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口車大王「旅のおもひで」

 
口車大王の、旅行で遭遇したことなどを。。。

川俣施術室

「本家」はこちら 現代技術事情

外から見ると、まことに不思議な台湾の政治
なぜ、台湾は国際社会の正面ドアをノックしないのか

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目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2002-07-01 旅の質問100 その1
2002-06-29 [韓国昔話]病院食はキムチ
2002-06-18 [韓国昔話]30年ぶりの日本語
2002-06-13 [韓国昔話]禁断のブルーライトヨコハマ
2002-06-10 [雑学]スッチー今昔物語 その5 日本の航空会社最高の制服
2002-05-26 [雑学]スッチー今昔物語 その4 制服の歴史
2002-05-23 [業界裏話]嘘も方便 − 窮すれば通ず
2002-05-20 [雑学]スッチー今昔物語 その3
2002-05-20 [波蘭昔話]ポーランドの通信事情
2002-05-13 アイルランド海軍 L. E. NIAMH & 練習艦かしま & 南極観測船しらせ


2002-07-01 旅の質問100 その1

旅の質問100,口車もやってみました。

1 お名前、性別、生年月日、血液型をどーぞ。
口車大王,男,1月8日,新潟

2 あなたのお仕事はなんですか?
コンピュータ関係

3 出身地と現在住んでいる場所を教えて。
東京生まれの東京育ち,現在住民票は横浜市保土ケ谷区

4 もし海外で暮らしたことがあるなら、それはどこ?どのくらいの期間?
韓国 3か月,ポーランド 7か月,タイ 1年半

5 年に何回くらい海外旅行をしていますか?
最近は2回程。

6 暑い国と寒い国、どちらが得意?
寒い国

7 自分に、海外でも通用するもう1つの名前をつけるとしたら何にする?
つけない。

8 外国人に自分のどんな部分をアピールしたい?
ステレオタイプの日本人ではないよ。

9 今まで行ったことのある国と回数を教えて。
イングランド 4回(もうすぐ5回),スコットランド 1回,フランス 5回,モナコ 1回,イタリア 1回,バチカン 1回,マルタ1回(もうすぐ2回),スイス 3回,チェコ(もうすぐ1回),ポーランド 1回,ベルギー 1回,オランダ 2回(トランジット入れると4回),ドイツ 1回,デンマーク 1回,スウェーデン 1回,ノルウェー 1回,アメリカ合衆国 2回(トランジット入れると3回),韓国 1回,台湾 5回,香港 1回(トランジット入れると3回),インドネシア 2回,タイ2回(トランジット入れると3回),シンガポール 1回,フィリピン(トランジットで1回),インド(トランジットで3回),アラブ首長国連邦(トランジットで1回),クェート(トランジットで1回),ギリシャ(トランジットで2回)
以上,2002年7月1日現在

10 どんな旅のスタイルが得意?
自分で適当にスケジュール立てていく。

11 旅に出ると私は○○になります。○○をうめよ。(文字数無制限)
まめ

12 今後行ってみたい国はどこ?
中国,マレーシア,ベトナム,ブータン,インド,ニュージーランド,オーストラリア,スリランカ,ネパール,西サモア,イラン,トルコ,シリア,イエメン,エジプト,トルクメニスタン,南アフリカ,タンザニア,シエラレオネ,ギニア,カメルーン,マリ,キプロス,ギリシャ,リヒテンシュタイン,アンドラ,ルクセンブルグ,リトアニア,ラトビア,エストニア,フィンランド,アイルランド,スペイン,カナダ,メキシコ,コスタリカ,ブラジル,ボリビア,ペルー,アルゼンチン,チリ,ジャマイカ,トリニダッド・トバコ,キューバ

13 初めての海外旅行はいつ、どこだった?
18歳の時,イングランド(トーキーとロンドン)とフランス(パリ)。

14 初めて海外に降り立ったときの感想を一言。
昔と思うと,便利になったもんだ。なんたって,父親が初めて海外旅行したときは,プロペラ機でしたからね。

15 あなたがむしょーに旅立ちたくなるときってどんなとき?
金銭的余裕が出来たとき。

16 愛用のガイドブックは?
特になし。

17 よくお世話になる旅行会社は?
テック航空サービス株式会社。予約してから,支払を待ってくれるのが良い。口車のお客さんでもあります。

18 お気に入りの航空会社は?
ブリティッシュミッドランド航空,KLMオランダ航空,ヴァージンアトランティック航空,シンガポール航空

19 旅にどんな機種のカメラを持って行く?
安いデジカメ

20 今までに行った国の中で、あなたのベストはどこ?
強いて言うなら,タイにスウェーデンかな。あと,スコットランドとマルタ。


つづく

先頭 表紙

2002-06-29 [韓国昔話]病院食はキムチ

 韓国にいたとき,口車達は客先の寮に暮らしていた。なかなか快適であったが,快適な環境であるのは我々だけではなかった。ネズミ君達にとっても,大変,大変,居心地の良い住み処であった。夜な夜な,彼らは我々の頭上で運動会を繰り広げていた。そして,食料調達にもこと欠かない。それは,我々が買い置きしてあるインスタントラーメンであったりする。

