思い出し、彼が気に入ったものを選んで完成を促した。

1787年10月29日、初演の幕が上がろうとする頃、観客はオーケストラの方から聞こえて来るざわめきを不審に思う。実はようやく完成した序曲の譜面がまだインクも乾かない状態のまま開演直前になってようやく配布されたのだ。オーケストラはまさに初見でこの高名な序曲を演奏したのである。プラハはさらに深くモーツァルトとの恋に落ち、歓声は果てしなくつづいた。その日エステート劇場の観客の中には「ドン・ジョヴァンニ」のモデルでもあり、モーツァルトとも親交があったというジョヴァンニ・ジャコモ・カサノヴァもいたと言われている。

(つづく)

先頭 表紙

りぃなさん、僕もはじめは相思相愛という言葉をタイトルに入れようかと思ったのですが言葉がうまく座らないのでやめました(笑)。モーツァルトという人の飾らない音楽性が当時の大仰なウィーンの文化よりは遥かにプラハにマッチしていたんでしょうね。愛した街からも彼の人となりが想像されます。 / Hidey ( 2002-09-03 22:45 )
最後の段落を読んで、ほぉっ・・・としちゃいました。まさに相思相愛なんですね♪プラハはきっと、モーツァルトにとって運命の街だったんでしょうね。。 / りぃな ( 2002-09-03 14:54 )

2002-08-27 旅と文学 2

今回の旅行は準備も慌しく、妻との妥協の産物という側面もあり、そんな大げさなテーマを掲げた旅にはならなかった。夫婦の骨休めの旅に誰がそんな厄介なものを持ち込むだろう。手にした小説もそれほど深く考えて選択したわけではなく、たまたま先日日本で購入した文庫本から三冊選んだだけだった。しかし気がつくと三冊ともドイツ人の手によるものだったというのは、確かに僕という人間の傾向を表しているのだと思う。

今回ドイツは旅の終わりに妻のある目的のためにミュンヘンに寄ったというだけだったし、「マルテの手記」などはパリに暮らすデンマークの詩人の話ということもあって、特に小説との関連性のある旅をしたというわけではない。それでも車窓の風景に、フランス軍から逃亡し身寄りのないドロテーアを連れ立ったヘルマンが「あなたの見ているのはわたしのところの家です。(中略)あそこのあの窓は屋根裏のわたしの部屋の窓で、多分あの部屋がこれからあなたの部屋になるでしょう」と語る場面が浮かんできたりする。僕と同様イタリアの健康的な精神性をこよなく愛し、二年近くにわたりイタリアを旅するも夢破れドイツに戻ったゲーテは、ドイツ国民的抒事詩の金字塔と言われるこの作品の中に密かにイタリアへの思慕を託したということだ。

最後にもう一度卒業旅行の話に戻る。ヴェッツラルを後にした僕はゲーテが人生の後半を過ごしたワイマールを訪れた。曇り空の下、人気ない公園を何気なく歩いていると、大きな廟にたどり着いた。見るとゲーテとシラーの霊廟と書いてある。地下に続く階段を下りるとそこには生涯の親友の傍らに横たわるゲーテの棺があった。まだ朝早く、僕の他に人は誰もいない。静寂の中、檻によって守られる棺の足元に僕は歩み寄った。しばらくそのまま佇みながら、自分が世界中で彼の魂のもっとも近くに立っていることに僕は感動していた。十三年前、まだ冷たく横たわっていた「壁」の向こう側の世界でのこと。今回も旧東ドイツ圏を列車で走ったが、当時の面影はまるでない。

