前回の検診でクワトロテストを勧められた。
これは母親の血液の成分からおなかの赤ちゃんに異常があるかどうかを測定する検査である。
「万が一の時の心構えとして受けておこうかしら。どうせ採血はするんだし。羊水検査は1/300のリスクで不測の事態を起こす危険があるそうなのでしませんけどね。」
とっさそうに答えたのだけど。助産婦さんにこう返された。
「妊娠の継続をご希望で最終的な羊水検査をしないおつもりなら逆にクワトロテストはしないほうがよいのではないですか?万が一高い値が出たら不安になっちゃうでしょ?」
そういわれてみると、確かに私にはそのテストは必要がない気がしてきた。
そして昨日。規程の血液検査しかしなかった自分がいた。
それでよかったんだと思う。
そのあとに受けた超音波検査の画面の中で子供は自由に泳ぎまわっていた。二本の手と二本の足をバタバタさせながら。
もちろん、障害をもった子供を育てる自信もないけれど、この子を抹殺してしまうことなんてありえない。
そもそも今だって試行錯誤しながら子育てをしている。自信なんてあとからついてくるものだと思う。何かがあっても、その時になったらきっと何とかなってしまうものなんだ。
きっと、どんな子が生まれてきても私は愛せる。
そう思うにはわけがあるのかもしれない。
私には重い障害をもった一つ下の従姉妹がいた。
話す事も寝返りさえもままならず、いくつになっても粉ミルクを飲んでいた。
でも、ちゃんと呼吸してたし、話しかければ笑ってくれた。寂しいときは声をだして誰かを呼んだ。
叔母はどこに行くにも従姉妹を連れて出かけたし、従姉妹もドライブが大好きだった。12歳でこの世を去るまで叔父と叔母、二人の弟、みんなに愛されていた。何十年たっても、誰も忘れてやしない。
叔母はいまだに私と一つ下の自分の娘の姿を重ねては目を潤ませている。
きっと大変だったんだと思うけど、叔母はいつも身奇麗にしていたし、笑っていた。従姉妹を肺炎でなくした時の叔母の涙を私は忘れない。
実際、健康な子が生まれてきますように。と願わない親はいないと思う。
でも、もし、そうじゃなくても、私は家族として迎え入れることができる。
※親は脱ぎっぱなしなのにちゃんと自分のサンダルは揃えるムスメ。えらすぎ!(左右逆なのはこの際気にしないわー。) |