 あるとき,我が同僚A君は,ネズミ君がかじったインスタントラーメンを,「ま,いっか。」とばかり,食してしまった。そして,彼は2日後におなかの調子をくずし,熱を出してしまった。まあ,有り体に言えば食中毒ですな。で,彼は2泊3日で入院と相成ってしまった。

 入院した初日の夕方,さっそく我々同期は街まで出て彼の入院している診療所に行った。病室は2階で,らぶりぃな看護婦さんに案内されて上がっていくと,そこは畳の和室(なんか変な表現だ)であった。

 我々の顔を見ると,A君,開口一番,「まいったよぅ,これ見てくれよぉ。」と食事のお盆を指さす。「おかゆにキムチだぜ!俺,食中毒で入院しているのに!」

 笑ってはいけないが,「ぷぷぷっ!」となってしまった。階下の診療室に降りてきたら,先生聞こえていたのか,「あのね,日本人キムチ食べないから胃腸が弱いのよ。もっと食べないとだめよ!」と来た。先生,おっしゃることはわかりますが,いくら何でも普段食べ付けていないものをこんなときに食べろと言われてもねぇ。

 しかしA君,キムチが効いたようで入院してから3日目には,何事もなかったように出勤してきた。

先頭 表紙

八百八六助さま,日本と韓国の差はキムチパワーの差だったかもしれない。 / 口車大王2号 ( 2002-07-01 12:56 )
ピクミン38さま,手当てがちゃんとしていると,食中毒は3日くらいで直りますよ。口車がタイで食中毒になったときも,3日で回復しました。 / 口車大王2号 ( 2002-07-01 12:55 )
キムチ食べれば中3日でも2日でも試合できるってさ. / 八百八六助 ( 2002-07-01 00:37 )
この前韓国に旅行いってきました。日本人がソバをすするように、キムチ(ほぼ白菜大)をすするように食べていた姿が印象的。キムチ大好きだけど、病気の時はつらいかな?でも、3日目で復活か!すごいな! / ピクミン38 ( 2002-06-30 22:35 )

2002-06-18 [韓国昔話]30年ぶりの日本語

 ある休日、やはり同期の連中と4人ほどで麗水の街に出かけていったときのことである。口車は運動靴を買うため、街中で見つけたスポーツ用品店にみんなにつきあってもらって立ち寄った。

 店頭で靴を買い求め、さらに店の品を見ながら我々で話し込んでいた。そうしたら、お店の奥の方からものすごい勢いで店頭に出てくるおばあさんの姿が視野に入った。いったい何事だろう?

 お店の上がり框までやってくると、おばあさんは開口一番きれいな日本語でこう言った。

 「あんた達、日本人かね?」

 けげんな顔をしながら口車は答えた。

 「はい、そうですけれど。」

 そして、次におばあさんの口をついて出た言葉は、我々の意表をつくものであった。

 「いやぁ、なつかしいよ。日本語話すの30年ぶりだよ。」

 我々は、しばし絶句してしまった。おばあさんにとって、日本の支配下にあった時代は、決して快いものではなかったはずである。自分たちの民族の誇りであり根源である韓国語を禁止され、創氏改名により彼らのアイデンティティさえ奪ったのが日本である。それなのに、なぜ「なつかしい」と思ってくれるのか。

 前の日記で書いた通り、韓国では長い間日本語をしゃべることが禁止されていた。すなわち、おばあさんはかつて習った日本語を封印されていたのである。しかも、暮らしているのは日本人もほとんど見かけない田舎町。さらに、日本の支配下の時代もつらかったが、その後の朝鮮戦争、南北分断、軍政と、独立してからも決して居心地の良い時代ではなかった。そして、これは後で知ったことであるが、麗水のある全羅南道は韓国国内で差別されている地域であり、かつての百済であった地域である。すなわち、歴史的にも地理的にも日本に近かった地域である。

 そんなことがないまぜになって、おばあさんは「なつかしい」と思ってくれたのであろう。

 口車が韓国に滞在している間、一度たりと日本人であることにより不愉快な思いをしなかった。韓国人の国民性として、体面を重んじるあまり、他人のことをけなしたり、実力もないのに空威張りしたりするのが多いのであるが、そういう人物にはほとんど遭遇しなかった。