先頭 表紙

りぃなさん、ドイツは家並がほんとに美しいところですよ!統一感のある小奇麗な木造の家が並び、どの家の窓辺にも赤やピンクの花がこぼれそうに咲いています。料理は渋いのが好みなら(ペッパーステーキ、ソーセージ、野菜の煮込みなど)いいけど、一般的には確かに美食とはいえないかもしれませんね。でもグラーシュズッペはあるよ! / Hidey ( 2002-09-03 22:42 )
lim.さん、ありがとう。今度一時帰国する妻に頼んで買ってきてもらいます。 / Hidey ( 2002-09-03 22:29 )
ドイツか〜♪一度でもいいから行ってみたい場所です。Hideyさんのイタリア人計画に対抗して、ドイツ人計画を立てようかな〜♪あ、でも美味しいご飯は必須ね。ドイツの料理文化、あんまりいい評判聞かないからな。。まずは行ってみないと!?ドイツのお料理は、いかがなんでしょう?? / りぃな ( 2002-09-03 14:51 )
はい、そのとおりです。ベルゲングリューンの作品です。短編だし、おとぎ話風で可愛いです。 / lim. ( 2002-09-02 13:42 )
夢樂堂さん、僕も学生時代は詩に傾注していました。谷川俊太郎も好きな詩人です。僕が今旅をするとしたらリルケと萩原朔太郎かな。 / Hidey ( 2002-08-31 12:14 )
ガス欠コインさん、偏るって時に大切ですね。特に僕らみたいな商売だと。何かひとつにどっぷりつかって本質を見極めた経験があればあとはそれを応用すればいいわけですからね。離れてからその場所について読むことの切ないまでの味わいはとってもよく分かります。往々にして先に街を見て後に読むという順序が正解ってこともありますね。「ニューヨーク・スケッチブック」、覚えておきます。 / Hidey ( 2002-08-31 12:13 )
Ecruさん、たしかにファウストなどは結構やっかいですけど、ここにご紹介した「ウェルテル」や「ヘルマンとドロテーア」などは非常に読みやすい作品です。特に「ウェルテル」は高橋義孝氏の翻訳が絶品です。「ウェルテル」は一生に一度は読むべき作品だと僕は(勝手に)思います。 / Hidey ( 2002-08-31 12:08 )
lim.さん、おっしゃること、とても分かる気がします。文学にしても音楽にしても、理性の裏に潜む深い情熱を感じることが多いです。ヘッセの「知と愛」という小説が好きなのですが、まさに理性と感情の調和を詠った名作で、ここにもドイツ人のバランスのよさが見受けられます。「スペインのバラ」、ネットで軽く調べてみましたがベルゲングリューンという人の著作でしょうか?ぜひ(日本語で)読んでみたいです。 / Hidey ( 2002-08-31 12:05 )
トモコさん、はじめまして。実は僕もトモコさんの文章が先日から気になっていたのですがついぞつっこみを入れられずにいました。Wetzlar、行かれたのですね。HPも読ませていただきました。演奏旅行だったのですね。思いのままに歩いていただけなのでまともな観光はできず、ちゃんとした見どころを押さえられなかったと思います。今度はバランスよく見てみたいです。これからもよろしく! / Hidey ( 2002-08-31 11:58 )
みるみるさん、偶然ですね。「統一物語」、読ませていただきました。実は1年生の終わりの「ビジネス、政府と国際経済」という授業の期末試験がドイツ統一についてのものでした。西側諸国には指標的に遥かに劣る経済状態でも一国の中ではそれなりの秩序があり、しかも東ならではの完全雇用システムがあったわけだし、EU統合をあせりハイレベルな経済指標を維持しようとする旧西ドイツとの統一は相当に歪みを生んだようですね。それを覚悟してまで東の人たちは自由を渇望したということですね。 / Hidey ( 2002-08-31 11:56 )
夢樂堂は旅に出るとき、谷川俊太郎の詩集を持っていきます。旅をしていると深く読めますからね。 / 夢樂堂 ( 2002-08-31 08:14 )
僕も偏った人間なので、よく気持ちがわかります(笑)。僕の場合、大学4年に上がる前に1ヵ月、アメリカ本土を回った時、女友達から貰った、ピート・ハミルの「ニューヨーク・スケッチブック」が印象に残っています。NYに一週間いて、離れてから読むようになったもので、感慨深い気分になった記憶があります。 / ガス欠コイン ( 2002-08-29 14:05 )
何かしらテーマのある旅というのは、素敵ですね。はずかしながらゲーテの本は、ひとつも読んだことがありません。難しそうで…。 / Ecru ( 2002-08-28 21:13 )
今大学時代の友人が、ドイツに語学留学しているんです。ドイツは言語を学ぶ限りでは厳格で規範的な雰囲気を感じますが、実際にはかなり情熱的なところなのかも、などと思いを馳せてみたり。 ドイツ文学といえば、誰の作品か忘れましたが『スペインのバラ』という短編を原典で読みました。なかなかの代物です。 / lim. ( 2002-08-28 07:55 )
わぁ、Wetzlarだなんて!実は私の大好きな町だったりします。ゲーテが云々なんていうのは全く知らずに行ったのですが、こじんまりしてていい感じですよね♪ / トモコ ( 2002-08-28 04:20 )
住んでいたところは別のところでした。駄文で誠に申し分けないのですがもし良かったら前に本家日記に東ドイツの事を書いているのでごらんになってください。統一物語 / みるみる@Atelier ( 2002-08-28 00:40 )
実はそこで勉強していました(笑)あまりの偶然にびっくり。とても素敵な文章ですね。あのころの懐かしい想いが湧き上がってきました。私も公園はよく散歩しました。日本人はまだ私が最初といっていいほどいなかったのですがとても好きな街で得るものは多かったです。旧東ドイツ人の葛藤と優しさにも触れることが出来ました。また懐かしい思い出をありがとうございます。 / みるみる@Atelier ( 2002-08-28 00:35 )
たらママさん!さっそくいらしていただいて嬉しいです。欧州デビューでパスポート!おめでとうございます。今度はご主人にあまり妥協せず好きなところ沢山行ってきてくださいね(笑)。ゲーテハウスは僕も行きました。 / Hidey ( 2002-08-28 00:07 )
ゲーテといえばフランクフルトのゲーテハウスに行ったことを思い出します。私は文学とはどんどん疎遠となっていますが。近々仕事で欧州デビューすることになり、パスポートを再び取得することになりました。Hideyさんも頑張ってください。 / たらママ ( 2002-08-27 20:43 )

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