 礼節を重んじ、ゆったりした時間が流れる街、それが麗水だった。

先頭 表紙

マイケル様,何事も「禁止」ということはいけないことです。 / 口車大王2号 ( 2002-07-01 12:57 )
この間観た「その河を越えて、五月」という舞台に、戦時中に日本語教育を受けた韓国の女性が日本語の歌(浜辺の歌)を歌うシーンがあって、泣けてきました。 / マイケル ( 2002-06-29 11:26 )
まさや〜んさま,不愉快な思いをして当然だと思います。残念ながら,韓国人の国民性として,他人をけなすことによって自分のアイデンティティを保つというのがあります。口車の場合,本当に幸運でした。ただ,一度だけ,一緒に仕事した人と会食したら,同席した彼らの同僚に,目の前でもらったばかりの分厚い給料袋をこれ見よがしに見せられたことがあります。招待してくれた二人,本当にはずかしそうな顔していました。 / 口車大王2号 ( 2002-06-28 23:59 )
拙者は残念ながら、不愉快な思いもしました。でも、韓国の中学生達が日本語で「こんにちは」と話しかけてくれたりもして、救われた気持ちにもなりました。お互いに歩み寄ればいいのですね。 / まさや〜ん★復活 ( 2002-06-23 22:52 )
はなさま、今回のワールドカップは、特に日本の若い人たちから韓国へ対する偏見を払拭するのに大変有効であったと思います。 / 口車大王2号 ( 2002-06-22 23:36 )
夢樂堂さま、日本人がかつて朝鮮で何をしたか、それをまず知るところから始まります。日本人がそういうことを知らないことに、韓国人の怒りがあります。 / 口車大王2号 ( 2002-06-22 23:35 )
電ボ屋どの、景福宮を訪れると、そういう気持ちになるでしょうね。口車も行ったことないですけれど。ここに日本人の暴漢がなだれ込んで、閔妃を惨殺したのです。 / 口車大王2号 ( 2002-06-22 23:34 )
さにゃえもんどの、個々人では日本に対して敵意むき出しの人ばかりではないのですよ。ただ、さすがにいろいろ圧迫を受けたと思われる人から「なつかしい」と言われると、さすがにびっくりします。 / 口車大王 ( 2002-06-22 23:31 )
韓国もゆっくりゆっくり変わってきてますよね。偏見で見てしまうのはもうおかしいんだろうな。行ってみたいです。 / はな ( 2002-06-20 17:56 )
韓国の人の礼節の深さは夢樂堂も体験しました。歴史の溝、目を覆うのではなく互いに対話して、無くしていくことは決して困難こととは思いません。今が雪解けするいい機会なんだけどな。 / 夢樂堂 ( 2002-06-19 08:49 )
タイトルを見た瞬間にそういうことだろうと思いました。僕も韓国行きたいんですが、一方で韓国に行ったら贖罪の念を禁じえないだろうという気もするのでした。。むう。 / 電ボ屋 ( 2002-06-19 06:21 )
何だか素敵な思い出だね。 読んでいたら余計に親近感がわいてきました。実際行って接した人のお話は温かみが違うわ。 / さにゃえもん ( 2002-06-19 01:57 )
ワールドカップ、韓国−イタリア戦を見ながら、おばあさんのことを思い出しました。多分、もうお亡くなりになっていると思いますが、おばあさんが生きていたら、今のこのワールドカップを見ていて、感慨深いものがあると思います。 / 口車大王2号 ( 2002-06-18 21:15 )

2002-06-13 [韓国昔話]禁断のブルーライトヨコハマ

 当時、韓国国内で日本語がしゃべれるようになって、ようやく5年が経過しようとしていた。

 韓国は朴正煕(パク・チョンヒ)大統領の軍政下、非常戒厳令が敷かれており、午前0時以降は外出禁止、KCIAも活発に活動していた。北朝鮮のスパイと見なされたら即拷問、翌年に朴大統領が暗殺され、さらに次の年には光州で軍隊が1000人以上を虐殺する光州事件も発生し、サッカーワールドカップが開催されている現在からは、想像もできないようなぴりぴりした暗い時代であった。金大中現大統領が日本からら致される事件が起きたのも5年前であり、その影響もあって、日韓関係も今とは比較にならないくらい悪い時代でもあった。

 口車は、韓半島(韓国ではこう呼ぶ)の南端、日本海(韓国では東海)に面した麗水(ヨース)の街の郊外にある客先の独身寮に暮らし、そこから客先のバスで工事現場や街の中心まで出ていた。

 それは麗水に暮らすようになって1か月少々経ったころだろうか。休みの日に同期の連中と連絡バスに乗って、宿舎から街の中心まで出かけることにした。街までは、だいたい30分弱の道のりであろうか。乗客は、バスの後ろに我々日本人4人、あとは客先の若い人たちが30人ほどであった。

 バスが走りだして5分くらい経ったころであろうか。突然、前の方で「ハナ、トゥル、セェ、ネ(いっち、にぃ、さん、し)」と、だれかが掛け声をかけた。そして、運転手と彼らの責任者の立場とおぼしき一人を除いて、大合唱が始まった。そう、ブルーライトヨコハマの。

 「まちのあかりが、とてもきれいね、よっこはまぁ、ブルーライトよっこぉはまぁ。」

 我々4人は突然のことに、目を丸くしてぽかんと口を開けてしまった。面識のある人はいないのに、彼らは完全に我々を意識して日本語でブルーライトヨコハマを歌っている。時々、何人かが振り返って、我々に笑顔を向けているのである。しかも、その日本語が完ぺきと来ている。

 一番前では、責任者とおぼしき一人が顔色をまっ青にして、必死に「やめろ!」と制止している。しかし、合唱は終わらない。ついに、3番までフルコーラス全部歌ってしまった。日本の歌を合唱したなんてことが知られれば、彼は職を失うどころか、逮捕されることは間違いない。もちろん歌った全員もである。

 こんな危険を冒して、彼らはなぜブルーライトヨコハマを歌ったのであろうか。そこには、彼らの反骨精神を感じる。とかく日本人は、ステレオタイプで韓国人はすべて日本人に対して反日感情をむき出しにしてくると思い込んでいるが、そんなことはない。彼らは「意味のない禁止」に対して反発しているのである。同じ釜の飯を食い、酒を飲み、同じ目標に向かって仕事をしていたとしたら、我々は同じ「仲間」なのである。不毛な敵がい心は何も生み出さないことを、彼らは良く知っている。

 麗水辺りだと、当時でも簡単に日本の九州のラジオ放送が簡単に聞けた。耳に入ってくる日本の良い音楽を、ただ日本のものであるということだけでなぜ歌ってはいけないのか。文化を禁止することが如何に愚の骨頂か、思い知らされた瞬間であった。

先頭 表紙

まさや〜んさま,つい最近のことならまだわかるのですが,金大中事件の数年後のできごとですからね。本当に驚きました。この経験が中ったら,後年の韓国人に対する見方,かなり変わっていたと思います。 / 口車大王2号 ( 2002-06-28 23:56 )
ワールドカップによって新しい世界が開けて来たようです。日韓の若者達が肩を組んでいる姿をみると感慨深いものです。拙者が韓国を訪ねた時より、さらに親密になっているようです。もともとは同じ血の流れる民族だったと考えるとそれが自然の流れで御座るな。いいお話しをありがとう御座います。 / まさや〜ん★復活 ( 2002-06-23 22:45 )
とんぼさま、ほんとそうですね。そういう、気の利いたことできる日本人、ほんと少ないような気がします。 / 口車大王 ( 2002-06-16 19:09 )
ブルーライトヨコハマを歌えるセンスを持ったような日本人はほとんど居ないんでしょうね。 / とんぼ ( 2002-06-16 16:38 )
ただし、これは夢樂堂さまへの突っ込み返しにもなるのですが、日本が日韓併合に至る過程で朝鮮半島でおこなった破廉恥な行為を知っていなければなりません。それが恥が閔妃暗殺事件だったわけです。韓国人だったらだれでも知っているこの破廉恥な事件を、日本人のほとんどが知らないところに、韓国人の日本人に対する不快感の根底があるわけです。 / 口車大王 ( 2002-06-15 02:13 )
結局、日韓併合に至る過程には朝鮮王朝にも問題があり、自分たちで呼び込んでしまったという側面があります。韓国人も、冷静な知識人達はこの事実を冷静に受け止めて分析していますが、プロパガンダされた一般大衆はそうではなかったわけです。 / 口車大王 ( 2002-06-15 02:09 )
例えば、福沢諭吉は、韓国では朝鮮王朝を愚ろうし、植民地へおとしめるきっかけを作った脱亜入欧論を唱えた人物として「大悪人」ということになっています。しかし、福沢諭吉は積極的に朝鮮からの留学生を引き受け、朝鮮の近代化を手伝おうとし、開化派と接近していました。一時期は開化派の中心人物である金玉均をかくまったりしています。結局開化派はつぶされ、金玉均も暗殺されてしまったのですが、その過程で「得るべきものなし」と、あきれ返ってしまって発表したのが脱亜入欧論だったのです。 / 口車大王 ( 2002-06-15 02:06 )
八百八六助さま、韓国の政治家は、てっとり早く票を取るには、日本を悪者にすることによって集票するという手段を取ってきました。さらにその前の軍事政権の時代は、自分たちの悪事をごまかすために日本を攻撃するということもやって来ました。しかも表面的なことで日本に対する国民の憎悪を煽るということをやって来ています。 / 口車大王 ( 2002-06-15 01:49 )
国民同士で腹を割れば随分違うんだろうね。同じ血が通っているんだから、大部分では価値観が同じだもんね。 / 夢樂堂 ( 2002-06-14 08:36 )
結局,権力者同士だけなんですよね.争うの.それが国民に伝播してしまうと危険.でも,そんなのは本当は関係ないことを知っている人たち,いますよね. / 八百八六助 ( 2002-06-13 23:09 )

2002-06-10 [雑学]スッチー今昔物語 その5 日本の航空会社最高の制服

 さて,前回日本の航空会社の制服の年譜を掲載しましたが,では過去登場した制服の中でどれがいちばんよかったか,今回は口車の独断と偏見で解説したいと思います。

 日本の航空会社最高の制服,それは誰がなんて言ったって1970年にボーイング747が就航したときに一新された,日本航空5代目の制服でしょう。

 当時,日本航空は半官半民であり,そのお堅い会社が,なんと,ひざ上10センチのミニスカートの制服を採用してしまったんですな。これ,森英恵さんデザインなんですが,日本航空のコーポレートカラーである濃紺と赤をうまく使い,デザイン的にも大変優れたものでした。

 しかしまあ,お客,しかも特に男性客からは大変受けた制服でしたが,それを着させられたスッチーは大変だったようです。ちょっと頭上の荷物収納のドアを開け閉めしようなんて伸び上がれば,へたをすれば下着が見えてしまう。スッチーが近づいてくると,わざとものを落とす輩もいっぱいいたようです。

 さらに,若い人にはかわいく見える制服でしたが,ちょっと年配になってくるときついものがあった。そこで,大変惜しまれつつ,1977年に6代目の制服となりました。6代目の制服は5代目の制服のイメージを残しつつ,いきなりロングスカートとなってしまいました。5代目の制服が,スッチーにいかに評判悪かったかわかります。しかし,7年間も使われたんですね。

 今思い出しても,5代目の制服は良かったです。

(目次)

先頭 表紙

むらりょうさま、そのとおりでございます。この「アテンションプリーズ」がスッチーブームに火をつけたと言って、間違いないでしょう。折しも、海外旅行が自由化されてジャンボ機が就航し、急速に海外旅行者数が増えていった時期にも重なります。だから、この制服と次の6代目は、見覚えある日とが多いと思います。6代目は、「スチュワーデス物語」で登場。 / 口車大王2号 ( 2002-06-11 17:28 )
テレビドラマ「アテンションプリーズ」の制服でしょうか?子供ながらに覚えています。その時代を反映しているものですね。 / むらりょう ( 2002-06-11 00:36 )

2002-05-26 [雑学]スッチー今昔物語 その4 制服の歴史

 今回は、スッチーの制服の変遷について、年表を掲載いたしましょう。

   日本航空 全日空
1951 初代
1952
1953 ?
1954 2代目
1955      初代
1956
1957
1958      2代目
1959
1960 3代目
1961
1962
1963
1964
1965
1966      3代目
1967 4代目
1968
1969
1970 5代目  4代目
1971
1972
1973
1974      5代目
1975
1976
1977 6代目
1978
1979      6代目
1980
1981
1982      7代目
1983
1984
1985
1986
1987
1988 7代目
1989
1990      8代目
1991
1992
1993
1994
1995
1996 8代目
1997
1998      (帽子なし)
1999
2000
2001
2002


 残念ながら、日本エアシステムの資料はありません。

 日本航空初代の制服は、タイトスカートがタラップの昇降に不便だということで不採用になった幻の制服となっているのですが、それでは2代目までの制服はいったいどうだったのか、わからないのです。

 年表で採用期間の短い制服は、今写真を見てみると、うーん、なんというかいまいちですな。なるほどと思います。

 ということで、どんな制服だったのか、実物の写真はそれぞれに会社のページでご覧ください。制服に対する口車なりのさらに詳しい解説は次回ということで。

JAL's History
ANA's History


つづく (目次)

先頭 表紙

とんぼさま,そう思うでしょ。それがそうでもないんですな。その話は,いずれ,おいおい。 / 口車大王 ( 2002-06-09 12:12 )
いろんな国いけるから羨ましいわ〜。(国内線じゃだめだけど) / とんぼ ( 2002-06-05 22:37 )
さにゃえもんどの,それはわっちのことかい。そら,ちっと違うわい。 / 口車大王2号 ( 2002-06-05 00:36 )
そーさま,ちょっときついのですなぁ。それで,静かにしておったでござるよ。 / 口車大王2号 ( 2002-06-05 00:35 )
えむどの,ダンスって,あんまし関係ないような。単なる口実のような。。。 / 口車大王2号 ( 2002-06-05 00:34 )
すごい・・・・・そっかそっか制服好きっと・・・・めもめも。 / さにゃえもん ( 2002-06-04 00:55 )
名古屋オフ開催が正式に決まりました。時は6月15日(土)です。お暇が合いましたら是非ご来訪下さいませ(^^ / そー@遠いからちょっと難しいかな(^^; ( 2002-06-01 00:24 )
うちのおかんはその昔スッチーの試験を受けたらしいが、ダンスのテストで落ちたと言ってた。・・ダンスのテストって何?(汗) / えむ ( 2002-05-31 09:57 )
koedaさま、今は確か身長制限とれていましたね。昔は155センチないとだめだったかな。 / 口車大王2号 ( 2002-05-29 11:13 )
夢樂堂さま、特にJALのページ行くと、昔のスッチーの化粧なんかよくわかって、時代の変遷を感じることができますよ。 / 口車大王2号 ( 2002-05-29 11:11 )
はなさま、最後の「うふふふ」が気になるぞ。 / 口車大王2号 ( 2002-05-29 11:10 )
むらりょうさま、だいじょぶです。私目も、そちら方面のおつきあいは、振り返ってみると結構ありましたから。 / 口車大王2号 ( 2002-05-29 11:09 )
若い頃、スッチーの試験受けに行ったことがあります。その頃は、背が足りないとダメと言う事で門前払いでしたが、今になって飛行機苦手な私が何故そんなところを受けたかと思えば、やはり制服が魅力だったんでしょうか。 / koeda ( 2002-05-28 08:03 )
去年、機内誌でJAL(だったかな)の制服の変遷を取り上げていました。スカートの丈やモデルの体系も要注目だよ。 / 夢樂堂 ( 2002-05-27 12:34 )
着てみたいなぁ、スッチーのユニフォーム♪うふふふ / はな ( 2002-05-26 03:21 )
やはり制服は良いなぁと思います。特にスチュワーデスや看護婦のは。。。って私は変態か! / むらりょう ( 2002-05-26 02:17 )

2002-05-23 [業界裏話]嘘も方便 − 窮すれば通ず


 昼食からもどってきたAさん、自分の机の上に置いてあるロシアのビザを見てまっ青になった。明日、急遽ロシアに出張することになったお客のため、午前中にスタッフに頼んで取ってきてもらった即日発行ビザの写真が、間違っているのである。ロシア大使館領事部の窓口業務は午後12時半まで。写真の間違いに気がついたのは午後1時半である。なんてこったい。

 オフィスにいても何も解決しない。とにかく、お客のパスポートとその写真の間違っているビザを握りしめ、ロシア大使館へと向かった。しかし、人間焦っていると間抜けなことをするものである。正しい写真を持っていかなければ、何にもならんではないか!Aさんの配下の優秀なスタッフBさんは、Aさんが写真を持っていないことに気がつき、急いで連絡を入れ、写真を握りしめて追っかけた。

 Bさんと六本木駅で待ち合わせ、写真を手にしたAさんは、タクシーで飯倉のロシア大使館へ向かう。正門で事情を説明するが、にべもなく断られる。仕方なく、閉まっていることがわかっている領事部の入口へ行ってみる。そして、閉まっている鉄扉にしがみついて中を除いていると、だれか人影が見えた。

 「すいまっせーーーん!」

 でかい声でAさんは叫び、鉄扉のすき間から手を突っ込んで、ビザをひらひら振ってみる。そうすると、建物の中の大使館員は右手を、Aさんの右へ、右へと、すなわち今来た正門の方を指さして振っている。正門の方へ行けと行っているように見える。これは、冷静に考えてみれば、「帰れ!」と言っていたと思うのだが、ここでAさんは、自分の都合の良いように解釈した。とにかく、門の脇にあるインターホンで必死に、「正門の方でこっちへ来いと言われたんですが。」とまくしたてた(おい、おい)。そうしたら、中から正門の方へ回れという返事。

 Aさんは大使館正門に戻って、「すいません、領事部の方でこっちへ来てくれと言われたんですけれど。」と改めて事情を説明した。正門で領事部に確認を取ってもらうと、確かに正門へ回れと指示したという返事。まんまと大使館内受付まで入ることに成功した。幸いにして受付にいた大使館職員は日本語が堪能であり、Aさんの説明は完ぺきに理解してくれた。しかし、「あなたが間違えたのでしょう?」と、ぐさりと来る。

 Aさんも必死である。

 「ごもっともでございます。しかし、これは即日発行ビザです。すなわち、○○さんはどうしても明日お国にいかなくてはならない。お国で稼働している工場の、不具合を解消しに行くのです。ここでビザが訂正されないで明日出発することができないとなったら、いかにお国にとって不利益になるか、そこのところを、どーーーか、ご理解ください!」

 こう説明を聞いて、しばらく考え込んでいた受付の大使館職員、書類を受け取ると「わかりました。ちょっと待っていてください。」と言い置いて、奥の方へ引っ込んでいった。

 待つことしばし30分、先程の大使館職員が戻ってきて、「はい、これでよろしいですか?」と、正しい写真の貼付されたビザをAさんに手渡した。なんと、時間外でビザを再発行してくれたのである。

 帰りがけ、大使館入口まで来て、警備に当たっている警視庁のお巡りさんにお礼を言ったら、「正面から入って行って、そんなことできたの、あんたが初めてだよ。」とAさんは言われた。

 いやいや、人間最後まであきらめてはいけないものである。必死の思いは通じるものである。「国際人とは、何か?」という問いに、たったひとつ答えるとしたら、「何でも自分に都合の良いように解釈するずぶとい神経」と言える。

先頭 表紙

むらりょうどの,「どたんばの口車」と我が輩も自称しておりまする。 / 口車大王2号 ( 2002-06-05 00:37 )
私はいつもギリギリセーフの男。高校も補欠。就職も採用活動終了後。会社でも制度が変わったハザマの世代と言う事で勝手に昇格。 / むらりょう ( 2002-05-29 13:04 )
ransyuさま、口車知り合いの中国人留学生は、一時帰国して出国するとき、「パスポートの写真と違う」と言われて、やはり30分留め置かれました。もちろん、パスポートの写真は本人だし、初めて日本に来たときは、そのパスポートでどうっていうことなく出国しているのですよ。このはなしは、また、おいおいと。 / 口車大王2号 ( 2002-05-24 23:42 )
でじかめさま、中国人こういうの得意でしょ。 / 口車大王2号 ( 2002-05-24 23:40 )
雅(みやび)さま、それは「帰国のための渡航書」という奴ですな。何で知っているかって?そりゃ、聞くだけ野暮って言うものですよ。 / 口車大王2号 ( 2002-05-24 23:39 )
八百八六助様、ロシア大使館領事部はこちらでございます。やってみるものです。 / 口車大王2号 ( 2002-05-24 23:37 )
りぃなさま、よろちく。 / 口車大王2号 ( 2002-05-24 23:35 )
そうです。瀋陽の空港で飛行機に乗る寸前、搭乗券のスタンプが押してないと、搭乗を拒否されました。向こうの係員のミスなのに頑として聞き入れない。20分ぐらい頑張ってやっと乗れました。これは単純な例ですが、とにかく頑張る神経が必要ですね。 / ransyu ( 2002-05-24 16:15 )
う〜ん、納得。やってみてダメだったら別の方法でやる。嘘でも一つの突破口を使って…日本人に足りない物かもしれないですね。 / でじかめ ( 2002-05-23 23:59 )
私の友達も帰る前日にハワイでパスポート盗まれて時間外に領事館のドアを殴打して奇跡的に「帰れるだけのパスポート」ってやつを発行してもらったよ!人間、諦めたらいけないんだよね、きっと。ちなみにオープンカーのトランクを壊されて服や靴も盗まれたので成田に降り立った時はビーサンだったという笑い話つき。 / 雅(みやび) ( 2002-05-23 23:55 )
これは読めません,なんて突っ返されなくて良かったですね. それにしても,やってみるものですねぇ. / 八百八六助 ( 2002-05-23 23:11 )
うおー。胸にふっかく、しかと刻み込んでおきます・・・。 / りぃな ( 2002-05-23 12:23 )

2002-05-20 [雑学]スッチー今昔物語 その3

 じつに、1年以上の間隔があいてしまいました。スッチー今昔物語再開でございます。

 さて、その2の中で、日本においてスッチーが誕生したのはいつかということで、それは1951年(昭和26年)8月1日、日本航空が創立した直後の8月20日であるということを書きました。しかし、今回その3を書くに当たって、「あれ?ちょっと待て。旅客機って、戦前から飛んでいなかったか?」ということで、調べてみました。そしたらありましたよ。不肖口車、間違っちまいました。いやいや、インターネットは便利でございます。「平成元年度 運輸白書 激動の時代を振り返って−昭和運輸史−(運輸をめぐる主な出来事)」なんていうページがありまして、そこにしっかり書いてありました。

 日本に初めて旅客機が飛んだのは昭和4年(1929年)7月で、日本航空輸送が東京〜大阪〜福岡間に旅客輸送を開始というものでした。そしてその2年後の昭和6年(1931年)2月、我が国初のスチュワーデス「エアガール」を採用となっています。なんと、昨2001年は日本にスッチーが誕生して70年だったのでした。そんな記念すべき年に「スッチー今昔物語」を始めたなんて、私、口車、予知能力でもあるのでしょうか。ちなみに、この年表を眺めていて興味深いのは、昭和7年(1932年)に「婦人円タク運転手登場」となっているのです。なんと、女性タクシードライバーも、70年前には登場していたのでした。なんか、昭和初期の方が現代よりもよっぽど、女性に対して職業差別がなかったような気もします。

 それにしても、エアガール!なんともモダンなネーミングですね。「エアウルフ」なんていうアメリカTVドラマもありましたが、それをほうふつとさせる、なんかかっこいいネーミングであります。いかにも「保安要員」という感じですね。当時の制服がどんなものだったのか、全く資料がないのですが、気になります。そして、運賃はいったいいくらだったのでしょうか?

 この民間旅客機の歴史が太平洋戦争をはさんでぶった切られるわけで、あの戦争が日本に与えた悪影響は、本当に計り知れないものがあります。

つづく (目次)

先頭 表紙

ransyuさま、御愛読のほどよろしく。 / 口車大王2号 ( 2002-05-21 23:19 )
KUNさま、エアーウルフ2はホークもいつの間にかいなくなってしまって、全然面白くなくなってしまった。 / 口車大王2号 ( 2002-05-21 23:18 )
スッチー物語も書いていたんですか。恐れ入ります。 / ransyu ( 2002-05-21 22:09 )
エアーウルフ2の冒頭でドミニク・サンティーニが爆死したときにはしばらく口きけなくなりました(涙) / KUN ( 2002-05-21 12:14 )

2002-05-20 [波蘭昔話]ポーランドの通信事情


 じつに久しぶりの、ポーランドの昔話です。


 今やワルシャワクラコフの街の風景を、インターネットを通して日本の自宅から見ることができます。そして、口車が7か月暮らしたPLOCKの街の様子や天気がわかり、泊まっていたホテルに、日本から予約ができ、E-Mailで直接連絡できます。しかも、仕事していたお客のホームページにたどり着け、ここにもE-Mailで連絡を取ることができます。

 この、現在のインターネットに慣れ親しんでいる世界しか知らなかったら、「だから、どうなの?」ということでしかないのですが、口車、本当にしみじみしてしまうのです。

 口車がいたころは、ポーランドは共産主義政権ごりごりの頃で、鉄のカーテンの彼方の国でした。ポーンランド政府としては、一般人が不必要に電話なんかかけて欲しくない。ましてや、海外、特に西側と電話なんてとんでもない時代です。ワルシャワの街中にも、公衆電話なんてほとんどありませんでした。

 こんな状況で日本に電話しようなんて言ったら、もう大変。日本からの電話はすぐにつながるのに、ポーランドから日本に電話しようとすると、電話を申し込んでから、5時間またされます。申し込んだ本人が申し込んだことを忘れてしまったようなころになって、突然ホテルのフロントから電話がつながったと連絡が来る。しかも、しゃりしゃりとノイズが乗っている。盗聴されていることは、明らかです。

 当時のこんな状況を知っているだけに、鉄のカーテンがなくなったことの意味、インターネットという技術がオープンになって世界中に行き渡ったことの意味を、噛みしめるのです。

 本当に、隔世の感です。

先頭 表紙

平和で自由はいいよー。「うちの電話」とは中国での話ですか?しゃりしゃりずっとノイズがするようなら、間違いなく盗聴されていますね。接続不良だったらノイズが乗ったり乗らなかったりです。 / 口車大王2号 ( 2002-05-20 20:41 )
う〜む、今の世はつくづく平和なんですね〜。そういえばうちの電話も原因不明のノイズが…も、もしや…(^^; / でじかめ ( 2002-05-20 02:27 )

2002-05-13 アイルランド海軍 L. E. NIAMH & 練習艦かしま & 南極観測船しらせ


 去る4月13日、晴海埠頭で初めて日本にやってきたアイルランド海軍の軍艦の公開があったので行ってきました。船の前では、海上自衛隊の渉外担当の女性自衛官が案内をしていました。アイルランド海軍の軍艦がアジアまで航海したのは、初めてだそうです。船の名前はL. E. ニーム、主たる任務は沿岸警備で、アイルランド海軍自体、日本では海上保安庁が行っている任務が、そのほとんどです。国対国というよりは、漁業の違法操業、麻薬や覚せい剤の取引、密入国に対する警備がほとんどなんですな。ニームのトン数も日本の巡視船並です。今回はニームの就航記念ということで、日本までやって来たそうです。

L. E. NIAMH
IRISH NAVY
TYPE: Offshore Patrol Vessel
LENGTH: 78.84m
DISPLACE-MENT: 1548 tonnes
MAX SPEED: 23 kts
HOME PORT: Cork, Ireland

 記録によると、20世紀初頭、確か1903年だったと思うのですが、日本海軍の軍艦がアイルランドを訪れています。じつに、それ以来の表敬訪問なんですね。第一世界大戦の時に護衛艦隊として、地中海まで日本海軍の艦船が行っているのですが、第一次世界大戦ではアイルランドは中立だったそうで、そのせいもあって、日本海軍はアイルランドにはこのとき立ち寄っていないようです。ちなみに、このニームだって決して大きな船ではないのですが、当時口車祖父が地中海まで乗っていった駆逐艦は600トンしかなく、ニームの半分もない小さな船でした。この、第一次世界大戦で日本海軍が地中海まで行っていたという話をすると、皆一様に驚いていましたね。

 ニームの装備、ずいぶん日本製のものも使われています。まず、ボートが搭載されているのですが、このエンジンがヤマハ。ちなみに、ニームの後部デッキには燃料の容器があり、ボートが活動するときはこの容器を海上に落として、給油のためにいちいち帰ってこなくて良いようにしています。そして、艦橋の装備にはFURUNOのモニターが。おそらく魚群探知器のたぐいだと思います。乗務員も初めて日本まできたものだから、えらく陽気でした。

 さて、この日は幸運にも、もうすぐ練習航海に出発する練習艦かしまと、前日到着したばかりの難局観測船しらせも見ることができました。しらせは、南極の基地でのゴミを積み下ろしているところでした。クール宅急便のトラックがいっぱい来ていて、南極で採取したサンプルをどんどん運んでいるのも印象的でした。考えてみれば、これがいちばん確実てっとり早いんですね。

先頭 表紙

ちなみに、しらせは自衛艦です。 / 口車大王2号 ( 2002-05-16 23:10 )
け、毛並みですか。。。馬並だったらいいな。。。 / 下ネタの口車大王2号 ( 2002-05-16 23:08 )
地中海まで行った日本海軍ーも読ませてもらいました。口車さん博学ぶりはいつものことですが毛並みいい家でもあるんですね、驚きました。 / ransyu ( 2002-05-16 20:03 )

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